七.防衛費を二.五%に
現在の憲法には自衛権の行使を禁ずるという規定はありません。憲法制定時には自衛権はあると解釈されていたことは広く認められています。自衛のための軍隊は持てるという解釈に従って自衛隊は作られています。集団的自衛権については行使を禁ずるという規定はどこにもありませんが法制局の見解として「集団的自衛権はあるが行使は禁じられている」とされています。これは法制局の見解というよりいずれかの内閣の解釈を法制局が見解としてまとめたものにすぎません。憲法制定時には個別自衛権と集団的自衛権の区別は考えられておらず、「集団的自衛権は行使を禁じられている」というのは後世が付け加えた解釈にすぎません。この解釈は硬直的過ぎ、日米防衛担当者会議でもたびたび「日本の集団的自衛権に関する論議は幼稚でばかばかしい」と表明されています。憲法をどう解釈するかは内閣の裁量に任されている部分があり閣議決定でこの解釈は変更できます。日米安保条約を締結すること自体集団的自衛権の行使です。閣議決定で「私の内閣では今後集団的自衛権の行使は禁じられていないと解釈する」とすればいいことです。
集団的自衛権を議論するときの集団とは日本と米国をさすのが普通です。米国の軍事力は十分強力で日本が助けなくとも問題は発生しないでしょう。しかし相手が強力でない場合はどうでしょうか。例えば将来、沖縄が独立して日本と軍事同盟を結んだ場合を考えてみましょう。沖縄が攻撃されていても、日本が攻撃されていない限り日本は沖縄を助けてはいけない。あるいは娘が攻撃されているのに父親は自分が攻撃されない限り娘を助けてはいけないというのと同じです。こういう場合日本が沖縄を助けるのも父親が娘を助けるのも当然のことではないでしょうか。助けなければ卑怯者、人と謗られることは必定です。集団的自衛権に関する現行憲法解釈は歴史上類を見ない卑怯で身勝手な解釈になっています。世界一強力な米国に対してはこれでいいと言うことにはなりません。米国の若者に日本防衛で血を流させることを期待するのであれば日本の若者も米国防衛のために血を流すのが当然ではないでしょうか。米国に協力するのがいやであれば自国の防衛は自力で行う必要があります。自国の防衛は米国にやってもらい、米国の防衛に協力しないというのは通用しません。集団的自衛権の行使を認めたい安倍総理大臣に対して「解釈改憲には反対である」ともっともらしく山崎拓氏が言っていましたがこれこそ一つの解釈に過ぎません。法的な根拠はないのです。解釈で決まった方針を変更するには閣議決定による解釈変更で十分ではないでしょうか。
現在の日本の防衛関係費は国民総生産の一%です。米国と同盟を結んでいたおかげで経済成長に専念できたということになっています。この説は間違っています。米国の国防費は六%です。米国は壮大な無駄使いをしていますが経済は高度成長をしています。無駄使いしなかったから経済が成長したというのはまやかしです。たくさん無駄をすることが経済成長に必要です。先に日銀券を増刷して必要なものを断固実施せよとのべましたが必要なものとして防衛努力があります。防衛関係費を国民総生産の二.五%程度に増加し、自前で危機に対処できる体制を構築することを提案します。人口減でなかなか増えない内需の一部として重要であるのはもちろんです。周辺諸国に脅威を与えるから好ましくないという意見が必ず出てくるが倒錯した議論はもうさよならすべきです。相手に脅威を与えなければ防衛力増強の意味がありません。防衛関係費二.五%にしても周辺諸国のどの国より低い。航空母艦を四,五隻つくり、航空兵力も倍増します。もちろん米国の航空機を導入するのではなく国産を基本にします。国産することで日本のハイテク産業を強化することにもつながります。専守防衛の枠をはずし、相手基地を直接たたけるあらゆる武器を保有する必要があります。どこかの国が何か悪さをしたときに米国に頼んで何かしてもらうというのは日本の恥です。どうして自分でやろうとしないのでしょうか。
日本が被害を受けたのであれば自分で直接たたくのが普通です。日本周辺の安定を米軍の軍事力に守ってもらうのではなく日本の力で守るようにします。当然沖縄の米軍基地の大部分は自衛隊基地に替わることになります。こういう体制をつくらずともそういう方向へ向かうことを明らかにするだけで東アジアの政治環境は劇的に変化します。現在行われている無茶苦茶な中韓からの内政干渉はぴたりと止みます。現在の東アジアの政治的不安定の原因は日本の過度の平和主義にあります。中国の反日デモには必ず「原子弾滅日本」というプラカードが掲げられます。「これはゆうことを聞かないと核兵器を落とすぞ」という意味です。
