いまさらながらの原点回帰
あの世に聞いた、この世の仕組み
宇宙立この世学院.6
※初めての方はこちら「プロローグ」、「このblogの趣旨」からお読みください。
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前回の記事で僕が表現の仕方に非常に迷った部分。
それが『Q. 善とは何か。』です。
本当は『Q. ○とは何か。』ってしたいぐらいなんです。何とも、言葉に出来ない。
この「○」は、前回のコメント欄にあった「真善美」という言葉の一つ上の階層に当たるイメージなんです。
<<善>>
┏━╋━┓ ←図にするとこんな感じ。
真 善 美
でも。「○とは何か?」なんて言っても、何を指しているのかさっぱり分からないので、とりあえず「善」を入れてみたんです。
「真理」って言葉を入れても、何だかピンとこないし。
ちなみに、この「真善美」って言葉も難しいですよね。
しんぜんび【真善美】
認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。
※大辞泉より
しんぜんび【真善美】
人間の理想である、真と善と美。それぞれ、学問・道徳・芸術の追求目標といえる、三つの大きな価値概念。
※大辞林より
「じゃあ、結局それって何なのよ?」ってなるでしょ?(僕だけ?)
とりあえず、上記の説明でも、「真」「善」「美」は3つの概念として分裂しているのですが、僕が書いた「善」の意味合いはその3つを総括することなんですね。
なぜそれを「真」とするのか。
なぜそれを「善」とするのか。
なぜそれを「美」とするのか。
それらに共通してある「よい(善い・良い・好い)」というもの。
ヾ(`Д´メ)ノ″ 「あー!なんだかじれってーなぁー!おいっ!!」
とりあえず、キリがなさそうなんで話を戻します。^^;
前回、『その魂が、どんな「仮説」を持ち、どのような方法で検証しているか。それが「個性」となる。』というお話をしましたが、あなたの持っている「仮説」はどのようなものでしょうか。
多分それは、あなたの中では「仮説(不確定なもの)」ではなく「定説(当たり前・常識)」として認識している部分です。
以前、雲さんに言われたひと言で、こんなものがあります。
( ̄Д ̄) 『お前の常識は、他人の非常識。』
なんだか「日本の常識は、世界の非常識」みたいですよね。w
でもね、これって、意識すると、ホントに物事の捉え方が変わってきます。
自分の持っている「常識」は「定説」ではなく、あくまで「仮説」の1つに過ぎないと自覚するんです。
そして、誰かとコミュニケーションをとる際、「この人は、どんな仮説を元に物事を考えているのか」という目線で捉えると、ちぐはぐだったやり取りが、徐々に像を結んでいく感じを掴めると思います。
ああ、この人は「幸福は、いい人との出会いに比例する」という仮説で生きているんだな、とか、あの人は「幸福は、自分が優位であることに比例する」という仮説で生きているんだな、っていう感じで見つめてみる。
これ、その人の「幸福」を見るよりも「不幸」を捉える方が顕著に分かるかと思います。
何に嘆いているかで、その人(自分も含む)の「仮説」が見えてくる。
病気で嘆いている人がいたら、その人は「幸福は、健康状態と比例する」という仮説を持っているということ。
でも病気であろうと、「私は幸せだ」と思っている人もいますよね。その人から見たら、この仮説は誤りなワケです。
そういう風に周りを見ていきますと、ある面白い発見があります。
大抵の人は、その内容に違いはあれど、「幸福は、境遇に比例する」という仮説で生きています。
この意味、分かりますか?
「もっと楽しい事があれば、幸せになれるのに」「もっと裕福になれば、幸せになれるのに」「もっといい家が、環境があれば、幸せになれるのに」「もっと有能な人が周りにいれば、幸せになれるのに」「もっと自分より不幸な人がいれば、幸せになれるのに」「もっと優しい人に出会うことができれば、幸せになれるのに」「もっと美味しいものが食べられれば、幸せになれるのに」「もっと痩せていたら、綺麗ならば、幸せになれるのに」「もっといい親だったら、幸せになれるのに」「もっと毛が多ければ、幸せになれるのに」「もっとSEXできれば、幸せになれるのに」
もっと、もっと、もっと…と、望んでいるのは、様々な『出来事・境遇・出会い・その他諸々』。
そうして見てみると…
あれ? これらの望みは全て、宇宙立この世学院高等学校の「教科書・教材」ではなかったか?
