君と吾とここに絶えなむ優性の遺伝やさしくなみうつ髪も(本田鈴雨)
愛しあい、睦みあう五十歳前後の、しかし子のない夫婦を詠った歌でしょう。
作者は、もしかしたらまだぎりぎりで人工授精技術でも駆使すれば子を生すことが絶対に不可能ではない年齢、なのかもしれません。
<ここに絶えなむ>という表現に、それを感じます。
<なむ>は、完了・実現が確実なことについての推量を表わす古語です。
<…テシマウダロウ><キット…スルダロウ><…スルコトハマチガイナイダロウ>。
五十を大きく過ぎたならば、もはや<なむ>という推量の表現は成り立ちません。
なにが確実に絶えてしまうのだろうかといえば、<優性の遺伝やさしくなみうつ髪も>です。
<君と吾(あ)と>がそれぞれに持つ<優性の遺伝>は色々です。
その中でもとりわけ印象的なのが、<なみうつ髪>なのでしょう。
俗に言う<天然パーマ>です。
おそらく、夫婦そろっての。
だとすれば、妻はともかく、五十を大きく過ぎた夫に<やさしくなみうつ髪>の表現は似合いません。
<ここに>も微妙です。
<君と吾(あ)>は、ともに一人っ子なのでしょうか。
だとすれば、<ここに>には二重の意味がこめられていることになります。
つまり、ひとつは、子を生すことがほぼ確実に不可能となってしまった今という時間です。
もうひとつは、ともに一人っ子の<君と吾(あ)と>の間という場所です。
両方の祖先から連綿として受け継がれてきた<なみうつ髪>などの優性遺伝が、二人の間で永久に絶えてしまうことになります。
ところで、この歌の<なむ>という表現ですぐ思い起こされたのは、なぜか牧水のあの歌でした。
<幾山河越えさり行かば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく>
人生を旅に喩えれば、鈴雨さんの歌も人生という旅の大きな一区切りでの歌として読むことができるでしょう。
そこに<寂しさ>がないと言えば嘘になります。
しかし、牧水の歌の底にある若さゆえの焦燥感のようなものはここにはありません。
牧水の歌を借りれば、
<幾山河越えさり<来な>ば寂しさのはてなむ国ぞ今日も旅ゆく>
とでもなるでしょうか。
因みに、僕も母からの優性遺伝で<天パー>です。
ただし、六十路半ばに達してかなり<寂しさ>が増していますが。
ははは。
つい先日、久々にこちらへおじゃましてみたばかりでした。
じっくりと鑑賞されていて、読み応えがあります。
拙詠も取り上げていただき、ありがとうございました。
とても丁寧に深く読んでくださり、作者冥利に尽きます。
暑中、ご自愛くださいませ。
ありがとうございました。
勝手に五十歳前後などと推定してしまいましたが、状況の解釈に大きな誤りがないことを祈ります。
このところさっさと完走してしまって、他の参加者の歌をきちんと読むこともしないのは良くないと、反省しています。
とはいえ、まだやっと<013:優>まで来たに過ぎません。
これからもぼちぼちとしか進めないと思いますが、よろしければときどき覗いて見てください。
ますますの御健詠を。