~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

EMPEROR

2006年01月30日 | music

EMPERORというバンドをご存知だろうか?知る人ぞ知る、ノルウェーのデスメタルバンドである。

多分、デスメタルという音楽ジャンルには整理的に抵抗を覚える人は多いだろう。それはその音楽が非常にノイジーなところにあると思える。楽曲、演奏、ボーカルも然りである。

しかしながら、そのような音楽ジャンルの中で敢えて”EMPEROR”を出したのには訳がある。それはこのバンドに芸術的な煌きを見たからである。

芸術的な煌き、といっても多くの人間は理解し得ないであろう。それは同じ音楽を志すであっても、またデスメタルという狭義の領域に居る、居ないを問わず、困難なことであろうと思う。

というのも、この手の音楽とは、先にも書いたとおり、非常にノイジーである。言い換えると、ある種、意図的に人にとって不快な波長を作り出そうともしている音楽ともいえよう。

因みに、私自身は、このようなジャンルの音楽は幽界又は冥界(いわゆる魔界)の音楽ではないかと、最近思うところがある。そう考えると、誰も好んで地獄に落ちようとは思わないだろうし、デスメタルを嫌う理由もなんとなく分かってくる。

このような事を踏まえると、”EMPEROR”というバンドも、ある種それの芸術的達成を目指そうとするものだと思える。バンド名も、もしかしたら「楽園を追われたミルトンのサタン」よりも「復讐に燃える神曲のサタン」を意味する「皇帝」なのかもしれない。

○事実、私が”EMPEROR”を聴き始めたきっかけというのは、大学時代、私に「悪魔」と思わせた人物これは冗談では無く、彼は悪意に満ちていた。多分今も変わらないだろう)の進めからであった。勿論、それは”EMPEROR”に限ったものでなく、デスメタル全般を進められた訳であるが、あまりに耳慣れなく不快な音楽に拒否しつつけたにも拘らず、どういうわけか”EMPEROR”だけは印象に残った

ときに予断ではあるが、この時期私はある種の悪意にあてられて、本当の”悪”というものはどういうものかということを真剣に考えていたどういう訳か、敵を知る必要があったと思えたからである

今思うと、もしかしたら彼は、そのように私の心が弱っている隙をつくつもりだったのかもしれない。勿論、彼にはそんな思いはさらさら無いだろうが行動がそれを示していた

○そういえば昔、NHKの特番「アインシュタインロマン」で、作家のミヒャエル・エンデ(故)が、核爆弾の製造・投下に貢献したアインシュタインが、片一方では平和活動をする事に、そのような現象を「分裂病」とコメントしたところが多々あった。それを踏まえると、彼はまさにエンデの言う「分裂病」だったのかもしれない。

※この時の特番をきっかけに、「エンデの文明砂漠」(ミヒャエル・エンデ:著、河邑厚徳:著、田村 都志夫:翻訳)が出されている(詳細)。未読だが、近いうちに読んでみたい。

因みに、この「分裂病」、文字通り病理学的な「精神分裂病」ではない。文字通り、意思と行動が分裂してしまうという意味合いを持つ。しかもそれは悪い事に、現代における慢性病ともいえるものである。この事は今ここでは触れないが、いつか詳しく書こうと思う。

ともあれ、私は彼の出現とデスメタルの伝授によって、ますます心の健康さを失っていったようにも思える。勿論、今でも私は、どちらかと言えば””の人間であるから、寧ろ健弱・不穏となったといった方が適当かもしれない。

○しかしながら、”EMPEROR”というバンドは、そのような状況を作り出す武器としては、些か元気が良すぎたように思える。”EMPEROR”が、余りにもヴィヴィッドだったためであろうか。それは次のエピソードが物語る。

三浦健太郎原作の漫画「ベルセルク」を初めて読んだ時の事である。「ベルセルク」という漫画は、ファンタジー世界を背景にした一種の復讐劇なのであるが、主人公がその決意をする事になった凄惨な出来事まで読み進んだ時である。

