~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

地獄の演出

2010年03月29日 | society
地獄とは演出である。
伝統的なそれは物理的な責め苦として描かれるが、何故それが恐ろしいのかは[終わりがない]事にある。
つまり、地獄を決定づけるのは身体的苦痛では無く、[不自由さ]なのだ。

斜陽

2010年03月27日 | society
如何にして社会は衰退するか、それは円滑なる世代の交代がなされなかったときである。
最大の親孝行は親にその肉を差し出す事という話があるが、本当は親は自らを馬肉に供しても次代にその住処を与えるべきなのである。

実に醜い社会となった。
子のために小銭を貯める健全な親であっても、借金をして銀行に預けた金なんぞ見せ金以外の何者でもない。 未来は暗い。
次代の世界を想定する事こそ、今後20年の課題である。そしてそれを為すのは、我々世捨て人の仕事である。

仕事人

2010年03月26日 | diary
今日、友人が私の母のPCをセットアップしてくれた。
先週からの続きであったが、こういう人は身近において、ひいては社会において必要だとつくづく思う。

世間では不正直な商売、雰囲気が横行しているが、実直で有能である事こそが有益なのである。

醜い歌

2010年03月25日 | music
流行りの音楽をリサーチしなくなって久しいが、先日、たまたまMTVを観ていてクールだなと思った日本のバンドがいた。
残念ながらバンド名に特徴が無く、それを失念したが、新しいサウンドの開発は本当に水面下での作業になっている。
勿論、開発はいつの時代にも水面下で行われている訳だが、ただ現在というのは、水面は厚い氷で覆われていると言ってもいい。

ただ、前にも書いたかもしれないが、アニメ、ゲームミュージックの分野では開発は好調である。
ここ十年のそれを振り返るに、この分野は衰えを知らない。
というのも、BGMというジャンルが好き放題出来うる可能性を持っているというのもあろうか。それにテーマ性というのも重要である。

テーマ性に関して、流行歌というのは極めて危うい部分がある。特に、一人称視点の女流歌手の書く詩なんてのは馬鹿丸出しである。
それに最近のケバいムーヴメントも加味されるのだから始末が悪い。
曲も自ずとそれに見合ったものへと成り下がる。

ギター神

2010年03月19日 | diary
音楽をやっていても孤独なままである。
それはいつまでも自由になれない私自身に問題がある。
身に着ける喜びは一入だが、しかし、そうでないときは身を引き裂くような悲しみを覚える。

自由というものが如何に私にとって縁遠いものであろうか、天井を眺めながら思ったのである。
自己満足とかいう勘違いに拘泥できるほどお人よしでない、そんな人間が。



Lotus and Visceral Songs
~ Yosuke Miyake’s Strange,Beautiful & Loud


Amazonで予約した。
私が直に衝撃を感じたギタリストのアルバム。
これにはきっと、自由が多分に含まれているんじゃないかと、淡い期待を込めて。
いや、かなり期待している自分がいる。
何故、今まで気がつかなかったんだろうか、そんな自分がまた情けない。



はじめに言(ことば)が在(いま)し

2010年03月10日 | music
ロゴス賛歌 ( 1章 1~18節)”

はじめに言(ことば)が在(いま)し、
言(ことば)は神と共に在(いま)し、
言(ことば)は神であった。

この方は、はじめに神と共に在(いま)し、

すべてのことは彼によって成り、
彼によらずに成ったものは何一つなかった。

彼において成ったものは命であり、
その命は人々の光であった。

その光は闇の中で輝き、
闇は光に打ち勝たなかった。


(「ヨハネ福音書」より~引用


言葉はただの日常的な所作を促す道具ではない。
それを発する存在そのものを表す実体ではないかと思う。

シュタイナーによると、動物段階に沈黙していた人間という存在は、「ロゴス」の担い手として、地球紀に、内なる魂の働きを内部から響かせる能力を獲得したという(参考:シュタイナー「ヨハネ福音書講義」)。
またそれが「人間」と「動物」存在というものの隔たりを顕す事になる。

そして「ロゴス」の担い手としての人間の、最も顕著な創作は「」であり、また更に、それを昇華させたものが「歌詞」なのではと思うところがある。


攻殻機動隊 GHOST IN THE SHELL ED 謡Ⅲ-Reincarnation


吾が舞えば 麗し女(くはしめ) 酔いにけり
吾が舞えば 照る月 響むなり(とよむなり )
結婚(よばひ)に 神降りて(かみあまくだりて)
夜は明け 鵺鳥(ぬえとり)鳴く
遠神恵賜 (とほかみゑみため)



この曲は前にも「詩・唱・唄・歌」でこのブログで紹介した。
和風旋律というのは「グルーヴ感」というよりも、つつみを弾く「節」のような感覚であると、どっかで聞いた事があるが、そういった楽曲に余りにも合った歌詞である。
いや、「歌詞」というより、むしろ単独でも十分に存在しうる最高傑作なのではと思うところがある。
「ロゴス」の種子たる人間存在そのものを謡ったものであると言っても過言ではない。


自己批判

2010年03月10日 | music
まずはこの曲を聴いてもらいたい。

大いなる秘め神、守りし偉大なる和の龍(time 5:02 mp3 4.735kb)

