のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『カポディモンテ美術館展』3

2010-11-30 | 展覧会
もっと頑張らなくてはなあと思う一方で頑張るのは嫌だなあとつくづく思うのでございます。
頑張ってみたところでたいした結果にはならないということはつくづく分かっております故。
といったひねた言い訳ならば幾らでも思いつく自分という者がつくづく嫌になる今日この頃。


それはさておき
11/24の続きでございます。

アンテアさんにお別れして食器やランプといった工芸品のセクションを抜けると、いよいよバロックの世界に突入いたします。
そりゃもう聖母子からキューピッドまでバロック三昧なのでございます。


バルトロメオ・スケドーニ 『キューピッド』

いや、しかしこの愛らしさといったら。
幼児らしいぷくぷく体型のキューピッド、暗い背景の前に、白く輝くようなすべすべの肌をさらし、猫っ毛の髪をふわりと空になびかせて、思案顔のませた表情で小首をかしげております。そのポーズのせいで顔には柔らかく影がさして、-----ご夫婦で鑑賞していらっした年配の男性の言葉をお借りするならば-----「また何か悪いことたくらんどるんちゃうか」と言いたくなる風情をかもし出しております。かなり粗いタッチで描かれた羽根の表現も見事でございますね。

さて、青年のヌードを描いたらピカイチなグイド・レーニのアタランテとヒッポメネスの前でベンチに腰掛けて、しばし休息。壁一面を覆う大きな作品を眺めつつ、金のリンゴ欲しさに勝負を投げ打つなんてアタランテも浅はかな女だ、ヒッポメネスを殺してリンゴを奪えば一石二鳥だったろうによ、などと考えたのち、階段をたんたん降りて3階の展示室へ。

3階展示室入ってすぐの壁面には、ハプスブルク展でお目にかかってすっかりファンになりましたバッティステッロの作品が2点展示されておりました。
その内の一点、『カルヴァリオへの道行き』は、ゴルゴタの丘へと向かうイエスとマリア(お母ちゃんの方)と弟子のヨハネ(多分)の3人だけが描かれた作品でございます。重たい十字架をしっかり支えるイエスの細い手、訴えかけるように広げられたマリアの手、そして憤りと悲嘆を耐え忍ぶように固く握りしめられたヨハネの手と、三者三様の手の表情が、顔の表情以上におのおのの心情を雄弁に語っており、道具立ては地味ながらも素晴らしい作品でございました。

しかしその横の『ヴィーナスとアドニス』は、.....ううむ。
作品の芸術性にケチをつけるつもりはございませんけれども、ヴィーナスがちっとも美の女神に見えないのはどうしたことか。ゲッセマネの天使はあんなにもうるわしかったのに。キューピッド聖セバスティアヌスの描写に見られる妙な色気から察するに、この人も同性愛者だったのかもしれません。

そしてこの展示室の中央には、本展のもうひとつの目玉と言ってよろしうございましょう、美術史上に初めてその名を残したとされる女性画家、アルテミジア・ジェンティレスキによる『ユディトとホロフェルネス』が鎮座ましましております。



ユディトは旧約聖書に登場する美しい未亡人でございます。てっとり早く申せば、異教徒の軍に包囲された街を救うために侍女一人だけを従えて単身敵陣へと乗り込み、大将であったホロフェルネスを籠絡したすえ、泥酔した彼の首を切り落として持ち帰るという荒技をやってのけたかたでございます。
重大なミッションを胸に秘めた美女が男を美酒と美貌でべろべろに酔わせておいて寝首をかくというお話は何とも妖しく血なまぐさく、かつドラマチックでございます。旧約聖書の時代にハリウッドがあったならアンジェリーナ・ジョリーあたりを主役に据えてさっそく映画化されていたことでございましょう。

まあそれは冗談としても実際、ユディトのエピソードは画題としてたいそう人気があり、クラナッハからクリムトまで、時代を通じて多くの画家が特色あるユディト像を残しております。中でもおそらくクリムトと並んで最も有名なのがカラヴァッジオのユディト。

Caravaggio: Judith Beheading Holofernes
(本展の展示品ではありません)

