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佐野碑園(さのひえん)

2017年01月03日 | 釧路


 
 佐野碑園



 釧路の開祖「佐野孫右衛門(まごえもん)」を顕彰する碑が建っている公園。

 江戸時代末期、この辺りに漁業と交易を進めるクスリ会所があり、明治時代には釧路初の学校である丸太学校や電信分局もあったそうです。

 また、明治時代に来釧した石川啄木が訪れた料亭の喜望桜もこの地にありました。



 佐野氏紀功績



 江戸時代末期から命じ初めまで久寿里(クスリ)場所の請負人(漁場持)として釧路地方の開発にあたった佐野孫右衛門(1841~89)の功績を顕彰したもの。


  


 佐野家は、寛政年間に新潟県から釧路に移り、代々場所請負人を任じられていました。

 四代目にあたる孫右衛門は、昆布漁業振興のほか自費による道路開削や川湯の硫黄採掘事業も行い、釧路地方の発展に特に貢献しました。

 この碑は、1935(昭和10)年の「釧路港開港三十五周年」を記念して設立されました。


       



 啄木歌碑(喜望桜跡)



 佐野碑園の奥には、当時道東一の料亭とよばれていた「喜望楼 (きぼうろう) 」がありました。


       


 啄木が来釧後に初めて訪れた料亭で、モダンな洋風建築で12人の芸妓を抱え、洋食を食べられ、ビリヤード場もありました。

 啄木はこの場所で、女遊びを知ったともいえます。

 喜望楼には旧釧路新聞社の記者がよく集まり、燃えるような紅色のカーテンが垂れていた2階の5番の部屋は、“新聞部屋”と呼ばれていたそうです。


      「あはれかの国のはてにて
       酒のみき
       かなしみの滓(をり)を啜(すす)るごとくに」



       



 久寿里会所の跡



 江戸時代に久寿里(クスリ)とよばれていた釧路は、寛政11(1799)年、この頃頻繁に接近してきた外国勢力に備えるため、松前藩による支配から幕府の直接支配に代わった。


  


 アイヌとの交易場所であった運上屋は会所と改称され、交易だけでなく、旅宿所や漁業の経営、行政機関としての機能も有するようになった。

 佐野碑園は、この久寿里会所跡の一角にあたり、釧路発祥の地として親しまれている。



 東北海道電信創業記念碑



 明治17(1884)年5月、札幌から苫小牧、浦河、釧路を経由して根室に至る電信線の架設が、電信柱の献納と局舎敷地の地元提供を義務に政府から許可された。


  


 工事は同年6月に着手され、10月には全線完成。釧路でもこの辺りに電信分極が開設され、札幌や東京との間の通信事情は飛躍的によくなった。



 丸太学校跡



 明治8(1875)年、孫右衛門による依頼で、米町の寛永山聞名寺の住職・永福法髄が寺の境内で寺子屋を開き、子弟の教育を始めた。

 これが釧路の児童教育の始まりといわれている。


  


 明治10(1877)年頃になると、子弟も急増したため、この付近に丸太柱に丸太梁で釧路初の学校が建てられ、当時の人はこれを「丸太学校」と愛称しました。


 ・釧路市南大通8丁目2




 編集後記



 私財を釧路の発展のために惜しげもなく投じ、”釧路の開祖”と呼ばれている佐野孫右衛門ですが、授業で教えないからなのか、地元民にもほとんど知られていません。

 彼の高い志と憂いの心に基づいた無私の功績が広く知られることを願ってやみません――。



【記事引用】「ふるさと散歩道物語」 「佐野碑園
 
 

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