のろや

善男善女の皆様方、美術館へ行こうではありませんか。

『ソフィアの夜明け』

2010-12-31 | 映画
正午過ぎても室温5度。

それはさておき

「おれの明日は、まだかよ」というコピーに心惹かれて、ブルガリア映画『ソフィアの夜明け』を観てまいりました。本年はこれにて観納め。

映画『ソフィアの夜明け』公式サイト

うーむ、秀作でございました。
ブルガリア版『ベルリン 天使の詩』という雰囲気がなくもない、あれほど詩的ではないにしても。

舞台はブルガリアの首都ソフィア。
物語の軸となるのは年齢も立場も違う3人の男女。
それぞれに閉塞感を抱え、それぞれの場所でもがいております。
美術学校を卒業したものの、作品を発表する場所も金もなく、麻薬中毒からのリハビリに通院しながら単調な木工の仕事で生計を立る主人公イツォ。
威圧的な父親や「くだらないテレビばかり見ている」継母にうんざりし、ネオナチに引き寄せられて行くイツォの弟ゲオルギ。
そして裕福なトルコ人家庭のお嬢さんであるウシュルは、旅行で世界のあちこちを訪れながらもそこにある問題には目を向けようとしない、両親の偏狭な態度に疑問を抱いています。

離ればなれで、それぞれの場において孤独であった3人はある事件をきっかけに近づき、お互いの生活にかすかな、しかし確かな、希望の糸口をもたらすのでございました。
各々の抱えた問題に決定的な解決や救済が与えられるわけではなく、ほんのかすかな「夜明け」のきざしが描かれるのみである所に、かえって作品の誠実さを感じます。



社会の閉塞感。ゼノフォビア(外国人嫌悪)。均質化する街の風景。現代社会の富や便利さを享受する一方、そこから生まれた痛みや歪みからは目を背けるブルジョワ的な利己主義。
ブルガリアは遠い国でございますが、本作に描かれている問題は決して私たちに馴染みのないものではございません。

鬱屈した若者がスキンヘッドや入墨といったファッションからネオナチに近づき、取り込まれ、「これをやってこそ男だ」という暗黙のプレッシャーに突き動かされて、次第にサッカー場での喧嘩や外国人襲撃といった暴力行為へと巻き込まれて行くさまには、じっとりと重たいリアリティがございました。

また理想の自己像と現実とのギャップに苦しむイツォや、反抗心やエネルギーをどこに向けたらいいか分からないゲオルギは、自他を傷つける諸刃の剣を握りしめているようであり、その不器用さが痛々しく胸に迫ります。
イツォを演じたフリスト・フリストフは監督の友人で、そもそもこの物語のモデルとなった人物でございますから、つまり自分自身を演じているということになりますね。映画はイツォが希望を手に生きて行くであろうことを暗示して幕を閉じます。しかし現実のフリストフ氏は撮影直後、映画が完成する前にお亡くなりになりました。スクリーンの中の繊細な表情を見ながらふと、ああこの人はもういないのか、と思うと、やるせなくもあり勿体なくもあり、こうしてたった一度だけフィルムに刻み付けられたその姿が世界中で映し出されていることが何やら不思議でもあり、何とも奇妙な気持ちに襲われたのでございました。



さて
のろの明日は、まだかよ。まだだってよ。
下手すると寝てる間に凍え死にしそうなこの寒さ。
無事に明日が迎えられるかいささか心配な所でございます。


ランプルさんのこと 2

2010-12-29 | 映画
またか!

とお思いになりましたか。
すみません。またです。

さて依然ランプル熱冷めやらぬのろ、勢い余ってこんなものまで購入してしまいました。



左は『シュレック』のコミック版で、別々の作家の手による『シュレック フォーエバー』の前日譚が3篇収められております。ひとつめの”Rumpelstilskin's revenge"はランプルがシュレックを陥れようとして変装した姿であれこれ試みるものの、ことごとく失敗するお話。その次の”The lost flute"は、ネズミの王さまに笛を奪われてしまった笛吹き男が、ドンキーに連れられて楽器店にやって来るお話。最後は映画にも登場する料理上手のオーガ、クッキーさんが、ジンジー(ジンジャーブレッドマン。日本ではクッキーマンと訳されています)に助けてもらったお礼に巨大ジンジーを焼いてあげるお話。

ま、どれもどうってことのないお話でございました。残念だったのは、絵柄がちと魅力に乏しいということ。そりゃ、ドリームワークスのキャラクターはそもそも可愛くないのが売りみたいな所がございますけれども、とりわけそのアクの強いところを強調して描かなくてもいいじゃないかと、まがりなりにもジャパニーズ「カワイイ文化」の中で育って来たワタクシは思ったのでございました。ドンキーなんかけっこう気持ち悪い域に達しておりますよ。また、子供向けコミックなので絵描きさんもそうそう気合いを入れてはいないんでございましょうけれど、全体的にいささか「やっつけ仕事」感が漂います。表紙は丁寧なんですけどね。

