「マイケアプラン研究会」活動報告

マイケアプランは高齢者の権利宣言
いつまでも自分らしく生きるために・マイケアプランを応援します

記事のタイトルを入力してください(必須)

2012-04-12 | ほっとなマイケアプランニュース
ようこそマイケアプランニュース122号へ



いまこそ再び「現金給付論争」を

松井 省吾会員
あれだけの大事故にみまわれながら原子力発電にしがみつく政府、企業、専門家、マスコミが一向に減らないのは何故だろうか。いったん作り上げたら、なかなか白紙に戻すのはいかに難しいかを原発は物語っているのではないだろうか。 3年おきにクルクル猫の目のように改定(改悪?)される介護保険制度をみていると、現場(とりわけ家族介護者)無視でスタートしたシステムの断末魔の悲鳴のようなものが聞こえてくる。 平成24年度介護報酬改定の目玉ともいうべき「日中・夜間を通じた定期巡回・随時対応サービスの創設」などにより、「施設から在宅へ」の流れが加速され、在宅で人生を全うする高齢者が増えることが期待できるのだろうか。「今回の改定は施設から在宅へと本格的に舵を切った内容になっている」などと一部のマスコミ・関係者は持ち上げるが、果たしてどうだろうか。こんなことで、これまで笛吹けど踊らない在宅介護サービスは進展すると介護保険関係の官僚・学者などは考えているのだろうか。この改定をみていると、この4月からスタートした「児童手当」を見るようである。少子化に歯止めをかけるために子供1人に1万円前後の現金を出そうというのである。すでに子供のいる家庭は喜ぶだろうが、この制度ができたから結婚し子供を持とうなどという若者が増えるとはとても思えない。「絶望の国の幸福な若者」と言われる団塊ジュニアはそんな日本の将来に絶望してしまっている。そんな端金で流れが変わるとはとても思えない。
それと同じで、在宅介護者は、家族介護者に冷たい介護保険制度に愛想を尽かしているのである。介護保険がスタートして十数年、私たち夫婦は10年に渡って4人の親(要介護5が3人、同4が1人)を在宅で看取った。その後、私は2年間、要介護3の妻を2年間在宅で介護した。 その間12年間、介護サービスは最大限利用させていただいた。それでも、結局、仕事(出版関連の自営業)は半ば放棄せざるを得なかった。育児も終わり、老後の貯えをしなければいけない50代後半から60代前半を介護に明け暮れたツケは正直、大きかった。そのツケが近い将来、2人の息子に及ぶことを気に掛けながら妻は昨年末、先立った。我々夫婦は介護を家族で囲い込んでしまったのだろうか。「介護の社会化」に棹さしたのだろうか。 そんなことはない。 介護保険で使えるサービスはめいっぱい使った。その上で、兄弟や子供たちの力も最大限に活用した。それでも、4人の親を在宅で介護するには、仕事どころではなかった。 現行の介護保険制度の下でそれなりの在宅介護をしようとしたら、仕事と両立させるのは至難の技なのだ。それが証拠に、介護保険がスタートして以降においてさえ、介護や看護のために離職・転職する人は増加しつづけている。総務省の調査では、06年の10月からの1年間に14万人が離職し、02年10月からの5年間でその数は56万8000人にのぼるという。これだってびっくりする数だが、これは表に出てきた数字に過ぎない。介護離職者の数は、実際はこの何倍かになるに違いない。
 介護サービスを施設から在宅へと舵を切ろうというのなら、まず、こうした家族介護者に手厚い支援を差し伸べることから始めて欲しい。費用がかかる割に気休めにしかならない「定期巡回サービス」より、離職・転職して在宅介護に打ち込める環境づくり(取りも直さず経済的支援)に力を入れて欲しい。育児・介護休業法は93日の介護休業を認めている。それなのに、厚労省の08年度の調査では、実際に休業した人は0.1%に満たなかったという。この経済状況下だったら、とても介護・育児で休職などと言っておられない。そうだとしたら、私たちがこれまで主張してきたように、「現金給付」を認めればいい。「介護の社会的インフラが整っていないから・・」といって現物給付一本槍で強引にスタートした介護保険に、そろそろ現金給付も取りいれてもいいのではないだろうか。
ところで、最後に正直に告白しよう。私は、マイケアプラン研究会の一員でありながら、2人の親と1人の妻のメインの介護・看護者でありながら、一度もマイケアプランを実行することはなかった。時間がなかったわけではない。実践しようと思えばできないことはなかった。しかし、取り入れなかった。何故なのか。そのことについて改めて考察したいが、取り敢えず結論を一言で言えば、今の介護保険ではマイケアプランを駆使してもしなくても、受けられるサービスはそれほど変わらない、家族介護は楽になりそうにないと思われたからだ。もし、現金給付もあり、というのだったら、私は絶対にマイケアプランを実践したであろう。親や妻の介護にかまけていたら、今では自分自身が要介護者予備軍に突入した。いくら介護の「ベテラン」でも自分自身の介護はできない。しかし痴呆などでなければ、マイケアプランは可能である。2人の息子の負担を少しでも軽くする為にも、現金給付OKという介護保険の下でマイケアプランにチャレンジしてみたいものである。 しかし、はたして、そのときまで介護保険はもつのだろうか。 この4月から介護保険料月5000円台に突入すると新聞は報道している。 いつまでたっても在宅介護サービスに方向転換できない介護保険に年金生活者などからノーという声が上がる日も遠くない。 今こそ、介護保険のスタートラインに戻った「現金給付論争」を望みたいものである。