その凄惨な出来事とは、真実友と思っていた人間の裏切りによって、仲間たちが化け物の生贄に、全て生きたまま食われ、更にはその友だった男に、目の前で己の愛する女性を犯されるというものだった。また主人公も、意外な助っ人の登場によって、恋人と共に生き延びる事が出来るが、左腕と片目を失う事になる。

これを読んだとき、私ははっきり云って、それまで主人公たちの黄金時代を描いた場面が多かったために、一瞬のうちにそれが無意味に帰する、彼らの結末を信じられなかった何度も読んで、無意識にその場面を変えようとしている自分がいた。涙が出た。

しかし逆に、その時に頭の中で聴こえてきたBGMがあった。”EMPEROR”の”I Am the Black Wizards”である。

○この曲はリンク先の詩を参照(※英文)すれば分かると思うが、正しく悪魔に魂を売った者がテーマであるとも思える。勿論、この作詞者がそうであるとは言えないが、「ベルセルク」のそのシーンを表すのに十分な内容である。

というよりも、私が何故このように”EMPEROR”を語るのかといえば、それは「ベルセルク」のようなヴィジュアルの作品に見事にマッチするという点にある。更に云えば、かようなヴィジョンが、音楽そのものから見えてくるという事か。

そもそも芸術というものは、自然や己の中にあるもの、又は現象を己のフィルターによってろ過し、結晶化させたものといえよう。すなわち、何かしらのヴィジョンが作品の背景には眠っているという事である。

因みに、優れた芸術家であればあるほど、そのヴィジョンというのはくっきりと現れてくる。所謂天才はそれが得意なのだろうと思う。またそれは、作品の受け手イメージ能力に比例して、それぞれ現れてくる場合も多々ある。つまり、旨い音楽を旨く聴く人の問題である。

○ときに、音楽はヴィジョンを示すことに関して、非常に表現しにくい方法であるとも言える。それは絵画や戯劇、映画や漫画、アニメというものを考慮すれば一目両全であろう。

だが音楽が、視覚情報に頼らず、ある楽曲の、もともとのヴィジョンを表現しているなら、それはまさに本物の音楽といえる。勿論、私にとっての”EMPEROR”は、「ベルセルク」をもって理解しえた訳であるが、逆を言えば”EMPEROR”が「ベルセルク」を引き寄せたのだといっても良い。

というのも、それは例えばヴィヴァルディの「四季」を挙げてみる。(聴く)天才でない限り、クラシックに疎い人には、これは唯の耳障りの良い音楽としか認識出来ないだろう。しかし、これが「四季を表現した音楽だ」と教えられると、不思議に次から、例え他の楽曲を聴いた場合でもイメージして聴けるようになってくる

事実、私の場合、”EMPEROR”を理解した事で、デスメタルの中でも芸術的なものに関してはイメージ出来るようになった。ともすれば、このヴィジョンを見るクセある人が”EMPEROR”の楽曲を聴いたとき、逆の体験をする可能性は大である。

○ともあれ、”EMPEROR”を通して、私は芸術的な煌きを知った事になる。それはかくも復讐の怨念に満ちた薄暗いもののようにも見えるが、しかしながら地獄のサタンが元は優美な天使の成れの果てだとすると、やはり本質は「ミルトンの失楽園」にあるように思える。

あるいは「パンドラの箱」とも言えようか、悪そのものは本質的にその中に善を含んでいる場合がある。いや、もしかすると、今善と呼ばれているものは、元悪と呼ばれているものが善と摩り替わったものなのかもしれない。因みに、このような解釈をする作品は多い。

そういえば、日本では「大本」と「日月神示」の「ウシトラノコンジン(=国常立尊)」がそれにあたるような気がする。というのも、もっとも優美で慈悲深い存在が、妬まれ、丑寅の方角に追いやられるという仕組みは、西洋の堕天使のエピソードにもあり、また天使の堕天の伝説で「サリエル」という謎の存在がいるが、彼が堕天のさい「優美に去っていった」というのは、ある種、不本意ながらも政権移譲を了承した態度ともとれる。

またこれは日本神話の「国譲り」にも垣間見れる。更には、「貧乏神」の起源が、実は「スサノオであるというのを考えると、サタン(敵)というには余りに理不尽な部分が多々あるような気がする。

