土曜日は古寺を歩こう。

寺勢華やかな大寺も、健気に法灯を守り続ける山寺もいにしえ人の執念と心の響きが時空を越え伝わる。その鼓動を見つけに…。

談山神社は大化改新の主役、藤原鎌足を祀っています。

2011年03月03日 | 奈良の古寺巡り


(2011.02.26 訪問)
音羽山観音寺から多武峰談山神社まで約15分、県道37号から県道155号明日香
方面へ入り少し行くとすぐ談山神社です。
だいたい明日香へ向かうクルマがいません。錦秋もみじのシーズンと違って駐車
場にはクルマの影なし、二番目に近いバスパーキングに停めましたがボク一人で
した。

▼談山神社のシンボルタワー、十三重塔の宝輪。



談山神社縁起(談山神社HPから抜粋)
舒明、皇極天皇の世、蘇我蝦夷と入鹿親子の勢力は極まって、国の政治をほしい
ままにしていました。たまたま飛鳥の法興寺で蹴鞠会があったとき、鎌足公は聡
明な皇太子として知られていた中大兄皇子にまみえることができ、西暦645年の
5月、二人は多武峰の山中で大化改新の談合を行いました。後にこの山を談い山、
談所ヶ森と呼び談山神社の社号の起こりとなりました。鎌足公は真の日本国を発
想し、日本国が世界に誇る国家となるため、一生涯を国政に尽くしました。天智
天皇8年(669)鎌足公の病が重いことを知った天智天皇は、みずから病床を見舞
い大織冠を授けて内大臣に任じ藤原の姓を賜りました。鎌足公の没後、長男の定
慧和尚は留学中の唐より白鳳7年(678)帰国、父の由縁深い多武峰に墓を移し、
十三重塔を建立し妙楽寺と称しました。大宝元年(701)には神殿が創建され、
鎌足公の御神像をお祭りしたのが談山神社の始まりです。

皆さんよくご存じのお話です。が史学的定説と合わないところはご愛嬌としてお
きましょうネ。

▼正面鳥居。
シーズンオフはここから入れません。本殿まで140段の石段を登らなくて良かった
ラッキー!



▼神社石標。
何でもかんでも囲いがしてあります。イヤですネ~



▼神廟拝所(重文)。
旧講堂。鎌足さん長男定慧さんが父供養のため創建した妙楽寺の講堂。江戸期再建。



▼神廟拝所の内部。
真ん中の白い幕の中に鎌足さんの御神像が安置されています。



▼末社、総社本殿(重文)。
江戸期に造り替えられた本殿を移築。日本最古の総社らしいです。



▼閼伽井屋(重文)。



▼末社、比叡神社本殿(重文)。
一間社流造、檜皮葺きの小さな社ですが、唐破風付きの豪華な社です。



▼十三重塔(重文)。
なんといっても談山神社の顔。定慧さんが父供養のため創建した塔。江戸期再建。



▼楼門(重文)。
檜皮葺き、二層の堂々とした楼門です。



▼楼門と左は西宝庫(重文)。



▼拝殿(重文)。
こちらが南面の正面。直ぐ下が崖になっていますので建物は舞台造りです。





神社正面の石段を登りきった所から見た拝殿。



▼拝殿に展示されている多武峰縁起絵巻の部分。
蘇我入鹿暗殺の図。日本史の教科書でもおなじみであり、大化改新のクライマッ
クスともいえる板蓋宮における暗殺の場面です。太刀を振り上げているのが中大
兄皇子、弓を手にしているのが鎌足公です。



多武峯縁起絵巻は、藤原鎌足公の誕生にはじまります。長じて中大兄皇子にまみ
え、当時の最高権力者、蘇我入鹿を倒して大化改新の偉業を遂げたのち、鎌足公
の没後、長男の定慧が多武峯に十三重塔を建立、やがて談山神社本殿にまつられ
る談山神社の縁起を描いたものです。
(談山神社HPから抜粋)

▼拝殿透廊(重文)。
周囲を回廊が巡っています。



▼拝殿から本堂(重文)。
現在本殿修理工事中。鎌足さんを祀る旧別格官幣社。春日造りの朱極彩色の豪華
な社。大宝元年(701年)創建、現在の本殿は江戸末に造り替え。



▼摂社、東殿(重文)。
鏡女王、定慧さん、不比等さんを祀っています。



朱塗り重文建物オンパレードの境内です。
元々は妙楽寺というお寺だったらしいですが、大宝元年に鎌足さんを祀る神殿を
建てたことが神社としての始まりらしいです。真偽は不明ですが、神仏習合の最
たる例ではないでしょうか。十三重塔、旧講堂、楼門等にお寺の香りが残ってい
ますが、なんと云っても藤原氏の栄華の元は鎌足さんその人、鎌足信仰が連綿と
続く神社でした。

▼駐車場から見た東の山並。越えれば宇陀です。



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