廃墟賛歌ブログ

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『謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜~』を視聴

2012-01-19 02:22:40 | 軍艦島
去る1/15にBS-TBSで放送された、
長崎放送制作番組『謎の男~小山薫堂ひらめきの系譜~』
の視聴リポートです。

まずは、番組の概要を、画像付きでお伝えします。
※天草へは行った事がないので、画像もありません。

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番組は、
まずシナリオライター小山薫堂氏のルーツを探す旅から始まる。
果たして自分は何者なのか?
そして幾度となく夢に見る現実と同じ長崎の風景は何を意味するのか?

薫堂氏は最初に、天草にある小山家の祖先の墓地をお参りする。
番組のタイトル『謎の男』とは、薫堂氏の高祖父であり、
幕末期、様々な偉業を成し遂げながらも、
その名が表舞台に出る事は殆どない小山秀。

小山家はもともと天草の豪商だった。
天草はそれほど産業とかが栄えた豊かな土地ではなかったが、
舟大工が沢山いて造船が盛んな町、
と同時に天草の石をつかった石工が多い町だった。

そして薫堂氏のご実家には、小山秀の墓石がある。
荒れ果てていたのを見かねたお父様が、
このままでは消えてなくなると思い、持ち帰ったそうだ。
この墓石は、何を物語っているのか?
高祖父の小山秀に想いを巡らせながら手を合わせる薫堂氏。

<CM>

長崎市にやって来た薫堂氏。
まずは出島などで小山秀の長崎での足跡を辿る。
場面変わって、九州大学の藤原先生、そして建築家の中村氏、
ともに小山秀の業績を高く評されてるお二人が、
小山秀について熱く語る。



薫堂氏はこのお2人の案内で、大浦天主堂を見学。

大浦天主堂
大浦天主堂

大浦天主堂は、
1865年にプチジャン神父の指導のもと、
小山秀が棟梁となって完成した、
現存する国内最古の教会堂。

幕末の日本にはなかった教会堂のリブ・ボールドの天井を、
竹の編み上げで造りあげた天井裏を映像で見せる。
これは今まで見た事がなかったので感動!
また初代天主堂のファザードには曲線が使われているが、
舟大工の技術があった小山秀だからこそ出来た、と絶賛。

<信徒発見>でその名を知られるプチジャン神父の書簡には、
天主堂の建築で、修正を入れるたびに追加請求をする、
小山秀への愚痴が綴られているが、その最期に、
金の亡者である小山秀に依頼した自分が悪い、と締めくくっている。
小山秀という人物が、
当時どのように思われていたかが分かる貴重な文献。



次に薫堂氏と2人はグラバー園を訪れる。
グラバー邸は、
1863年にグラバーが設計、小山秀が施工して出来た、
現存する国内最古の木造西洋住宅。
グラバー邸では藤原先生が
舟大工技術によってなし得たアーチ状の曲木や、
中央のキーストーン風の意匠など、
見様見真似の西洋建築の面白さを解説。

グラバー邸
グラバー邸

台所のシーンでは、何の説明もなくいきなり薫堂氏が
「コンニャク煉瓦ですね」というあたり、長崎放送ならでは。

グラバー邸/台所
グラバー邸/台所の蒟蒻煉瓦

グラバー園では、小山秀の建築であるリンガー邸などを見学し、
今に残る小山秀の痕跡を見ながら、小山秀の人物像に想いを馳せる。



薫堂氏は長崎市役所に寄贈された
小山秀の遺品(設計用具/非公開)を見ると同時に、
市役所には小山秀の写真がコピー1枚しかないことを知る。
これだけの偉業を成し遂げた人物なのに、
なぜ歴史にその姿を留めていないのか。

<CM>

舞台は高島へ移り、
日本の近代化に大きく貢献した石炭産業をとりあげる。
グラバーと懇意になった小山秀は、
当時グラバーが手がけた炭鉱(高島炭鉱)へも出資。

薫堂氏と中村氏は高島へ渡り、まず石炭資料館を見学。
中村氏は、壁の年表を見ながら、
本来名前があってしかるべきはずの小山秀の記述が一切ないことを指摘。

その後、グラバー別邸へ移動し、
別邸が建っていた頃の時代に想いを馳せる。

グラバー別邸跡
グラバー別邸跡



しかし明治3年、
グラバー商会の倒産で小山秀も負債を背負う事に。
この高島炭鉱の負債を解消するため、
隣の端島炭鉱の開発に着手する。
と、あっさり初期端島炭鉱の開発の話へ。