中国の傲慢な態度と日本の政治家の卑屈な態度の背景にある現実です。日本の平和主義は尊敬されるどころか軽蔑を招いて、東アジアを不安定化しています。政治家の卑屈な態度をなじるのは容易ですが卑屈にならないで済む環境を作る必要があります。国防費を2.5%にすることは東アジアを安定化し、対等の協力関係構築へ向けての不可欠の努力です。
東アジアの歴史認識をめぐる軋轢は、中韓の歴史認識に問題があることは明らかですが真の原因は日本の過度の平和主義にあります。従って国防費を二.五%に増やし、専守防衛の枠をはずし、理不尽なことは自力で排除する姿勢を鮮明にすることが必要です。
二.五%に増強したからといって戦争が始まるわけではありません。今まで通りで何の変化もありません。ただ中韓の態度がもっと節度をもった理性的、協調的なものに変わるはずです。
国連の分担金を二十%払っているといってもわずかな金額です。これで安全保障理事会の常任理事国にしろというのは中国の言うとおり品がありません。中国は「自力で自分の安全を守れない国は安全保障理事会の理事国にはふさわしくない」というのかもしれませんがそれは正論でしょう。国防費を年間十数兆円負担して、自力で東アジアを安定化させる努力を日本は是非やらなければなりません。東アジアを自力で安定化させる力を示すことで常任理事国にふさわしい国家になれます。
平和主義は日本の伝統にかなっており、これからも平和主義の看板は掲げていかなければなりません。ただ平和主義を裏付ける軍事力がなければ平和主義は無力です。民主的で開かれた真の平和勢力の日本が軍事力を持つことで東アジアや西太平洋は安定化し、真の平和が訪れます。継続的な進歩、発展も可能になります。中国や北朝鮮の暴発を抑えることもできます。
「日本の未来をひらく学問の勧め」 牧歌舎、第五章日本政治論第七節防衛費を二.五%により
現在の憲法には自衛権の行使を禁ずるという規定はありません。憲法制定時には自衛権はあると解釈されていたことは広く認められています。自衛のための軍隊は持てるという解釈に従って自衛隊は作られています。集団的自衛権については行使を禁ずるという規定はどこにもありませんが法制局の見解として「集団的自衛権はあるが行使は禁じられている」とされています。これは法制局の見解というよりいずれかの内閣の解釈を法制局が見解としてまとめたものにすぎません。憲法制定時には個別自衛権と集団的自衛権の区別は考えられておらず、「集団的自衛権は行使を禁じられている」というのは後世が付け加えた解釈にすぎません。この解釈は硬直的過ぎ、日米防衛担当者会議でもたびたび「日本の集団的自衛権に関する論議は幼稚でばかばかしい」と表明されています。憲法をどう解釈するかは内閣の裁量に任されている部分があり閣議決定でこの解釈は変更できます。日米安保条約を締結すること自体集団的自衛権の行使です。閣議決定で「私の内閣では今後集団的自衛権の行使は禁じられていないと解釈する」とすればいいことです。
集団的自衛権を議論するときの集団とは日本と米国をさすのが普通です。米国の軍事力は十分強力で日本が助けなくとも問題は発生しないでしょう。しかし相手が強力でない場合はどうでしょうか。例えば将来、沖縄が独立して日本と軍事同盟を結んだ場合を考えてみましょう。沖縄が攻撃されていても、日本が攻撃されていない限り日本は沖縄を助けてはいけない。あるいは娘が攻撃されているのに父親は自分が攻撃されない限り娘を助けてはいけないというのと同じです。こういう場合日本が沖縄を助けるのも父親が娘を助けるのも当然のことではないでしょうか。助けなければ卑怯者、人と謗られることは必定です。集団的自衛権に関する現行憲法解釈は歴史上類を見ない卑怯で身勝手な解釈になっています。世界一強力な米国に対してはこれでいいと言うことにはなりません。米国の若者に日本防衛で血を流させることを期待するのであれば日本の若者も米国防衛のために血を流すのが当然ではないでしょうか。米国に協力するのがいやであれば自国の防衛は自力で行う必要があります。自国の防衛は米国にやってもらい、米国の防衛に協力しないというのは通用しません。集団的自衛権の行使を認めたい安倍総理大臣に対して「解釈改憲には反対である」ともっともらしく山崎拓氏が言っていましたがこれこそ一つの解釈に過ぎません。法的な根拠はないのです。解釈で決まった方針を変更するには閣議決定による解釈変更で十分ではないでしょうか。
