太陽の架け橋さんのブログに紹介されていたので展開です。
かそるらさんが前回コメントで教えてくれたブログです。
リヨンに住む青年が Je ne suis pas Charlieという動画を投稿しました。
いやあ、動画で意見する 私も頭をよぎんなかった訳じゃないんだけどね~
(絶対しない人の論調です、はい)
でもこんな風に理論的にしかもポジティブにはなかなかできませんよ。
3分で終わってしまうわ 私なら。
フランス語ですが動画もよかったら見てください。(1行目の太陽の架け橋さんをクリックしてね)
だって このお兄ちゃん 光ってるよ。じわーっと。
以下Beltaneさんのお話です。
今回は、”私はシャーリーじゃない”をテーマにしました。
というのは今週、パリで襲撃事件があり狂信者たちにより12人が死んだという事件です。これで私もショックを受けました。
それからもう一つショックなことがありました。それは事件の後に、”私はシャーリー””私はシャーリー”というプロパガンダが、社会欄、メディア、あちこちにこれでもかというほど沢山登場したことです。このプロパガンダに全員が従っていたことです。
多くの方から私のもとにも「”私はシャーリー”を流してください」といって来ましたが、「ノン、ノン、私はノン」と拒否しました。ここでのメッサージは「私たちには表現の自由があるから」など、これについては理解できます。では何故、この主張が私には迷惑なのか?
”私はシャーリー”という<EGREGORE>(集団のまとまった考え、一つになった思い、国歌斉唱や祈りなど、ポジティヴなものもネガティヴなものも両方ある)について話したいと思います。みなさんが私の動画から、この問題についてよく理解できるようになれば、と思います。何故、ファナティズム(狂信/熱狂)の罠に堕ちてしまうのか、、この流れが、対立した二つの流れの双方ともファナティズムにつながっていくという恐れを私は感じるので、これを一緒に見てみましょう
どうして狂信的になっていってしまうか?
1)出発は、ある音楽が好きな人に例えると、単に音楽が好き。だから「音楽を聞くと喜びを感じる」という状態です。特にあるテーティストが他の誰かより好きということもなく、ただ音楽一般が好きという感じです。
2)ある日、あるアーティストが他のミュージシャンよりも好きということが起ります。彼の音楽感覚に引かれるし、自分に語りかけるものを感じると。その時に何が起るかというと、そのミュージシャンのCDを買い、コンサートに出かけます。彼の音楽が他のどの音楽より好きになり、彼が大好きになります。ここまでは単に他よりもこっちの方が好きという状態。グルのような感じで、とりたてて問題は発生しません。
3)その次に大きなステップがやってきます。それは自己証明アイデンティティを起こす状態です。このアーティストが大好きになり、彼を自分の自己証明の対象にします。彼の生活に興味を持ち、彼の服装、その他、彼を模倣し始めて、彼を自分の中の一部に取り込み始め、それだけでなく「私は誰か?」というレベルまで行ってしまうのです。ここで漂流(流れに飲み込まれ奔流される)が始まります。
4)それから、この状態よりもっと凄いファナティズム狂信状態が起ります。単に彼を自分自身の代わりに見立ててるアイディンティ化に留まらず、彼以外のアーティストの音楽は排除するようになって行きます。
1)の状態の場合には、誰かがこのアーティストのことをからかったマンガを描いたとしても、大してイヤな感じを受けることはありません。
2)の段階でも、もしメディアがガタガタ悪評を書いても、大丈夫です。「ま、それぞれ好きずきだから、意見の違いがあっても当然でしょう。でもどうしてあの人は彼の音楽が嫌いなんでしょう。どうしてか知りたい、興味ある」という感じ。でも、個人的に痛みはありません。
3)になると、友人などから批判されたりすると、すぐに戦いの中に飛び込みます。そしてそのアーティストを保護します。何故なら、彼は自分の自己証明、つまり自分は彼に同化してしまっているからえす。彼と同心の”エグレゴール”エネルギーの中に入り込まれていてるので、自己として存在するための栄養をそこから吸収し、自分の重心を彼の上にのせているのです。ですから彼が批判されると、まるで自分自身が批判されている様に感いるのですね。
4)ますますこの対立が激しくなり、好きなアーティストをかばうために戦い、そのゲームに巻き込まれ、巻き込まれるからもっと戦う。そして最後は彼の曲しか聞かなくなり、人生すべてをそこにつぎ込む状態になる。ある日、彼を批判する人が現れたら、完全に激怒し、相手に戦いを挑む、という感情的に大変極端な狂信者になってしまうでしょう。
アーティストなどに対する熱狂状態は、一体どいうことなのでしょう?
