フランスへの階段

変わったこと。昔は階段を一段ずつ登って行くイメージだったけど 今は一段ずつ降りて行きたい。

Je suis Carlie 現象を語るフランス人青年

2015-01-19 16:30:20 | シャーリーエブド事件後

太陽の架け橋さんのブログに紹介されていたので展開です。

かそるらさんが前回コメントで教えてくれたブログです。

リヨンに住む青年が Je ne suis pas Charlieという動画を投稿しました。


いやあ、動画で意見する 私も頭をよぎんなかった訳じゃないんだけどね~

(絶対しない人の論調です、はい)

でもこんな風に理論的にしかもポジティブにはなかなかできませんよ。

3分で終わってしまうわ 私なら。

フランス語ですが動画もよかったら見てください。(1行目の太陽の架け橋さんをクリックしてね)

だって このお兄ちゃん 光ってるよ。じわーっと。

以下Beltaneさんのお話です。



今回は、”私はシャーリーじゃない”をテーマにしました。


というのは今週、パリで襲撃事件があり狂信者たちにより12人が死んだという事件です。これで私もショックを受けました。

それからもう一つショックなことがありました。それは事件の後に、”私はシャーリー””私はシャーリー”というプロパガンダが、社会欄、メディア、あちこちにこれでもかというほど沢山登場したことです。このプロパガンダに全員が従っていたことです。

多くの方から私のもとにも「”私はシャーリー”を流してください」といって来ましたが、「ノン、ノン、私はノン」と拒否しました。ここでのメッサージは「私たちには表現の自由があるから」など、これについては理解できます。では何故、この主張が私には迷惑なのか? 

”私はシャーリー”という<EGREGORE>(集団のまとまった考え、一つになった思い、国歌斉唱や祈りなど、ポジティヴなものもネガティヴなものも両方ある)について話したいと思います。みなさんが私の動画から、この問題についてよく理解できるようになれば、と思います。何故、ファナティズム(狂信/熱狂)の罠に堕ちてしまうのか、、この流れが、対立した二つの流れの双方ともファナティズムにつながっていくという恐れを私は感じるので、これを一緒に見てみましょう




どうして狂信的になっていってしまうか?

1)出発は、ある音楽が好きな人に例えると、単に音楽が好き。だから「音楽を聞くと喜びを感じる」という状態です。特にあるテーティストが他の誰かより好きということもなく、ただ音楽一般が好きという感じです。

2)ある日、あるアーティストが他のミュージシャンよりも好きということが起ります。彼の音楽感覚に引かれるし、自分に語りかけるものを感じると。その時に何が起るかというと、そのミュージシャンのCDを買い、コンサートに出かけます。彼の音楽が他のどの音楽より好きになり、彼が大好きになります。ここまでは単に他よりもこっちの方が好きという状態。グルのような感じで、とりたてて問題は発生しません。

3)その次に大きなステップがやってきます。それは自己証明アイデンティティを起こす状態です。このアーティストが大好きになり、彼を自分の自己証明の対象にします。彼の生活に興味を持ち、彼の服装、その他、彼を模倣し始めて、彼を自分の中の一部に取り込み始め、それだけでなく「私は誰か?」というレベルまで行ってしまうのです。ここで漂流(流れに飲み込まれ奔流される)が始まります。

4)それから、この状態よりもっと凄いファナティズム狂信状態が起ります。単に彼を自分自身の代わりに見立ててるアイディンティ化に留まらず、彼以外のアーティストの音楽は排除するようになって行きます。


1)の状態の場合には、誰かがこのアーティストのことをからかったマンガを描いたとしても、大してイヤな感じを受けることはありません。

2)の段階でも、もしメディアがガタガタ悪評を書いても、大丈夫です。「ま、それぞれ好きずきだから、意見の違いがあっても当然でしょう。でもどうしてあの人は彼の音楽が嫌いなんでしょう。どうしてか知りたい、興味ある」という感じ。でも、個人的に痛みはありません。

