「マイケアプラン研究会」活動報告

マイケアプランは高齢者の権利宣言
いつまでも自分らしく生きるために・マイケアプランを応援します

ほっとなマイケアプランニュース168号より

2016-06-08 | ほっとなマイケアプランニュース


ほっとなマイケアプランニュース第168号より

第3弾! 介護保険学習会「新総合事業 徹底討論」
  日 時:2016年8月28日(日)13:30~16:50
  会 場:ひと・まち交流館京都 2F 和室
      (市バス 河原町正面下車)
  テーマ:「新総合事業における ケアマネジメント・自己選択」(仮題)
  講師: 日下部 雅喜さん
(大阪きづがわ医療福祉生活協同組合 ケアプランセンタ―さくら ケアマネジャー)
 講師 日下部さんは3月まで自治体職員として介護保険の第一線で市民と向き合い、
ケアプランの自己作成にもアドバイスをしてこられました。
一方、大阪社会保障推進協議会や、介護保険料に怒る一揆の会事務局長、
福祉・介護オンブズネットおおさか事務局長、介護報酬の不正を許さない会代表
など福祉問題全般について活躍・提言を続けられ、著書もたくさんあります。
近著「どうなる 介護保険 総合事業」は必見の書
学習会参加費:無料 

終了後、交流会を開催します。於 :からすま京都ホテル サマービアバイキング 
交流会には講師もご参加くださいます。(烏丸通四条下る 西側 ☎ 075-371-0111)
  交流会参加費:3,600円    
                     
  申込み:☎・FAX: 075-581-9956 メール:mycare_hitomachi@yahoo.co.jp
  お名前・連絡先・所属・交流会参加の可否等ご記入の上、8月23日までにお申し込みください。
   

「新総合事業」まで、あと10か月
            マイケアプラン研究会 代表世話人 小國 英夫
                         
 
いよいよ来年度から京都市でも新総合事業が始まる。他にも最終年度まで実施を遅らせている市町村は相当数に上ると思われる。京都市では9月に事業者向けの説明会を実施したいようで、現在担当課での作業が進められている。従ってもし意見や要望を出すのなら6月か7月までに出さないと後の祭りになる可能性がある。
 そこでマイケアプラン研究会らしい意見や要望を改めて考えてみた。要点は以下の通りである。もちろん、これは私見であるので、大いに議論して良いものにまとめて是非とも提出したいと考えている。
 ① 総合事業の利用に際してもサービスの自己選択は認められるべきであり、当然、ケアプランの自己作成も認められるべきである。
 ② 総合事業へのボランティアの参加はあくまでも自主的、主体的なものであるべきで、行政によるボランティア活動の買い上げ(ボランティアの雇用)であってはならない。
 ③ 生活支援サービスは身体介護以上に個別性があり、当事者のライフスタイル(生き方や価値観)を重視したものでなければならない。生活支援の方が身体介護よりはるかに難しいものだという認識が必要である。
 ④ 当事者の状況によっては総合事業と介護保険サービスの両方が必要である場合や、状況の変化(改善、悪化)により両制度間を行ったり来たりする場合があるが、そうした場合に当事者や家族等に混乱や負担がかからないようにすべきである。
 ⑤ 要支援1・2であっても保険サービスを希望する(或は必要とする)場合が少なくないと考えられるが、そうした場合のサービス利用が円滑にできるよう配慮すべきである。
 ⑥ 2015年度の介護報酬改定は事業者にとって非常に厳しいものであったが、加えて総合事業への参加による収支状況の更なる悪化は事業の安定的継続を大きく脅かすものである。こうした事態に対して何らかの行政的配慮が必要である。
 ⑦ 総合事業は行政サービスであり、その点での行政上の責任は明確でなければならない。ボランティア等への安易な委託は責任放棄につながる。
 ⑧ 総合事業は介護予防や地域コミュニティづくりにつながることが期待されているようであるが、果たしてそうした期待や到達目標に対する効果測定(事業評価)はどのように行われるのか、明確にされるべきである。
 ⑨ 介護保険法やそれに基づく介護保険サービスや介護報酬は、政府の財政上の理由等によりしばしば改悪されてきた。しかし、介護保険財政を悪化させている要因は非常に複雑である。果たして京都市においてはそのことがどのように分析・評価されているのか、明確にされるべきである。
 ⑩ 要介護高齢者等が社会的に孤立している状況等は以前から指摘されているが、介護保険制度の運用がそうした状況に拍車を掛けている事実などはどのように考えられているのか。京都市としての分析・評価はされているのか。
 以上に関して十分に議論し、意見書にまとめたいと考えている。ご協力頂きたい。