薫堂氏は中村氏と共に、見学路から端島を見学。
島内での話は、天川までは触れなかったものの、
天草石で造られた擁壁に集中した。
中村氏は、コンクリートで覆われた堤防の中には、
今も天草石の堤防が眠っている、と解説。

軍艦島の堤防
軍艦島の堤防

薫堂氏は、自分の高祖父である小山秀が、
軍艦島の開発に種を蒔く仕事をしていたことに感動。
メディアを通して、様々な種蒔きをしている自分に重ねているようだった。

明治8年、小山家の全財産10万両を投じて端島を開発。
しかし台風の猛威で、僅か一年で失敗。
無一文になった小山秀は天草へ戻る。

<CM>

薫堂氏は再び天草へ戻り、小山家の菩提樹、浄専寺の住職に、
破産した小山家のその後を聞くと、
破産を一族全員で受け入れ、
小山家はいつ知れず没落していった、とのこと。



その後、三角西港の築堤を手がけ、いずれは鉄道を引く夢も抱いていた。
この時の記念写真にも小山秀は写っていない。

そんな小山秀が最期に手がけたのは、
子供という種を育む場所、大浦第三高等小学校の校舎だった。

小山秀は、歴史は一人が創るものではなく、
一人一人が創るものだと思っていたんではないだろうか、
そして自分もそう思っている、
と薫堂氏は語り番組はおわる。

最期にエンドロールで、
時代に逆らいながら生きた男は、時代に消えた英雄だった。

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というのが番組のおおよその内容でした。

番組の中では、この他に、小山秀には直接関係ない、
薫堂氏の個人的な活動の様子を2、3収録していましたが、
それらは割愛しました。

まず、タイトルが『謎の男』というのがいいですね。
しかも副題無し。

オープロジェクト制作のDVD
『とっておきの軍艦島ガイド』のラストで少し触れた、
小山秀の問題、つまり
大浦天主堂やグラバー邸を造った小山秀が、
端島炭鉱初期の開発を手がけた小山秀と同一人物か?
という疑問は、この番組を見る限りあっさり解決しています。

同じ名前なのに何故そう思ったかというと、
今迄見た(数少ない)資料に、
グラバー邸・大浦天主堂・高島炭鉱を手がけた小山秀は、
端島炭鉱の開発も手がけた本人、
という記述を見た事がなかったからです。

またグラバー園を訪れた時に、
学芸員の方がおっしゃっていた、
小山秀という名前は、天草では多く存在した名前、
という話も相まって、
同姓同名の別人物かもしれないと疑問を抱きました。
※たぶんオープロジェクト黒沢だけだと思いますが…

しかし、
長崎の歴史に登場する小山秀が一人だとすれば、
九州大学の藤原先生、そして建築家の中村氏がいう様に、
もっと取り上げられて欲しい人物だと思います。

余談ですが、
番組中の端島開発の解説では、
明治元年に既に開発に1回着手していたことや、
明治8年の端島炭鉱への関わりは2回目で、
請負の形で引き継いだ事業だったこと等には一切触れていません。
また番組に使われた明治時代の地図は、
三菱史料館所蔵の明治中期の地図ということで、
島の北東に既に第一竪坑らしきものが書き込まれた図でしたが、
第一竪坑の開削は明治20年なので、
小山秀が端島に関わった時は、
まだ第一竪坑はありませんでした。

また、高島石炭史料館の年表に小山秀の名が無い、
ということでしたが、
確かに年表にはありませんが、
別の場所に単独枠で解説されています。

高島石炭資料館/小山秀の解説
高島石炭資料館/小山秀の解説

ご覧になってお分かりの様に、
ここにも端島炭鉱との関わりには触れていません。


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