卯月の会恒例ウォーキングは、「両国・柳橋」。
梅雨明け後なので、メインを江戸東京博物館の涼しい館内見学とし、ウォーキングを少なめに設定したため、歩数は約9,000歩だった。
松戸駅9時集合。JR両国駅からウォーキング・スタート!
相撲は現在名古屋場所開催中で両国国技館は休業。館内の相撲博物館を見学したかったが、祭日のため休みだった。真向かいにある朝青龍のチャンコ店の入口のはでな装飾が目立つ。
安田庭園に足を伸ばし、園内散策。それ程広い庭園ではないが、散策者が少ないおかげで、清涼感を感じるようだった。
となりにある陸軍被服廠の跡地。慰霊堂には関東大震災の5万8千人の犠牲者の霊を祀っている。
ここから今日のメインである江戸東京博物館に行く。私個人としては3回目になるが、展示物の質量ともに大きいので何回見ても見飽きない感じがする。
6階までエスカレータで上がり入場。
実物大に近い?お江戸日本橋を渡る。江戸にタイムスリップした感じになる。
橋の上からこれも実物大であろう中村座が間近に望まれる。
江戸の店先を冷やかして歩く。絵草子を売っている店。現在の本屋さんだ。
両国橋西詰の賑わいをジオラマで再現していた。
両国広小路一帯には歌舞伎小屋が何軒か建ち、大変な賑わいだったようだ。
江戸歌舞伎の代表「助六」や、花魁道中が色鮮やかに展示されていた。
東京ゾーンに入ると、明治文明開化の頃の銀座四丁目のジオラマが目に入る。
中央の朝野新聞社屋は現在の服部時計店がある場所だ。
銀座通りを馬車鉄道が走っていた時代があったのだなあ、と興味が引かれた。
日比谷公園に面したところに鹿鳴館があった。このジオラマは屋根が開き舞踏ホールが見え人形模型が踊りまわる趣向になっている。
連日舞踏会に明け暮れた場所であった。
内外高官が集う政治を左右するところでもあったようだ。
明治後年に取り壊しになってしまった。
江戸東京博物館を出て清澄通りからJRガードをくぐり、京葉通りに出る。
相撲グッズが処狭しと並ぶ店である。相撲の町両国ならではの店だ。
すこし行ったところにある、今日の昼食処「両ごく 玉屋」に入る。
我々の昼食はどこにいっても”日本そばや”と決まっているのだ。
大瓶は珍しいと大瓶ビールで乾杯!一人2本!
玉屋定食というのがあって天丼付きのもりそばが980円と格安、味もまあまあだった。そば寿しが付いていたのもラッキーだ。
食後は足取りも軽く京葉通り南側へ行き、吉良邸跡に着く。
赤穂浪士討ち入りの舞台となった、吉良上野介の屋敷跡。現在は当時の約76分の1の狭い一角である。面影は感じられないが、首洗い井戸があったのには本当かなと疑心暗鬼になる。
明暦大火で亡くなった多くの無縁仏を葬るため、幕府によって建立された回向院。
勧進相撲が開かれ、江戸相撲の発祥地として力塚が立つ。
両国花火資料館は花火大会の歴史を伝える小さな資料館だ。
館長?さんが丁寧に説明してくれた。
2尺玉の花火は今でもなかなか上げる場所は少ないようだ。
両国橋を渡って、柳橋方面へ歩く。
もうじき両国花火大会が始まるので、橋の欄干には危険防止のロープが張ってあった。この橋からの花火は一番見ごたえがあるようだ。
橋を渡りきると、三叉路に出る。そこに両国広小路跡の碑が建っている。
このあたりかつての両国広小路は江戸東京博物館のジオラマで見てきたように、
江戸歌舞伎の小屋が立ち並び、大いに賑わう場所であった。
今はかつての賑わいを忍ぶものは何一つない様変わりである。
そこから神田川にかかる柳橋。永代橋のデザイン、すなわちドイツ ライン川に架かっていた橋を真似たもので、復興橋(関東大震災後に復興した橋)として中央区区民有形文化財に登録されている。
江戸時代には隅田川の船遊び客の船宿が多く花街として新橋と共に東京を代表する場所になり、柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われている。
今は船泊まりと船宿の一部を残すのみである。芸者の姿も見えない。
まだ3時過ぎなので、隅田川の川面で少し涼んだ。
しばらく水上バスが行き来するのを眺めた。
松戸に戻り、いつもの庄やで2次会。
今日は歩いた歩数が少ない割りに、結構疲れたようだった。湿度のせいもあるのだろう。そのせいかビールに焼酎がおいしい。
親の介護の話題なども出て、話がもり上がるが、
株の話に切り替わると、ついていけない御仁もいる。
次回8月は、ウォーキングはやめて暑気払いをしようと決まった。
梅雨明け後なので、メインを江戸東京博物館の涼しい館内見学とし、ウォーキングを少なめに設定したため、歩数は約9,000歩だった。
松戸駅9時集合。JR両国駅からウォーキング・スタート!