ある時私たちは”エグレゴール”の中に入ってしまうことがあります。それは魂を持たないエネルギーの塊で、思いや力を他者に与えてしまったことでできるエネルギーです。
”エグレゴール”は沢山あります。芸術のエグレゴール、国歌、国籍のエグレゴール、政治観、世論というエグレゴール、または生き方のそれ、スピリチュエル(精神道)のそれ、、、
どうなっているのでしょうか、イスラムのテロなどの場合は?
それは単にある人がエグレゴールのエネルギーの中に入り込んでしまって、宗教とスピリチュエルのために他者を殺する状態にまで至ったということです。
この事件は私たちに何を見せているのでしょう?
私たちに見せているものは、私たち自身の映しを写して見せているのです。私たち全てはファナティック:熱狂的狂信者です。もし誰かがホモセクシュエルだというと、「え~、どうして、女性が好きじゃないの?」。あるいは「私は菜食です」と言うと、「あ~、あなたはタンパク質が足りなくなるわよ。完全にクレイジーね~」、政治~社会観、家族観などなど。意見が違うとすぐに私たちは狂信的に反応してしまいます。
”私はシャーリー””私はシャーリー”、、、これはどうなっているのか?
これはパリで起った事件における、フランスにいる個人の、自己証明なのです。”私はシャーリー”と宣言することは、風刺画を描いたジャーナリストと自己同化し、彼らを批判アタックする者に対しては、戦いを宣言するという怒りのエグレゴールエネルギーの中に入り込んでいるのです。
しかし、一体これは誰のゲームをゲームしているのでしょう?私たちは誰でしょう?
これは<エゴ>のゲームをしているのであり、<エグレゴール>のゲームをしているのであり、<エゴ>と<エグレゴール>は常に戦争に栄養を与えるのです。
私たち(フランス人)は、地球の反対側で何かが起っても、多くの人たちが殺されていても、それらのエグレゴールにはあまり感心がありません。<人類>という大きな範囲のエグレゴールには少しは気になることもありますが、かたや近くにいる家畜が食べられるために殺されていても全く興味がありません。それから事件は近くになって私たちの住んでいるヨーロッパになったとたん、それは大変です。ヨーローパ人として自己存在を同化しているからです。そしてフランス、そしてパリ。それから殺された人の友人、家族、、、どんどん、同化の距離が近くなって自分自身がアタックされたと同じくらいに感じるのです。
しかし、真実はどうのようなことのでしょう?
「私たちはこの情報を受けとった」
「私は二本の腕と二本の足と考える頭脳を持っている」
「そして私は自由」
「テロは12人を殺した」
「それは私ではない」
「私は被害者に同化しない」
だから”私はシャーリー”などという煽動広告である<エグレゴール>を取り込まない。それを周りやソーシャルネットワーク網に流さない。何故なら、狂信的ゲームの中に取り込まれてしまいます。
これは誰の徳になるのでしょう?
それは確実に、権力側に作用するでしょう。
外の権力とはどのようなものでしょう?
それは私たちをばらばらに分裂させ、制御することに利用するでしょう。私たち(人類)が喧嘩をしているから、そうして利用するのです。
宗教の権力と政治の権力がぶつかっているのですが、両方同じ戦いのコインの裏と表です。これは二つの<エゴ>が互いにぶつかり合っている状態です。
ぶつかり合っている人たちを沢山見ます。残念です。怒りと恐怖に包まれています。そのような中で、私は戦わないことを選択しました。私はシャーリーではありません。
引用終わりです。
太陽の架け橋さんのブログでは、彼女自身の以下のようなコメントが続きます。
この後、ベルタンさんのスピーチは、自己同化と執着を手放すことへ進んで行きます。
ブレイデン博士の講演も「私は誰か?」の問題に、繋がっていると思います。「人間は個体、固いものではない」ということに大きなヒントがあると思います。
「日本人」とか「フランス人」とかを手放そうということですね。
また、ページをあらため、このテーマを続けて行きます。
太陽の架け橋さんからの引用以上。
ブレイデン博士のことはまだ知りません。
でも日本人とか フランス人とかを手放そう
それは分かると思う。
気になった人は 太陽の架け橋さんのブログをチェキラウ!