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-日本と軍隊の歴史-

2007年01月29日 | 戦中/戦後史



 進む軍備拡大



 今年に入って、防衛省の誕生やPAC3の配備、国民投票法案の衆院通過など、日本の軍国主義化を危惧する出来事が相次いでいます。
 
 その流れが歴史的必然なのかどうなのか、ひとまず日本の軍隊や戦争の歴史を振り返ってみます。



 陸海軍の起源



 帝国陸軍の起源は、明治維新後の1871年に薩摩・長州・土佐から徴集され組織された天皇直属の御親兵、当初は国内の治安維持、叛乱勢力の鎮圧などを担った。


               


 海軍のルーツは、江戸幕府の海軍操練所や海軍伝習所などの機関を継承し、幕府や諸藩の軍艦を整理・編成したのが基礎で、初期には川村純義と勝海舟が指導した。



 日清戦争



 列強のアジア侵略に対抗して朝鮮への進出を図る日本と、朝鮮を属国と見なす清が対立。

 1894年に朝鮮で農民の反乱である東学の乱がおこり、朝鮮が清に援軍を求めると日本も居留民の保護を名目に出兵、日清両軍の戦争が起こった。


               


 近代的な軍備をもつ日本軍は、朝鮮から満州(中国東北区)に進出し、各地で勝利を収めたため、翌年に清は降伏、下関で講和会議を開いて下関条約を結んだ。
 
 清は朝鮮の独立を認め、遼東半島・台湾などを日本に譲渡し、多額の賠償金を支払った。



 日露戦争



 当時、ロシアは大々的な南下政策をとり、その手は満州、朝鮮にまで伸びてきていた。

 このままではロシアに占領されてしまうとの危機感を持った日本は、1904年にロシアに宣戦布告をして陸軍を中国大陸に上陸させてロシアと野戦を繰り広げ、次々と勝利を収める。


              


 日本海での艦隊決戦で日本側が勝利を収めたことで、ロシアは敗戦を認め、日露両国の講和で「ポーツマス条約」が締結され、日露戦争は終結した。

 日露戦争での勝利で、日本は国際的地位を高め、世界的にその名を知らしめることになった。
 


 五・一五事件 



 1932年5月15日に、武装した海軍の青年将校18名が、当時の政党政治の腐敗に対する反感から結託し、首相官邸で犬養毅内閣総理大臣を暗殺したテロ事件。


              


 この事件は、1929年の世界恐慌に端を発した相次ぐ企業倒産と政治腐敗による社会不安の増大、軍縮支持の世論の高まりなどが複雑に絡み合って起こった事件といえる。

 1931年の満洲事変勃発後、政党内閣が軍部の独走を抑制できておらず、5.15事件での犬養首相の暗殺によって、政党内閣の時代は終焉を迎えた。



 ニ・二六事件



 1936年2月26日に、過激な国粋主義の青年将校らが「昭和維新」を旗印に決起。

 武力を以て重臣を殺害すれば天皇親政が実現し、政治腐敗が収束すると考え、首相秘書官ら7人の大臣などを殺害し、首都中枢部を占拠。軍首脳を経由して天皇に「昭和維新」を訴えた。


                  


 しかし、政府は彼らを「叛乱軍」として武力鎮圧を決意して包囲、28日には「奉勅命令」が出され、翌日に陸軍包囲下で投降し、首謀者とされた人間の多くが処刑された。

 クーデターそのものは失敗に終わったが、これを契機に「軍部の要望を入れないと再びクーデターが起こる」という恫喝の口実を与えることになった。


                 


 更に、現役武官制が定められ、「軍部の意見が入れられなければ陸海軍から大臣を出さない」などとして、軍部の発言力が増大した。

 それはやがて、日中戦争、太平洋戦争へ向かう、大きなターニングポイントとなった。



 日中戦争~太平洋戦争



 満州事変以後、満州を支配し、さらに華北への領地拡大を図っていた日本は、1937年7月、北京郊外の盧溝橋事件を大義名分に、日中戦争を開始した。

 中国共産党と国民政府は内戦を停止して抗日民族統一戦線を結成し、国民政府は重慶に移って徹底抗戦を唱え、米英なども中国を援助し、戦争は長期化。


              


 日本は1938年に国家総動員法を制定するなどして戦時体制を強化したが、政府が軍部をコントロールできぬまま泥沼化していった。

 そして、1941年に、ハワイの真珠湾に停泊していたアメリカ太平洋艦隊と航空基地に対して奇襲攻撃を行い、太平洋戦争へと突入した。



 東京大空襲



 1945年3月10日、B-29の先発部隊が江東区・墨田区・台東区にまたがる40k㎡の周囲に焼夷弾を投下して火の壁を作り、住民を猛火の中に閉じ込めて退路を断った。


                


 その後、約100万発もの焼夷弾が投下され、逃げ惑う市民に超低空のB-29から機銃掃射が浴びせられ、折からの風速30mの強風により辺りは火の海と化し、10万人の命が犠牲となった。



 原爆投下



 1945年8月6日午前8時15分、広島に原子爆弾が投下され、爆心地から半径500m以内では、95%以上の人間が即死、原爆症も含めて1950年までに死亡した人は推定24万人とされる。


                 


