~The Night Shadow Allows You~

月の水面に 映りし君の 愛でき姿は 己が命の 容なるかな

防衛省最高軍事機密兵器

2007年10月31日 | diary

アイデアと技術、発明というのは、世間ではどこかの研究機関が総力をあげ、また国がそれを支援する事で目的が達成されるようなイメージを抱きがちだが、大きな間違いである。
それは殆どが全てが勤務時間外における私的な時間での探求よるものだからである。
つまり、このような事柄は余暇を如何に自分の探求のために用いる事が出来るか、またそう云ったもの達の勝利であるように思える。

ときに、防衛庁ではモビルスーツの開発が進んでいるらしい(※1)
デマかも知れないが、これは現在、最新鋭のステルス戦闘機(※2)を開発している省庁が云うのだからマジらしい。笑える。
だが現実的に、モビルスーツに必要とされるような基本的な研究開発は民生機の分野においてもかなり進んでおり、またアイデアに関しても、アニメやゲーム、玩具など、まさに遊びの中で培われて来ている。

ともあれ、それらがこのニュースの信憑性、実現性を十分に補填するものになるとは思えないが、もし本気でやろうというのなら、なかなか大真面目に野心的な試みであると思える。

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※1:Yahooニュース『防衛省、ガンダムを開発中
他、
http://www.mod.go.jp/trdi/infomation/happyou/Program.pdf の最下段の項目を参照。
防衛省、ガンダムを開発中

※2:日本のステルス戦闘機開発
(動画)
sinx21.jpg
機名は『心神

※3その他:
LANDWALKER…日本の榊原機械株式会社が開発した有人2足歩行型ロボット(下)。

イメージをクリックで動画。

岡山のZガンダム…津山市在住の中元正一さんが一人で設計、製作。
モビルスーツ
詳細は上イメージをクリック


ドン松五郎の生活

2007年10月24日 | society

かなり小さい頃に見たアニメで「ドン松五郎の生活」というのがある。
内容はよく覚えていないが、確か人語を解する犬が犬語を人語に変換するツールを用いて、飼い主一家に「天の声」なるお告げを与え、幸運に導くというものだったと思う。

思うに、この「天の声」に関しては、古くはシャーマニズムの影響だろうか、人と云うのはどの時代でも拠るべき言と云うものがあった。
そしてそれは、現在でも連綿と受け継がれており、またこの声も多種多様の様相を見せている。

だがこの「天の声」の正確さについては、基本的には、然るべき権威にてだされたものでない限り、鵜呑みにするのは危険である。
例えば、日本には”審神”(さにわ)なる、降りたる神を精査する伝統があるが、これを現代風に言えば、一種のメディアリテラシーというものであると云えるが、ともあれ、何の言葉に己が行く末を任せるかは至極切実な事柄であろう。
ましてや犬畜生の「天の声」は、漫画やアニメならファンシーで面白いが、現実にはそぐわない。

最後に、日本人と云うのは正当な「天の声」を現実に受ける事の出来る可能性を持った、世界でも大変に恵まれた国民である事を知り、覚醒すべきである。
またこれは単なる妄信でもなく実際、身近なものであったりするのだが、それに気が付くのはある意味、現在でも特別な事では無いと思う。


”超合金”を売り文句に、男の子に”リカちゃん人形”を売りつける

2007年10月15日 | diary

原作レイプ(※1)いう俗語を知ってから思うことがある。

本来、このような言葉と云うのは今のエンターテイメントムーブメントに対しての保守的一反応であると捉えてきた。
それはメディアミックス展開が拡張解釈され、オリジナルを元に、更にそれの別方向の解釈をする事で作品の世界観の広がり、味を受け手に与えようとしたのが切欠だったと思う。

だが最近、そのムーブメントももはや終焉であるように見える。
それは娯楽に対する飽くなき消費者の欲求か、それとも企業側の利益重視の悪循環か、もはや作品の方向性を指し示す事が出来なくなってきているのではという意味である。
また業界自体の同人化も否めない。

その一番顕著な例として、”機動戦士ガンダム”シリーズ(※2)が挙げられる。
最近になって、また新たな作品が作られているようだが、新作はもはや、オリジナルの劣化コピーとしか言いようの無いつくりに仕上がっているとしか言い様がない(※3)。
例えるなら、”超合金”を売り文句に、男の子に”リカちゃん人形”を売りつけるようなものだ

だがこれに対して、それでも支持者が多数いる事を考えると、私自身、もはやロートルなのかもしれない。
しかし、どうしてもこの劣化コピーというのは、将来的に大きな停滞を生み出す要因となる可能性は否定できない(※4)。

ときに、昔は他作品になるべく似ないような努力をしていたそうである(※5)。
それはロボットモノというありふれたテーマなどでよく意識されていたそうだが、この努力というのは、後のシリーズの展開に重要な要素となる。
しかし、それを意識しなくなった途端、まさに劣化コピーが始まり、将来の利益を喪失することを、何故スポンサーは理解できないのか?
良貨が悪貨を駆逐するという命題は、もはやナンセンスなのだろうか?