読 書 会 報 告   『安楽に死にたい』 松田 道雄著 岩波書店                  
   “読書会を終えて”     報告:青木 信雄会員

  2月から4回にわたり『安楽に死にたい』 の読書会を持ちました。著者の松田 道雄は私の義父でした。妻は5人兄弟の松田家の次女で、結婚後は別所帯を持ちましたが、1975年義母が自宅前で交通事故にあい、体が不自由になったことをきっかけに私ども一家が同居することになりました。以来、97年に義母が亡くなり、翌年義父が亡くなるまで、22年間の同居生活でした。
 本の冒頭で著者は、執筆動機として「数え年90になり、体力が弱り、死ぬのが近づいた気配を感じるようになった。どうせ死ぬのなら楽に死にたい」と述べています。さらに文中で、「人の迷惑にならない限り、自分の天分を思いきりのばすのが自由だと言い続けてきたものが、自分の存在そのものが人の迷惑になる時を迎えたらどうするか、もはや自由ではありえない、自由のないところに、生活がありうるか、私の生活は終わったと思わねばならない」と言い切り、1年半後の夜半、急性心筋梗塞で息を引き取りました。89歳でした。全く寝込まず、正に彼が望んだとおりの幸運な亡くなり方でした。自分の生き方を通しました。彼は生前から人に迷惑をかけない、人の世話になることは一切なく、自分のことは自分でしてきた人でした。
 読書会の中で、奈倉 道隆先生は他人に依存することなく、個の自立と自律を求める西欧の近代思想を体現した人ではないかと言われました。日本は良くも悪くも人との関係性を重視した国柄だが、世界の流れは個人中心の近代思想を修正し、関係性を大事にする方向へ、関係性を持った個人の自立・自律へと動いているとも付け加えられました。
 今回の読書会で私がテーマとしたのは、自立した依存期間をどう生きて死を迎えるか、ということでした。自立した依存期間と言いますのは、人の健康寿命から平均寿命へ、そこからさらに死を迎えるまでの期間を指します。
 私の場合、今76歳ですから、男の健康寿命が70.4歳、平均寿命が80.21歳ですので、これから4年間プラスアルファということになります。
 先日、NHKのテレビで「人生の終い方」というテーマの放映がありました。がんや慢性の病気、障害が進行した結果、余命がハッキリしている人でしたら、きれいに語れるのですが、高齢者の場合には違和感を感じました。私は老年科医師としてお年寄りを中心に診てきましたが、 多くの人の場合、 だらだらと続く依存ないし介護の期間を過ごさなくてはなりません。「ハイ、おしまい」という訳にはいかないのが普通です。たまに24時間以内で亡くなる“ポックリ死”の方がいますが、著者の亡くなり方も例外的な存在です。

 最終読書会で、代表世話人の小國さんが発言されました。「人に依存する、介護を受けている姿 ― 周囲に迷惑をかけている生きざまや死にざま― を次の世代に見せて学んでもらう必要がある。その練習を今、家で奥さんにさせてもらっている」と言われ、胸を打たれました。
 自分の生命は自分だけのものではない。周りの人、あるいは亡くなった人を含め、みんなに支えられ、支えもして生きている、生かされていると言ってもよいかもしれません。しかし、生き方、死に方は自分で決めるもの、死に方を決めるのは難しいことですが、できれば自分で決めて亡くなりたい。亡くなるまでの間、家族や周りの人にお世話や介護を受けることがあるでしょう。その姿を見せて学んでもらえることを心に刻んだ読書会でした。
 同居中、家では義父をおじいちゃんと呼んでいました。今回、読書会のたびに本から文章を抜粋して書き写し、パソコン清書していましたが、その時間はおじいちゃんと対話しているようで、 私にとっては至福の時間でした。 皆さんとの熱心な討論を通して、いろいろなことを学び、これからの生き方と死に方を確かめることができました。ありがとうございました。
         
             


  介護保険連続学習会 “新総合事業” 徹底討論 第2回 「第7期介護保険事業計画の見通しと問題点」に参加して
                    倉本 文子会員