右のCDは『シュレック フォーエバー』の挿入曲を集めたもの。そもそもはウォルマートで限定発売されたものらしいのですが、ワタクシはタワレコで買いました。で、これ、何が特別なのかと申しますと、曲の間にランプルさんがDJをしてくれるのでございますよ。こんな具合に。

It's The Rumpelstilskin Show! | Shrek Forever After (Music From The Motion Picture)


これに続いて"Isn't it strange"(ドラゴンがシュレックたちを乗せて飛んでいるシーンで流れる曲)がかかるわけでございます。
いいでしょう。いいのです。これをのろが買わないでどうしますか。
スタジオ入りしているのはランプルさんだけでなく、アシスタント(パシリ)としてしもべの魔女Babaさんが同席してらっしゃいます。さらに電話参加のリスナーとしてピノキオやオオカミやジンジーが、そしてスペシャルゲストには『シュレック3』のラストで「これからは花を育てるんだ」と言って悪役を引退したフック船長まで登場して、近況を語ってくれます。CDの最後を、放送終了後、ペットのフィッフィと一緒に帰路につくランプルさんの声で締めてくれているのも嬉しいですね。と申しますのも、映画の方ではフィッフィにはいとも悲劇的な結末が用意されており、ワタクシを含め全世界のランプルファン(何人いるんだ)を大いに悲しませたからでございます。

さてランプルさんのその後ですが、ワルモノとしてそれなりに楽しく生活なさっているようでございます。

Shrek's Yule Log (EDITED)


笛吹き男は相変わらず無口にノリノリです。
映画のラストではやたら丈夫な鳥かごに監禁されておりましたランプルさん、クリスマス恩赦で出してもらえたんでしょうか。何にしても、喰われてなくてよかったよかった。

とはいえ、ちょっと前まではやはり鳥かごに入れられていたご様子。

Donkey's Caroling Shrektacular


一時はおとぎの国の頂点まで上りつめたというのに、狭い所に監禁され、ドンキーにはコケにされ、靴下には石炭を入れられ、しかもにっくきシュレックと仲間たちがパーティに興じる様子を眺めさせられるとは何たる屈辱。しかしこんな苦境にあっても素敵な巻き舌は健在でございます。ああ、さすがは。

ちなみにランプルさんはシュレックシリーズにおいて-----フック船長などの小物は別として-----、ラストで死亡(消滅)しなかった唯一の悪役でございます。やっぱり制作スタッフの皆さんも、この愛すべき悪党を殺してしまうのは忍びなかったのではないかしらん。

というわけで、ドリームワークスならびにシュレック製作チームの皆様、ぜひともランプルのスピンオフを作ってくださいませ。
贅沢は申しません、ゲスト出演でもいいんです。
大人向けにブラック風味なお話だったらなおいいです。
ビッテビッテお願いします。
このとおり。

さよならサントリーミュージアム

2010-12-26 | 美術
常々思いますのは、世界がどんなに美しいかということが本当にわかるのは、もういよいよ死ぬというその間際、ワタクシがこの世界に存在する最後の最後の一瞬間なのであろうということ。賢明な皆様におかれてはそんなことはないかもしれませんが、ワタクシはきっとそうですよ。そのときに何かを考えるだけの暇があればの話でございますけれど。


それはさておき
ワタクシを含めた関西の住人に、16年間に渡って良質なアートに触れる機会を提供してくれたサントリーミュージアム天保山が、本日をもって休館(事実上、閉館)いたしました。

最後の企画展は『ポスター天国』。エントランスには今までこの美術館で開催された展覧会のチラシがずらりと並んで、来場者を迎えてくれます。それをひとつひとつ見ながら、ああこれも行かなかった、これにも行かなかった、興味のないテーマだったけれども行っておくんだった、と悔やむことしきりでございました。



ただ作品を並べるだけではなく、いつも展示内容に合わせて素敵な展示空間を演出してくれたサントリーミュージアムのこと、たとえワタクシには興味のないテーマであっても、足を運んでいれば何かしら得られるものがあったはずでございます。そのテーマや作家の持つ新たな魅力を発見することもできたであろうに。そのことに今になって気付くとは。

ロビーやミュージアムショップの壁面にも、制作された時代も場所も多種多様な、色とりどりのポスターが所狭しと展示されておりました。少しでも多くの作品を見てほしいという美術館側の熱意が伝わって来るではございませんか。



