土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

お水取りの本家はこちらとばかり、笠置山寺を訪ねました。

2010年12月29日 | 京都の古寺巡り


(2010.12.25 訪問)
島ヶ原から戻ること約20分、笠置町に到着です。笠置大橋を渡るとスグ笠置山登
山コースの狭い狭い道が待ってます。行き違いもままならない道ですが完全鋪装。
だけど向こうから車が来たらどうしよう。
標高289メートルの笠置山全山を境内とする笠置山寺は巨岩、奇岩、大石がゴロ
ゴロ、まさに岩のお寺そのもの。山岳信仰、巨岩信仰の姿アリアリ。日本最大と
思われる大磨崖仏などかなり見応え、巡り応えのある山岳寺院です。巨岩、奇岩
をぬった行場巡りのコースがなかなかのものです。

[ 笠置山寺 ] かさぎさんじ
●山号 鹿鷺山(かさぎさん)
●寺号 笠置山寺(かさぎさんじ)
●宗派 真言宗智山派
●開基 実忠和尚 諸説があり、早い話不詳。
●中興 解脱上人
●本尊 弥勒磨崖仏

笠置山寺縁起
諸説が有り、詳細は不明ですが、奈良時代に東大寺の良弁さん、実忠さんが山中
に籠り、秘法を感得、弥勒の磨崖仏を刻し、草庵を建てたのが草創と伝わり、実
忠さんも修行中、兜率天を感得、十一面観音悔過の行法を東大寺に伝えたのがお
水取りの起源と云われているそうで、面白いお話に、弥勒の秘法がこのお寺の正
月堂で行われたので、東大寺のお水取りの行は二月堂、隣のお堂を三月堂と名付
けたと云う迷説?も有るそうです。
元弘の乱の荒廃はいかんともし難く、全山焼亡、その後の復興もままならず、現
在は江戸期に再建された2~3の堂のみ残るだけの境内です。

▼山門。



▼正月堂(本堂)。
本尊弥勒磨崖仏の礼堂。このお堂の行が東大寺お水取りの起源と云われています。



▼堂内には、デジタル復元された弥勒磨崖仏画像が展示されています。



▼本尊 弥勒磨崖仏。
正月堂対面の大岩石に挙身光式という凹みを彫り込み弥勒仏を線刻した磨崖仏が
本尊ですが、兵火により焼滅、今では確認できません。(大野寺の弥勒磨崖仏を
思い起こして下さい。)



▼十三重石塔。
元弘の乱(後醍醐天皇を中心とした勢力による鎌倉幕府討幕運動)の供養塔だそ
うです。



▼千手窟。
良弁さん、実忠さんが修行した岩窟。



▼虚空蔵菩薩磨崖仏。
平安期の線刻石仏として線刻像が見事に残っています。





▼胎内くぐり。
トンネル状の岩の重なり。細い通路は人一人がやっと。見事なネーミング。何と
なくそんな感じしません?



▼ゆるぎ石。
岩の重心が真ん中に有るので、人が触ると揺れると云う。ウソです、ウンともス
ンとも。



▼ほとんど頂上付近からの木津の流れ。



▼貝吹き岩。
元弘の役に兵への合図にホラ貝を吹いたと云われる岩です。



▼貝吹き岩から西方向、木津の流れ。



▼後醍醐天皇行在所。
後醍醐天皇波乱の旅の始まりはここからととらえていいのでは。
笠置山上付近に残る行在所跡です。この時期あまりにも悲しさを誘うようです。
この後天皇は鎌倉幕府軍にに捕われて隠岐に流される運命が待っています。





▼大師堂。
岩場修行路の終点です。堂宇の姿が見えるとホッとします。



▼鎮守社、椿本護王宮。



▼毘沙門堂。
本尊は楠正成が刻した自身の念持仏と伝えているそうです。



山岳寺院独特の形を見せるこのお寺、変化に富んだ境内は、古の山岳信仰の一端
を見た思いがします。行場巡りのコースがなかなかのものなんですが、風で山頂
付近の行場では恐かったです。