 今回は会員の奥西 栄介さん(福井県立大学教授)と尼崎市包括支援担当者 寺沢 元芳さんの2名がそれぞれ「地域包括ケアシステムとは何か? 第7期介護保険事業に向けて」
と「尼崎市における介護予防・日常生活支援総合事業の考え方・検討状況などの概要について」を講演された。参加者は会員19名、非会員31名計50名と当初の予定をオーバーし、会場も狭く感じた。
 参加者はチラシ、新聞などから情報を得ての参加であり、介護保険に関心のある人たちであった。当事者としても数名参加されているように思えた。
 介護が公共の中で語られるようになったが、それを受ける個々人には認識差があり、本人の自律を阻害しないよう配慮されたケアプランがどれだけ実施されているか。地域包括ケアシステムの課題の中に、社会福祉法第3条 福祉サービスの基本的理念に「福祉サービスは、個人の尊厳の保持を旨とし、その……、その有する能力に応じ自立した日常生活を営むことができるように支援する……」とある。これらを常に頭においてケアプランをたてるということが忘れがちになり、マニュアル的な処理法で多くのケアプランがたてられていたりする。
 二人の講演で意見交換はあまりできず、新総合事業が実施されると現在の私たちの生活は変化するのかの意見が出されることはなかった。もう少し質問や意見の問いかけに工夫がいったのではないかと思った。たとえば、現在介護家族の方がいて、要支援の今後のありようをサービス提供者やその施設と話をしたなど、具体的な内容がほしいと思う。
 自分たちの介護保険を自分たちで少しでも使いやすいもの(内容)にしていくために徹底討論すべき内容にしていく必要性を感じた。


ますます進む地域福祉崩壊の危機に向かって今何をすべきなのか ~八つ当たり的自己批判の弁、その1~
                 マイケアプラン研究会 代表世話人 小國 英夫                              

私は1961年3月に大学を卒業して以来、病院の医療ソーシャルワーカーを振り出しに、老人ホームの理事長・施設長、大学や大学院での社会福祉の教員(高齢者福祉、地域福祉)を経て、今また社会福祉法人の理事長として社会福祉に携わっている。しかし、私が携わっているのは本物の社会福祉なのかという疑問は30年以上前からの私の悩みである。私も既に喜寿も過ぎて晩年を迎えている。このまま自己批判しないで死んでいくわけにはいかないという気持ちは日に日に強くなってきている。ということで短文ではあるが、ここに「八つ当たり的自己批判の弁、その1」を述べる次第である。諸賢のご批判を期待している。

1990年の第1次社会福祉8法「改正」とゴールドプランに始まった本格的地域福祉崩壊の危機は、2000年の第2次社会福祉8法「改正」と同年度にスタートした介護保険制度によって更に拍車が掛けられた。介護保険制度は地方自治や市民自治の学校などと言われてきたが、社会福祉の中央集権化はますます進み、計画福祉制度によって地方行政は政府の計画にただただ追随するだけになり、市民・住民による自治とは程遠いものとなってきた。
そして1990年度から本格化した事業型社協がそうした動きの中で住民主体の地域福祉を自ら破壊する側に回ってしまった。行政は社協や民間社会福祉施設(社会福祉法人)を支配下において民間社会福祉を破壊して行った。それに対して社協も民間施設法人も、そして社会福祉関係学会、専門職団体、大学を含む専門職養成機関もほとんど抵抗することなく、むしろその動きにシンクロして「生き延びよう」としてきたのではないだろうか。例えば全国老施協などは「介護は成長産業」などといって「福祉の介護ビジネス化」に突き進んで行った。
「福祉国家から福祉社会へ」の世界的な流れの中で、皮肉にも実態としての社会福祉はパーソナル・ソーシャル・サービスの担い手として、社会福祉の民営化(下請け化)の推進役を担い、真の主体性や民間性を放棄し、基盤となるべきコミュニティをますます脆弱化させる結果を招いてしまったのである。
中でも社会福祉士・介護福祉士法に始まった社会福祉の専門職教育は社会福祉のタテ割りを固定化する役割を担ってしまった。相談業務中心の社会福祉士はソーシャルワークの基盤的資格としては機能せず、地域福祉の担い手(コミュニティ・オーガナイザー)についても、コミュニティ・ソーシャル・ワーカーというパーソナル・ソーシャル・サービスの担い手養成に軸足を置いてきたのではないだろうか。これは事業型社協化と表裏をなす関係だったと考える。
その結果、コミュニティの再生にこそ責任をもつべき社協が、介護保険事業者の一員としてしか機能しなくなり、今回の新総合事業においても市町村からの委託により、社協がボランティアやNPOを組織してサービスの担い手になる始末である。この新総合事業に巻き込まれたボランティア(個人や組織)は金銭授受を伴うことにより雇用関係を結ぶことになり、その時点でボランティアではなくなるのである。 市町村が社協を使ってボランティア潰しを進めるわけである。これではコミュニティがますます疲弊するのは火を見るより明らかである。
コミュニティが疲弊すればするほど介護ニーズは拡大再生産され、それに対する介護サービスによって更に要介護者や介護家族は社会的に孤立し、コストパフォーマンスは全く働かないことになり、社会保障経済はますます深刻な状況を招くことになる。まさに最悪の循環が急速に進んで行くのである。消費増税をしても焼け石に水だと覚悟すべきである。
こうした末期症状に特効薬のある筈もないが、 遅ればせながらも産業福祉の開発が不可欠だと考える。労働者・サラリーマンのワークライフバランスを進めることで、地域社会の担い手を創りだす以外に方法はないと考える。しかし、こうしたことに関しても行政主導で行っては決して成功しない。 企業と市民の固有の責任において取り組むべきである。官製春闘などという言葉が飛び交っているが、 産業福祉と地域福祉の主体はあくまでも企業と市民でなければならない。これが車の両輪として機能しはじめてこそ福祉社会への道が開けるのである。福祉社会は福祉国家の下請けではないことをシッカリと自覚すべきである。