建物やコレクションは大阪市に寄託されるとのこと。今後どのように活用されるのかたいへん気になる所でございます。水族館の隣ということで、ファミリー向け(=お子様向け)遊興施設になってしまうのではないかと、うっすら不安を抱いております。そうなったら、のろはもう二度とここには来ないんだろうなあ。



いっそもうずっと「設立準備中」になっている大阪市立近代美術館というやつを、ここに持って来るわけにはいかないんでございましょうか。せっかく展示空間としての空調やら何やらの設備が整っておりますのに、3D映画やファミリー向けアトラクションだけに使われるのはあまりにも惜しい。



ともあれ、サントリーミュージアム天保山さん、今まで本当にありがとう。
また美術館としてのあなたにお目にかかれることを、のろは切に願っておりますよ。

ジーザスさんの誕生日

2010-12-25 | 
思いがけずクリスマスカードをいただきました。
何の甲斐性もないのろごときに、勿体ないことでございます。

2000年も前に生まれた人の誕生日を今もって、しかも世界中でお祝いするのは、生まれたその人が偉かったからなのか、それともプロモーターたちが優秀だったからなのか、どうも今となっては判然といたしませんが、多分その両方なのでございましょう。

さて昨日、近くの図書館でちくま哲学の森シリーズの『悪の哲学』をぱらぱら読んでおりましたら、たまたまその中の一編『ベルガモの黒死病』にイエッさんについて書かれた一文がございました。
黒死病に襲われて風紀の乱れた街に巡礼者の一団がやって来て、街の人々に向かって曰く、
「お前さんたちはイエスが人類の罪をあがなって死んでくれたと思っとるんだろうが、実際はそうじゃなかったのさ!人々のひどい態度に憤慨したイエスは「お前が神の子なら、そこから降りてみな」と言われた時に、本当に十字架から降りてどこかへ行っちゃったのさ!だから人間はみーんな罪深いままで、誰も罪の肩代わりなんかしてくれないのさ!ははん!」

さてもクリスマス・イヴに読むには結構な内容だなあ、のろよ。
贖罪や復活といったことを信じておいでのかたは大いに眉をひそめられる所ではございましょうが、ワタクシはこっちのお話の方が好きですよ。だってイエッさんは随分いい人だったみたいじゃございませんか。それがはりつけにされて、槍で突かれて、「わが神、わが神、どうしてお見捨てになったのですか」なんて言い残して苦しみながら死んでいったなんて、あまりにもやるせないじゃございませんか。それより、あんまり酷い目に遭わされた神の子は「あ~、やめたやめた。こんなのもうやってらんねー」とか何とか言いながらサッサと十字架を降りて、ぽかんとしてる人々を尻目にどこかへ行っちゃいました、って話の方が痛快でよろしい。リチャード・バックの小説『イリュージョン---退屈している救世主の冒険』の救世主ドンみたいにね。

ええと、私は自分が好まない道は歩くまいと思うのですよ。私が学んだのはまさにこのことなのです。だから、君たちも、人に頼ったりしないで自分の好きなように生きなさい、そのためにも、私はどこかへ行ってしまおうと決めたんです。
『イリュージョン』1981 集英社文庫 p.21

まあそんなわけで
皆様メリークリスマスなわけでございますよ。

佐野 元春/Christmas Time In Blue



猫サンタ

2010-12-24 | 映画
Puss in Boots - The Night Before Christmas


そうそう、このひとはかっこつけても所詮ネコって所がいいんでございます。
バーのカウンターにしけこんでも、飲んでるのは酒じゃなくてミルクだったりね。
いきなり苦しみ出したと思ったらゲッと毛玉吐いたりね。

ドリームワークスでは現在、この長靴を履いたネコ氏を主人公に据えたスピンオフ作品を製作中でございます。
アメリカでは来年11月公開予定とのこと。一年先でございますね。おそらく日本に来るのはさらに先のことになるのでございましょう。それでも劇場で公開されたらまた観に行ってしまうんだろうなあ。

ドンキーの日本語吹き替えを担当した声優の山寺宏一さんは「ドンキーを主役にしたスピンオフを作って」とおっしゃっているとのこと。ドンキーはそそっかしくて厚かましいけれども憎めない奴で、主人公の相棒としては良キャラクターではございますが、主役を張るにはちとうるさすぎます。むしろワタクシは過激にして愛嬌のあるシュレック版ピノキオを観たいですね。ディズニー映画に対抗するようなブラックなやつをね。

いや、それよりも
それよりも

ランプルのスピンオフを作ってくださいよ!
白雪姫の女王様に高級美容クリームを売りつけたり、赤ずきんのおばあちゃんにセキュリティサービスを持ちかけたり、ブレーメンの音楽隊とエージェント契約したりする話を!
そんなもの誰が観るんだって?
のろが観るんですよ!!

