~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

祖母の詩

2010年05月30日 | lyrics
先に「詩詠」にて祖母(母方)の詩を紹介したが、本人に尋ねてみたところ大分違っていたので訂正する。

正確には、

裏庭を 起こして植えし 馬鈴薯(じゃがいも)の
薄紫の 花咲きにけり


である。

ときにこの詩は、約74年前に「婦人倶楽部」(wikiで『主婦の友』参照)という雑誌のコンテストに投稿したもので、結果2等を頂いたそうである。
ちなみに当選した金額の内訳は、[1等:1000円(現在の価値で160万円位)、2等:7円(現在の価値で1万1千円位)]だったそうである。


タクシードライバー

2010年05月16日 | sub-culture
再び若かりし頃のロバート・デニーロの「タクシードライバー」(※1)を観る。


タクシードライバー コレクターズ・エディション [DVD]


タクシードライバー予告

たまたまCSのチャンネルを合わせていたためだが、19歳のときに深夜帯の映画枠でそれを観ていたときとはまた違った感覚を覚えた。

トラビスは「負け組」である。元々そういった言葉の用い方は我々世代多くに顕著に、重くのし掛かってくるのだが、時代と主人公トラビスの云いようもない激しい感情は今でこそ理解できる。



軽薄さは罪である。
そしてその罪に自責の念を感じない者こそ、地上の楽園を謳歌出来る。
だがトラビスは罪人ではない。だから地獄にいるのである。



銃を構えて呟くトラビスはハードボイルドでも何でもない。
ただ只管、己を表現しきれない、言うなれば楽器を弾けないギタリストなのである。

この時期、こんな時に再びこの作品に触れる事にシンクロニシティー(※2)を感じる。
トラビスはニンマリと最後を締めくくったが。

※1:「タクシードライバー」レビュー→参照
※2:この映画の公開年月を知って戦慄する。

   米:1976年2月8日
   日:1976年9月18日

日本公開は私の産まれる丁度一ヶ月前である。
トラビスは私にとっての天使ガブリエルか?(「God's Amy」のような)

永遠を捉える

2010年05月14日 | diary
刹那な生き方には二通りのものがある。
一つは、明日をも知れぬ命、そのために今一瞬を精一杯生きようとする生き方。
このような生き方は人生を豊かにする。
もう一方は、未来が知れていて、そのために享楽的に生きようとする生き方。
これは不潔漢の生き方であり、様々な価値ある事象に氣がつかず通り過ぎてゆく。
後者の場合、何故駄目かといえば、このような観点には生きようとするバイタリティを感じないからである。
どうせ駄目になるのならという、否定的側面がありありで、では駄目になったとき、自分という存在は無くなるのかといえばそうではない。
そういった単純な事が抜けているからである。

こんな体験がある。
高校の頃、女の子達の奇妙なもの云いに違和感を感じた事がある。
「今しかできないから」と云った言い方であるが、そう云いながら、彼女らは別に人生に何をかけるのでも無く、ただ漫然と享楽に耽っているのである。

因みに、こういった生き方は現在、日本の若い女性には顕著であると感じる。
強迫観念的生き方という奴であろうか。
これでは人ではなく、存在としては只の乗り物である。

逆に、意志して人となる者もいる。
それは自分を試そうとする人では無いかと思う。
こういった人は、「今しか出来ない」事を、短い時間で多く感じ取る事が出来る。
言うなれば、五分を何時間と感じられるという事だ。
そして望むらくは、そういった感性を身に付けたいし、身に付けてもらいたいという事である。

終末予言

2010年05月14日 | sub-culture
終末予言のくだらなさは、それが滅亡を阻止しようとする人を動かすのでなく、俗物を動揺させるだけのものだろうか。
「終末は近い、悔い改めよ」と仰る、そしてそれに動かされる事の低俗さは恥じるべきである。
またそれは「切欠」になるとかという論調も下らない。
何故なら、「悔い改める」機会というのは、常に何かしら用意されているからだ。

ときに2012年に何かが起きるとして、我々はどうなるのだろうか?
人が多少減ろうが増えようが、若しくは繁栄しようが絶滅しようが、そこに確実に云えるのは、そういった「事実」が起こり得るという事である。
仮にこの年を機会に、人類が上部構造にシフトしたとしても、人という存在がいる限り、そこには「社会」が存する事になる。
結局、それはそれで今と何も変わらないのでは無かろうか。

何というか、終末予言などというものは、ある種の予定という事実というもので、それを受け入れる人の資質を明らかにするだけのものだろうと考える。
それに一喜一憂するのは、結局は自位本意の過剰な期待としか云いようがない。

文学

2010年05月13日 | sub-culture
文学というものは「代弁」なのではと思う。
著作に触れて感じ、時には喜怒哀楽の表情を浮かべるそれというのは、まさに同一化の傾向である。

だが「代弁」となるためには文学の「入力」の事柄でなく、「出力」が重要となる。
例えば、日常において極まった感性を表すのに相応しい言葉が見つからないとき、文学における文字列が役に立つ事がある。

しかしながら、それを用いるのにも制約がある。
その制約とは「理解」であるわけだが、これがなければ、草原の穴ぐらいに住むウサギを象と云い間違える程奇妙な用法に資する。