【注】
政府は昨年秋に「一億総活躍社会」を掲げて各種の改革を進めようとしている。今までの「三本の矢」を一層強化した?「新・三本の矢」政策を打ち出した。新・第一の矢は「希望を生み出す強い経済」ということでGDP600兆円を目指してい   る。 新・第二の矢は「夢をつむぐ子育て支援」ということで希望出生率1.8を目指している。新・第三の矢は「安心につながる社会保障」ということで介護離職ゼロを目指している。このうちの特に新・第三の矢に関してはこのニュースの160号  で取り上げたのでご参考にして頂きたい。
  ところで本稿では産業福祉の一環としてのワークライフバランスを今後の重要課題としているが、ワークライフバランスの歴史は1980年代のアメリカまで遡る。1980年代のアメリカではIT技術が多くの産業分野に導入され女性労働者の割合が急
増し、それが人々や企業の考え方に大きく影響してワークライフバランスという取り組みにつながっていった。 日本でも同じ時代に男女雇用機会均等法が成立。 その後の男女共同参画社会という考え方につながっていった。そして男女雇用機会  均等法から30年が経過した昨年、女性活躍推進法が成立し今年4月1日から施行されている。
  従ってワークライフバランスは決して新しい考え方ではない。しかし、日本の産業やそこで働く労働者の現状を見る限り、ワークライフバランスはほとんど進んでいない。皮肉なことに子育てや介護、そして地域福祉に取り組んでいる福祉現場  の状況は極めて悪い。そうした中で政府(総務省)は今年度「フルタイムで就業している男女が参加しやすい地域活動の在り方等について意識調査」を行うと言っている。
 しかし、政府や自治体にとやかく言われる前に企業や市民が主体的にコミュニティの再生に取り組まなければ結局は「官製コミュニティ」に終わってしまう。日本人は明治以後(特に第二次世界大戦後)、政府に依存し過ぎである。政府に頼る  ことなく市民文化、地域文化を自ら創り出すことが喫緊の課題である。



  会員より ふたこと みこと  (1)たそがれ通信 39 
                               
    生活実態の把握・論議・企画・役割遂行・検証はいつでも どの分野でも  
 
                         藍 植男 会員

 「前回までの 二宮金治郎 = 尊徳=の紹介は、抽象的で分かりにくかった」とのご意見をいただきました。具体的な場面に即して民衆に納得されるやり方で事業を進めた実例を出しませんでした。それと、「王は 」などと著者に氏をつけず研究著作のご苦労に対する敬意を失した書き方だと反省しました。また、見城 悌治氏の本の内容を紹介すると書きましたが博士論文関連で細かすぎ、取りやめます。順序が逆になりましたが、今回は、彼の具体的な言動の紹介と、そこから連想される昨近の事象・事件と批評等(ℂ印)を綴ることにします。
  金治郎がその置かれた場でどのような行動をとったかについては、長年 彼の身辺に密着して過ごし 聴取った話を(「如是我聞」の形で)記した 福住 正兄氏の『二宮翁夜話』が具体的です。現代語訳で、野沢 望史氏『二宮尊徳の訓え』(小学館2001年刊)や 児玉 幸多氏『二宮翁夜話』(中央公論新社2012年刊←「日本の名著」) があります。(今春のNHKの放映では、ごく一部 「積小為大(小さい努力の積み重ねが大きな成果に実る)」の紹介だけでした。)
  国定教科書では、明治天皇の次に多い教材として「金次郎」が取り上げられ、臣民・少国民の教化・育成に奉仕したのですが、教育正常化の旗を掲げる人の本からも、通して読めば私たちが以前に教えられたような姿は浮かんできません。ぜひ金治郎自身の話の部分を、時代的な・身分的な面での条件を頭において、じかに・虚心で読んでいただきたいと思います。