『シュレック フォーエバー』

2010-12-22 | 映画
『シュレック・フォーエバー』字幕版 を観てまいりました。

あっはっは。

とりあえず

ランプルさんサイコー。

作品全体としては良くも悪くも原点回帰といった所。ギャグやストーリーにとりわけ目新しい点はないものの、面白さにおいて大いに失速した前作からは目覚ましい回復を果たし、ひねたキャラクターたちもその魅力を取り戻した感がございます。初日レイトショーでお客さんはまばらでございましたが、客席からはけっこうな頻度で笑い声が上がっておりましたよ。

リセットボタン的にパラレルワールドを持ち出すのは、ずるいと言えばちとずるい。しかしシュレックを「自分が生まれなかった世界」に飛ばしてしまい、彼がこれまでのシリーズを通して培って来たもの(友人たち、愛する人、昔は彼を恐れ嫌っていた人々からの受け入れ)を帳消しにしてしまうことによって、かえってそれらの大切さを浮き彫りにするというのは、なかなか上手い手法ではございました。シリーズ完結編ということを意識してか、いささか「泣かせ」に走りすぎなきらいはございましたけれども、まあ、ランプルさんがものすごく可愛いので何もかもよしとしましょう。

そうそう、ランプルさんですよ。
以前の記事でさんざん申しております通り、ワタクシ、ランプルさんのキャラクター造形には大いに期待しておりました。で、蓋を開けてみたらば、これが高い期待を裏切らぬナイスな外道っぷり。

ちびっこいので、何かあるというといちいちテーブルによじ上って対応するランプルさん。
見かけはいかにもちっぽけで、ソフトで害が無さそうで、そのじつスーパー腹黒い危険人物ときております。
甘い言葉で取引をもちかけ、相手のフトコロにサッと入り込んで利益をむしりとる、そのほれぼれするような狡猾さよ。
抜群のビジネスセンスと自己チューなご性格は権力の座に就いたのちますます冴え渡り、アメとムチを上手に使い分けてしもじもの者どもを支配し、独裁者として君臨するそのライフスタイルは悪役の鑑でございます。
いよいよ追いつめられたと思いきやとっさに活路を見出して逃亡を図るしぶとさも、悪役としては重要なポイント。
その上可愛いときたもんだ。ああ、うっとり。

ランプルの声を演じるウォルト・ドーン氏は俳優でも声優でもなく、ストーリー担当の制作スタッフなのでございますが、本当にうまいですね。(冒頭で出て来るうっとうしいツアーガイドの声もドーン氏。ちなみにしもべの魔女Babaや「吠えろ!」のクソガキを演じているのはマイク・ミッチェル監督)
もちろんはじめから彼がキャスティングされていたわけではなく、当初は他のキャストのように有名俳優を起用する予定でいたとのこと。しかし読み合わせの際にドーン氏が仮にランプル役をつとめているうちに、あまりにも役にはまっているからこのまま行こうじゃん、ということになったらしいです。いや、よかったよかった。おかげでこんなに邪悪で可愛いランプルさんが出来上がりました。その声にピッタリのキュートな外観を作ってくだすったアニメーターの皆様にも、大いに拍手を送りたい所でございます。動作といい豊かな表情といい、スタッフの愛情をひしひしと感じる造形でございました。
最後はそりゃ可哀想でしたけれども、野望が無惨に打ち砕かれるのは悪役の宿命でございますからね。死ななかっただけましというもの。...それともひょっとして、結局あの後「朝ご飯」に供されてしまったのかしらん。いやあああ。

さて、悪役と言えばもう一人忘れちゃならないのが

Shrek 4 - Piper's dance


そう、笛吹き男でございますよ。
どうやらランプルさんとは顔なじみのご様子。どっちもドイツ出身だからでございましょうか。ランプルさん(ルンペルシュティルツヒェン)同様、ハーメルンの笛吹き男もワタクシの大好きなおとぎ話でございますので、4作目にして満を持してのご登場は嬉しいかぎりでございます。衣装が赤もしくはだんだら模様ではないのはちと残念でしたけどね。

会話も全て笛の音色でこなす、というわりと無駄な特技の持ち主である笛吹き男を演じているのは、フルーティストのジェレミー・スタイグさん。何とシュレックのことでご紹介しました「みにくいシュレック」の原作者、ウィリアム・スタイグの息子さんでございます。あんなにノリノリで"Shake your groove thing"を演奏してくれたんじゃ、ドンキーじゃなくても思わず躍り出したくなろうってもんです。それにしてもワタクシ、この曲を聴くと映画『プリシラ』を思い出さずにはいられませんですよ。サンダルドレスのヒューゴ・ウィービングがとってもいかしてたっけなあ。