今年の「土曜日は古寺を歩こう」はこのお寺でお・し・ま・い。
このブログ、多くのみなさまにおこし頂きありがとうございました。お礼申し上
げます。

またも一休さん
正月(門松)は冥土の旅の一里塚めでたくもありめでたくもなし。チョンチョン! 
来年もどうぞよろしくお願いいたします。

お水取りはここからの古刹、観菩提寺を訪ねました。

2010年12月28日 | 三重の古寺巡り


(2010.12.25 訪問)
よりによって厳寒日、風の音が聞こえます、どころじゃなかった。小雪が舞って
います、どころじゃなかった。
ひたすら大和街道を島ヶ原に向かっています。
この日は、島ヶ原の観菩提寺と笠置町の笠置山寺を訪ねました。この両寺は「正
月堂」と云う共通名のお堂と、東大寺修二会創始の実忠さんの名前が寺伝に残っ
ているお寺です。

[ 観菩提寺(正月堂) ] かんぼだいじ(しょうがつどう)
●山号 普門山(ふもんさん)
●寺号 観菩提寺(かんぼだいじ)
●宗派 真言宗豊山派
●開基 実忠和尚
●本尊 十一面観音菩薩立像(重文)

観菩提寺縁起
もともとこの地に草庵が在り、東大寺の実忠さんが観音寺として観音堂を再興。
東大寺修二会に先立ち、修正会をこの観音堂に勧修し、旧暦2月11日12日行
われた事からこのお堂を「正月堂」と称されるようになったと伝えます。別伝で
は東大寺の別院と云い「お水取り」の起源ではないかと伝えられているそうです。

▼楼門(重文)。
室町期に建立された立派な二層門。



▼楼門偏額。
山号普門山と揮毫されています。



▼楼門の金剛力士。
なんとも云いようのないお顔です。



▼境内側からの楼門。



▼正月堂(重文)。
本尊 十一面観音菩薩立像。平安前期、像高227cm。
観菩提寺の本堂です。本尊の十一面観音立像は秘仏、三十三年ごとに開帳。



▼正月堂石標。
堂々と国宝となっています。気のせいか、勘違いか、はたまた旧国宝なのでしょ
うか。



▼鐘楼と梵鐘。
梵鐘にはどこかで見た文字が。





▼本堂奥から観音山巡りの参道が見えます。
西国三十三か所石仏観音巡りの裏山を回遊します。



▼参道とは名ばかり、かなりハードな山道です。



▼鞍馬の木の根道も顔負けの道がつづきます。



▼我が家の菩提寺、中山寺も在りました。こんな仏龕と本尊を巡ります。



▼しつこいようですが楼門です。



お寺の雰囲気から東大寺の匂いはありません。ただ修正会の時はかなりの盛り上
がりで近隣在所から相当な人が集まるそうです。

付録です。関西本線島ヶ原駅です。チョット寄ってみました。



これからもと来た道を引き返し、笠置に向かいます。
それにしても寒いですわ。

つづいて名作千手千眼さんの壽寳寺へ。

2010年12月22日 | 京都の古寺巡り


(2010.12.18 訪問)
観音寺から東へほとんど真っすぐ壽寳寺に向かいます。JRと近鉄三山木駅を越え
たスグのところ府道65号沿いにお寺は在ります。前日に拝観お願いをしていまし
たので指定時刻にお寺に着きました。境内と云ってもささやかな広さ、新しい本
堂と観音堂、それに庫裏のみのこじんまりしたお寺の印象。このお寺の面白いと
ころは、ご本尊の十一面千手千眼さんは観音堂に、本堂には旧本尊の大日如来坐
像をお祀りしているそうですが、ボク達は拝観することは出来ません。

[ 壽寳寺 ] じゅほうじ
●山号 開運山(かいうんさん)
●寺号 壽寳寺(じゅほうじ)
●宗派 高野山真言宗
●本尊 十一面千手千眼観音菩薩立像(重文)

壽寳寺縁起
寺伝では704年創建と称していますが詳細は不明です。暴れ川木津川の氾濫で寺
地は転々と移転し、江戸中期に現在地に移り、明治の悪法廃仏棄釈で近隣の寺々
を合わせ、ご本尊もこの時廃寺になったお寺のお像を移坐したのが現在の本尊、
十一面千手千眼観音菩薩立像だそうです。

