~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

カニ料理

2007年09月30日 | society

昔「ハイスクール奇面組」という漫画があった。そのお笑いのセンスは抜群で、今でもたまに見ると、思わず噴出してしまうものである。
ちなみにこの作品には多くの番外編が存在し、本来の高校生活とは別テーマで進行してゆく話数があるのだが、これらの中で最近思い出すものがあった(※1)。

それは確か、奇面組が地球防衛隊か何かで、あの有名な『かに道楽』を模した看板が出てくるのだが、突然それが動き出す。
そしてどういう訳か、それが人間を狩り始めるのだが、直ぐ後に、これがカニ型宇宙人の地球侵略の一手だということが分かる。
そこで、奇面組が所属する地球防衛隊が出動になる訳だが、彼らが敵性宇宙人と対峙したとき、カニ型宇宙人(※2)の地球への侵略の動機が実に妙なのである。

それはカニ型星人の目的が「ヒト漁」にあった事にある。
彼らの星では毎年、ある季節になると「ヒト料理」というものに舌鼓をうつらしい。
そのため、安定した「ヒト」の捕獲を保つためには常に漁場を確保しておく必要があり、地球もその一つとなったという話しだ。

と、ここまで話を進めてくれば、分かる人は分かると思うが、ここのジョークのポイントはカニ料理と『カニバリズム』をかけているところにある。
カニバリズム』とは、いわゆる食人の現象である訳だが、「ヒト」を食うこのカニ型星人は、ギャグ漫画にしては云い得て妙である。


ところで、ここから本題となるが、昨今私たちの世界でもこの『カニバリズム』が広がっているように思える。
勿論それは、そのまま「食人」をしているという訳ではなく、社会そのものが人の肉をして、共食いをさせるような世の中だと云う事である。
これは特に昨今、増大の一途をたどる、云わば大なり小なりの公然のイジメにあるといえよう。

例えば身近な例で云うと、職場で未経験の人が入ってきた場合、その人というのは確実に「使えない奴である」。
これを昔なら、適度なイジメで鍛え上げ、一人前にしてやろうと躍起になってたはずである。
だが現在は、そのような気骨のある経験者は少なくなっており、「能力の無い奴は死ね」である(※3)。
そしてこういう人間は、昔なら当然糾弾して然るべきだが、そのような社会構造をもった組織が優秀な上司を育てられる訳でもなく、人材は極めて流動的である。

少し考えてみれば、将来の戦力になるかもしれない人間をその社会構成の一部に組み込んだ責任があるはずにも関わらずである。
また更にたちの悪いことに、その構成員もその責任を連帯して負っているはずなのだが、無知で意志薄弱な人(構成員)にそれを求めるにもいかず、結局は負の連鎖に陥ってゆく事になる(※4)。


ともあれ、このような負の連鎖というのは非常に忌々しき問題である。
またそれが所謂、「一人勝ち」という発想に根付いているのなら、それの増大はどこかで食い止めるべきであろう。
そして、その場の責任者、そして為政者は、最も責任を持ってその教育をすべきである。
昔、日本の為政者達は、民・臣の幸せが家(国)の発展に繋がると躍起して、実際、そのように計らってきた者は現在でも生き残っている訳だが、これは今後も変わらないであろう。

最後に、日本より古来「弥栄(いやさか)」という言葉が伝わっているが、この共存共栄の思想を以って、今回の記事を終えたい。

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※1:”ワラトルマン”シリーズだったと思う。

※2:オリジナルのウルトラマンシリーズにもカニ怪獣が出てきたので、確実にそれのリスペクトであると思う(参照:『ウルトラマンタロウ 怪獣名簿』~大ガニ怪獣ガンザ~)。

※3:こういう台詞をいうのは、昔私たちが見ていたヒーローものでは、決まって悪者だった。またそうやって悪者は先細りしてゆくのである。
そして皮肉なのは、昔の悪者は意志してそれを行う気骨があったが、今の人々の多くは意志薄弱で無知である。はっきり云えば、自分が悪者になっている事にさえ気がついていない。

※4:結局、現在は派遣業が人材の育成を担っている状態だが、人の価値というのをただの経済単価として計算しうるその仕組みというのは、後々の企業にとって取り返しのつかない大きな痛手となるであろう。特にアイデアと技術、そして人徳の面においての凋落は顕著である。


マスコミか?善性か?