さておき。
字幕については エッ と思う所もございましたが、いちいち突っ込むのはやめておきましょう。「It's not like she's getting any younger...じきババアですよ」や「Get your mob on!...暴徒のノリで繰り出せ」などはナルホドと膝を打ちたくなる名訳でございましたし。

いや、ひとつだけ言わせてくださいませ。
ランプルがペットの巨大ガチョウ、フィッフィに話しかける台詞が「消えろ」だの「鳴け」だのやたらときつい命令口調に訳されておりまして、ワタクシにはこれがちとひっかかりました。
ウォルト・ドーン氏もインタヴューで語っておいでのように、自己チューなランプルさんもフィッフィのことだけは娘のように可愛がっているんじゃございませんか。自分のことをダディなんて言ったりして。ところが字幕のきつい命令口調では、ランプルが彼女に特別な愛情を注いでいるようには感じられないのですよ。
それに「鳴け」の所なんてあれ、ランプルがフィッフィのHonk(クワッ)という鳴き声を真似しただけであって、別に「鳴け」と命令してるわけじゃありませんでしょう。そう命令する必要もぜんぜんない場面でございますし。

Shrek Forever After: An IMAX 3D Experience TV Spot


ああ、結局いちいち突っ込んでしまった。しかもこんなどうでもいいような所に。何て心が狭いんだ。

まあそんなわけで、例によってあまり主人公サイドには肩入れせずに鑑賞したワタクシではございましたが、ラストではちょっぴり じーん と来てしまいましたですよ。「めでたし、めでたし」ってな、いいもんでございます。最後のシュレックの台詞も泣かせるじゃございませんか。
スピンオフ作品は別として、10年に渡ってひねた笑いを提供してくれたシュレックシリーズもこれにて完結でございます。
さらばシュレック。今までどうもありがとうよ。

Shrek Forever After Featurette - 10 Years


ちなみに本シリーズで一番のブラックジョークは今回「俺が父親だって?!」という台詞を、子供の認知問題で訴訟を起こされたエディ・マーフィに言わせたことではないかと。

オペラ座の怪人のこと

2010-12-18 | 映画
実を申せばオペラ座の怪人が大好きなのでございます。
しかしジェラルド・バトラーをファントムに据えた2004年の映画化作品は、色々思う所もあって今まで未鑑賞でございました。
色々と申しますのは

1.ファントム好きすぎて見るのが辛い。(馬鹿)
2.クリスティーヌを演じるエミー・ロッサムの容貌がのろごのみではない。
3ジェラルド・バトラーの歌に難がある。サントラを聞いたのですが、何とラウルの方が歌が上手い。これはファントムとして致命的ではないかと
4.ミュージカルをそのまま映画にする必要性がいまいち感じられない

などなど。
しかし昨日テレビで劇団四季の皆様による吹き替え板を放送しておりましたので、意を決して観てみました。

うーむ。
音楽はもちろん素晴らしく、映像は評判通り豪華絢爛であって、もとよりこの話が好きなのろはそこそこ楽しめました。しかしもっとテンポの良さや繊細な感情表現に重きを置くなど、映画ならではの見せ方ができたであろうに、音楽をきっちり使うために映画としての脚本・演出がずいぶん犠牲にされたのではないかと。

具体的にがっかりした所をひとつ挙げますと、仮面舞踏会にファントムが現れるシーンでございます。舞台の方では本当に死神が現れたかのような迫力がありますのに、映画ではどうみてもフツーの人間でございます。おまけにラウルはクリスティーヌを置いてどっか行ってしまうし。おーい。抜き身の剣を持った恋敵の前にいとしい婚約者をほっぽり出してどこ行くんですか。武器を取りに行きましたって?はあ、呑気なことで。ファントムも舐められたもんです。もうちょっと恐れてやってくださいよ、オペラ座の幽霊さんを。墓地での対決シーンもしかり、全体的にファントムが普通に露出しすぎな感がございました。舞台での場面設定は舞台上でこそ生きるのであって、そのまま映画に移してしまってはイカンと思うのですよ。ファントムの顔もあれだけハッキリ見せてしまうなら、もっと大々的にクラッシュしていないと「ただ顔の醜さゆえに世間から隠れて生きねばならなかった」という点についての説得力が無いでしょうに。