▼山門。



▼壽寳寺石標。



▼縁起。



▼本堂編額。
お寺の方と話し込んでしまい本堂の写真撮るの忘れました。



▼観音堂。
このお堂に本尊が祀られています。



▼ご本尊。
本尊 十一面千手千眼観音菩薩立像(重文) 像高181cm  木造 榧材一木造り。
本尊は、彩色が施されていません。お口の朱と目の墨のみ檀像風お像。本手は六
本、小脇手千本の手が扇状に出ています。千本有るか無いかは分かりませんが小
脇手のひらには墨で目が描かれています。バランスのとれた像形は見事です。ご
本尊の両隣には降三世明王、金剛夜叉明王の二体が脇侍として祀られています。
この二体も他のお寺から移座したものだそうです。
唐招提寺、葛井寺とここ壽寳寺の十一面千手千眼観音菩薩像は三大名作と云われ
ているそうです。



もうお一人ボクと同年輩の男性拝観の方が居られ、内陣前にご住職と三人並び、
先ず般若心経を唱えその後、説明を受けました。

このお寺と観音寺は旧山城国に在りますが、天平文化の行き渡る北辺で、平城京
の華やかな影響を大いに受けたと云います。
この日の京田辺古寺巡りは実にベリーベリーグッドでした。

最高の十一面さん、大御堂 観音寺を訪ねました。

2010年12月21日 | 京都の古寺巡り


(2010.12.18 訪問)
一休寺からドキワクしながら観音寺に向かいます。南に僅かな距離、周囲一面畑
地が広がり、両側に桜並木を従えて一本道がまっすぐお寺につづく何とも長閑な
田舎道と云う感じ、桜と菜の花の春は、相当華やかに彩られることでしょう。参
道とも農道ともつかない小道の先に、本堂と鐘楼が見え隠れしてきます。いよい
よ待望久しい十一面観音の傑作に会うことができる。
ド ♪ キ ♪ ワ ♪ ク、 ド ♪ キ ♪ ワ ♪ ク。

▼本堂遠景。


[ 大御堂 観音寺 ] おおみどう かんのんじ
●山号 息長山(おきながさん)
●寺号 大御堂 観音寺(おおみどう かんのんじ)
●宗派 真言宗智山派
●開基 義淵僧正
●開山 良弁僧正 
●一世 実忠和尚
●本尊 十一面観音菩薩立像(国宝)

大御堂 観音寺縁起
白鳳期、天武天皇の勅で義淵さんが開基。その後聖武天皇の勅で良弁さんが伽藍
を整備、良弁さん高弟の実忠さんが一世住職として繁栄の基礎を築いたそう。そ
のころの寺名は「普賢教法寺」といい壮大な大寺だったそうです。実忠さんは東
大寺二月堂のお水取りをはじめた方として有名です。普賢教法寺の名残はこの地
の地名「普賢寺」として残っています。

▼縁起。



▼参道
この道が、ピンクとイエローに染まるころ、さぞやの感でしょうネ。



▼本堂。
この堂内にあのお方がいらっしゃいます。



▼十一面観音菩薩立像(国宝)
木芯乾漆造、漆箔、像高173cm。
早速、ご住職がお厨子の扉を開けて下さいます。拝したとたん△○+♡々▽☆〼…
お顔の漆箔は剥げ落ちていますが、その落ち方がキレイ、黒漆の地が見事に光っ
ています。両目はキリッと開き、やや大きめの白毫がお顔を引き締め、実に柔和
で優しいお顔です。頭上の小面はそれぞれの役割相がはっきりと窺え、頭前面中
央の阿弥陀如来化仏の彫技も丁寧さが光ります。通常観音菩薩は宝冠台を付けて
いますが、このお像は付けておらず、お顔から上、宝髻部分が実にシンプル。条
帛や天衣は流れのリズム感アリアリ、プロポーションはボクなどが何も云うこと
はありません。言葉が出ません。



小川光三さんの写真集「南山城の古寺」から。

国宝の十一面観音菩薩像は全国で七体、このお像と奈良桜井の聖林寺十一面さん
はほとんど時代差がなく8世紀後半、同じ木芯乾漆造、像高209cm。よく比較され
る十一面さんです。時代はいくらか下がりますが平安前期の作に向源寺(渡岸寺
観音堂)の十一面さんがいます。こちらは木造、像高194cm。いずれがアヤメか…
で人気三分、皆さんはどのお方に惚れますか?