「幸せ」という名の「答え」を求めているつもりが、「新たな教科書・教材」を追い求めているだけだった。
( ̄Д ̄) 『いくら教科書・教材の数が増えようが、その種類が変わろうが、それを使って勉強しなければ、いつまで経っても「学力」が向上するわけないではないか。自分の頭の悪さを、「教科書が悪い」と責任転嫁して「もっといい教科書なら」「もっといい教材なら」と言っては、「勉強」そのものから逃げ続けている。どんな教科書を手にしても、勉強を始めない。』
( ̄ε ̄;|||・・・ 「なるほど。この学校の偏差値が低いワケだ…。」
←幸福は、ランキングに比例する。(立証できそうにない仮説)
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前回の記事で僕が表現の仕方に非常に迷った部分。
それが『Q. 善とは何か。』です。
本当は『Q. ○とは何か。』ってしたいぐらいなんです。何とも、言葉に出来ない。
この「○」は、前回のコメント欄にあった「真善美」という言葉の一つ上の階層に当たるイメージなんです。
<<善>>
┏━╋━┓ ←図にするとこんな感じ。
真 善 美
でも。「○とは何か?」なんて言っても、何を指しているのかさっぱり分からないので、とりあえず「善」を入れてみたんです。
「真理」って言葉を入れても、何だかピンとこないし。
ちなみに、この「真善美」って言葉も難しいですよね。
しんぜんび【真善美】
認識上の真と、倫理上の善と、審美上の美。人間の理想としての普遍妥当な価値をいう。
※大辞泉より
しんぜんび【真善美】
人間の理想である、真と善と美。それぞれ、学問・道徳・芸術の追求目標といえる、三つの大きな価値概念。
※大辞林より
「じゃあ、結局それって何なのよ?」ってなるでしょ?(僕だけ?)
とりあえず、上記の説明でも、「真」「善」「美」は3つの概念として分裂しているのですが、僕が書いた「善」の意味合いはその3つを総括することなんですね。
なぜそれを「真」とするのか。
なぜそれを「善」とするのか。
なぜそれを「美」とするのか。
それらに共通してある「よい(善い・良い・好い)」というもの。
ヾ(`Д´メ)ノ″ 「あー!なんだかじれってーなぁー!おいっ!!」
とりあえず、キリがなさそうなんで話を戻します。^^;
前回、『その魂が、どんな「仮説」を持ち、どのような方法で検証しているか。それが「個性」となる。』というお話をしましたが、あなたの持っている「仮説」はどのようなものでしょうか。
多分それは、あなたの中では「仮説(不確定なもの)」ではなく「定説(当たり前・常識)」として認識している部分です。
以前、雲さんに言われたひと言で、こんなものがあります。
( ̄Д ̄) 『お前の常識は、他人の非常識。』
なんだか「日本の常識は、世界の非常識」みたいですよね。w
でもね、これって、意識すると、ホントに物事の捉え方が変わってきます。
自分の持っている「常識」は「定説」ではなく、あくまで「仮説」の1つに過ぎないと自覚するんです。
そして、誰かとコミュニケーションをとる際、「この人は、どんな仮説を元に物事を考えているのか」という目線で捉えると、ちぐはぐだったやり取りが、徐々に像を結んでいく感じを掴めると思います。
ああ、この人は「幸福は、いい人との出会いに比例する」という仮説で生きているんだな、とか、あの人は「幸福は、自分が優位であることに比例する」という仮説で生きているんだな、っていう感じで見つめてみる。
これ、その人の「幸福」を見るよりも「不幸」を捉える方が顕著に分かるかと思います。
何に嘆いているかで、その人(自分も含む)の「仮説」が見えてくる。
病気で嘆いている人がいたら、その人は「幸福は、健康状態と比例する」という仮説を持っているということ。
でも病気であろうと、「私は幸せだ」と思っている人もいますよね。その人から見たら、この仮説は誤りなワケです。
そういう風に周りを見ていきますと、ある面白い発見があります。
大抵の人は、その内容に違いはあれど、「幸福は、境遇に比例する」という仮説で生きています。
この意味、分かりますか?
「もっと楽しい事があれば、幸せになれるのに」「もっと裕福になれば、幸せになれるのに」「もっといい家が、環境があれば、幸せになれるのに」「もっと有能な人が周りにいれば、幸せになれるのに」「もっと自分より不幸な人がいれば、幸せになれるのに」「もっと優しい人に出会うことができれば、幸せになれるのに」「もっと美味しいものが食べられれば、幸せになれるのに」「もっと痩せていたら、綺麗ならば、幸せになれるのに」「もっといい親だったら、幸せになれるのに」「もっと毛が多ければ、幸せになれるのに」「もっとSEXできれば、幸せになれるのに」
もっと、もっと、もっと…と、望んでいるのは、様々な『出来事・境遇・出会い・その他諸々』。
そうして見てみると…
あれ? これらの望みは全て、宇宙立この世学院高等学校の「教科書・教材」ではなかったか?