○最後に、多少、娯楽としての音楽としての話題とはかけ離れたものになってしまったが、芸術という括りで”EMPEROR”というバンドを捉えてみた。私自身、これほどこのバンドから書くことが出てくるとは思わなかったが、そういった意味では、私はライフワークとしては地母神的なものを求めるのにも関わらず、このバンドがベーシックな芸術主観であるのかもしれない。


民の法か、それとも君子の法か?~耐震補強偽造事件から見る消費者保護の必要性 その二~

2006年01月24日 | society

○「民の法か?それとも君子の法か?」、これは現代社会における命題であると思える。そしてそれは、近時、耐震補強偽造問題においても、その命題は有効なものであるといえる。

さて、近代において、民法というのは、特に経済面での健全な活動を行うために制定されたというのはよく知られたものである。またそれが特に”商人”という社会的部類にいる人々を中心に考えられたということは、前回の書き込みで既に述べた。そしてそして更に、それが今日における、消費者と位置づけられる絶対多数のもの達にとって、如何に不利なものであるかは、これから述べようと思うテーマである。

○ときに、消費者がどのようなものかについては、前回の書き込みにおいて、生産者に対する反対の概念であると簡単に述べた。だがその詳細について、今回は触れておかないと今回の書き込みは理解し得ない。そこで下に簡潔に両者をまとめてみる。

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Ⅰ.生産者とは…
①現代社会における、個々企業の総体ともいえる。それはまた、現実に物をつくるつくらないを問わず、絶対的多数の消費者に対して、専門的な知識やコネクションなどを用いて依存を強制する状態を作り出すシステムそのものともいえる。

②因みに、その構成員(社員など)というものは、確かに消費者という立場に似て、生活の為の対価を依存せざるを得ないという状況の中にあるが、あくまで社内、又はそのシステムを動かしている最小単位の機能として解釈し得るため、消費者とはなり得ない。

③また会社やシステムを離れた途端に、その構成員は消費者となり得るが、だが生産者と消費者という当事者関係において生産者側の当事者であれば、構成員は消費者では無い。

Ⅱ.消費者とは…
①現代社会における、所謂パンピー、一般市民である。彼らは特に専門的な知識やコネクションを持たず、生活の全てを生産者のシステムに依存している。そのために、これに位置づけられる者全ては、自己責任という極めて厳しいルールの下に、「買うか買わないか」というような二者択一の、狭い範囲での選択肢しか持て得ない。勿論、生産者の構成員として、一部専門的な知識やコネクションに関わる事があるが、生産者側の当事者で無い者は消費者となり得る。

②ともあれ、消費者というものは、生産者の内情の埒外に位置づけられた者と云えよう。但し、これが機器製造A企業VS機器製造B企業、また機器製造A企業VS小売B企業となると、これは商人VS商人ということになり、生産者VS消費者という関係では無くなる。

③まとめれば、消費者という者は、法人でなく自然人であり、生産者側の当事者で無い者の全て、と言える。

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さてこのように生産者と消費者との概念について、明確な区別をつけたわけであるが、これが今回の耐震補強偽造事件に、どのように関わってくるかは次のように言える。それはこの事件が、”企業対個人”の関係を見事に物語っているという事である。
つまり、”企業(システム)”が”人(消費者)”の弱みに付け込むという、社会構造そのものを表しているという事である。また加えて、このような関係が日常に存在しているという事を、多くの人が気がついていないというのも、悲しむべきである。

結局のところ、このような状況は、企業の健全なる活動を期待する以外にない。今回の事件が、主に生産者側の議論に傾いているのも、多分、多くの人間がそれを望んでいる事を垣間見れる。だがそれは、今日におけるシステムへの絶対的な信頼、ある意味性善説的な感傷をも含んでおり、今後このような事がまた起きるという事を無視しているというのは、以前にも指摘した通りである。

○だがこのような社会構造の中、具体的に弱者を保護してゆくには、いかなる方策が必要になって来ようか。そして今回書き込みは、予告通り、消費者への具体的な保護をどのようにしてゆくかというのを指摘するものである。特には法律問題になるが、それにはこの案件について、まず当事者関係を表す事が必要になる。また更には従来型民法の想定する関係と特別法(未制定)の関係について示す事になる。