▼鐘楼。



▼本堂前に石塔笠がポツンと。



▼鐘楼脇に建てられている石碑。
この地からお水取りの主役、竹を送り込んだとか。



本堂ではご住職から流暢で丁寧な説明を受けました。
ご本尊はやや高い位置に祀られているので見上げないと拝せないことと、後姿が
拝せないのが残念念念。欲ですね。
しかしお賽銭を奮発したことは云うまでもありません。

とんちの小坊主は臨済宗の名僧、酬恩庵一休寺を訪ねました。

2010年12月20日 | 京都の古寺巡り


(2010.12.18 訪問)
数年ぶりに訪ねました。田辺CCの帰りに一度お参りした事があります。Gのつい
でにお参りはダメですよ、お参りのついでにGでなきゃ。スコアが証明していま
した。本当はヘタなんです。そんなことはどうでもいいんですけど。

通称一休寺、正式には酬恩庵。一休さんが晩年を過ごし、このお寺で示寂。一休
さんの力無くしてこのお寺も大徳寺も無いのではないか、といわれるほどの禅僧。
なんと申しますかこの方は公私すべてで魅力てんこ盛りの方ですネ。
方丈中央の間に一休さんの木像が祀られています。生前像で頭髪と髭に自分の毛
を植えさせたとか。お顔から自信に満ちた孤高の禅僧の風貌アリあり。方丈廊下
にしばらく座り込んで双眼鏡で眺めていました。陽は射しているとはいえ廊下は
ツメタ~イ。

[ 酬恩庵一休寺 ] しゅうおんあんいっきゅうじ
●山号 霊瑞山(れいずいさん)
●寺号 酬恩庵一休寺(しゅうおんあんいっきゅうじ)
●宗派 臨済宗大徳寺派
●開山 大應国師
●再興 一休宗純禅師
●本尊 釈迦三尊。釈迦如来坐像、文殊菩薩、普賢菩薩。

酬恩庵一休寺縁起
臨済高僧、大應国師が十三世紀後半、この地に禅道場を創建。その後兵火で荒廃、
六代法孫一休さんが1456年再興。酬恩庵とは師恩に報いる意味で一休さんが命名。

▼総門。



▼酬恩庵石標。



▼参道。
奥に本堂が見えます。



▼手水舎。



▼七仏通戒偈の詞白碑。
諸悪莫作 衆善奉行。釈迦十大弟子、阿難尊者の作、一休禅師書。



▼庫裏と方丈。(重文)
方丈は加賀藩前田利常が寄進再建したそうです。



▼方丈扁額。
酬恩庵と揮毫されています。



▼一休宗純禅師の木彫像。(重文)
方丈中央奥の仏間にお祀りしています。なぜどのお寺も共通して暗い上に奥へ奥
へとお祀りするのでしょう?



▼方丈各間には狩野探幽の襖絵。



▼方丈廊下。



▼方丈庭園。
方丈周囲には北庭、南庭、東庭とそれぞれ趣向の枯山水のお庭が見られます。



▼本堂。(重文)
入母屋造り檜皮葺き。本尊 釈迦三尊。



▼本堂軒。
組み物のサンプルのような美しさ。



▼本堂花頭窓。
禅宗寺院独特の窓。当初は「火灯窓」と書いたそうですが、木造建造物は火を嫌
うため、「花頭窓」と称するようになったとか。



▼開山堂。
大應国師の木像を安置しています。大應国師の弟子大燈国師が大徳寺の開基です。



▼一休禅師御廟と御廟門。
門扉には菊の御紋。一休禅師は後小松天皇の皇子説から宮内庁管理する陵墓のた
め入れません。





▼このはしわたるな。



▼老若一休さん。



▼鐘楼。
何か判らなくてスミマセンねェ。



▼名残のもみじ。



奇行の数々、奔放で仏教権威に抵抗し時には無視し、風狂精神で禅の精神性を世
に説いたとされているところが一休さんの民衆人気の由縁なのでしょう。

皆さま、年末ですね、またお正月が来ますね、別に待ち遠しくもありませ~んネ。
「門松は 冥土の旅の一里塚 めでたくもあり めでたくもなし」 チャンチャン!