モルモン歴史ジャーナル 2010年秋季号
昨年米国モルモン歴史学会の季刊誌「モルモン歴史ジャーナル」秋季号に「’80年代初期日本のLDS教会における拙速バプテスマ」と題して、小生が長年取り組んできた問題が活字になって発表された。日本ではモルモンフォーラムという小さな刊行物に1992年にまとめて記事にしていたが、英文では口頭で発表していただけでまだ活字で刊行物に発表していなかった。それで英語国民の間に提示できたという点で今回の意義は大きいものと考えている。
この件は最も期待していたサンストーン誌に断られ、最も淡白で期待していなかったモルモン歴史ジャーナルに取り上げられることになった。これはひとえに編集長の地位にラヴィナ.F.アンダーソンがいたからであった。正義感の強い彼女は、私の原稿が編集員の間で半々の評価に分かれ、不採用になってもおかしくない所を是非取り上げたいと支持してくれた。そして日の目を見ることになったのである。
ラヴィナ・F・アンダーソン
以下おおよその内容を概観し、モルモンフォーラム誌になかった新しい内容を紹介したい。
1 「モルモン歴史ジャーナル」記事の概要。
1) はじめに。lds教会は伝道を強調するあまり拙速バプテスマに陥ることがある。過去に英国、最近では中南米諸国に顕著な例があった。ここでは日本における異常なケースを取り上げる。
2) 概観。1978年9月から1982年春にかけて日本におけるバプテスマ数が急増した。日本韓国計通常月200-300の数字が1,500に達した。東京南伝道部が先頭にたち岡山、神戸伝道部などが続いた。1978年末3.5万人の会員数(日本)が1982年半ばに倍の7万人に達している。教会幹部七十人の菊地長老が当時東京で地域管理役員であった。背景にはキンボール大管長が熱心に伝道を強調していたということがあげられる。
3) デルバート・H・グローバーグの方法。世界平均で宣教師一人当たり改宗者6人に対し日本では2人と低い状態を改善したいと考えていたグローバーグは、赴任前からソルトレークシティで菊地良彦長老に会い、同様に改宗者の大幅な増加を考えていた彼と意気投合した。グローバーグは革新、変化をもって障碍を除去しようと計画を立てた。初めの3ヶ月を自らの考えの周知に、次の3ヶ月を実施に備え伝道部の組織面の準備、そして7ヶ月目から実施に移すというものであった。具体的には(1)伝道の対象を成熟した成人から十代あるいは若い成人に移す、(2)求道者である期間を短縮することであった。
4)1979-82年におけるバプテスマの増加。これは当時地域幹部が発行していた「エリアニュース」に仔細に記載されている。30号以降グラフを掲げ競争を促した。その結果79年内に東京南、岡山、神戸伝道部が1ヶ月200-300に及び先頭に立った。翌80年6月東京南が585に達している。そしてバプテスマ増加の目的で伝道所が日本の各所に設けられ加速されていった。81年東京南(ユニット数28)は月千の目標を立て達成している。吉祥寺のワードで伝道主任であったSKは、この拙速伝道のさなか中枢部で状況を目撃し、更に伝道所リーダーに召され、分からないままバプテスマを受け翌週から来なくなる若者が急増したこと、極端な場合会ったその日にバプテスマを施している、と報告している。沼野も西宮で伝道所が礼拝堂敷地内に設けられたこと、山口県徳山では学生が一時登録上32名を数えるに至ったことを報告。
5)拙速バプテスマがもたらした問題。① 形式・内面ともバプテスマの標準が著しく低下。6回のレッスンを端折る、求道期間短縮、「悔い改め、信仰、決意」の過程無視。② 関係者がいずれも傷ついた。受けた者、施した者、受け入れることになった地元会員、家族など非会員。施した者も帰還後精神的に不安定に。定着率が非常に低く、ホームティーチングなど会員に過重な負担となった。③ 拙速バプテスマを施された若者当人、両親、知人が批判的ないし嫌悪感を持ち、結局教会が世間の不評を買うことになった。
6)拙速伝道に対する反応。同時期の伝道部長のうち3人が拙速伝道の方針を取らず、従来の堅実な方針を堅持した。会員にも異なった反応があったが、疑問に感じた会員や指導者の中に明確に抗議した人たちがいた。北海道のステーキ部長は菊地長老と直談判し、前述のSKは教会幹部(七十人)支持の席で反対の挙手をし、ヒンクレー長老に書簡で訴え面談する機会を得ていた。