2007年09月27日 | society

アサヒる」という言葉が巷で俄かに盛り上がっているようだ。
私見としては、『事実に違える事、根拠が定かでないもの、若しくはありもしない事を己の如何なるかの利益のために真実のように思い込ませようとし、また先導する事』と解すが、大変な皮肉である。
だがこのような事が起こりえるのは、そもそも民衆の雰囲気に流される態度というのが一番の問題であると思うし、またそれが現在の民主主義における最大のネックであると云えよう。

勿論、そのような事は大昔から行われてきた事は確かである。
またそれに民衆が乗せられ続けてきたとすれば、現代人というのは決して、過去の人々の行いを批判するに値する資格ある人は多くないだろう。
だが今日ほどに、意図も容易く『世論』という形でさまざまな思いを一まとめにし、右往左往出来るステロタイプの時代というのも、ここ1万年の歴史を見てゆくに非常に珍妙な現象であるのかもしれない。

ときに近時、ミャンマーの軍事独裁政権に対して僧たちが無言の抗議デモ行進をし、軍がそれを民衆先導の恐れありと鎮圧にかかっているが(『2007年9月ミャンマー反政府デモ』)、これは驚くべき出来事である。
というのも、それは先のマスコミ先導の例とは異なる点においてであるが、そこからは”僧”という伝統的善性に、ミャンマーの一般民衆が喚起しているところにあろうかと映る。

ちなみに、民主主義というのは、”自然人というおおよそ実質とはかけ離れた理想人を掲げ、成立している訳だが、これにはミャンマーの僧のように、その善性を認めるに値する存在を無しに成立しえないと考える。
それは民主主義という”然り”論は、キリスト教における”人は神の下において平等である”という精神から生じたと考え得るものだからであり、その骨子は東洋と変わらないと見えるからである。

ところで、日本の善性の顕れはなにであるかと考えた場合、それは”天皇”である。
だが最近、これをは疎んじて、意志薄弱な民衆を扇動して”開かれた皇室”(※1)、”女系天皇”(※2)の成立を目論む輩がいるようだが、彼らははっきり云って、人間の世界において必要なものを見落としているといえよう。
そしてまた、権威を権力として見る酔狂さは、ある種の狂人的な発現に似ていないくも無い。

ともあれ、今の民主主義に足りないものはその善性を何に求めるかにあるのでは無いかと思う。
そう云った意味では天皇、法王、王が守られている国というのは、その理想に近いと考える。
それは善性が法を生み出すのであって、法から善性は生じ得ないからである。

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※1…社会学者の宮台真司”「開かれた皇室」論者は自分が何を言っているのか分かっているのか”は中々興味深い読み物である。

※2…この論は、政体論として法的に皇室を存続させる事に終始しているように思えるが、どうしても法的君主が必要だというのなら、皇室の親戚から王を立てる方法もあるのではないかと思うところがある。天皇を俗な存在に貶める位なら、そちらの方が余程ましである。とにかく、天皇の伝統を守るに、貶める事はあってはならない。


ヒロインの条件

2007年09月12日 | diary

昔、大学の先輩と一緒にエコエコアザラクのビデオを見る機会があった。
私としては、こういうオカルト色(ホラーは別)の強い作品を観るのは好きなので、進んで手に入れたものなのだが、先輩に云われて、オカルトとは別の意味ではっとした事がある。

というのも、この手のオカルト(特撮ものでもよい)のシリーズでは、若手新人の俳優・女優(というよりかアイドル)が起用される事は多く、この作品でも選り優られた美少女達が出演していた。
そして劇中のシーンで、主人公の黒井ミサ(役:佐伯日菜子)が、悪魔退治のために演劇部に入部するシーンがあるのだが、このとき、先輩が驚くべき事を云ったのを覚えている。
それは、「これだけ選り優られた美少女達が一同に介しているのに、何故か彼女(佐伯日菜子)は本当の主人公だと分かる」(※1)といったものだった。

知っている人からすれば、何を当たり前の事を云うのか?と思われるかもしれないが、この素直な感想は、私にとっては、人の無意識下にあるヒロインの条件(※2)というものを的確に顕したような気がして、非常に衝撃だった。

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※1…俳優に関しては、平成ライダーが鮮烈だった。中でも、『仮面ライダーアギト』からは賀集利樹要潤、『仮面ライダー555』は半田健人泉政行唐橋充は、私としては同性の目からしても、惚れ惚れとするようなヒーローの輝きがあった。残念なのは、新人の登竜門であるライダーシリーズが、作品として秀逸であるため、中々彼らを活かすような役柄が回って来ない事か。