 次の世代、更に次の世代へとつなぐマイケアプラン             小國英夫代表世話人

 マイケアプランは自分の日々の暮らしのプランであり、家族とどう向き合って生きていくかというプランであり、誰もが孤立することなく支え合って生きていけるコミュニティづくりのためのプランである。
 より良い介護はより良い人間関係の中でしか成立しない。それどころか介護とは人間関係そのものなのである。学び合い支え合う人間関係である。しかし、私たちはそれぞれ個性をもつ別々の個体である。考え方も生き方も異なる。従ってしばしば人間関係は難しいといわれる。
 私たち現代日本人は何かにつけて人間関係をこじらせたくないために、また自分の生活を大事にしたいために社会制度や商品に依存しようとする。つまり何事も金で解決しようとしている。介護においても同様である。それが介護の外部化(アウトソーシング)につながる。例え自分の子や孫に対してでも「介護のことでは迷惑を掛けたくない」という。
 この度、鳴り物入りで政府が進めようとしている「地域包括ケアシステム」も一皮向けば介護の外部化システムである。「住み慣れた地域社会で暮らし続ける」ために、サービス付き高齢者住宅に収容され、定期巡回・随時対応型訪問介護看護という外付けサービスを受けさせられる。しかもそれらの多くは全国展開している事業者によって「画一的、効率的に」提供されるのである。
 外付けサービスは利用者がまとまって住んでいれば効率的であるが、バラバラに住んでいると移動時間等のロスが出てコストが高くつく。特養などでの施設ケアよりもコストが低くないと介護保険がパンクするということから、利用者を出来るだけ同一建物にまとめて、細切れのサービスを提供しようというのである。こうしたサービス提供システムは一見「個別対応型サービス」のように見えるが、結局はハモニカ長屋を片っ端から順に訪問しないと効率が悪くなるので、実は昔の大部屋における定時介護に近いシステムである。
 
このような介護サービスを誰が望んでいるのであろうか。要介護高齢者は勿論、家族だって本気で望んでいるとは思えない。しかし、こうしたサービスを利用する以外に介護が受けられないとなれば仕方がないというのが実際のところであろう。互いに気兼ねしながら結局はQOL(生活の質)の低いサービスを利用する結果となり、人生のラストステージが惨めなものになりかねないのである。家族にとっても悔いの残る結果となる可能性が大きいのである。
 しかし、私はもっと大事なことが忘れられていると思う。人生80年時代、90年時代となった今日、それをどのように生きていくべきか、老いを生き、死を受容するラストステージはある意味で人生にとって最も重要なステージである。
 昔も随分長生きする人がいたのは事実であり記録にも残っている。しかし、要介護状態で長期間生き続けた人は多くない。長生きする人は元気な人が殆んどだったのである。まさに少数精鋭である。現代とはその点が大きく異なっている。現代は誰もが長生きする時代である。決して元気な人だけではない。いろんな人がいろんな老いを生き、死に至るのである。老いもまた実に多様化している。
 そうした多様な老いを子や孫はシッカリと学ばなければならない。何故ならやがてそれは自分の人生となるからである。老親は子や孫に迷惑を掛けるのではなく、大事な子や孫に身をもって人生のラストステージの生き方を教えるのである。これは父母や祖父母の役割であり義務ともいえる。これを「迷惑を掛けるから」といって避けて通るのは、やがて老いを迎える子や孫が大いに苦労する結果となるのである。
 「老いと死は全ての価値の根源」である。それをどのように生きるか、決して容易い事でないだけに、早くから学ばなければならないのである。人生が長くなった今日、この課題は何よりも重大な学習課題である。
 この学習の機会を逃すと、虐待の連鎖と同様に子や孫も収容施設や擬似住宅で暮らさなければならなくなるのである。つまり、それ以外に生き方を知らないからである。私は現代社会は「予備体験」の出来ない社会だと思っている。昔の人たちは親から子、子から孫へと暮らし方や生き方を受け継いでいった。それが出来なくなった、しなくなったのである。人生は四苦八苦を生きるというのが真理である。楽しいことや嬉しいことはその中にほんの少しあるだけである。だから本当に楽しいのであり嬉しいのである。
 予備体験が欠落している現代社会ではいろいろな悲劇が生まれている。虐待はまさにその象徴である。孤立死も同様である。学ぶとは真似ることから始まる。親や祖父母が最後をどのように生きようとしているのか、それをシッカリと学ばなければならない。しかし、悔いの無い人生などありえない。親も祖父母もまた悔いつつ生き、悔いつつ死んでいく。その現実を目の当たりにして人生を学ぶのである。
 現代人の悲劇は現実から学ぶのではなく情報から学んでいることである。しかしそれは本当の学習ではない。情報とは加工されたものである。現実ではない。生身の人間の現実こそが最高の教材である。人と人との本当の交わりの中で学ぶことこそ真に身に着く学びなのである。
 マイケアプランというのは決して孤独な作業であってはならない。単なる手続きであってはならない。祖父母や親から学び、やがて自分にも訪れる現実に向き合い、子や孫にそれを直接伝えることが人生の重大な課題である。そうした老いを生きるためのプランがマイケアプランなのである。勿論、若い人でも同じであるが。
介護保険のケアプランは自分の人生や生活の中に如何に社会サービスを内部化するか、そのための手続きである。サービスが上手く内部化されることでサービスも生きてくる。そうでないと何のためにそのサービスを利用しているのか判らなくなる。ただ家に居れないからショートステイやデイサービスに行く(行かされる)。 やれといわれるから面白くも無い集団遊戯に加わっている。そうした日々を送っている内にやがて死が訪れる。このような生活には本当に沢山の悔いが残ると思う。例え上手く行かなくても、長くなった人生を何とかして自分らしく生きたいものだと思う。人生を締め括るためのたっぷりとした時間が始めて与えられるようになったのである。長寿社会を老残社会にしないために、それがマイケアプランである。