相撲は現在名古屋場所開催中で両国国技館は休業。館内の相撲博物館を見学したかったが、祭日のため休みだった。真向かいにある朝青龍のチャンコ店の入口のはでな装飾が目立つ。
安田庭園に足を伸ばし、園内散策。それ程広い庭園ではないが、散策者が少ないおかげで、清涼感を感じるようだった。
となりにある陸軍被服廠の跡地。慰霊堂には関東大震災の5万8千人の犠牲者の霊を祀っている。
ここから今日のメインである江戸東京博物館に行く。私個人としては3回目になるが、展示物の質量ともに大きいので何回見ても見飽きない感じがする。
6階までエスカレータで上がり入場。
実物大に近い?お江戸日本橋を渡る。江戸にタイムスリップした感じになる。
橋の上からこれも実物大であろう中村座が間近に望まれる。
江戸の店先を冷やかして歩く。絵草子を売っている店。現在の本屋さんだ。
両国橋西詰の賑わいをジオラマで再現していた。
両国広小路一帯には歌舞伎小屋が何軒か建ち、大変な賑わいだったようだ。
江戸歌舞伎の代表「助六」や、花魁道中が色鮮やかに展示されていた。
東京ゾーンに入ると、明治文明開化の頃の銀座四丁目のジオラマが目に入る。
中央の朝野新聞社屋は現在の服部時計店がある場所だ。
銀座通りを馬車鉄道が走っていた時代があったのだなあ、と興味が引かれた。
日比谷公園に面したところに鹿鳴館があった。このジオラマは屋根が開き舞踏ホールが見え人形模型が踊りまわる趣向になっている。
連日舞踏会に明け暮れた場所であった。
内外高官が集う政治を左右するところでもあったようだ。
明治後年に取り壊しになってしまった。
江戸東京博物館を出て清澄通りからJRガードをくぐり、京葉通りに出る。
相撲グッズが処狭しと並ぶ店である。相撲の町両国ならではの店だ。
すこし行ったところにある、今日の昼食処「両ごく 玉屋」に入る。
我々の昼食はどこにいっても”日本そばや”と決まっているのだ。
大瓶は珍しいと大瓶ビールで乾杯!一人2本!
玉屋定食というのがあって天丼付きのもりそばが980円と格安、味もまあまあだった。そば寿しが付いていたのもラッキーだ。
食後は足取りも軽く京葉通り南側へ行き、吉良邸跡に着く。
赤穂浪士討ち入りの舞台となった、吉良上野介の屋敷跡。現在は当時の約76分の1の狭い一角である。面影は感じられないが、首洗い井戸があったのには本当かなと疑心暗鬼になる。
明暦大火で亡くなった多くの無縁仏を葬るため、幕府によって建立された回向院。
勧進相撲が開かれ、江戸相撲の発祥地として力塚が立つ。
両国花火資料館は花火大会の歴史を伝える小さな資料館だ。
館長?さんが丁寧に説明してくれた。
2尺玉の花火は今でもなかなか上げる場所は少ないようだ。
両国橋を渡って、柳橋方面へ歩く。
もうじき両国花火大会が始まるので、橋の欄干には危険防止のロープが張ってあった。この橋からの花火は一番見ごたえがあるようだ。
橋を渡りきると、三叉路に出る。そこに両国広小路跡の碑が建っている。
このあたりかつての両国広小路は江戸東京博物館のジオラマで見てきたように、
江戸歌舞伎の小屋が立ち並び、大いに賑わう場所であった。
今はかつての賑わいを忍ぶものは何一つない様変わりである。
そこから神田川にかかる柳橋。永代橋のデザイン、すなわちドイツ ライン川に架かっていた橋を真似たもので、復興橋(関東大震災後に復興した橋)として中央区区民有形文化財に登録されている。
江戸時代には隅田川の船遊び客の船宿が多く花街として新橋と共に東京を代表する場所になり、柳橋芸者は遊女と違い唄や踊りで立つ事を誇りとし、プライドが高かったと言われている。
今は船泊まりと船宿の一部を残すのみである。芸者の姿も見えない。
まだ3時過ぎなので、隅田川の川面で少し涼んだ。
しばらく水上バスが行き来するのを眺めた。
松戸に戻り、いつもの庄やで2次会。
今日は歩いた歩数が少ない割りに、結構疲れたようだった。湿度のせいもあるのだろう。そのせいかビールに焼酎がおいしい。
親の介護の話題なども出て、話がもり上がるが、
株の話に切り替わると、ついていけない御仁もいる。
次回8月は、ウォーキングはやめて暑気払いをしようと決まった。