3)になると、友人などから批判されたりすると、すぐに戦いの中に飛び込みます。そしてそのアーティストを保護します。何故なら、彼は自分の自己証明、つまり自分は彼に同化してしまっているからえす。彼と同心の”エグレゴール”エネルギーの中に入り込まれていてるので、自己として存在するための栄養をそこから吸収し、自分の重心を彼の上にのせているのです。ですから彼が批判されると、まるで自分自身が批判されている様に感いるのですね。

4)ますますこの対立が激しくなり、好きなアーティストをかばうために戦い、そのゲームに巻き込まれ、巻き込まれるからもっと戦う。そして最後は彼の曲しか聞かなくなり、人生すべてをそこにつぎ込む状態になる。ある日、彼を批判する人が現れたら、完全に激怒し、相手に戦いを挑む、という感情的に大変極端な狂信者になってしまうでしょう。

アーティストなどに対する熱狂状態は、一体どいうことなのでしょう?

ある時私たちは”エグレゴール”の中に入ってしまうことがあります。それは魂を持たないエネルギーの塊で、思いや力を他者に与えてしまったことでできるエネルギーです。

”エグレゴール”は沢山あります。芸術のエグレゴール、国歌、国籍のエグレゴール、政治観、世論というエグレゴール、または生き方のそれ、スピリチュエル(精神道)のそれ、、、

どうなっているのでしょうか、イスラムのテロなどの場合は?

それは単にある人がエグレゴールのエネルギーの中に入り込んでしまって、宗教とスピリチュエルのために他者を殺する状態にまで至ったということです。

この事件は私たちに何を見せているのでしょう?

私たちに見せているものは、私たち自身の映しを写して見せているのです。私たち全てはファナティック:熱狂的狂信者です。もし誰かがホモセクシュエルだというと、「え~、どうして、女性が好きじゃないの?」。あるいは「私は菜食です」と言うと、「あ~、あなたはタンパク質が足りなくなるわよ。完全にクレイジーね~」、政治~社会観、家族観などなど。意見が違うとすぐに私たちは狂信的に反応してしまいます。

”私はシャーリー””私はシャーリー”、、、これはどうなっているのか?

これはパリで起った事件における、フランスにいる個人の、自己証明なのです。”私はシャーリー”と宣言することは、風刺画を描いたジャーナリストと自己同化し、彼らを批判アタックする者に対しては、戦いを宣言するという怒りのエグレゴールエネルギーの中に入り込んでいるのです。

しかし、一体これは誰のゲームをゲームしているのでしょう?私たちは誰でしょう?

これは<エゴ>のゲームをしているのであり、<エグレゴール>のゲームをしているのであり、<エゴ>と<エグレゴール>は常に戦争に栄養を与えるのです。

私たち(フランス人)は、地球の反対側で何かが起っても、多くの人たちが殺されていても、それらのエグレゴールにはあまり感心がありません。<人類>という大きな範囲のエグレゴールには少しは気になることもありますが、かたや近くにいる家畜が食べられるために殺されていても全く興味がありません。それから事件は近くになって私たちの住んでいるヨーロッパになったとたん、それは大変です。ヨーローパ人として自己存在を同化しているからです。そしてフランス、そしてパリ。それから殺された人の友人、家族、、、どんどん、同化の距離が近くなって自分自身がアタックされたと同じくらいに感じるのです。

しかし、真実はどうのようなことのでしょう?

「私たちはこの情報を受けとった」
「私は二本の腕と二本の足と考える頭脳を持っている」
「そして私は自由」

「テロは12人を殺した」
「それは私ではない」
「私は被害者に同化しない」

だから”私はシャーリー”などという煽動広告である<エグレゴール>を取り込まない。それを周りやソーシャルネットワーク網に流さない。何故なら、狂信的ゲームの中に取り込まれてしまいます。

これは誰の徳になるのでしょう?

それは確実に、権力側に作用するでしょう。

外の権力とはどのようなものでしょう?

