で、ロードショーでは、どうでしょう? 第1191回。
「なんか最近面白い映画観た?」
「ああ、観た観た。ここんトコで、面白かったのは・・・」
『ポリーナ、私を踊る』
バンドデシネの新鋭バスティアン・ヴィヴェスがコンテンポラリー・ダンスに目覚めた天才バレエ少女の葛藤と成長を描いたバンド・デシネ『ポリーナ』を実写映画化したダンス・ドラマ。
監督は、コンテンポラリー・ダンスの世界的振付家アンジュラン・プレルジョカージュと長編2作目のコラボとなるヴァレリー・ミュラー。
主演は、実際に自身もバレエダンサーで、600人を超えるのオーディションを勝ち抜き、本作が映画デビューとなったロシア出身のアナスタシア・シェフツォヴァ。
物語。
ロシア人少女ポリーナの夢はバレリーナになること。父親の夢は、娘をプリマにすること。
そのために彼女は幼い頃から、名振付家のボジンスキーのバレエ・スクールに通い、厳しい練習に耐え、帰り道は心が赴くままに踊る、才能はあるが芽が出ないまま、ダンス漬けの日々を送る。
プリマになるには多大なる費用がかかるが、ポリーナの家は裕福ではなかった。父は二人の夢のために、危ない仕事に手を出してしまう。
数年が過ぎ、今では将来を期待されるまでにポリーナは成長した。
ついに、ボジンスキーにも認められ、憧れのボリショイ・バレエ学校入学のオーディションを受けることになる。
原作は、バスティアン・ヴィヴェスのバンド・デシネ『ポリーナ』(小学館集英社プロダクション刊)
邦訳版が出版されています。
脚本は、ヴァレリー・ミュラー。
出演。
アナスタシア・シェフツォヴァが、ポリーナ。
ロシアのバレエ・アカデミー出身で、マリインスキー劇場のバレエ団に所属していた。今回のオーディションを突破し、コンテンポラリーを学んだそう。
ヴェロニカ・ジョフニツカが、ポリーナ(8歳)。
ミグレン・ミルチェフが、父のアントン。
クセニヤ・クテポヴァが、母のナタリア。
ニールス・シュネデールが、バレエダンサーのアドリアン。
ジェレミー・ベランガールが、ダンサーのカール。
パリ・オペラ座バレエ団でトップダンサーの一人だったが、2017年の5月に引退公演を行っている。
アレクセイ・グシュコフが、クラシック・バレエの振付家のボジンスキー。
ジュリエット・ビノシュが、コンテンポラリー・ダンスの振付家のリリア・エルサジ。
彼女も2009年にアクラム・カーンとコンテンポラリーダンスの世界ツアーを2年間行っている。
ほかに、アンジュラン・プレルジョカージュ、津川友利江など。
スタッフ。
製作は、ディディエ・クレスト、ギャエル・ベッシエール。
撮影は、ジョルジュ・ルシャプトワ。
原作とも違う、独特の構図でポリーナの心情を表現しています。
編集は、ファブリス・ルオー、ギヨーム・セニョル。
ダンスの振付は、アンジュラン・プレルジョカージュ。
音楽は、79D。
ハンス・ジマーっぽさとフランス映画の音楽的要素が融合したような現代的映画音楽になっています。
ただこの映画、踊ると頃を強調するために、それ以外ではあまりBGMは流れないのです。
露の少女ポリーナがバレエの才能を見出され駆け上るが心のままに世界へ飛ぼうとするダンス・ドラマ。
世界的振付師アンジュラン・プレルジョカージュとドキュメンタリー映画監督ヴァレリー・ミュラーのカップルが共同監督で仏のバンド・デシネを実写化。
映画演技の出来るダンサーを軸に、踊れる俳優をあわせた配役が圧倒的説得力の舞踊と言葉と動作の対比で迫る。今作がデビューのアナスタシア・シェフツォヴァの眼に手足に釘付け。
映画自体も強力な肉体表現と丁寧な映画文法の技術で舞っている。
説明を表情一発と一枚の画に託した速度の速い話法、切れ味鋭いの官能に近い感応の振付の語りに沸き立つ。
音楽はまるでハンス・ジマーがフランスで生まれたように鼓動を優雅に追い立てる。
本気で踊りたくなる血作。
おまけ。
原題は、『POLINA, DANSER SA VIE』。
『ポリーナ、ダンサーはきみの生きる道』ってとこですかね。
邦題は、言い得て妙です。
上映時間は、108分。
製作国は、フランス。
映倫は、PG12。