現在の日本の防衛関係費は国民総生産の一%です。米国と同盟を結んでいたおかげで経済成長に専念できたということになっています。この説は間違っています。米国の国防費は六%です。米国は壮大な無駄使いをしていますが経済は高度成長をしています。無駄使いしなかったから経済が成長したというのはまやかしです。たくさん無駄をすることが経済成長に必要です。先に日銀券を増刷して必要なものを断固実施せよとのべましたが必要なものとして防衛努力があります。防衛関係費を国民総生産の二.五%程度に増加し、自前で危機に対処できる体制を構築することを提案します。人口減でなかなか増えない内需の一部として重要であるのはもちろんです。周辺諸国に脅威を与えるから好ましくないという意見が必ず出てくるが倒錯した議論はもうさよならすべきです。相手に脅威を与えなければ防衛力増強の意味がありません。防衛関係費二.五%にしても周辺諸国のどの国より低い。航空母艦を四,五隻つくり、航空兵力も倍増します。もちろん米国の航空機を導入するのではなく国産を基本にします。国産することで日本のハイテク産業を強化することにもつながります。専守防衛の枠をはずし、相手基地を直接たたけるあらゆる武器を保有する必要があります。どこかの国が何か悪さをしたときに米国に頼んで何かしてもらうというのは日本の恥です。どうして自分でやろうとしないのでしょうか。
日本が被害を受けたのであれば自分で直接たたくのが普通です。日本周辺の安定を米軍の軍事力に守ってもらうのではなく日本の力で守るようにします。当然沖縄の米軍基地の大部分は自衛隊基地に替わることになります。こういう体制をつくらずともそういう方向へ向かうことを明らかにするだけで東アジアの政治環境は劇的に変化します。現在行われている無茶苦茶な中韓からの内政干渉はぴたりと止みます。現在の東アジアの政治的不安定の原因は日本の過度の平和主義にあります。中国の反日デモには必ず「原子弾滅日本」というプラカードが掲げられます。「これはゆうことを聞かないと核兵器を落とすぞ」という意味です。
中国の傲慢な態度と日本の政治家の卑屈な態度の背景にある現実です。日本の平和主義は尊敬されるどころか軽蔑を招いて、東アジアを不安定化しています。政治家の卑屈な態度をなじるのは容易ですが卑屈にならないで済む環境を作る必要があります。国防費を2.5%にすることは東アジアを安定化し、対等の協力関係構築へ向けての不可欠の努力です。
東アジアの歴史認識をめぐる軋轢は、中韓の歴史認識に問題があることは明らかですが真の原因は日本の過度の平和主義にあります。従って国防費を二.五%に増やし、専守防衛の枠をはずし、理不尽なことは自力で排除する姿勢を鮮明にすることが必要です。
二.五%に増強したからといって戦争が始まるわけではありません。今まで通りで何の変化もありません。ただ中韓の態度がもっと節度をもった理性的、協調的なものに変わるはずです。
国連の分担金を二十%払っているといってもわずかな金額です。これで安全保障理事会の常任理事国にしろというのは中国の言うとおり品がありません。中国は「自力で自分の安全を守れない国は安全保障理事会の理事国にはふさわしくない」というのかもしれませんがそれは正論でしょう。国防費を年間十数兆円負担して、自力で東アジアを安定化させる努力を日本は是非やらなければなりません。東アジアを自力で安定化させる力を示すことで常任理事国にふさわしい国家になれます。
平和主義は日本の伝統にかなっており、これからも平和主義の看板は掲げていかなければなりません。ただ平和主義を裏付ける軍事力がなければ平和主義は無力です。民主的で開かれた真の平和勢力の日本が軍事力を持つことで東アジアや西太平洋は安定化し、真の平和が訪れます。継続的な進歩、発展も可能になります。中国や北朝鮮の暴発を抑えることもできます。
「日本の未来をひらく学問の勧め」 牧歌舎、第五章日本政治論第七節防衛費を二.五%により