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A…建設会社
B…検査機関
C…販売業者
D…ローン会社
E…消費者(購入者)

Ⅰ.従来型民法解釈における当事者関係

上記A~Eから特に問題となる当事者関係
C…販売会社 VS E…消費者(購入者)

※製造物責任を考慮した場合
A…建設会社 VS E…消費者(購入者) も可能。

Ⅱ.消費者保護を主眼においた特別法(未制定)における当事者関係

上記A~Eから特に問題となる当事者関係
C…販売業者、D…ローン会社 VS E…消費者(購入者)

※製造物責任を考慮した場合
A…建設会社 VS E…消費者(購入者) も可能。

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さてこのように比較して、ようやく消費者保護への具体的方法について述べることが出来る訳だが、ⅠとⅡの解釈において決定的に違うところは、Ⅰが1対1の関係における解釈に対し、Ⅱが多数対1の関係にあるところにある。

○因みに、それぞれの解釈の方法によってどのような差異が出るかは以下のようになる。

Ⅰの解釈によると、E…消費者はC…販売業者にのみ、補償を求める事が出来る。また製造物責任を問う事が考えられるので、A…建設会社にも損失の補償を求め得る。だが厳然として、D…ローン会社への債務は残る場合が(よく)あるので、仮にAとC、またはそのどちらかの補償が成立したとしても(現実的に考えられない)、E…消費者は損害の補償を得る事は無い。更には、裁判という方法が必然であるから、消費者は泣き寝入りが当然となる。

Ⅱの解釈によると、上記業者の他、D…ローン会社への債務が無効を主張し得る。しかし、裁判という手続きをもってそれがなされるとすれば、消費者には多大なる負担を強いられる事には変わりない。だが、債務の無効や金銭の返還が考えられる上ではⅠより幾分かは救いがあろうか。

ただ仮に、欧米におけるような消費者保護法(他クレジットカード法)の特別法が制定されれば、裁判という手続きを経る事も無く、有効とされた法律の効果が遡及的に無効とされ、消費者は債務の帳消しと共に支払った対価も戻ってくる事になる。

ともなれば、いち早くⅡの法解釈、又は消費者保護法の制定が必要となろう。

○今回、このように消費者を保護する具体的方策について述べた訳であるが、結局のところ、私たちがどのように社会のルールを作って行き、また賢明になって行くかが問題なのかもしれない。そして「民の法か?君子の法か?」というのは、詰まるところ、社会を導く人々の命題にも思える。そして現代では、生産者と消費者という図式が成立するわけであるが、「君子の法」すなわち、国政を如何に民のためのものに近づけて行くかが問題となろう。

最後に余談だが、養老孟司が、著書「死の壁」(新潮社)において、エリートの不在について触れているところがあるが(p137後4行~)、今回の書き込みに関しては、加害者側のエリートの不在だけでなく、エリートのエリートの不在をも表しているようにも思えてきた。


耐震補強偽造事件から見る消費者保護の必要性 その一

2006年01月06日 | society
○最近の世間の関心事の一つに耐震強度偽造問題というのがある。これがどういう経緯(何がきっかけかといった方が適当か)で発覚したのかは正直よく分からない。だが現在は、その責任の所在がどこにあるかということで、被害者である消費者への補償を置き去りにして、醜い争いが続いている。

ときに、これがどう問題なのか、世間のポイントとしては”実際と異なる情報を提示することによって、法律で決められた基準に合致しているように見せかけたことにある。(参照)”とし、そしてそれが社会構造における生産者側のクオリティーの低い利益追従主義から生み出された事にあると云える。

そして今後、それをどう解決して行くかが更なる問題になって行くわけだが、しかしながら、どういうわけか消費者保護に関するシステムの構築について、殆ど語られる事は無い。寧ろ、生産者側を如何ようにして常に性善説にすべきか、というところに、ある種の感傷を含めて語られるばかりである。

しかしながら、このような議論は、都市型社会の構築からこの方、全く生産的な社会を築いた事はない。そして、今後も同じような事がよく起こるという、当たり前の事を放棄しているものであるとも云える。