キャッチコピーは、「夢の先のステージは、わたしだけのもの。」
これは途中まで。
物語の転換点までを示しています。
その先を映画は描くので、上手いフリです。
ややネタバレ。
言葉の変化が重要です。
二人の監督がいるせいか、対比が重要で、言葉と動作やクラシックとコンテンポラリーだけでなく、欧州的な印象的な映像構成による映画話法とアメリカ的な積んでいく言語的説明による映画話法の混交がぶつかりつつ溶け合って、双翼のごとく羽ばたき昇華していきます。
ネタバレ。
原作は未読なのですが、パンフレットやネットの文章を読み、ある意味でコインの裏表のような関係の実写化脚色を行っていて、メディアの違いだけでない興味を覚えます。
原作では、ポリーナは天才的な才能はあるが競争の中でじょじょに踊る意味を忘れていく。学校で独りよがりのダンスだと言われ、挫折するが、アドリアンの見せる自由なワルツによって、踊りの調和に気づかされる。アドリアンと別れ、ドイツに渡り、ポリーナは踊る喜びを取り戻す。
映画では、ポリーナは才能はあるが抜きん出ているわけではなく、本能的に踊る意味はつかめているがそれを表に出せず、クラシックの型の中で踊ることに窮屈さを覚えている。怪我で挫折し、アドリアンとも別れる。自分を出して踊るすべを探すべく、ベルギーへ行き、自分の踊りを見つける。
固定された画と無音であることの説得力は意味性と既存性とイメージが浮かびやすい(クラシックバレエとコンテンポラリーなワルツ)ダンスでこそ表現が膨らみ説得力も上がる。
実際に著名な振付家の手を経るならば、映像で実際に肉体が踊るならば、意味性を超えて、ダンスそのものの力こそ、説得力も上がる。
作家性を発揮して、原作に用いつつも違うものになることで、お互いの価値を高める方法もある。
(日本でも、『俺物語!!』の実写化は後半は原作から離れることで映画として成立させていた)
原作の感動を再現するならば、原作とは違うものを持ち込む方が上手くいく場合もある。
日本だと、独自のアニメ技術によって、漫画原作に近い映像ができるのが可能だったりするので、忘れられがちだが、メディアが違うということは和食とフランス料理ぐらいの差があるものなのだ。
独特の構図は、クローズアップや引きの絵でもポリーナはベルギーの後半になるまで画面の中心に置かれない。
彼女が感じている疎外感やズレている軸を映像的に表現しているのだろう。
踊るときにステージを広くではなくギリギリに切り取るのもそう。
ラストカットは横に移動した大鹿の動きをポリーナも同様に置こう長カメラ位置が90度変わることで大鹿は去るが、ポリーナと一体化しているので、観客に彼女が入ってくるようにカメラに向かってくる。
モスクワは街のすぐ外、居住区のすぐそばに森があり、実際に兎撃ちなどが行われているそう。
それでも、さすがにあんな大鹿は出てこない。
バレエの稽古場では人の目を気にしてしまうが、帰り道誰もいない道では彼女は自然に踊る。それはバレエではない。
編集でもわかるように、あれはポリーナが見る幻想であり、彼女が感じたもの。
それゆえ、人間ではなく動物のダンスで彼女は変化する。
彼女の中には雪の中で白い煙を吐く煙突(キューポラ?)のように、同じ色をしているが冷たいものと熱いものほどの違いがり、炎が燃えているのを伝える。
その熱を求めて、雪のロシア(モスクワ)から陽光の南フランス(エクス・アン・プロヴァンス)へ行くが、また雪のベルギー(アントワープ)へと寒さを求めて移動する。
湖に入っていき、水になりたいかのようになるところが記号性を超える表現になっている。
記号としては死に見えるが、死ではなく変化を求めての行為ではなかろうか。
雪から水、水から雪へと戻っていく儀式の様にも見える。
「体から自然に生まれるもの」を見つけるために。
ポリーナが『白雪姫』でコンテンポラリーに目覚めるように、今作は白雪姫の物語がベースに敷かれている。雪の中で踊る姫がプリマや様々な魔女に追い立てられ、コンテンポラリーの罠にはまり、野に放たれ、恋人という狩人に心臓を狙われ、怪我の毒リンゴを食べて踊れなくなり、王子のキスで目覚め、自分の国を持つ。
鏡で自分を見つめるシーンやガラス越しに相手を見るシーンがある。