それは私たちをばらばらに分裂させ、制御することに利用するでしょう。私たち(人類)が喧嘩をしているから、そうして利用するのです。
宗教の権力と政治の権力がぶつかっているのですが、両方同じ戦いのコインの裏と表です。これは二つの<エゴ>が互いにぶつかり合っている状態です。

ぶつかり合っている人たちを沢山見ます。残念です。怒りと恐怖に包まれています。そのような中で、私は戦わないことを選択しました。私はシャーリーではありません。



引用終わりです。

太陽の架け橋さんのブログでは、彼女自身の以下のようなコメントが続きます。


この後、ベルタンさんのスピーチは、自己同化と執着を手放すことへ進んで行きます。

ブレイデン博士の講演も「私は誰か?」の問題に、繋がっていると思います。「人間は個体、固いものではない」ということに大きなヒントがあると思います。

「日本人」とか「フランス人」とかを手放そうということですね。

また、ページをあらため、このテーマを続けて行きます。


太陽の架け橋さんからの引用以上。

ブレイデン博士のことはまだ知りません。

でも日本人とか フランス人とかを手放そう 

それは分かると思う。

 

気になった人は 太陽の架け橋さんのブログをチェキラウ!


 


増えそうなアンチ・シャーリー

2015-01-15 23:33:53 | シャーリーエブド事件後

私の初めの アンチシャーリー仲間は、かそるらさん。

 

彼女のブログのシャルリーじゃない!から。

 

2006年 デンマークの風刺漫画家が襲われた時 
シラク大統領が シャルリーに そんなん描いとったら 殺されるで
と 言った。
そんな下品な漫画は 言論の自由 でもないし
かりに そうであっても 自由は 責任をともなうべきものだ。
責任はどういう形で 払うことになるか 
死をもって はらうことになる
君だけの死では 足りないかもしれない
 
そう言ったシラクのことばどうり 今回 こういう事件が起きた。
デンマークの事件のときは 斧だった。
斧 です。
でも 今回はグレードアップ。
いつまでも 斧ではない。
 
イギリスの新聞には こういう漫画は載せない。
やはり 新聞社が 『責任』について語っている。
イギリスにだって 下品な新聞はある。
でも たとえば 売れなくなった女優のスキャンダラスな私的なニュースで
読む側も 書かれた側も(売れなくなって 名前を思い出してもらえる) 書いた人も
下品な三角関係で 成り立っている。
成り立たないものを載せない。
責任が持てないから。
 
それは 正しい選択だ。
 
 
引用以上。シラクがそう言っていたのは知らなかった。自由と責任。
重要テーマです。
 
 
その他に
 以下、2カ所を抜粋引用
 

日本のインターネット上でも、

「こんなのやられて当然じゃん...」
「ジョークだからセーフ、風刺だからセーフ・・・ セーフなわけ無いんだよなぁ」
「これフランス風刺がアホや。書く権利はあるかもしれんが普通ならその宗教尊重して、書かんやろ」
「イスラム過激派がクソって分かるけど、フランスがまいたタネってのも分かる」
 :::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::::
 

 ニューヨーク・タイムズの保守派のコラムニスト、ディヴィッド・ブルックス氏も1月8日付で、「私はシャルリ・エブドではない」と題して、

「われわれのほとんどが『私はシャルリ・エブド』と主張するのは誤りである。そもそも、われわれのほとんどは、あの雑誌が得意としていたような意図的に不快感を生むような類のユーモアを楽しむような人間ではない」
 
 
 
 
2年半前になりますが、既にこういう記事もありました
 
 
 
太文字の見出し以外抜粋を訳してみました
 

French weekly publishes Mohammad cartoons

French satirical weekly Charlie Hebdo has published cartoons of the Prophet Mohammad, a decision criticised by the French authorities which sent riot police to protect the magazine's offices.

 
(フランスの風刺週刊誌シャーリーエブドはモハメッドの漫画を出版した。当出版社を守る為に機動隊をオフィスに送ったフランス当局もその決定に批判的だ。)
 
2年前フランス当局はシャーリーの決定に批判的だった!
 