  ■ 小人は大きなことを望んで小さいことを軽んじ、できにくいことを心配してできやすいことに取り組まない。それで結局、大きなことを成就できない。 ℂ 耳が痛いですね。どこでも通用するような言葉ですが、彼は、相手や事情に即して具体的な事例とか数値をつけます。例①田地は1鍬ずつ耕して1株ずつ植えるものだ。それが実ると 1升64800余粒になるのだ。②利倍帳を調べてみて、2か年目の利息に1文(1/1000両)の違いがあったところ、180年で141万9895両294文9分5厘の差になった。初めの毛の先の違いが末には千里の差になる。
■ 天の道は自然で、人の道はその反対の人為だ。天理は不変だが人道は努めなければ廃れる。人道は欲を抑え我を制し 努めることで成り立つ。善心が起こったらすぐに行動せよ。実行だけが誠意の証。理想だけでは現実は変えられぬ。人生の真理は自然から学べ。心眼で見よ。   
ℂ 当時の教えでは、天の意を受けた上の意向に従うのが、人の努めるべき道とされていました。彼は生涯に亘って主流に反する自説を、いろいろな例を挙げて繰り返し説きあかしています。
  ■ 誠の道というものは、学ばずに知り 習わずに覚え、おのずから心に悟って忘れない。記録・書籍・師匠なし不学不習で明らかな道でなければ、誠の道ではない。書籍のうえに道を求める学者の論説は、私の採らないところだ。/ わしの師はこの馬だ。学者の豆は一千万字あっても、馬は見向きもしない。/学者は実に詳しく講義するが、活用することを知らないので、世の中の役に立たない。ℂ 彼はあからさまに学者と坊主を信用しないと表明しています。自分自身が体験し、工夫し 確かめて、血肉としたものを確信しているからだと思います。
  ■ 学者や民を治める職にある者が飢えた人に草木や木の皮・葉を食べろと言うのは悪い。一時の飢えは救えても病気になれば救えず、恐ろしいことだ。自分は、2度の飢饉の時に、老人・病身・婦女・幼少の者を集めて、寝るなりして生き延びるよう言い、1日1合を4度の粥にして配った。体力のある者には、たくさん食べさせその分働かせ、普段より多くの給金を出した。こうすれば、一時の窮乏を救うだけでなく、自然に勉強し仕事を覚え、怠惰者・弱者・愚者・幼者も 種々の稼ぎを覚え、精業に就くようになる。無利息金貸付けにも勝る 良法だ。
  ℂ 夏のある日、茄子の味覚が秋のものと感じた金治郎は夜を徹して領内外に手紙を書き、受け取った代官等が直ぐに訪ねて来るなどして、収穫前の木綿を抜いてソバや大根等を蒔かせた。以前からの彼のヒエ・籾米備蓄指導のせいもあって、領内では餓死者を1人も出さなかった。
  今 東北では5年経ってもひどい仮設住宅に押し込められている人・県外避難の人が10万人超、熊本では1月半して罹災証明が渡され始めたとか。役人達はなにをしているのでしょう。
  ■ 相馬の2村で復興計画着手1年めに400俵の計画以上の米が得られた。仕法の開始を金次郎に頼んだ指導者が倉を建てこれを備蓄しようと報告に来た。これに対して彼は「村里の復興をはかる者は、米・金を貯えることではなく村里のために消費することを第一とすべきだ。よく協議してこの村にとって急務だということを先にし、それが終わったら山林を仕立てるとか土壌を改良するとか飢饉・疫病に備えるとかなど考えられたらよかろう。」と助言した。
  参考:彼は計画に際して幾通りかの異なった数値での計算をして、領主の支出を抑えた予算を組ませ、計画により増産できれば農民に還元することにして、守らせました。相馬藩の復興事業の場合には、計画に従い領主・藩士・百姓が27年間努力し、開墾田畑1,379町歩(経費21,180両)・溜池692か所(19,400両)・溝渠108(17,620両)その他の工事で、租税米増加102,872俵・分度外(農民還元)米248,220俵を産し、戸数1,135戸増・人口21,715人増でした。
  ℂ みんなの年金基金を株に放り込んで大損させたり、日銀政策委員を全員 上の意向に従う者に変えたり、人気と影響力のあるキャスターを追い出させたり⋯、そして何十億では済まない税金を使ってサミット(そこでの発言もなかったとの話も。)を利用した末、事実上政策は行き詰まったことを認めた首相。 連日「立法府の責任者」と公言の殿に 諫言する器量などない連中は、兵器が病院の攻撃に最も効果を上げているという情勢を知らずか、昨年度3億円だった兵器開発研究補助金を〈来年は100億円にしろ〉と要求。そして、受入れる学長は〈それが学問〉との理屈を開陳しています。 理も情もそして譲もない所に 未来はあるのでしょうか?
  ■ 富貴を求めて止まることを知らないのは、凡俗の人の共通病である。そのため、富貴を長く保つことができない。 際限もなく買い求めようとするのは、山の頂上にいてなお登ろうとするようなものだ。 富者でありながらなお自己の利益だけを求めれば、あくまで奪い取るようになることは疑いない。 これが禍が起きる原因であって恐ろしいことであり、愚かなことだ。
   ℂ 年中無休で粗衣粗食、握り飯を携え未明に村の調査に出かける金治郎。村人が感謝の意を込めてご馳走を出しても、菜1つに箸を付けるだけ。「皆に1汁1菜で復興に努めよ!と言っている私に今後このようなことをするな」と言い、遠慮だと思い再度何菜かの膳を出すと始末書までとった。生活がよくなったとお礼や余分の利息を届けても、自作の野菜等のほかは受け取らず、士分になるまでに働いて得た家産を 赴任の際に処分してからは、俸禄や賞金はすべて公の基金に繰り入れたり褒賞金に使ったりして、 生涯 資産を一切持たなかったそうです。
  沖縄・大阪に限らず夕食がたべられないこもたくさんいるなかで、T社の重役はボーナスが1億3000万円とか、Mがまた政治資金を好き放題使っていたとか、A首相のお友達Aが大臣室で600万円もらっても起訴しないとか、山頂より上に登ろうとするような話が溢れています。模範を示すべき権力者・余裕のある人がこのようでは、彼の言う災禍は避けらないでしょう。  
  ℂ 金次郎は「わが道は、勤・倹・譲の三つにある。」と言い、人々の生活向上と自立心向上のため実態把握・検討企画・組織化等を死ぬまで続けました。 現代にも通じるものと思います。