○結局のところ、何が言いたいのかというと、社会的構造というのは常に整備の必要なものであるは当然であるのという事。そしてそれには、議論を生産者のみの構造に限定するべきではなく、”消費者”をも範疇に入れたものにしなければならないということである。

因みに、”消費者”というのは、経済学で云えば”生産者”に対する反対の存在の意味である。これは同時に、云わば、従来の”お客さん”の感覚とは次元が異なり、近代に入って大企業生産システム(云わば都市システムであろうか)が整うにつれ、決定的にシステムに依存せざるをえない人間の事を云う。だがどういう訳か、このように”生産者”と”消費者”は対であるのに関わらず、消費者というのは理解されえなかった。

というのも、生産者、消費者というロールプレイングの区別自体が曖昧な点にもあると云える。それは今回の事業主当事者の一人が、メディアにて「私もその危ない物件に住んでますよ」といったような発言にも垣間見る事が出来る。つまりは、生産者である人は、一度仕事場を出れば消費者となるという訳である。またこれが、先に指摘した”お客さん”の感覚なのであろう。

となると、生産者と消費者の棒引きをどのようにするかという問題があるように思えるが、これに関しては至極明瞭である。私見として、それは生産や消費にそれぞれどれだけ携わっているかという事にある。

○そしてそこで現れるのが法律の問題である。実をいうと、これが一番やっかいな問題でもある。というのも、この生産と消費への関連度をどのような基準にして見るかという議論もさることながら、最も重要なのは従来型の民法の解釈の見直しを議論せねばならないからである。

勿論、このような問題に関しては、今回の事件それ以前から盛んに行われてきた。
また、私が消費者保護に関する問題に興味を覚えるきっかけとなった、大学時代の恩師、加藤良三教授も、この消費者保護への必要性について主張してきた人の一人である。

因みに、教授の講義での民法解釈と消費者保護に関する考え方は次のようになる。

”従来の民法解釈は、対等の一対一の関係における解釈であり、財産的、社会的階層を考慮に入れたものではなかった。つまり従来型は、民法制定当時の、ある限られた階層の人間、いわば商人のものだった。

だが現在は生産者、消費者にあるように、財産や社会的階層の差に大きな隔たりが生じ、その重責は主に財産的にも、社会的階層でも劣る消費者に課せられるようになった。これは、従来型解釈が消費者に生産者(商人)と同じレベルの責任を課しているためでもある。”


ときに、昨今主張される「自己責任」とは、本来法律的用語であり、内容としてはこういった意味である。これと教授の指摘する従来型解釈を考慮すると、極端な話、赤ん坊でもこの責任を負わされる事になる。勿論、赤ん坊は意思無能力者になるので、法律的にも保護されるが、実質、親の組んだローンが不良物件にも有効であるとなると、ある面、意思無能力者に関する保護規定も無意味であろう。

ではどのようにして、今後消費者を保護して行くべきかという問題が残るが、これに関しては次回に残しておこうと思う。

寝ている時に見る夢

2006年01月05日 | sub-culture

寝ている時に見る夢というのは、ときに不可思議なものである。
かく云う私も、この不思議に魅入られている人でもある。
しかしながら、この興味というのは、ある面では危険なものである。
今回はそれを匂わせる夢のメッセージについて語ろう。

大学の頃である。
私は勤勉な学生ではなかったが、サブカルな関係の本に夢中になった。
これは高校の頃から心理学に対して少なからず興味を持ったという伏線もあるが、また薄気味の悪い霊を見ることが出来るという、こまった知人に相対するための理論武装という面もある。

ともあれ、最初に手にした本はコリン・ウィルソンの「オカルト」であった。ウィルソンは「アウトサイダー」で一躍時の人になった人だが、「オカルト」も当時の私にとっては驚くべき書物であり、しかもサブカルと疎まれる事柄を見事な文章で書き表わしている(勿論、翻訳者:中村保男氏の能力によるところが大であろう)ところに好感を覚えた。