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※1…これに密接に関係する”MarySue”という概念がある。

※2…ガンダムの世界観を踏襲した作品は『Vガンダム』の後に続く数作品を除いて『∀ガンダム』で終了である。これはオリジナルを手がけた人間がハッキリしているから、否定できない事実である。
またオリジナル原作者自身が『∀ガンダム』において、過去作品を「黒歴史」と原作レイプするのは、甚だ奇妙な現象である。

※3…新作をちょっと見たが、『ガンダム』である必要は無いと思った。製作側としては、名板貸しで利鞘を稼ごうとする意図が見えてならないクリエーターの才能の無駄遣いである

※4…ちなみに、この劣化コピーの動向に関しては、既に10年以上前から始まっていたと考える。
例えば、エヴァンゲリオンのごとき作品と云うのは、ハッキリ言うとシチュエーションパロディである。
またこれを世間ではオマージュというらしいのだが、私にはこの作品を代表に、この頃から映画の劇場版予告のような作品が多く作られてきたように思えてならない。

※5…知る人ぞ知る、セガサターンのゲームソフト『クォヴァディス~惑星強襲オヴァン・レイ』はその点をかなり精査して創られたという。その証拠に、メカデザインや世界設定に関して、気の遠くなるような作業が行われていた事が、攻略本からも伺える。残念なのは、宣伝力が足りなかった事と、これを見出すスポンサーが居なかった事であろう。不遇である。


コンビニのPOP写真に写ってた農家の某氏が中山きんに君に似ていた事について

2007年10月13日 | sub-culture

タイトルは、前に近場のコンビ二でふと気が付いた事であった。その事をレジで店員のお嬢さんに話したところ、何故か彼女のツボを突いたらしく、始終笑っていた。

とまあ、それはさておき、筋肉である。

人間の肉体とは、一種の電磁体であると云っても過言では無いと思う。
その証拠に、人と云うのは時として、気やオーラ力と云った物理的作用に影響する。

だがそれが筋肉によるものであると考えた場合、一気に電磁体としての意味合いを喪失する。
そのときの身体というのは、ただの有機的構造物の態様であり、一力に対して一力の作用しか及ぼしえなくなる。

ちなみに、外国人は後者の方に思考が拠るようである。
だが勿論、彼らの伝統の中にも”己を神殿として神おわします”ものが在るというのに、それに気が付く事は無いのが悲しいところである(※)。

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※…昔、さる奥義者が、外国人が日本の伝統を学ぶ場合、その真剣さと成長には目覚しいものがあると仰っていた。だがある一点、例えば本当にその体型を理解できるかと云うことに関しては、それは絶対に無いとも付け加えていた。
これは別に人種的な偏見でも、また日本人である事の優越性を説いた言葉でなく、その土地にあるものがその土地のものを一番理解できるという、至極当然の事柄を語ったものに過ぎない。
またこれは、西洋のヨガに関して、W.E.バドラーが語った事にも符合する。


螺旋

2007年10月05日 | diary

大学時代にある女性が階段で待っている夢を見た。
それは象徴的には螺旋階段に似た、遺伝的意味を持つ夢であったと思うのだが、今思い返しても、女神というのは自分の深層面で微笑んでいるようである。

だがこの螺旋形状というのが現実社会のある面、それは混沌若しくは悪といわれる側面であるが、これに陥ったとき、大変な渦となって多くを混沌へと巻き込む事がある。
それは”怨念”である。

私が常連としている、ある方の掲示板において、以前の”義憤”について書き込んだとき、また別のある方が興味深い書き込みをしてきた。
それは学生運動の時代、その様を台湾のある修験者が眺めたとき、その背後に旧日本軍の英霊が憑依していたとか。
その理由としては、英霊たちが明日の日本を信じ命を賭して守ってきたというのに、一向に日本は英姿を現すことも無い、という事からだそうである。

思うに、私たちの先祖たちというのは、世界において畢竟、多いな功績を残してきたというのに、それをなかなか評価される事が少ない。
寧ろ、食われ続けるばかりであり、現在の私たちも、私たちの自己同一性を見出すのにも至難の業である。

また私の世代というのも、ある意味において、こんなに尻拭いを押し付けられるようになるとは思わなかった部分も多い。
何故ならば先に、”カニ料理”の記事でも書いたが、はっきり云って、共食いのスパイラルなのである。
またそれは、社会の厳しさなのであろうが、少なくとも私たち親の世代はこのような状況を予想もしなかったであろう。