※ 誤解のない様に付言しておく。私は介護の社会化(介護保険制度)に反対しているのでも、家族介護者に過重な負担を課そうとしているのでもない。但し、真の意味での社会化とは地域のみんなで介護を担うことである。決して介護を外部化(丸投げ)す
ることではない。介護は生活の一部であり、人生の一部だからである。しかし、長期の介護を継続するには介護力、介護技術、介護環境を提供する制度は不可欠である。
※ また、より良い介護を継続するには真の意味でのワークライフバランスの実現が不可欠である。これには企業の社会的責任が非常に大きい。育児休業、介護休業を有給化し、長期化することが必要である。現状ではそうした長期休暇を取得した後には事実上職場復帰がしにくい。しかし、育児経験や介護経験は有形無形の商品生産や流通に非常に重要な経験である。企業はそうした経験を高く評価すべきである。                         

             ある旅立ち
                    
      玉井 敏子会員

 同じホームに入居していた80余歳の女性の旅立ちに伴うもろもろが常に私がそうありたいとの思いに近かったので紹介し、私の思いを交えて書かせていただく。
元気な頃に歩行器で廊下を歩く彼女を見、数回あいさつを交わした以外、彼女のことは全く知らないが、入居時「旅立ちを知らせてもらう人は誰もいない」と宣言されていたようで、後見人(契約した行政書士)とスタッフが彼女の思いに添うよう、ホーム玄関から出棺する際、遺体に数人の入居者とスタッフが花を手向けた。もちろん読経、挨拶、遺影などなく火葬場へ直行した。最近、家族葬が多くなったとはいえ、生前はコミュニケーションをあまり持たなかった親類縁者が集まってきて、「えらかったね」「まあええ人で」とかリップサービスを行い、ひいては弔問外交に花咲かせているのを見ることがある。一方「葬儀は孫の祭」とも言われ、一人の死去により残された人々のコミュニケーションが広がることも事実であって、故人がそれを望んでいたという考え方も認めるが、私自身は周りの人に迷惑をかけ、参列してくれる人の生活のリズムを乱すことになるので葬儀は彼女と同じようにやりたい。私自身としては入居者とスタッフの花の手向けも辞退したい。教育関係のキャリアウーマンであったらしい彼女にはかかわりあった人は多かったと思うが全部断ち切った潔いと思う。彼女は入院治療、一切の延命措置を断り、ホームの居室で最期を迎えたいということで、後見人もホームも受け入れた。このいわゆるターミナルケアについても彼女と同じにしたいと思うが、一点だけは違う。 最期前10日間ぐらいは彼女の部屋の前を通ると「痛い、さびしい、誰か来て」という声が聞こえ胸を痛めた。経済的理由ではなく、外部から看護介護人を雇用することを拒否、ひたすら、つきっきり看護介護不能であることを理解しながらスタッフを呼び続けたらしい。私は経済的に可能なら雇用、経済的に無理ならこれまでかかわりがあった人の情けにすがって「つきそえ」「さすれ」「目を閉じたら何もせんと火葬場へ運んでくれ」というつもりである。勝手すぎるが私の本心である。おりしも介護保険「看取り介護加算」が新設され、死亡日以前4~30日は80単位とかあるが、現実にどう解釈してよいか頭がこんがらがる。既にこの件マイケアプラン研究会で取り上げられているかと思うが、新設をチャンスに視点を変えて検討してみませんか。