※2…たまにTVを観ていて、美しさに涙が出てくるタレントさんがいるが、ヒロインの条件を無意識的に感じ取っているのだろうと、私自身としては納得している。だが彼女の置かれている状況も、※1の俳優陣と同じく不遇である。


義憤というもの

2007年09月09日 | society

隆慶一郎原作の「死ぬこととみつけたり」の主人公、斉藤杢之介、そして彼の率いる浪人衆は、現在私にとって感化されるキャラクターであった。
特に彼らが藩の危機に際して、どこからともなく集まってきて、己が指名を全うする様は全く痛快である。

ときに以前、NHKの特番、「ネットの祭りが暴走する」に対しての記事を書いたが、そのときの真意としては、ネットというサブカルチャーから「嫌韓流」が10万を超えたヒットを記録した事や、昨今問題になっている光市母子殺害事件の被告弁護団に関する批判、懲戒請求の盛り上がりを、そこに加担する者(特にネットそのものに対する)の単に不品行として捉えるべきでないと書いた。
思えばこのような現象は、一般的な私人の情報や主張の発信源として、ネットという環境が最適に機能し始めたという事の顕れであるとも云えるが、それには社会通念における物事の善悪の判断についての主張も当然に含まれる。
そして逆に、先のような事例がこれほどまでに盛り上がるのは、現実社会に対する正義の不在を、想念の世界で以って補填使用とする現象にも見え、またそれが現実に影響を及ぼしうるものとなったとも云える。

ところで最近、こんな記事があった。


<傷害警官>乗車マナー悪い高校生殴打、支持する声続々 (毎日新聞)

「弁護士会はバカ」 橋下弁護士会見でケンカ売る (J-CAST)(※1)

~Infoseek・楽天ニュースより~


これら報道に関して、最も興味を惹かれるのは、やはり光市母子殺害事件被告弁護団に関わるものであると思える。
だが、ここで整理しなければならない事は、「この事例における懲戒請求の本質はどのようなものか?」である。

結論から云えば、この事例における懲戒請求の本質は、一般市民の被疑者に対する、引いては凶悪犯罪者に対する素朴な憎しみ、すなわち義憤(※2)から発している。
そしてこの裁判に関して、傍観者たる立場をとらざるを得ない状況にあった彼らは、橋下弁護士が示した懲戒請求制度(※3)によって、弁護団への糾弾の方法で以って主張しようとした(※4)のである。

ともあれ、これらの事を見るに、この一連の現象というのは、一種の世直し的な様相を呈しているといえよう。
またそれを、偽善やお祭り騒ぎと一笑に伏すのも自由だが、しかし現実に、それが俗風一般の雰囲気にある「正義の不在」という閉塞感に対するアンチテーゼと捉えた場合、無視できない価値ある事柄であると云えよう。

だがこれははっきり云って、何時爆発してもおかしくないという危険性も内包しているのは確かだ。
またその閉塞感の原因はなんであるか、またその打開策はどこにあるか、それを考えて行くのが今後の私達の至上命題であると云える。

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※1…ときに、この案件に関してだが、争点としては”橋下氏発言が被告弁護団の中で訴えを起こした4人の業務を「妨害した」かどうか”だが、行為外形上を見た場合、成立しうる主張であると思える。
しかしながら、橋下弁護士の「そこまで言って委員会」での発言が、被疑者弁護団の当時知りうる情報の限りの品行に関して、某出演者がその場で、懲戒などの責任の可否についての訴権はあるのかとの質問に端を発しており、橋下弁護士がただ単にそれに応え、可能性の示唆をしただけであると考慮すべきである。

※2…某まとめサイトでは「私憤」と述べていたが、現象の本質は「義憤」である。(参照サイト:『Henkyo News』~懲戒請求まとめサイトが消滅~の引用を参照)

※3…この訴権に関しては、一般私人にとっては非常にリスキーなものであるとの指摘がある(参照サイト:『情報流通促進計画 by ヤメ記者弁護士(ヤメ蚊)』より”橋下弁護士の口車に乗って光市事件弁護団の懲戒請求をしたあなたへ取り下げるべきだとアドバイス~その1”)。尚、このブログには被疑者弁護における事実関係や刑事弁護人の役割についても詳しく語られているので読んでおく必要がある。

※4…本音としては、私もそのような方法で以って正義を実現すべきだと思っていた。だが実際、弁護団の主張を読んでいゆくうちに、考え改めざるを得なくなった。冷静さを事欠いた、恥ずべき思考であったと思う。