次 回 定 例 会  
★第184回6月定例会
   6月17日(金) 13:15~15:30   ひと・まち交流館京都 3F 第3会議室
         内  容:・新総合事業とマイケアプラン
               「新総合事業連続学習会第2回」開催報告
               「  〃     〃 第3回」について
                資料収集自治体報告
                京都市への提言について
              ・マイトピックス  ・その他
         ニュース発行・発送:7月1日(金)10:00~  

次 々 回 定 例 会  
★第185回7月定例会
   7月15日(金)13:15~15:30   ひと・まち交流館京都 3F 第3会議室
          内  容:・新総合事業とマイケアプラン
                京都市への提言について
               ・マイトピックス  ・その他
         ニュース発行・発送:8月5日(金)10:00~  
   8月定例会はお休みです。
   第3回新総合事業学習会にお出かけください。


つぶやき:介護保険が始まる前夜、街のあちこちで勉強会があった。その頃よく「保険料あって、サービスなし」と言われたが、
        ついに現実のこととして目の前に立ちはだかる。16年たてば、それだけ歳を重ねたことになり、加齢現象を自覚させられることばかり。
        2025年問題のために改革がいると。ベビーブーマー問題だ。その原因は言うまでもない。そんな時代に逆行するような気配。
        “新しい判断”という空疎な言葉、“推敲を重ねた17分”八つ当たりでもいい、何か言わないと、今言わないといつ言うの。



マイケアプラン研究会 事務局
〒600-8127 京都市下京区西木屋町通上の口下ル梅湊町83-1 「ひと・まち交流館 京都」
京都市市民活動総合センター メールボックス33  TEL・FAX075-581-9956
Email :mycare_hitomachi@yahoo.co.jp  
 ホームページ:http://blog.goo.ne.jp/mycareplan
郵便振替:00900-5-120923 マイケアプラン研究会

nt>