7)拙速伝道の評価。①日本は当時中曽根首相を始めナショナリズムが提唱された時期で、キリスト教伝道には逆風が吹いていた。拙速伝道はそれに抗して行われた。②宗教の布教や信仰上の事柄は長期にわたる周到な計画に基づいて実施されるべきである。3年は短かすぎる。殊に日本は非キリスト教国であり、多宗混在の国である。また、地元会員の同意と参加が不可欠であるが、いずれも無視された。③性急な変更を強行。例、伝道の対象を成人から十代に移した際、他国との比較や独自の解釈から18歳で成人と見て親の許可なしにバプテスマを行った。④「従来とは違ったやり方で」という方針は冒険・危険をはらむ。目的のためには手段を問わない傾向、正当とされない方向へ遊離していった。⑤教会運営の民主的な側面が押しやられた。例、静岡地方部長が抗議して会員権を剥奪された。⑥グローバーグのプログラムは途中で進化し、どんどんエスカレートしていった。
8)その後の展開。地域幹部に七十人のブラッドフォードが着任し、6つのレッスン全部を少なくとも3週間かけて教える、聖餐会に3回は出席する、など6項目を守るよう通達し、伝道の重点が再活発化に移された。また追って大管長会から行き過ぎがあったことを認める文言を含む文書が届いた。拙速バプテスマの後日本人は宣教師の戸別訪問を歓迎しなくなった。教会では活発率が大幅に低下し、ホームティーチング、家庭訪問とも低迷し、行方がわからない会員の消息を辿る途方もない負担が会員の肩にのしかかった。
9)結語。拙速の方式でバプテスマを迫られた若者はより霊的な生活に移っていくというより、一種私利をはかる利用(搾取)の対象になってしまった。拙速伝道は日本人を尊重した態度で行われたとは言えない。拙速伝道の実施は宣教師と何も知らない若者に対する濫用(abuse虐待とも訳せる)であり、一般市民にとって不快で無礼な宗教活動であった。「過去を単に記憶するのではなく、未来に対して責任を負うことによって初めて我々は賢明な存在となる」(バーナード・ショー)。
(続く)
参考
Jiro Numano, “Hasty Baptisms in Japan: The Early 1980s in the LDS Church,” Journal of Mormon History, Vol. 36, No. 4 (Fall 2010) pp. 18-40
沼野治郎「バプテスマ狂騒期」モルモンフォーラム8号(1992年春季)pp. 12-22
| Trackback ( 0 )
|
「北海道のステーキ部長は菊地長老と直談判し、前述のSKは教会幹部(七十人)支持の席で反対の挙手をし、ヒンクレー長老に書簡で訴え面談する機会を得ていた」というのはなんかいいですね。ここのSKというのは?
今、思い出しました、一つは伝道部のニュースレターに名前を示してバプテスマ数を発表し競争させたことも効果を上げたようです。飴とムチを最大限活用していました。ノルマに達しない人には面接をする徹底ぶりでした。
SKというのは桑畑俊一という男性会員です。勇気ある人でした。(今はもうあまり拘泥しない、周縁部にいる感じの会員です。)
ご指摘された方もおられるようですが、拙速バプテスマ以降、改善された伝道方法でも、決して教会員の定着が高くなったわけではありません。私の感覚では、バプテスマを受けた方の内、半数以上、教会と疎遠になられているようです。
教会の構造的な問題が、あるように思います。
教会の福音によって人生が好転した方の経験は多く語られますが、教会によって人生を失敗した人に光が当てられることが稀です。
成功は教会の手柄で、失敗は個人や家族の責任
といった風潮があるのではないでしょうか?
失せたる羊を連れ戻す責任が、あります。と表面上は言われますが、実際は00匹の羊の内の1匹を探すのではなく、100匹の羊の中から80匹の失せたる羊を探すのです。
それも、生業としている人が、探すのではなく、生業の片手間で行うのです。
責任に疲れた指導者は、従順であればまず、咎められないので、上から言われたという理由だけで行動するようになります。なぜその数字が必要なのか知ろうとしなくなっています。
ワード書記から
「ステークからの指示ですが、数字を教えてください」
などと言われると、本当に気の毒になります。
私などは、あまのじゃくですから、わざわざ捏造数字をあげることにしています。
教会の本質、福音の本質を理解している指導者は、地域70人より上位の方くらいでは、ないのでしょうか
たびたび、指導者を集めて説教による指導をされているようですが、成果は上がっていないように感じます。
特に日本の教会は、生活コミュニティと離れたところにあります。いくら教会で立派な話を聞いてもその方の実際の生活に触れる機会が極めてまれなので、行いから影響を受ける機会が制限されます。
だらだら記述しましたが、わかりにくくなってすみません
また自分の考えと方向性が、はっきり定まったときに触れさせてもらいます
本質を直視し、実践によって身につけ、そして余裕を得たいものですね。どの道(宗教、宗派)においても道今だし、というのが人間の常でしょうか。一人でも例外(よい意味の天の邪鬼?)を作り出していきたいと思います。