「幸せ」という名の「答え」を求めているつもりが、「新たな教科書・教材」を追い求めているだけだった。
( ̄Д ̄) 『いくら教科書・教材の数が増えようが、その種類が変わろうが、それを使って勉強しなければ、いつまで経っても「学力」が向上するわけないではないか。自分の頭の悪さを、「教科書が悪い」と責任転嫁して「もっといい教科書なら」「もっといい教材なら」と言っては、「勉強」そのものから逃げ続けている。どんな教科書を手にしても、勉強を始めない。』
( ̄ε ̄;|||・・・ 「なるほど。この学校の偏差値が低いワケだ…。」
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コメント ( 21 ) | Trackback ( )
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ちょうど母にそれを言いたくなって、ブログネタにしたとこです。
でももしかしたら、私のほうが非常識だったのかもしれない。(笑)
「もっと・・・なら」を追い求めるのと同じように
「いつか・・・なら」というのもありますね。
私の中にいつも何かを待っている部分があって、それを掘り下げて探求しないとなぁ~と感じているところでした。
「いま、ここ」に満足できるように。
あれ?↑のタイトルはランキングを押すと見てしまうような・・・(笑)
って今もあるんですが(^_^;)
何で与えられているものに目を向けないのか?
ガツガツと欲しがる様子を見ながら育った、ウンザリの子供時代でした。
今では見かけても傷付く回数が減りましたが(^^;ゞ
母は私の小さな頃の様子を「冷めた子供だった」と言い、今では「良き相談相手」だと言います。
そして旦那の母は何故か私をねじ伏せようとしてます。
「私よりも」「私のほうが」「気に入らないっ」
競争しなくてもいい関係になれると良いのですが、姑さんは過去生でもずっとこんな人生してきていた人なんで、次の人生まで持っていくのかな?
分かりやすい喩えで教えて頂いてありがとうございます。
人は色々な価値観(仮説)でものを見て考えていて、
十人十色、ほんと様々なんだなあ、って思って、
じゃ、私はどんなものに価値を見出して生きているんだろう?
どんなものを軸としたらいいんだろう。ってほにゃららになってる
まさに今、知りたいテーマで。興味深く読ませて頂いてます(*^_^*)
安直すぎますか?
「お前の常識は他人の非常識」共感~
私自身は自分が非常識。。。ってか常識がないって思ってるから。。。
それに、そもそも他人の常識なんてわからないもの
常識と価値観てイコールではないけど。。。似てる
。。。とすると、人それぞれだよね
それを、違った価値観の人を排斥しよう等とするから
争いが起きる訳で。。。。
いじめだったり戦争だったり
あと力
優位性ってヤツ?
自分の方が優れていると。。思いたい、見せい
。。。で支配したいのかな?
私の知る限りの狭~い世界では
この優位性を頑張ってアピールしてる人程。。。
実は、それがなかったりすると思う
余裕もないみたい
無いと思うから隠そうとする為の誇示?
自然でいいのに。。。
皆違って皆いい
私と小鳥と鈴と~(金子みすず)
愛で包括するってコトで。。。
最も多少の常識が無いと生き辛い世の中ではあります
反省。。。
だから変ってる人が好きなのかな~~~
勿論、全文自戒も込めて~~
自分ダメダメじゃんっ!
地に足がついていない。
目線を合わせる。
ぐうわぁ~
がおー!
でも、たまには弱音を吐いてみたいと思うのですよ。
私は人が思っているほど大人じゃないです。
いい子じゃないです。
飛びはねたり、大声で笑いたいです。
そんな私を表に出したとき、「不良のする事だ」と言わないで。
感情を出すのは悪い事?
正直になるのは悪い事?「間違ってるよ」と言うのは悪い事?
「皆と仲良くしたいな」って思うのは悪い事?
でも私は私らしくしていたいです。
少しスッキリした~。
暴走しました。
頭冷やしてきます。
これらも結局は多数派が多いというだけで、万人がそう考えるかとしたら違うと思うんですよね
もし仮に、地球外生命体がミロのヴィーナスを見て美しいと感じるのでしょうか?
戦争を含めた争いは悪いものと考えられがちですが、生存競争は悪いことなんでしょうか?