オカルト・・・昨今、この言葉は陰鬱なイメージを抱く人が多いだろうが、本来の意味は「神秘」である。

そしてその中で、特に興味を覚えたのは、やはり心理学であった。因みに、ウィルソンはユングという学者に関しては、ユング小伝とも云えようか、丸々一章使うほどにそのページを割いている。また夢に関する記述も豊富にある。

ところで、心理学的にといえば大きなテーマでもあり、フロイトやユングの夢判断が広く知られたものであろうか。と書くのも、実は正確ではないかもしれないが、当時の私にとって心理学は、動物機能的な反応には興味が薄かった(それは現在でも同じである)。またフロイトよりもユングに興味を覚えた。

因みに、私のこのような偏向というのは、フロイトとユングの夢の捉え方の違いにあると思う。

例えば、フロイト流の夢判断の帰結としては、一般的に動物機能的なものが多い。それはすなわちSEXに関わるものであるが、フロイトの場合、行為の衝動のみに限定される。そしてそこから導き出されるものは、私には人を獣に貶めるもののように思えた。

逆にユングの場合、SEXを儀式的な側面として捉える場合が多い。つまり衝動の本来の目的というのは、生産的衝動であり、そこから人が向かって行く方向を考えて行けるように思えた。また更にそこからいえるのは、人はオカルト的な存在でもあり、ある種、芸術創造的な意味もある存在でもある。

ともあれ、これをきっかけにして、夢への興味が確実なものとなったことは間違いないだろう。そして興味深い事に、その時を境にして不思議な感覚の夢を見る事も多くなっていった。そしてそれにはユングの指摘する集合的無意識元型的なシンボル(archetype)も多々あった。

だがこのような夢を見たからといって、自分が本当に集合的無意識に触れたかというと疑問が残る。それはユング派の学者の指摘にもあるように、嘘の元型を見せる夢の機能である(引用元は忘れた)。というと、元型的シンボルの指摘すら危うくなるのであるが、夢を見る機能にはこのようなパラドックスもあるという事だけは押さえておく必要があるのかもしれない。

さてここでいくつか、私の見た元型的シンボルの夢のエピソードを語ろうと思う。

”夜、私は下宿の窓からを見ている。それはあまりにも美しかった。
すると、当時の学友が「イギリスの月は青い」という。
私はそれに感嘆するが、しばらくするとアナウンスのような声が聞こえてくる。
「これ以上みると精神の異常をきたす」というような内容だった。”

”夜、私は下宿の前にある道路を歩いている。
目の前に、美しい光をたたえた木が立っている。
私は余りの美しさにその木を目指して歩いてゆく。
すると複数の暴漢が現れてそれを邪魔する”

”夜、商店街を歩いている。
空には美しい月が上がっている。
その月をよく見ると、中に幾何学的な文様が見える。
私はもっとよく見ようとそちらに走って行くが、ガスマスクをした兵隊が降りてきて私を撃つ”

以上、他にもあるのだが、元型的夢のエピソードはこれまでにしておく。

因みに、これらの夢を通して見えるのは、元型的イメージの美しさにある。それはどの夢にも共通のものである。またそれを求めて行こうとすると、必ずともいって良いほど邪魔者の存在が現れるところも興味深いものである。

また、邪魔者に関してなのだが、これを時間経過として見ると、ある種の整合性が見えなくも無い。というのも、先のエピソードの最初の部分では邪魔者はアナウンスであり、これは注意・警告とも捉えれる。また次のものでは実力行使に至り、更に最後は処刑という方法をとっている。

※下2エピソードに関してはどちらを先に見たかは憶えていない。

だが思うに、そのような実力行使は、もしかしたら私の見たイメージというのが人の精神的な重要事に関わってくるとしたら、うなずけるものがある。つまり、崇高なものは守るべきなのだ。そう考えるとこのアナウンス、暴漢、兵隊は私の夢の友なのかもしれない。

散文的になったが、ともかく夢の魅力というのは、かくも不可思議でそして危険な匂いのするものである。またこのような夢を見ることが出来たのは、ある面で人である事に感謝すべきものであろうか。

ともかく、人は眠るたびに、このような精神的な側面に触れる事が多々ある。その時にどうそれを捉えるかによって、自分の精神的動向が見えて来る事は確かなようだ。