たえず違和感を感じてしまうようなら
しばらく旅行に行ってきなさい
帰ってきた時には
よそよそしかったその場所がぐっと身近になっているから
これは私が経験から学んだ事実。
こんな違和感を含んだ寂しさをやっと感じなくなってきた。
こちらに来て4年が過ぎた。
2005年の初夏に来て以来、日本に帰ったのは2度だけど
滞在日数にすると4週間。
協力隊のときより帰ってない...
当初私が感じていて最近まで感じていた感覚は
居場所がない落ち着かなさとでもいうか
例えば、日曜日の午後なんかに、特別やることもなく時間をつぶす時顕著になる。
日本にいたら、することがなくてもぼんやりと休日が過ぎていってそれが苦痛じゃない。
でも馴染みの無い場所だと、することがないと、それが苦痛。
いたたまれない気持ちになる。
こちらに来た直後、そんな日曜の午後散歩をしながら(しかも秋の曇天の下)
ああ、この場所と、もっとfamiliarになりたい と願ったものだ。
得体の知れないさびしさ、わびしさ、落ち着かなさに負けそうになりながら。
あちこち足で歩けば、風景がありふれたものになるかと試みたけど
結局4年かかった。
この感覚。
もしかして日本人特有の物かもしれないとずっと引っかかってきた。
自分を取り巻くものとの関係性。
環境が大事、環境との調和、環境への帰属。
自分がそこに含まれている と思える事。
知り合いも無く、慣れ親しんだ物も無く、思い出もない場所で
言葉もできずに住み始めたことは簡単な事ではなかった。
ふと思う。
でもこれって子どもの頃、1週間がなかなか終わらなかったのと
同じ感覚かもしれない と。
子どもの頃、自分の母国でさえ まだ未知なことだらけで
毎日がごつごつしていた。
もっと 生きにくかった。
いつ頃からだったろう、時間がなめらかに流れ出したのは。
とにかく、こういう寂しさをスペイン人の夫は感じていない。
彼は、大切な人に会えないというのは寂しいが
場所はどうでもいいように見える。
私は、人も大切だけど、だからといって会いたい人がみんなこっちに来たら
寂しくないのか というと絶対にそうではない。
どちらかというと、私がいた場所に、もう一度含まれたい
と願っている。
何なんだろう。
場所って。
おそらく 私の自我がその場所に 霧のように拡散しているんじゃ
ないだろうか。
自分と環境が一体化している というか。
そんな気がする。