これは私の曲であるが、これをして今回は自己批判を展開しようと思う。


フレーズを如何に取り込むかというのは、現代の音楽修養の方法にとって、最も音楽を奏でる近道として確立されたものである。
しかしながら、その反面、音楽的なアプローチの背後に存在する事柄を見落としやすい(グルーヴ感の問題もそうである)。
勿論、プロミュージシャンともなれば、そんなアプローチだけで認められるほど甘いものではない。すぐバレる。

この事に氣がついたのは、本当にここ数年の事である。
また和声についての重要性もそこにあると考える。

例えば「ドリアンモードで演奏をする」というのは「どういうことか?」というと、それは「サブドミナント&ドミナントの連続で、トニックに解決しえない演奏」と云いえるかも知れないが、これを具体的に表すには、実際、Ⅱ-Ⅴのコードを弾いてみるに限る。
その上で、ダイアトニックスケールを奏でれば、所謂、ドリアンモードの調性として聴こえてくる訳だが、こういった単純な事を如何に単純に解決出来るようになるか、それが音楽修養や理論の目指すところではないかと思う。

結局、音楽とは調性なのである。
仮に、調性外の音を奏でている、理解不能な音楽でも、そこには規則性が存在する。
だから結局、調性がすべてはないかと思う。



禊ぎ終わり

2010年03月10日 | lyrics
今週末、再び右手の検査がある。
これにオーケーが出れば、いよいよ不自由なギブスから解放されるのか、期待している。

全治1ヶ月と診断された今回の骨折は私からさまざまな楽しみを奪った。
中でも、愛するものから離れなければならないという状況は、身を裂くような思いである。
しかも、それが身から出たサビな訳だから、これは私に、我慢の無意味さを強烈に教えようとする、何かの教示だと思う事でしか慰めようはない。

ときにさっき、強風に流れる雲を見た。
西に傾きかけた太陽が、実家の庭を照らしていた。


霞山 風吹き流る 白雲の
晴れては蒼き 神の禊ぎそ

暴虐のプリンス

2010年03月09日 | music
先日、刹那のブログを勝手に紹介したが、今度は刹那の方でも私のブログを紹介してくれた。

瞬間劇場従兄弟

ありがとう、刹那。
お礼に勝手に私のブログに勝手にブックマークしておきます(笑)。



さて、私が「悪の道」に誘われた切欠というのはこの刹那であるが、成人してから「悪の道」のスパイラルに拘泥させていった切欠を作ったのはダニ・フィルスである。


ダニ・フィルス(Dani Filth 1973年7月25日-)

彼はイギリスのシンフォニックブラックメタルバンドクレイドル・オブ・フィルス(※1)のボーカルである。
超ハイトーンなシャウトボイスから超低音のデスボイスまで、かなりの広域な声質を持ったボーカリストで、ブラックメタル界でも屈指のボーカリストであるという事が分かる。

それと何よりも発する言葉のグルーヴ感が最高だ。
怒涛のごとく書き連ねた歌詞を、あのボーカルで歌い繋げる力量にも参る。
実際、数年前に来日した際(「Midian」の発売に合わせたライブだった)、その公演を連続2回見てきたが、こんなに興奮したライブを見たことは他に無い(事実、ロイヤルハントやG3のライブのときに寝ていた事があります、私)。
ふと、一昔前の大槻ケンヂ(※2)にも共通するところがあるなと思いながらも、とにかく、まさに天才なのである。


話を戻して、私を「悪の道」のスパイラルに拘泥させたアルバムを挙げる。


Cruelty And The Beast(邦題:「鬼女と野獣 」) (1998年)
(ジャケットは複数存在する→参照)


あれは忘れもしない、人生を欺くような作業に自己を無理強いしていた時である。
ふと、作業の安めにこのアルバムを聴くことにした。
暴虐の旋律というべき音の波が、しばらく、当時の6畳一間の下宿部屋に響き渡った。
するとどうしたことか、涙が出てきた。どうしようもなく、である。
その後、私は生き方を変えることにした。そして現在に至る。

ちなみに、このアルバムのタイトルテーマは女吸血鬼ことエリザベート・バートリという実在の人物である。
日本では、比較的最近の作品では映画「Vampire Hunter D: Bloodlust」(原作:菊地秀行Official)の敵役として描かれていたのを覚えている。


Vampire Trailer(画像はバートリ夫人)

バートリ夫人が本当に女吸血鬼であったか否かには異論もあるらしいが(wiki「冤罪説参照」)、ともかく、魔術的エネルギーに感化されたのか、いやいや、少なくとも音楽表現の可能性に動かされたのか分からないが、私の「拘泥」は、まさにクレイドル・オブ・フィルスからなのであった。


最後に余談だが、先月、刹那の4番目の兄弟の結婚式に参加したときに、これまでふと思っていた事を話してみた。


私「あのさあ、彼、刹那に似てると思うんだよ(と、ダニ・フィルスの写真を見せる)」
刹那「ん?似てねえよ(笑)」
私「似てるよ・・・いや、似てない?(写真と見比べている)」
刹那「似てないよぉ~(笑)」
私「ああ、似てないな・・・(笑)」




・・・まあ似てねぇよな(笑)。




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※1:公式ページではJava Onでフルコーラスの音源が聴ける。
※2:「詩人オウムの世界」が顕著ではないかと。



とくに「詩人はとある・・・」以下の語りは戦慄に鳥肌が立つ(参照)。