血しぶきびゅーん。
アルテミジアのユディトに先立つこと十数年、伝統的には斬首シーンではなく、事が済んだ後、即ち生首を誇らしげに掲げるユディトや、彼女が侍女とともに街へと凱旋する姿が描かれていたこの主題において、今まさに斬っておりますという場面を生々しく描いたこの作品が人々に与えた衝撃はいかばかりであったことか。アルテミジアも大いに刺激をうけた画家の一人であったに違いございません。

しかしアルテミジアのユディトに比べると、カラヴァッジオのユディトはずいぶんとへっぴり腰でございますね。顔にはいかにも嫌々やってるという表情が浮かんでおりますし、侍女のアブラも(ここは伝統にのっとって)首袋をたずさえて控えているだけの老女として描かれております。
それに対してどうです、アルテミジアのユディトのたくましいこと。侍女もここではユディトと同年齢かそれ以下というぐらい若々しく、もがくホロフェルネスを上から押さえつけて、頼りになる協力者として描かれております。
ホロフェルネスは滝のように血を流して今しも息絶えんとしております。その断末魔の表情に対して、ユディトと侍女のまったく落ちついた、冷徹な、ほとんど事務的なまでの眼差しは、その冷たさゆえにかえってリアルで恐ろしいようでございます。
また剣を握りしめたユディトの力のこもった様子はどうです。左腕はホロフェルネスの頭にしっかり突っ張って、右腕に渾身の力を込めた上で、さらに体重を後ろへ傾けて刃を首に食い込ませております。一刀のもとに切り落とせないとあれば、握った剣をギーコギーコと挽くことでございましょう。

聖書によると、ユディトが神に祈りを捧げてから斬りつけると、ただの二振りで首が落ちたということでございます。が、アルテミジアのユディトはこの力仕事にあたって、神様のお力なんぞにすがっているようにはとても見えません。彼女を助けるのは、天にまします父なる神様ではなく、側にいて力を貸してくれる侍女なのでございます。
この作品が描かれた17世紀初頭はケプラーやガリレイが活躍し、科学が少しずつ神学を脅かしはじめた時代でございます。アルテミシアが無神論者だったなどと申すつもりは毛頭ございませんが、この作品に見られる現実的な表現も、ひそやかに神離れが進行していた時代であるからこそ生まれ得たものではないかと想像する次第でございます。

ちなみにアルテミジアは齢18のとき、師匠であった画家のタッシから結婚の口約束をされて性的関係を持つのでございますが、タッシが実は既婚者であることが判明し、それが父オラツィオ(やっぱり画家)の知る所となって裁判沙汰にまでもつれこみ、被害者なのに拷問までされるという心身共にしんどい経験をしております。このあたりの経緯は映画『アルテミシア』に詳しく描かれていることと存じます。ワタクシは未見でございますが。
『ユディトとホロフェルネス』が描かれたのはこの事件直後のこと。彼女のこうした辛い経験が本作を描く動機およびその表現に影響したのであろうとは、つとに語られる所でございます。

またアルテミジアはユディトを主題とした作品をいくつも残しており、本作と全く同じ構図のものがウフツィ美術館に所蔵されております。

Judith Slaying Holofernes, Uffizi

小学館の『世界美術大全集』によるとこの作品、アルテミジアの名が記されているにも関わらず、ウフィツィに来たときはカラヴァッジオの作品ということにされており、その前のピッティ美術館にあった時は作者名なしの扱いになっていたのだとか。女性であるというだけで生前も死後も不当な扱いを受けるとは、まったく酷い話ではございませんか。


まあそんな具合で
カポディモンテという固有名詞を聞いてもいまいちピンと来なかったのろではございましたが、蓋を開けてみればなかなかどうして充実した展覧会でございました。

京都文化博物館はリニューアル工事のため、本展のあとは来年7月まで閉館するとのことでございます。年末には大阪のサントリーミュージアムが閉まってしまうというのに、こんなタイミングで工事せんでもいいじゃないかと落胆している美術ファンはワタクシだけではございますまい。そんな人々も、ああこれは良いものにしてくれた、半年我慢したかいがあったなあ、とつくづく思えるような、ステキな新生文博を期待しておりますですよ。




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