というわけで
ロイド・ウェーバーのミュージックビデオとして見ればたいへん結構なものではございましたが、映画としてはどうなんでしょう、これ。

とはいえ「ミステリーだ、オペラ座で...」のくだりから、おだてに乗ってカルロッタ復活!までの流れは、ミニー・ドライヴァーの熱演のおかげもあって実によろしうござました。実の所、常にクチビル半開きで「清純」というよりちとアホっぽく見えてしまうクリスティーヌより、鼻持ちならないけれどもどこか愛嬌のあるカルロッタの方を応援したくなってしまいましたですよ。

ジェラルド・バトラーはごついおっさんというイメージがございましたので、白シャツ黒マントのファントム姿がなかなか似合ているのはいい意味で驚きでございました。

まあワタクシにとってファントムといえば声も姿もチャールズ・ダンスがデフォルトなんでございますけどね。これにかなうものは目下の所ございませんのです。
えっ。ロン・チェイニーですか。あれはあれでいいとして。

Phantom of the Opera 1990 - Trailer


↑1990年製作のTV映画より。老支配人を演じるのはバート・ランカスターでございます。
youtubeには日本語字幕付きのものが全編upされております。法的にどうかということは別として、2004年版を見てつまらないとお感じになったかたにはこちらをお勧めしたいのでございます。

最初がこれ。
The Phantom of the Opera 1/21 (1990 Kopit ver.)


続きを見たいかたは phantom opera 1990 で検索してみてくださいまし。

『オットー・ディックスの版画』展2

2010-12-15 | 展覧会
なんでこんな人間なのかと思いつつも12/12の続きでございます。

第一次世界大戦が勃発するとディックスはすぐさま志願兵として従軍し、100万人以上の死者を数えたソンムの戦いをはじめ、1918年の終戦まで、東西の最前線で戦場の現実と向き合いました。
現実を単に見つめるというよりもえぐり取るようなディックスの鋭いまなざしは戦地においてもいかんなく発揮され、『戦争』シリーズが展示されている地下展示室では、どこを向いてもそりゃもう悲惨きわまりない光景が並んでおります。

人間を知ろうとするなら、このあらゆる束縛を脱した状態の人間を見なければならない...、戦争はまさに獣じみたものだ。飢餓、シラミ、泥濘、無意味な嘘...すべてを私は見なければならない。人生の深淵を自分の眼で見なければならない。だから私は戦地に赴いたのだ
(世界美術大全集 西洋編26・表現主義と社会派 より)

血と泥にまみれた負傷兵の恐怖に満ちた表情。
片目をえぐられ、身体のあちこちにはただれた傷口が開いていたままの、瀕死の兵士。
塹壕の中に転がり、あるいは引きつった姿勢で鉄条網に絡まったまま朽ちて行く無数の死体。
銃を捧げ持ったままの姿勢で息絶えた兵士の死体には、苔むすようにびっしりと虫が群がっております。
Sterne: That mad game the world so loves to play

しかしエグさグロさをとりわけ強調して描いているかというと、意外とそうでもございません。市井の人々をあんなにもグロテスクに描いたディックスではございますが、ここではむしろ、戦場におけるあまりにも即物的な死と破壊、そしてそれに直面した人間の恐れととまどいをつぶさに記録したルポルタージュという印象でございます。

もちろん、戦争がもたらすのは兵士たちの悲惨な死だけではございません。ディックスは戦火に見舞われた街々の地獄絵図をも描き出します。
DIX, Otto | Durch Fliegerbomben zerstortes Haus (Tournai) [House destroyed by aircraft bombs - Tournai], plate 39 from Der Krieg

市街地の戦渦を描いたもののうち、とりわけ強い印象を受けましたのが『サンタ・マリア・ピの狂女』という作品でございます。



片胸をはだけて跪く狂女。その指差す先には、彼女の子供でございましょう、頭に大きな穴のあいた幼児の遺体が転がっております。
死んだ幼児や、それを指差す母親の手、またそのひきつった表情の描写は非常に繊細な、震えるような線で表されているのに対し、それ以外の部分は叩き付けるような、あるいは掻きむしるような荒々しいタッチで描かれております。一般市民である母子を襲った突然の不条理で圧倒的な暴力と、子供の死を前にした母親の驚き、怒り、悲しみ、絶望などが混然となった、激しくもやり場の無い感情が小さな画面の中にほとばしるように表現されており、戦場の兵士たちを描いた作品以上に壮絶でございます。