 同年8月9日午前11時1分、2つ目の原子爆弾が長崎に投下され、市域の36%を破壊、死者は7万3884人、重軽傷者は7万4909人にも上った。



 陸海軍の解体



 1945年に日本が敗戦を迎え、ポツダム宣言を受諾した後、戦闘行動を停止した各地の陸軍部隊は、それぞれその地区を管轄する連合国軍に降伏。

 海軍は掃海業務を担当する部隊として一部が存続されたが、陸軍は徹底的に解体された。



 日本国憲法の制定



 日本国憲法の制定には、国の外からと内からの双方の力が働いている。


                 


 外からの力とは、日本の敗戦により、連合国最高司令官のもとで、大日本帝国憲法(明治憲法)の変革が求められるようになったこと。

 内からの力とは、戦時中に軍部が行った政治支配によって、国民が期待する民主主義を実現することができないまでに、明治憲法体制は深く傷ついていたことである。

 憲法制定の経過は、1946年2月13日を分岐点として、その前後で大きく二つの段階に区分される。


             


 前者は、最高司令官が示唆した「憲法の自由主義化」を受けて、日本政府によって明治憲法の調査研究が行われ、翌1946年2月に改正案が総司令部に提出されるまでの過程。

 後者は、2月13日に総司令部が日本側の改正案を拒否し、逆に自ら作成した原案(GHQ草案)を提示することで局面が転回し、新たな憲法の制定・公布にまで至る過程。


              


 この二つの段階を通じて、国内外の様々な政治的・社会的・その他諸々の力が複雑に絡み合う中から日本国憲法が作り出され、1946年11月3日に公布されたのである。


 警察予備隊の発足



 1950年6月25日、朝鮮戦争が勃発。戦況が切迫し、在日米軍も多数派兵された。

 マッカーサーからの 「国家警察予備隊の創設、及び海上保安力の増員を認める」との書簡により、日本政府は8月10日、警察予備隊令を公布・施行した。


                 


 警察力の不足を補うための武装部隊という位置付けだったが、1952年10月15日に保安隊(現在の陸上自衛隊)に改組されて消滅した。



 自衛隊



 保安隊及び警備隊を前身として、1954年7月1日に創設された日本の防衛組織で、陸海空軍に相当する陸上自衛隊、海上自衛隊、航空自衛隊の3部門によって構成される。


              


 国土防衛、災害派遣、国際協力の分野で幅広く活躍し、管理運営には防衛省が当たっている。



 村山発言



 朝鮮戦争をきっかけに再軍備が始まり、警察予備隊や保安隊、自衛隊が誕生。

 国内には、憲法9条2項で禁止された「戦力」に、これらの実力組織が該当しているのではないかという「自衛隊=違憲論」が根強く残っていた。

 しかし、1994年、村山首相が衆院本会議で、自衛隊について「自衛のための必要最小限度の実力組織であり、憲法の認めるものであると認識する」と発言し、波紋を呼んだ。



 湾岸戦争



 1991年1月17日、アメリカを中心とする多国籍軍がイラクに対して攻撃を開始し、湾岸戦争が始まった。

              


 日本は、戦争費用(約2兆円)のみ負担。国際社会から「日本は金しか出さない」と批判されることになり、国内に自衛隊の海外派遣に関する議論を呼び起こした。



 周辺事態法の成立



 この法律は、放置すれば日本国が武力攻撃にさらされ、安全が脅かされる事態に対応するために1999年5月28日に制定された。

 周辺事態が周辺国に発生した場合、米国が戦争を行なっている間に、日本国の自衛隊などが後方支援することを正当化するための法律。

 これにより、自治体や民間人などを一般的な協力義務として米軍の戦争に動員することが可能となった。



 アメリカ同時多発テロ



 2001年9月11日、イスラム過激派によってハイジャックされた4機の大型ジェット旅客機が、アメリカ国内の複数の地上施設めがけて激突。


             


 約3000人の犠牲者を出すなど、テロ事件としては史上最大の被害となった。



 テロ特措法の成立



 アメリカ同時多発テロ事件を受けて制定された法律で、アメリカがアフガニスタンを報復攻撃する対テロ戦争の後方支援を定めた法律。

 公布直後に海上自衛隊がインド洋に派遣され、イージス艦によるレーダー支援や、補給艦による米海軍艦艇等への給油活動が行われている。



 イラク戦争



 2003年3月20日、大量破壊兵器の保有、対内的な強度の圧政、度重なる国連査察の妨害になどを理由に、アメリカがイラクに侵攻し、イラク戦争が勃発。


                


 自衛隊は、イラク復興支援特措法によってイラク入りし、医療、食糧援助などイラク国民への人道復興支援と、輸送、通信、建設など米軍を支援する安全確保支援を行った。



有事法制の成立



 武力衝突や侵略を受けた場合などの有事の際に、軍隊の行動を規定する法制のことで、03年6月に「武力攻撃事態対処関連三法」、04年6月に有事関連7法が可決・成立した。

 有事法制は戦争時の法律であり、憲法第9条をめぐる個別的自衛権の是非、国民の基本的人権の制限をめぐる懸念から反対を唱える声もある。
 


 防衛省へ格上げ



 1954年の発足以来、戦力不保持を定めた憲法9条との関係などから庁に留まってきた防衛庁が、1月9日に防衛省に昇格した。


              


 省昇格を、「戦後体制から脱却し、新たな国造りを行うための第一歩」と位置付け、政府の憲法解釈が禁じてきた集団的自衛権行使の研究を進める考えを改めて表明した。





【記事引用】「大日本帝国海軍」「大日本帝国陸軍」「東京大空襲」etc..
【画像引用】「ニ・ニ六事件」五・一五事件」「占領から講和へ」etc..
       

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