ときにさっき、NHKニュースの特集で、日本のアニメ制作会社が人手不足から、外国からクリエーターを呼び寄せるという話があった。

はっきり云って、これは”禁じ手”である。
何故なら、外国人の伝統に己以外は入らないからである。
それは現実の”砂漠”が証明である。

ただ、ジブリ鈴木敏夫プロデューサーだけが、日本の若者に期待しているというコメントを残しているが、近頃のNHKの編集の手合いか、”自分が創りたい”という人よりも”自分が見たいものを創ってもらいたい”という人の方が、今の若い人には多いという趣旨が頭に残った。

だがこれも、はっきり云って大きな誤解である。
何故ならば、そこには自分たちが如何に、志士達と距離感があるか気がついていないように思えるからである。
具体的にはそれは、「何処に行けば腕を磨くことが出来つつも仕事が出来るか?」を明確に示していないから問題なのである。
そしてこれは、別にアニメの業界だけの問題でなく、全ての創作職において”人材の育成”、”発展”を事欠いて来た結果といえる。


ともあれ、私たちの世代は大変な”怨念”を担う事になるかもしれない。
国土は精神から蝕まれ、食われる者の悲しみは螺旋のように連なってゆくだろう。
誰もそれを止めようとはしない限り・・・。


2007年10月04日 | music

理想のギタリストを考えた場合、その基準はまちまちである(※)。
まあ敢えてそれを示すなら、””を持った演奏が出来るという事だろうか。
だが客観的に云って、それをクリアー出来るギタリストというのはそう多くは無いと思う。
それは音楽というのが、本当にセンスの世界である事もそうだが実際、天才と思しき人間と合間見えてみるとそれを本当に実感する。

では誰が””のあるギタリストか?
それを挙げたら枚挙に尽きないが、一人挙げるならエリック・ジョンソンではないかと思う。
それはこのようなタイプのギタリストが、日本において単品でメジャーなのが珍しいというのもあるのだが、彼の演奏には渋めの中にいやらしさが無く、そしてオリジナリティーに溢れているとしか云い様が無い。

Eric Johnson - Cliffs of Dover (Live At The Bottomline)
Eric Johnson - Trademark

このYoutubeの動画で演奏されてる曲は、アルバム”Ah Via Musicom”(邦題:『未来への扉』)からのナンバーだが、これからその雰囲気を感じてもらえれば幸いに思える。
また彼はボーカルをとる事もあり、大変な美声である。

Eric Johnson Desert Rose(Vo.Eric Johnson)

ともあれ、このようなギタリストは稀有な存在である。
またこの””が日本においては全く求められていない事は非常に残念である。

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※ときに、私がギタリスト同士で語り合って愕然とするときは、自分のプレイに過信している者、つまり勘違い野郎と対峙したときである。
例えば、ビブラートやベンドに関して、特に前者については勘違いしている人も多い。
ビブラートについては、私も3つ程方法を知っていて、それを用いる事があるが、基本的にビブラートというのは、小刻みに刻むようなものは連発しないほうが良い。
何故なら、ビブラードにもリズムがあるからだ。

ちなみに、これは音楽学校に通っていたときに知ったのだが、しょんべんビブラートといって、正直ピッチが疑わしくなる方法である。
勿論、音楽の質や局面においてはこれは効果があるのだが、これまでの経験を通して思うのは、これを連発する人というのは、正直、音楽に必要な情緒というのが欠落しているという事だ。

また他にどういう訳か、相手のプレイを一切認めない偏執狂も困る。
勿論これは、相手に一般的な人が認めうる一定の水準の演奏力の高さがある場合にだが、相手の社会的、人格的印象をプレイ云々に転嫁して批判するというのは、はっきり云って外道のやることである。


覚悟を決めなければ読めない漫画

2007年10月02日 | diary

小学校3、4年の頃「はだしのゲン」を読んだ。
その描写は原作者、中沢啓治の体験に裏付けされたまさに壮絶なものであった。
そのせいで3日間、まともに飯が食えなくなった事を覚えている。
かわいそうで気の毒で、そして今でも自分の身に降りかかってくる可能性のある空恐ろしさに現実感を喪失した日々が続いた。

この漫画はまさに一般民衆の視点であり、これを悲劇と云うのは容易い。
だが悲劇というのは相手が人だからでこそ成り立つと考えると、相手が戦争や原爆、そしてアメリカのようなはっきりしないものである限り、それは怨念そのものであると思う。

ともあれ、この「はだしのゲン」は私として一種、覚悟を決めなければ読めない漫画として心に刻まれた名著であると思う。