 

THE White House has questioned the judgment of a French weekly that published cartoons mocking the Prophet Mohammed, but said the decision was no justification for violence.

"We have questions about the judgment of publishing something like this," White House spokesman Jay Carney said, while adding "it is not in any way justification for violence."

(これはいかなる意味でも暴力への正当性を示すものではないが、と付け加えながら 私たちはこういうものを出版するという決定を疑問視している とホワイトハウスのスポークスマン Jay Carneyは言う。)

 

"We don't question the right of something like this to be published, we just question the judgment behind the decision to publish it," Carney said.

(こういうものを出版する権利について疑いはない。ただそれを出版する決定の背後にある判決を疑問視している)←裁判での判決という事か?

The decision by the French weekly Charlie Hebdo to print obscene cartoons depicting the prophet, came as fresh protests erupted in the Muslim world over an anti-Islam film made by extremist Coptic Christians in the United States.

(わいせつな予言者の漫画を出版するというシャーリーエブド社の決定は、コプトキリスト教徒によって制作された、アンチイスラム映画に対する抗議がすでにあったイスラム世界に新たな抗議が噴出させた)

Security was reinforced at French missions and other institutions in countries feared most at risk of a hostile reaction to the French cartoons.

 
 (この風刺漫画に対して敵対視する向きの強い国々で、フランス大使館及びその他の機関でセキュリティが強化された)
 
 引用終わり。
 
ほら。フランス当局もホワイトハウスも シャーリーエブドの方針に批判的。
2年前からですよ。
 
フランスにくればじきに分かる。
フランス革命がいまでもどれだけフランス国民の成功体験として生きているか。
 
革命が今でも彼らの誇りであり、おそらくその中核を成していたのは風刺精神、言論の自由。
そうなると否が応でも熱くなってしまうフランスの民衆の気持ちを汲み取って、周囲は沈黙している。
 
あのフランス革命さながらのデモを見せられたら、今はやめとこう となる。
でも少し熱が冷めたら、回りの国か、フランス政府か 分かりませんが
誰かが言い始めるんじゃないでしょうか。
 
もう革命は終わったんだ
 
と。
 
革命時に支配者を恐れず風刺して、世界を覆したのは、それは大きな意味があったかもしれない。
 
でも今は、民主主義に移行して、昔のような支配者はいなくなった。
 
もちろん風刺先として政治家達がいる。でも民主主義の世界での支配者だ。
 
風刺画家はそれでは物足りなかったと思う。
 
その結果、この世界で一番のタブーを探してそれを風刺の的にしたんじゃないか。
 
風刺文化の生き残りをかけての戦い、
 
そしてそれは風刺画家のみならず、多くのフランス人のアイデンティティをなしている
 
ものらしい。
 
 
今後フランス人気質と世界と足並みを揃えたいフランス政府が どんな折り合いを付けて行くか。
 
 
 
そう言っている間に、ベルギーで二人のテロリストが殺され一人が捕まったというニュースを聞いた。
 
 
ただ期待は持てる。
 
今朝、近所のおじさんと話したら 彼はなんと アンチシャーリーだった。
イスラム教を馬鹿にしてはいかん。同じ世界に住む人々を尊重せねばならん。
彼は月4、50(たぶん450ユーロという意味)で生活している失業者なのに
最近人気が出ている極右の外国人排他的な政党を嫌っていた。
 
 
息子の家庭教師は典型的なフランス人でジャーナリズムが襲撃された今回の事件に大いに動揺していた。
先週はデモに参加して、そこで人々と意見交換したら少し落ち着いたようだ。
私は彼女を信用していたので,話の間に訊いてみた。あの風刺はやりすぎだとは思わないかと。
その答えの詳細は今回は省くとして、私の意見を否定せず、意見交換は興味深いと言ってくれた。
 
 
 