七人の小人は、七人の教師として、出てくる。父、母、ボジンスキー、リリアと南フランスのダンサー、ベルギーの劇場のダンサー、バーのマスター。
アドリアンは狩人で、カールは王子。
魔女は、姿を変えるので、父、母、ボジンスキー、リリア、 アドリアンすべてがそうだろう。そして、プリマという夢(親の夢)もそれにあたるのではないかな。
白雪姫は、美への執着も描かれる。
ボジンスキーは、「観客には美しい踊りだけを見せろ」と言い、リリアは「美しいだけで真実が感じられない」という。
私にとっての美とは何だろう、とポリーナは追い求めていく。そして、彼女自身も魔女となり、そこを超えていく。
最近の映画では感情のコントロールが重要な題材のようで、今作でも「感情をコントロールすることが重要」というセリフがある。
最近作では『バリー・シール/アメリカをはめた男』、『IT/イット “それ”が見えたら、終わり。』、『女神の見えざる手』、『ポリーナ、私を踊る』、『ダンケルク』、『シンクロナイズドモンスター』、『ゴッド・セイブ・アス マドリード老女強姦殺人事件』で扱われていた。
言葉に頼る説明ではなく、表情や視線や視点の変化が心情を表わす。
行動(映像)以外では人の心など分からないように描いている。
映す体の部位でも示しており、モスクワ、プロヴァンスでは足や背中が重点的に映される。階段を下りる足、伸ばされる足、膝パッド、脚は離さないという振りつけ、重心が低いという違い、揉まれる足、足のケガ・・・。それを際立たせるために頭との対比も映す。身長を計るときに頭がギュッと押さえつけられ、頭の横に足が持ってこられ、頭で押される振付が上手くいかない・・・。
アントワープに移動してからは上昇と下降の動き、頭が意識されるように映される。バーで働き始めたときの頭の上にビールを掲げる、床に倒れ込む、ベッドに倒れこむ、頭を通過させる振付、死んだ父に頭を寄せる、キス・・・。
足(人に決められたもの)のダンスから頭(自分で選んだもの)のダンスへ惹かれ、そこで足に足を引っ張られ、頭のダンスへとたどり着く。
ボジンスキーは足から背中へ至るように教え、リリアは足から手へのダンスを教える。
トゥシューズから裸足へ。
バレエの固めたひっつめ髪から自由なボブへ、ポリーナの髪型の変化が強く、それを画面に刻む。
ロシア語からフランス語、言葉を超えた動きの言葉とポリーナの使う言葉が変わっていく。
彼女の変化は言葉への要求の変化が表現している。
言語と動作のせめぎあいも見える。
ポリーナは、自分の中には言語を超えたものがあるのに、他人には言語を求めてしまう。
ポリーナだけではないのかもしれない。
日本では、字幕で見てしまい、どこか耳がお留守になる部分はあるのかもしれない。
振付家ボジンスキー役のアレクセイ・グシュコフは『オーケストラ!』で主役の一人である元天才指揮者アンドレイ・フィリポフ役を演じていた。
だから連想したというのもあるが、実は、この2作は、共通点が多い。ロシアからフランスへの移動、芸術ものの挫折と稽古の物語、伏線に裏稼業が関わる展開、ラストシーンにいままでのすべてが集約する構成など。
ある意味で、映画の重要要素は似るということでもある。
つまり、危険、冒険、自己表現、経験の価値、尻上がり。
ラストシーンでポリーナが遅れるのは、ぎりぎりまでボジンスキーに会うかどうかを迷っていたからか、それともボジンスキーにはその後に見てもらったのか、ポリーナの幻想か。
この曖昧さを苦手をする日本人は多いかもしれない。
映像の曖昧さから自分の答えを物語から導き出すのも映画の楽しみ。
おいらは、幻想という確信であり、じっのちに行われる未来だと思う。
発見がテーマなのでその結果はいつも重要ではないというのが今作の語り。
オーディションや父との対話などが顕著。
だから、あのラストこそ映画がずっとやってきたことの集大成なので、そこまで唐突ではない。
他人の踊りから、独りよがりの踊りへ、そして自分だけの踊りを人と踊ることで見つける、真の調和にたどりつくので、キャッチコピーは途中であり、「夢の先のステージは、わたしそのもの」となっていく。