雪の朝ぼくは突然歌いたくなった

2005年1月26日。雪の朝、突然歌いたくなった。「題詠マラソン」に参加。3月6日に完走。六十路の未知の旅が始まった…。

髭彦閑話36 「捨てるカミあれば拾うカミあり―神護寺と直指庵」

2010-12-03 15:27:51 | 髭彦閑話

今回の京都の旅では神護寺に行くつもりはなかった。
神護寺のある山深き高雄の紅葉はすでに終っているか、終わりかけだろうと思ったからだ。

11月27日、Nさんと竜安寺から歩き始めるころには曇り空も晴天に変わり、竜安寺と隣りの仁和寺で紅葉を楽しみながら写真を撮った。
予定では、その後、大覚寺まで下り、そこを起点にして嵐山渡月橋近辺の予想される大混雑を避け、嵯峨野の寺寺をめぐるつもりだった。
Nさんが、荷物が重いので、仁和寺の先の福王子から高雄に向う街道の少し入ったところに取った旅館「やまざき」に寄って、荷物を軽くしたいと言う。
そこで、仁和寺の前からタクシーを拾った。
おしゃべりで愛想のいい運転手さんに、Nさんが「当然、高雄はもう紅葉は終ったでしょうね」と話を振った。
すると思いがけないことに、「いやあ、今年はまだ見ごろですよ。神護寺には昨日行ってきたばかりです」という返事が返ってきた。
実は、Nさんは前々から神護寺に行ってみたいと言っていたし、僕も紅葉が盛りならぜひ行ってみたいとは思っていたのだ。
二人で顔を見合わせ、「じゃあ、神護寺に行こうか!」と一決した。

「やまざき」でタクシーを降り、Nさんの荷物を置かせてもらい、そこで昼食を済ませてから、バスで高雄に向った。
二人とも神護寺は初めてである。
参道が一度かなりの谷間を下って川を渡り、対岸の急傾斜をまたかなりの上りになっていることさえ知らなかった。
その急傾斜の参道を下り始めるとすぐ、素晴らしい紅葉が見え、期待が高まった。
ところが対岸に渡り、急な階段を登り始めると様相が一変した。
辺りのもみじはすでに落葉するか茶色に変色し、明らかに紅葉が終っていることを示しているではないか。
それでも汗をかきつつ、山門まで登り着いた。
僕が500円の拝観料を払うつもりでポケットの小銭を探っていると、Nさんが待て待てと制止する。
なるほどと、ちょうど門前で落ち葉を掃いている寺の小僧さんをつかまえ、単刀直入に聞いてみた。
「500円の拝観料を払って入る価値がある? 紅葉はもう終ってるんでしょ?」
不意をつかれた小僧さんは一瞬答えに窮し、一呼吸置いてから「はい、ほとんど終ってます。…でも、奥にちょっとだけなら残ってますよ」と正直に教えてくれた。
もちろん、ふたたびNさんと顔を見合わせて「やめよう!」と一決したのは言うまでもない。

もう一度谷間に下り、また上って、バスで仁和寺まで戻った。
あの調子のいいタクシーの運転手にすっかりだまされ、往復2時間のロスである。
仁和寺前でまたタクシーを拾い、大覚寺までやってくれと言い、神護寺の一件を話した。
すると、今度の運転手さんは「神護寺はとっくに終ってますよ。大覚寺もいいけど私が好きなのはジキシアン(直指庵)ですね」と言う。
いろいろ聞いてみると、大覚寺の奥の山際にある小さな庵で紅葉が見事らしい。
そこで、直指庵に直行してもらうことにした。
正解だった。
神護寺行きで時間を食ったため、陽がだいぶ低くなってぎりぎりのところだったが、直指庵の紅葉はたしかに素晴らしかった。
まさに、捨てるカミあれば拾うカミあり。
最初の運転手にだまされて神護寺に行かなければ、2番目の運転手に会って直指庵を訪れることもなかったのだ。
まあこれで良しとしようと、Nさんと笑いあった。

紅葉を愛でし心の古都に満ちみち―神護寺1
紅葉を愛でし心の古都に満ちみち―神護寺2
紅葉を愛でし心の古都に満ちみち―神護寺3
紅葉を愛でし心の古都に満ちみち―直指庵1
紅葉を愛でし心の古都に満ちみち―直指庵2

紅葉を愛でし心の古都に満ちみち―直指庵3




コメント    この記事についてブログを書く
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« 紅葉を愛でし心の古都に満ち... | トップ | 101204 日々歌ふ »
最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。

髭彦閑話」カテゴリの最新記事