タイアップ世界の雰囲気

2007年09月06日 | diary

中学の頃、最も夢中になった歌手は渡辺美里だった。
彼女に夢中になるリスナーというのは、基本的にロマンチストが多いそうだが、ともかく彼女は、間違いなく特筆すべきソウルフルなボーカルの一人であると思う。
最近では、アニメの主題歌を歌うなど方向性をシフトしている感があるようだが、その美声は失われていなく嬉しく思う。

ときに私の少年時代、世間ではバブルから崩壊へと行く過渡期にあった。
それと同時に、世界では米ソ超大国による冷戦の影が重くのしかかっており、世界の破滅がまことしやかに囁かれる時期でもあった。
勿論、それは今では様相を変えて語られるが、現在は当時のあの重々しさと比べると、生存の可能性がまだあるという点において気楽な感じがする。
それは布袋寅泰が「ボタン一つで星が消える」(※1)と歌っていたが、刹那の瞬間、熱線に焼かれ昇天する様と今の環境問題(※2)などによる侵食的な滅びとは違っているという意味においてであるが。

それを踏まえ、当時の音楽はどうだったか、少し考えてみた。

私が渡辺美里に執心だった頃、CMタイアップという業界戦略が盛んな時期で、CMに曲が流れるだけで、その曲は面白いようにヒットしていた。
当然、私もそういうリスナーであったのだが、あるとき、曲の構成についてどの曲にも共通するものに気がついてしまった。

それは至極、私的な感覚かもしれないが、サビしか聴き処が無い曲が多いと思ったのである。
またこれは、ある意味、日本の音楽史にとっても特異な点であったように思える。
勿論、ひとつのCM(15~30秒)という短い間に、曲の持つメッセージを的確に伝えるためには、結果的にそうさせたというのは分かる。
だがともかく、そのような傾向は、私にサビを聴くためにそのCDを買う事を虚しくさせた事は確かである。

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※1…布袋寅泰GUITARHYTHMⅢ~「EMERGENCY」(作詞:森雪之丞 / 作曲・編曲:布袋寅泰)より

※2…現在取り上げられるようになった地球温暖化砂漠化に始まる環境問題と資源保全の問題とは分けて考えるべきである。
確かに、資源の浪費が環境問題を担保しているという見方もあるが、資源の問題は如何に効率的にそれを浪費するかに尽きる。
環境問題は、その消費の際に、如何にしてその汚染などを食い止めるかという問題であって、両者は密な関係でありながら異なるディメンションを持つ。

また地球温暖化に関して色々と恐ろしげな事が叫ばれているが、これが天災なのか人災なのかは断定するに難い。
このような現象が声高に叫ばれるのかは、環境問題が新たな人類の敵として適当であると見ている人間がいるためだと思われる。
そして彼らが、人類に決定的な解決策を示しているかと見れば、彼らには多分、そんな気は微塵にも無かろうとも思える。

そして敢えて、環境問題に関して私が提案するなら、記紀に顕れるイザナギイザナミの使命、「修理固成」に沿った日本の伝統的心情が必要であると云える(鬱蒼と木々が茂る伊勢神宮に、一度参拝される事をお勧めする)。
そして具体的な方策としては、やはり様々な環境用件を必然とする「植林」に尽きよう。

※植林の伝統について…『神宮備林』、サイト『杜(森)の話』の”植林の歴史 in 日本”、サイト『みんなの森』の”木を植えた日本人の歴史”古代~現代までを参照。
だが一番実感するのは、伊勢神宮に参られた方が生ける伝統として実感出来るかもしれない。


河豚料理とオーバー・テクノロジー

2007年09月04日 | sub-culture

私は小学校3、4年の頃、貰い物の河豚の干物を死ぬほど食べた事があった。
当然、ちゃんと処理してあるとは知っていたが、始め口にする時には抵抗があり、覚悟を決めてそれを食した。それは思いの外、美味であった。

思えば思うほど不思議で堪らない、河豚料理。
あんなものを食べようとした先達の気が知れない。
一体、何人、何百人の犠牲者が出た事か・・・。

だが最近、それについてふと思う事があった。
それは「本当に河豚料理というものはそのような犠牲の末、成立していったのだろうか?」という事である。

例えば、毒の部位を順次取り除き、それを実験的に食してゆくという方法は、ある意味誰でも思いつく事である。
だが実際には、河豚毒の中和法はそれだけに至らなく、もっと驚くべき方法で以って為される事もあるのである。
その代表例に、石川県の郷土料理に「河豚の卵巣の糠漬け」というものがある。
私は昔、NHKでこの産物のレポートをやっているのを見て驚いた事があったが、最近になってこの方法が未だに以って謎が多いらしい事を知ってまた驚いた(※1)。