 地域力、向こう三軒両隣って?
                               山本 三沙子会員
 
 私たちはここ何年か “おとなり隣人さん”の底力を知りたいとワークショップを開催してきた。大震災を経験したことで日頃のご近所付き合いがいよいよ大切だと痛感したものである。レイプ、DV、略奪などがあったとも漏れ聞くが、当事者間の譲り合い、助け合い、思いやりがあの状況で人々をつつんだことに日本中が、いや世界中が感動し、きずなの深さをありがたく思った。そして日本中から世界中から被災地に向けて義援金が送られ、ボランティアとして力を出し合い、心を添えてきた。 映像でしかうかがい知ることはできないが、復旧にはまだまだ年月がかかるであろう。それでも「負けない!心まで奪われない!」と自らを励まし、手を取り合い前に歩んでこられた皆さんのことを私たちは忘れず、共に歩んで行きたい。
しかし相反する傾向が最近増えてきていることも、また事実である。 町内会からの脱退、学区の団体からの脱退、転出・転入をこれ幸いと自治会への不加入など、「何にも世話になってないのだから入らない。お世話するのもされるのもイヤ! 役が回ってくるのがいや!」という考えだそうだ。 自分のことだけを考え、都合のいいことだけを受け取り、いやなことはしない、なんていう考えでいいコミュニティを作れるはずがない。全く人の世話にならずに生きていけるはずがない。と言い切ることはできないのかもしれない。 この種の人々にはコミュニティなんていうのがそもそも存在しないのかもしれない。 「人と交わるのがいやだからマンションに越してきたのに」という人もいる。幼い二人の子どもをおいて何日も遊び歩いて餓死させてしまった事件のあと、同じマンションに住む若い人々が「自分たちがもっと気をつけていたら、こんなことにならなかったのに・・・これではいけない」とマンション内のコミュニティ作りに取り組んでいると聞いた。 痛ましい犠牲を乗り越えての決断。 自発的な向こう三軒両隣の誕生である。
権利、自由という言葉が幅をきかしている現代、「あの人は好きでやってはるんや」と役をすることをいとわない人への言い草。 “お互い様”、“気にかける”、“思いやる”という心遣いは消えつつあるのか・・・・ いや、あるアナリストはこの気質、美徳が日本人にある限り「祖国は甦る」と力説された。 大震災からの復興、原発問題、新エネルギー問題、領土問題、経済危機、etc.、この国難に自分を捨て、一人ひとりが現状を把握し、学び、考えあい、力を合わせ、心を寄せることが解決の糸口となると。 何にもしなくても、何にも考えなくても日々は過ぎていき、生きてはいける。 しかし、私はよく生きていたい。国の大きなことでなくても、自分の身の回りのことでできることをしていきたい。
さて、新年度を迎え、新しい会員発掘に出かけますか・・・ 

おまけの聞いた話・・長年がんのご主人を介護し見送った友人が、しみじみ言った言葉。最後となった退院時、ご主人が「退院したら、やさしくしてや」と言われたとのこと。結構叱咤激励し、手を貸さないことがご主人のためであると思ってやってきたのに、とってもショックだったと。人間最期には健康なときとは違う、予想もつかない感情をもつのかもしれない。こうすればよかった、と悔いを残さないために思いを遣ることが必要ですね。

次 回 定 例 会                       
★ 第139回4月定例会
   4月20日(金)13:30~16:30 3F 第3会議室  
     内 容:・介護保険改定関連
・ケアプラン自己作者(多摩市より)のお話
         ・ワークショップふりかえり パート3
          「エコマップ」など
         ・5月総会に向けて
         ・ニュースを読む
・その他
     読書会:『提言 要介護認定廃止 「家族の会の提言」をめぐって・・・』 
     
次 々 回 定 例 会 
 ★ 第140回5月定例会・総会
   5月18日(金)13:30~16:30 3F 第3会議室
     内 容:・総会 (事業報告・収支決算報告・事業計画)
              ・介護保険改定関連
         ・その他
~編集者つぶやき~
巣立ちの時、被災地の子ども達のけなげな,勇気ある力強い言葉を数々聞いた。海外でも賞賛は大きい。折れそうな心の内を持ってはいないだろうか。大きくやさしく包み込む力を大人は持ちたい。