言論の自由をモットーとする国だけのことはある
 
と思った出来事。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

シャーリーエブドの風刺画

2015-01-15 11:13:15 | シャーリーエブド事件後

昨日(1/14)は シャーリーエブド社がテロ後、第一号となる紙面を発行しました。

こちらです。

全ては許される という文字の下に Je suis Charlie のカードを持ったモハメッド。

風刺というのは、確かに力があります。

パリではこの新聞を買う人々がキオスクの前で行列をなしました。BBCニュースの動画。

いわゆる シャーリーを支持するという行為。

 

アラブ諸国のメディアでは、この紙面に対してやはり批判的な指摘が色濃いようです。

また諍いを再燃させるような内容を非難しつつ、国民には挑発に乗らず冷静に振る舞うよう諭している内容。

 

それまで幾度度なくシャリーエブドは予言者モハメッドを揶揄して来ました。

 

”コーランは糞。弾丸も止められない。”

 

CAPTION: THAT FILM SETS FIRE TO THE MUSLIM WORLD. “AND MY ASS? YOU LIKE MY ASS?”

 

 

CAPTION: ON THE SET OF THE SCANDALOUS FILM ABOUT MOHAMMED: “ARE YOU SURE MOHAMMED HAD SEXUAL RELATIONS WITH A PORK HEAD?” “I CAN’T AFFORD TO PAY A 9-YEAR-OLD PROSTITUTE, MAN.”

 

CAPTION: RIOTS IN ARABIC COUNTRIES…AFTER THE PUBLICATION OF MADAME MOHAMMED’S PICTURES

 

モハメッドを絵で描くのはタブー。

絵を描くのをためらう国々のなかで、フランスのメディアはタブーを破り

タブーを破っちゃった俺たちすげーだろ

というその一点を誇りにしている。そう見えます。

内容の質は問わず。

 

 

 


Êtes-vous Charlie ?

2015-01-12 15:33:23 | シャーリーエブド事件後

フランスの風刺漫画出版社 シャーリーエブド社を狙ったテロのあった週末

各都市でデモがありものすごい数の人々を動員しました。

 

 

 

こういうのが各地で。子どもを連れて家族で参加した人も今回いたとか。

ほんとに現代という感じにドラマチック。私はこういう主張で集まるデモだったら遠慮したかったのですが

これだったら やりたかった。これからは声 かけてね。お兄さん。

右端の Je suis Charlie の代わりに je suis buddistを貼って。

それぞれの宗教が横一列 

そのマニュフェスタシオンは素晴らしい。

夜になってもなかなか去らない人々。

一つ前の写真の応用で

Je suis policier というバージョンもあった。私は警察。 殉死された警官達のためにここにいる という意味。

それぞれの想いを発するのがマニュフェスタシオン。

別に 言論の自由だけを主張しなくてもいい。

今日の日記は重いぞ。手に掲げられた看板には

”Vite plus Democratie partout contre a babarie"

野蛮なテロ行為に立ち向かうため、デモクラシーよ、すばやく行き渡れ

 

ヨーロッパの首脳が一カ所に集結して行われたデモ。

フランスの要人が言っていた。

これは宗教同士(イスラムとユダヤ)の争いではない。

野蛮なテロ行為との戦いだ。

そこを強調していました。

 

Êtes-vous Charlie ?

あなたはシャーリー? シャーリーエブドの方針を指示しますか?

ときかれれば

私は シャーリーじゃない

と答える。


私は言論の自由を支持する。 

でもシャーリーの風刺漫画は言論の自由とは一線を画す。

他人の信じるものを悪趣味に笑って、侮辱して 何が得るものがあるのか。

言論は自由でなければならない。

でもそれにかまけて何でもしていたら、言論の自由原理主義だ。

モラルを持って他人の気持ちを察する想像力を持って

その権利を使わなければならない。

 

 


 


幼稚園でのあいのあ 言語習得記録番外編

2015-01-06 15:36:43 | 息子の言語習得記録

明けましておめでとうございます。

5日から子ども達の新学期が始まりました。

同時に9月から年少クラスに行っている あいのあの補習も始まりました。

3歳ですでに補習クラスがあるんですよ。この村の学校は。

放課後、合計3人で3時45分から4時45分まで、少人数で発話を促すそうです。

 