それにしてもナチスが、現実を直視することを何よりも重んじたディックスに「退廃芸術家」の烙印を押したのは、何とも皮肉なことではございませんか。画家にしてみれば「俺の芸術が退廃してるんじゃなくて、退廃してる現実を俺が描き写したってだけだよ」といった所でございましょう。
ともあれ、ディックスはキルヒナーのように自殺してしまうこともなく2つの大戦を生き延び、1969年7月に78歳で没したのでございました。
展示室の白い壁に並んだ地獄絵図を見ながら、ふと頭をよぎりましたのは、「描く」という表現方法を持っていたディックスはまだしも幸せだったかもしれないということでございます。これらの光景を目の当たりにし、そのただ中で何年も過ごしたのち、自らの体験を吐き出すこともできぬまま生きて行かねばならなかった無数の人々のことを思えば。

エルンスト・ルートヴィヒ・キルヒナー...ディックスと同時代の画家。新しい表現を模索する画家グループ「ブリュッケ(橋)」を結成するなど積極的に活動し、激しいタッチと色彩を特徴とする先鋭的な作品でドイツ表現主義を牽引した。第一次大戦への従軍で心身を病み、ナチスが政権に就くと「退廃芸術家」として迫害され、作品を没収される。1938年7月、58歳でピストル自殺を遂げた。

『オットー・ディックスの版画』展1

2010-12-12 | 展覧会
師走も半ばに差し掛かってまいりました。
皆様お疲れさまでございます。

さておき
伊丹市立美術館で開催中の直視せよ!オットー・ディックスの版画 戦争と狂乱 1920年代のドイツへ行ってまいりました。

オットー・ディックスといえばクリスタルキングでございます。
いやさ大都会でございます。

ディックスの銅版画を集めた本展は、『大都会』のように娼婦や傷痍軍人をモチーフに据え、都市生活の頽廃と闇を通して人間の美しからざる側面を描き出した作品群と、第一次世界大戦での従軍経験をもとに描かれた連作「戦争」の二部構成となっております。

会場に足を踏み入れますと、さっそくディックスの代表作のひとつマッチ売りの銅版画バージョンが展示されておりました。



両手足、そしておそらくは視力も失った、カイゼル髭ばかりが変に立派な傷痍軍人が、道ばたに座り込んでマッチを売っております。
犬には電柱の代わりにされ、人々は彼を見向きもしせず、その場を足早に立ち去るばかり。
戯画的に表現されてはおりますが、まことに悲惨な光景でございます。それを「誰もが目を背ける」という現実をも含めて、ディックスは描き出します。その眼差しは厳しく、仮借なく、時には嗜虐的ですらあります。

物事には一切のコメントは不要だ。 私にとっては、その物と向き合うことの方が、それについて語るよりよほど重要だ。
と語った画家は、人々があえて向き合わず、ましてや好んで語ろうともしない現実を正面から見据え、作品として画布や版や紙の上に刻み付けました。逆に言えば、人々が目を背けているからこそ、醜くあること、悲惨であることといった現実の負の一面を、ことさら直視せずにはいられなかったのでございましょう。
老いた娼婦の皺のよった首や、あばらの浮き出た胸元、垂れた乳房を。
傲慢と好色の表情をたたえた若い水夫を。老いて盲いた物乞いを。
また、仲間の死体をバリケード代わりにして銃を構える兵士を。


次回に続きます。

れのんき

2010-12-08 | 忌日
本日は

言うまでもございませんね。
ジョン・レノンの忌日でございます。

記事を色々考えましたけれども、何を書いても薄っぺらくなりそうなのでやめます。
今日はあちこちで「イマジン」が流れていることと思いますので
あえてこの曲を。

The Beatles Twist & Shout (High Quality)


昨日民放のBSジャパンでは、彼の暗殺を新たな角度から検証する特集番組が放送されていたようでございます。ナビゲーターがピーター・バラカンさんだということもあって、ぜひとも見たい番組ではございましたが、あいにくのろ宅にはBSチューナーが無いのでございました。
ありがたいことに、↓のブログさんで番組内容のレポートをしてくださっております。

ザ・ラストデイ ~誰がジョン・レノンを殺したか?

悼んでも、嘆いても、検証しても、ひとたび死んだ人は決して二度と戻って来ないなんて。
何てもったいないことだろう。
本当に何てもったいないことだろう。

John Lennon Tribute In My Life


さよなら香味焙煎

2010-12-03 | Weblog
この10年、ワタクシは香味焙煎を買い続けてまいりました。

他のインスタントコーヒーよりお高めでも、一番好きだった「柔らかモカブレンド」が製品ラインナップから消えてしまった後も、ひたすら香味焙煎を買い続けました。少々の変遷はあったにしても、このブランドの高い香りとまろやかな味わい、そして、しゅっとしたパッケージデザインが好きだったからでございます。