さて「文学」な訳だが、「代弁」に関する制約はそれだけに尽きない。
もう一つは行間を読む事である。
そしてその行間とは、経験の度合いによっても変化する。

つまり、このような事柄が相まって、初めて、「代弁」としての存在足り得るのではと思う。

2010年05月13日 | diary
猫は生きている」という絵本があった。
小さい頃に読んだものだが戦時中、とある民家の軒下か、住み着いた猫の家族を廻る物語で、結末には戦災で民家は焼け、そこの家族は全滅するのだが、猫の家族は生き残る、そういった切ない話だった。

ときにツバメの番(つがい)が我が家にやって来た事は先の記事で触れた。
一向に巣を作り始めないので心配していたが、最近になって番の片割れしか夜、泊まっていない事に氣がつく。
その事を私はエラく氣にかけているのだが父母は全く無関心だ。

正直信じられない。
怒りとも云えない複雑な感情が湧き上がってくる。

詩詠み

2010年05月13日 | diary
詩を詠むという事は日本においては優雅さや品性を表すものであったと言っても過言ではあるまい。
またそういったものをとっさに表す事に日本人らしさというものがあるとも云える。

ときに、それに倣ってという訳ではないが、我が一族の中には、大いにその才能に恵まれている家系がある。
それは母方の家系であるが、祖母、私の母と、詩は自然に詠んできた。
例えば祖母だが、その少女時代に、

馬鈴薯の 紫の花 咲きにけり

と詠み受賞した経験がある。
一方、私の母も最近の詩としては、

金木の 香り匂い漂い 土に恋し

と詠んでいる。これは曜日を文字った遊びである。
因みに、私もその傾向は牽いているようで、中学の頃に、

ひらひらと 風に吹かれて 蝶が飛ぶ

と詠んでいる。勿論、今でも詠む事があるが、ある意味、詩というものは自己確認に向いている氣概がある。

例えば最近、実家の玄関先にやってくる番(つがい)のツバメがいる。

緑栄え 浮き立つ雲の 旅鳥の
番(つがい)は宿を 求めて休む


と詠んでみる。しかしながら、今夜、彼らを見て見ると番(つがい)の片割れが居ない。

番(つがい)鳥 割れては眠る 一夜星
夢見て宿を 暖め候む



最後に余談だが、今上陛下のお詠みあそばされた詩に衝撃を受けた事がある。
それは数年前の園遊会でのお詩であったと思うのだが、他、歌人が詠むものが一人称の詩であるとすれば、今上陛下のお詩というのは花鳥風月であられたという印象を持っている。
残念ながらそれがどんなお詩であったかは失念してしまったが、しかし、今上陛下のお詩からそのあるべき容(かたち)を感じとれたような氣がする。

ライダーは正義

2010年05月06日 | motorcycle

ライダーっていうのは基本的に正義の見方なのかもしれない、と最近の出来事と少年時代に観ていた「仮面ライダー」を思い比べた。

それはゴールデンウィーク中の出来事である。
知人とツーリングに行く事になったのだが、私が井川ダム方面に先頭を切って法定速度で走行中、後列のバイクが着いてこない事に氣がつく。
怪訝に思い、ダム直前のトンネルを抜けたところで一時停止して、ちょっとの間待つ。
すると、後列のライダーのうち、一人しか到着しない事に嫌な予感を覚える。
即、Uターンして最後尾のライダーの元へ向かう。

しばらく後、先程後列を走っていた他のツーリングチーム(5,6人ほど)が私の知人と彼のバイクを囲んで交通整理をしていた。
「ああ、やはり・・・」と思って、即、ツーリングチームの直ぐそばに停車し、状況を聞く。
状況としては、彼がブラインドコーナーから右に膨らんで走行してきた乗用車を避けようとして壁際に追いやられ、そのままコケてしまったらしい。
乗用車のドライバーの過失である。
幸いに、知人自身には怪我は無く、またバイクもエンジンとミラーに多少の傷が残り、また懸かりが悪くなった程度で済んだ。

ちなみにその際、転倒してしまった知人の安全を確保し、またバイクを起こしてくれた方がいた。
一見してベテランライダーと分かるその方には、他のライダーと共に感謝してやまない。
また去り際もまさに”漢”であった。

勿論、「ライダーにあらず」者もいるが、これはそもそも問題にならないし、また話題にも上げてもらいたくない。
ともかく、「ライダーは正義」と感じた一日であった。


シンクロニシティーの女

2010年05月05日 | sub-culture
ひょんな事から昔の女友達にそっくりな娘(こ)を見る。
思わず本人かと見間違える程、同じような造詣の娘だった。
苗字こそ違っていたが、聴いた名前も同じだったので、もしやと思い、漢字の名前を調べるとやはり違った。

思えば、その昔の女友達とは私が見限った数少ない人間の一人である。
見限った理由というのはその淫乱さによる。
勿論、そのそっくりな娘というのが見限るに足る人物かどうかは全く分からないし、またそれを確かめる機会というのは無いであろう。
つまり、他人のそら似である。

大学時代に、どういうわけか個を特定できない後輩の娘が居た事を思い出す。
その娘は決して容姿が平凡だった訳ではない(寧ろ非凡だったと思う)のだが、こういう事柄はあるときに起こる事がある。
これもシンクロニシティーではないかと思う。