日本語はかいとと比較にならないほど早く習得して

不自由なく意思疎通できる彼女ですので、フランス語、スペイン語もあっけなく

話しちゃうんじゃないかという一時の希望は無くなりました。

 

まず、性格が。

日本人じゃない。

父親やスペインのおばあちゃんが、いくらスペイン語で話しかけても

貝のように口を割らない。頑に首を振るだけ。

ノーったらノーよ

っていうところがピラール(スペインのおばあちゃん)そっくり。

おいしいから一口、どう?おいしいよ

って和食を勧めても、ピラールは絶対 口にしないのと似て。

絶対首を縦に振らないあいのあとピラールのやり取りを見て

ぷっ 自業自得だと内心すっーとしている私。

 

スペイン語は日常生活で使わないからいいとして、幼稚園はもちろんフランス語で営まれているんですけど

そこでも あいのあは ノーったらノーよ の態度を変えない。

確かにフランス語、まだ話せません。でも ありがとう こんにちは さよなら の類の

あいさつや色や動物のフランス語は知っている。

どうして 何も話さないの と聞くと

「あいのあ、恥ずかしがりやさんだから」

しかし3ヶ月経っても、まだ恥ずかしいか。

どうみても話さないという頑な意志がある。

 幼稚園であいのあのポーズ。何を言われてもこれで乗り切っている。

 

クリスマス前に 先生に さよなら と初めて言った。

先生は大喜び。アシスタントの人に サパン(もみの木)と答えた。

アシスタントもびっくり。

 

少しづつあいのあのペースで進んで行くんだろう。

とにかく 自分の中のこれはあり、これはなしが明白。

その能力は私以上。

欲しい物を聞くと すぐ答えが返って来て

その意見は変わらない。生きやすそうだな。

   銅像があった町 Tossa de mar.スペイン

 

これは遺伝なのだろうか?

かいとは もっと日本的、回りに順応的だった。

ただ自分の世界に閉じこもってて人の話聞いてないけどね。

でもそこまではっきり拒否を表現しなかった。

 

あいのあも言語習得記録のノートを残している。

かいとはA3ノート四冊目だけど

あいのあはB5ノート二冊目。

こうして見ると、かいとは記録を取るのに持ってこいだった。

発達がゆっくりで、誤用も多い。

でもあいのあは 文法的誤用は気にならず発達も早かった。

特に助詞や語順のまちがいは少なかった。

不自然さがないと記憶に残らず、結果ノートに記録されない。

 

*例えば、2歳半~3歳半のあいのあ の誤用

-あらない → ない

-ぬぎさせて → 脱がせて これに至っては訂正しても、誤りを認めず ぬぎさせて!で通そうとする。

 

*2歳半から3歳半の会話表現

-忘れてない?

私が置き忘れたのりを持って来てくれて。

-あいのあちゃん、ちょっと行って来るからいい子で待っててね。(私に対して)

-なんか音がしたんだけどなあ~

-久しぶり、ココア飲むわ~。 はあー 幸せ。

-(かいとに忍者のコスプレをさせられて)

だから恥ずかしいって言ってたでしょー....と言いながら現れた。

 

*一方かいと3歳半 の誤用

-これは どこは あるのは? → これが あるのは どこ?と推測

-なには これは! → これはなに!

-こわいの蛇さん  い形容詞の接続まちがい

-あぶないかった  い形容詞の活用まちがい

 

*3歳半の会話表現

-ママ、眼鏡かけてるの はえさん。 → ママは眼鏡をかけてるハエさんの役になってくれ という意味。 

-ママ、やさしいの はちになる → 新しい役をもらった。

 

こうして比べると、かいと、幼い。

しかしかいとは、スペイン語とフランス語をあいのあよりもよく話していた。

今では接続や活用、助詞のまちがいも気にならなくなった。

無くなってはないだろうけどね。