ときに今現在、人類に伝えられている伝統的な産物の由来については、全て現在の歴史観による解釈が施されている。
それは云わば、自然科学的であり、唯物的な論理説明であるといえる。
しかしながら、全ての産物が系統発生的に順を追って発生したとは限らないと見れる場合もある。

例えば現在、国防において最もポピュラーな兵器のひとつに「ミサイル」がある。
これは第二次世界大戦中、ヒトラーが考案したものであるが、その発生についてはかなりオカルト的な側面が強いと指摘する人がいる(※1)。
またヒトラーについても、彼が秘教の訓練を受けた事のある人間であるという説もあるが、この秘教そのものについても、系統発生的に順次発達していったとは捉えがたい側面がある。

ちなみに、秘教に関してカバラというものがあるが、これは「天使から伝えられた」という者もいる。
つまり、秘教(すなわち原宗教)は人類のオリジナルでないという事になる。

ともあれ、現在ある驚くべき産物に関して、私達は特に発生の原因に関して、それが一体何であるかという唯物的な論理説明をするのには限界がある。
また、仮に説明がつかないものでも、過去から伝えられた遺物の恩恵を、何の抵抗も無く受け継いでゆける事は、驚異である(※2)。

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※1…勿論、ロケットのアイデアそのものはヒトラーのオリジナルではない(参照:ロケット・ミサイル技術の年表)。だがその有効性について一番知っていたのは彼であるという説もある(参照サイト:「ヒトラーの予言(完全バージョン)」-”ロケットかミサイルの出現を見通した予言”を参照。)

※2…前にコナミのPS2メタルギアソリッド2をやったとき、テクノロジーや遺伝子に関する情報の受け手に対する盲点を指摘している箇所があって驚いた事がある。
メタルギアシリーズは、特に最近、陰謀説に基くストーリー展開を成しているが、これはもはやファンタジーを超えた論題になり得ると思った。


エロスの本性

2007年09月02日 | sub-culture

性とは、非常に深く、多角的に捉える事の出来る最大のテーマである。

渋澤龍彦エロスの解剖』 (河出文庫)には、大変に知的好奇心をくすぐられた。
特にその中に、ゾウリムシの交配について(※1)の記述があったが、これは単性生殖の生物のセックスというテーマにおいて、それが遺伝子交配以上の意味合いがあるという生物学的な物的抗弁のようにも思えた。

またジョルジュ・バタイユは、ジル・ド・レ論』(二見書房)において、「戦争」を中毒性の強い遊びであると定義し、ジル・ド・レの凶行はその代謝現象であると見ている。
またここで重要なのは、侯爵が少年の腹の上に陰部を擦り付けていた事なのだが、ホモセクシャルの問題はさておき、交配の際のその行為というものは生殖以外の何かに代謝されうる可能性を示唆している一例であるとも云えよう。

他にも、男性誌のグラビアに見られるような乳房の豊かな女性への需要云々に関しての論評があったが、現代の男性がこれに焦がれる理由は、ただ単純に母体回帰の願望であるとは言い難い。
ちなみに、これについての私見を述べれば、乳房というものが乳幼児にとってのはじめての食物であるとすると、巨乳の女性というのは、人の深層心理においてはその食物の含有量のポテンシャルを多分に含んでいると見る事が出来るかもしれない。

更にグルジェフという賢者が、人に本来備わっているエネルギーの帰結点を「センター」と称したが、その中で最も特筆すべきものとして「性センター」(※2)を挙げている。
この「性センター」は本来、生殖そのものに使われるべきものであるが、他のそれと比べて特にエネルギーの含有率が高く、そのために他のセンターにエネルギーを転換する事が出来、思うにここに「性エネルギーの誤用」の可能性があるとも云える。
尚、誤用については、先のバタイユの例を挙げれば理解に容易いかもしれない。

ともあれ、これらから見るに性というのは様々な形に変容するようである。
またこのような変化がエロスの本性であるとすると、日常我々が接している性に関しての見方も変わってこよう。

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※1…ゾウリムシのリンク先「生殖」の項を参照。

※2…参照サイト:[グルジェフの「超人思想」の謎]…「性センター」の制御──性エネルギーの誤用を改める