しかし今回のリニューアル品は、どうにもこうにもいただけません。
味ばかりかパッケージデザインまで、かつての青くてスリムなボトルに縦書きでロゴが入っているという、きりっと素敵なデザインから一転、ボトルの丈は短くなり、日常的に目にするにはいささか鬱陶しい色合いのラベルに、インスタントコーヒーとしてはごく無難な横書きのロゴと、ちっとものろごのみではなくなってしまいました。



縦のものが横になったぐらい何だ、とおっしゃいますか。しかし青系のいわゆる寒色や縦がちデザインをかくのごとく愛好するワタクシにとっては、まずもってこのデザイン変更がけっこうな落胆だったのでございました。

それに何です、「挽き豆包み製法」って。
細かく砕いたコーヒー豆の粉を混ぜ込みましたって?はあ、さようで。しかしこの「挽き豆」のおかげで、飲んだ後に口の中から喉にかけてえらくざらつくんですが。カップの底にも粉が残りますし。レギュラーの風味に近づけようというご努力も結構ですが、ワタクシ、インスタントコーヒーにこういうものは期待しておりません。何より、蓋を開けたときに深呼吸したくなるようなあの香りは、一体どこへ行ってしまったのでございますか?

なんです。「インスタントコーヒー」じゃなくて「レギュラーソリュブルコーヒー」ですって。ははあ。名前までもレギュラーっぽさを追求なさるのですね。結構でございます。どうぞ存分に追求なさいまし。しかしワタクシはもとの「インスタント」な方を買わせていただきますよ。

と思ったら
「インスタント」な香味焙煎は、もはや製造中止ですと。

そうですか。
そうですか。

つまりもうあのまろやかな味わいと豊かな香りとすっきりとした後味に再会することはかなわぬのでございますね。長年親しんだものとお別れするのは辛いことではございますが、いたしかたございますまい。
さよなら、香味焙煎。今までどうもありがとう。

ドリフ大爆笑'83 エンディング


そうそう、しかたがない。

まあ、考えてみればいい点がないわけでもございません。
少なくとも今回の香味焙煎”リニューアル”は、ワタクシが以下のリストに載っていることを知りながらも唯一手を切れずにいたネスレ商品から、ようやっと縁切りするための機会を与えてくれたのでございました。

イスラエル支援企業リスト:イスラエルのパレスチナ占領と暴力を支援する企業を支援しないために


World AIDS Day

2010-12-01 | Weblog
本日は
世界エイズデーでございます。

30年前は謎の死病と恐れられていたこの病気も今では研究が進み、先進国を中心に、エイズとエイズ患者を取り巻く状況はずいぶん変わってまいりました。昨日のNHK-AMラジオ「私もひと言 夕方ニュース」によれば、医学的には、HIVウイルスに感染しても、一日一回の服薬を続けることで発症を抑えることができるという所まで来ているのだそうでございます。

これを聞いた時、ああよかった、医学の進歩は素晴らしいなあと思う反面、その恩恵を受けることなく亡くなっていったあまたの人たちのことを思い、何ともやるせない気分に襲われたのでございました。

しかし、いかに嘆いてみたところで、いなくなってしまった人たちが帰って来るわけではございません(帰って来るならばそりゃもういくらでも、いくらでも嘆きましょうが!)。その一方、今生きてこの病と闘っている人たちやコミュニティはたくさんございますし、ワタクシのようなごく非力な者にも、彼らのためにできることはございます。

例えば、以前にも当ブログでご紹介させていただいた人道支援NGOワールドビジョン・ジャパンのニューズレターによれば、ザンビアやジンバブエでは成人の約14%がHIVに感染しており、ジンバブエだけでもこれまでに150万人に上るエイズ遺児を生んでいるということでございますが、募金に支えられた支援活動によって、食糧難にある地域への食料配布だけでなく、HIV罹患者へは処方箋にあった食料提供が行われるということでございます。

ワールドビジョンはその活動や資金運用の透明性が高い上、貧困地域にお金や物資を与えるだけの一過的な支援ではなく、活動終了後も現地の人々が自立して生活していけるような支援プログラムに沿って活動していることから、ワタクシが信頼を置いているNGOでございます。
クレジットカードのほか、郵便局・コンビニからも募金できます。HPはリンクフリーではございませんのでここにアドレスを貼ることはいたしませんが、”ワールドビジョン”で検索していただければトップに表示されることと存じます。

医学者でも薬学者でも活動家でもないワタクシは、この病に苦しめられている人たちに対して、自らの生活を危うくしない程度のごくわずかなお金を提供することぐらいしかできません。これはあるいは恥ずべきことなのかもしれませんけれども、何もしないよりはマシと思って、この病気の撲滅と、亡くなった人たちへの鎮魂を祈りつつ、わずかなりともできることをしてみるのでございました。