学問にしても、今までの歴史上何度も定説は覆されてきました。これからもそれが起こらないとは言い切れません。
この世に普遍的・恒久に変わらないものはあるのでしょうか?
いい言葉を教えて頂きました~。
感情出していいと思います。
吠えてもいい!と思います。
そこから学びましょって事ですもん。
「もっと」人間は疲れます。
「だけど、もっと!」って言われたら
「ねーよ!」って言っちゃいますねえー。
そんな私は不真面目極まりない学生時代を過ごしてきたので、今必死に自習している落ちこぼれ生徒です♪
戦前・戦中・戦後を味わった父親。
「戦国時代は人を殺せば褒められるのが常識だっただろ」
お父さん。最近になって心から尊敬できるようになりました。
今まで聞いたことのない説明方法でした。
そろそろ足るを知らなきゃいけないのかな~
余計なことを嘆き過ぎてるかもしれない
分を知り、分に生きる。
して、足ることを知るべし
≪ この「○」は、前回のコメント欄にあった「真善美」という言葉の一つ上の階層に当たるイメージなんです。
<<善>>
┏━╋━┓ ←図にするとこんな感じ。≫
真 善 美
このイメージで、やっと思い出しました
古代ギリシァでは多神教でしたから
『それらの神々が【本物】か?
それとも、【神を騙る悪魔】かを判別する為の基準として
【真】・【善】・【美】を、全て兼ね備えている事が≪神≫の条件である!』という事が
何かの本に書かれていました
そして、『人間は、【この世で、神を見つける】ことが、存在理由に成っている』とも
未来、宇宙船に乗って、宇宙所狭しと、宇宙の果てまで飛び回って探し回る理由が
『お前は、【神】を見つけたか?』という合い言葉になっている事も・・・・
だから、インドでは、『貴方は、聖人に会われましたか?』が、挨拶になっています
中国では、『貴方は、貴人に会われましたか?』です
この事から勘案すると
【宇宙立この世学院】を卒業する合格資格は、『貴方は、本物の【神】を見つけましたか?』な~んちゃって!
う~む・・・・・・・・私ら全員不合格!!!
・・・・・・居残り組 ......,,,,( ̄ー ̄;)ゞ ポリポリ
「数字数字って、本質はそこじゃないのになぁ」
とついこの間まで思っていたのですが
数字が本質じゃないと思っていることも本質じゃないような気がふとしたわけです。
数字が必要か不要かはそれほど重要じゃないような気が。
まだ纏まっていないので上手く言えないんですけどねー。
イメージで言うと、螺旋階段を一周してきた感じでしすかね。
真上から見ると一週前と同じベクトルで一歩を踏み出そうとしているけど
見方を変えると一階分の差があるから違うベクトルみたいな。
尚更分からないかもなぁ・・・w
まぁ、俺がアンチ数字体質なことは変わらないので
自分の肌に合う付き合い方・流れ方・考え方を探さねばって感じなわけです。
*いつぞやの四字熟語ネタで導かれた、堕落王子。
ちょっと、気に入ったので飽きるまで使ってみようっと!
ナナジンさんのコメントの中で、
>この世に普遍的・恒久に変わらないものはあるのでしょうか?
っと、ありましたので、『種の保存と子孫繁栄』やっぱコレかなぁーと思いGoogle検索してみると、こんなの(人間の行動と種の保存)http://www.tek.co.jp/president/article.html出て来ました!
序言の中で、こんな事言い切っちゃってます!
「すべての人間は、人間という種の保存のために生きている」。つまりすべての人間は人類のために生きているのであり、それが唯一の目的であると結論しよう。
まだ、全部読んでませんが、ふーん、なるぅーって思う人もいるかなー???っと思って紹介してみます。
なるほど!!
すっきりした!!
最初からワカッテイル事のような気がして
なんか、どんどん心の中の扉が開いてイクみたい・・・・
『常識』ではなく『仮説』ですか~!
なるほど!!
『仮性』から少し剥けた様な気が・・・・・(^^ゞ
(^-^)/
(ジン 魔 シン )です
自分の いろいろの
感じを その まま
いい わるい の
判断を とりあえず
止めて、よく、見ることが 大切だと いうこと
で ございますかな。
何らかの 、観念が、
ないと、発生 すると
いうことは、無いと
いうことで、
ございますかな。
三 (/ ^^)/
かなと思いました
愛をもってするということが良い方向へ向かわせると思うからです
自分がいつもそうであるか?というとそれは別のことですがU+1F60BU+1F4A6
自分の感情も大切にしつつ…
バランスが大事だと思っています