Dying Message

僕が最期に伝えたかったこと……

「60歳の夏休み」

2012-06-15 18:27:08 | 小説
 まだまだ残暑が厳しい9月のある日、60歳になったばかりの宮本は病院で末期癌の宣告を受けた。
 あまりの衝撃に自分の体が自分の物ではないような、ふわふわしたような、そんな気持ちのままにタクシーに乗り込むと、彼はセミの鳴き声をBGMに自らの人生を回顧した。

 宮本が生まれたのは1985年の8月末。直前に大きな飛行機事故が起こり、産婦人科のテレビもそのニュース一色だったと、母から聞いたことがある。
 彼が育った家庭は極端に裕福ではないが、かと言って貧乏でもなかった。家には兄弟ふたりが遊ぶのには十分な程度の庭があったし、父が乗っていた車もマークⅡやクラウンマジェスタだ。テレビゲーム等のおもちゃも、特に不自由なく買い与えてもらっていた。
 幼稚園に通っていた頃は、よく幼馴染の女とおままごとをして遊んでいた記憶がある。休日、母とバスに乗ってイトーヨーカドーに行くのも楽しみのひとつだった。
 もう人生、そこから先はいい思い出がない。小学校に上がると、勉強はどちらかと言えばできる方ではあったものの、宿題を全くやらず、教師や母親に怒られる毎日だった。それでも、すでに知っている英単語を反復して書くことには価値を見出せなかったから、その姿勢は一向に改まらなかった。
 高校に入ると下り坂の勾配が増したような転落人生。学業では落ちこぼれ、人間関係でも苦労し、2年いっぱいでドロップアウト。最後の1年は通信高校に転校したが、簡単なレポート作成と月数回のスクーリングで卒業できるような学校だったため、学力低下に歯止めが掛からず、大学受験にも失敗し、浪人生活に入った。
 そんな状況に置かれた当時にさえも勉学に集中することはなかった。予備校をさぼっては近くの競輪場に入り浸り、100円単位の車券で遊ぶ日々。高校時代のトラウマゆえ友達をひとりも作らず、同じ高校に通い仲の良かった女子に話しかけられた時も気の利いた対応ができず仕舞いだった。当然のごとく、受験では惨憺たる成績を突き付けられ、唯一受かった滑り止めの大学に入学するほかなかった。
 不完全燃焼の自覚はあったから、1年後に他大学を再受験するつもりでの学生生活スタートだった。キャンパスの場所を知ったのは入学式前日だったし、下宿もしなかった。大学へと持っていくバッグの中には予備校のテキストを忍ばせていた。しかし、生来のサボタージュ体質がここでも顔を覗かせ、やがてこの大学を卒業することを決意。
 そこからは単位との勝負だった。仮面浪人のツケは大きく、1年次は最低限の講義しか受けなかったため、特に3年生への進級要件を満たすのには苦労した。友人らの助けでどうにか滑り込んだような感じだった。
 周囲が就職活動を始める頃になると、大きな葛藤と戦うことになった。自分もみんなと同じように就活を始めるのか。そしてサラリーマンにでもなるというのか。流れに抗うこともないままに夢を諦めていいのか。
 夢というのは漫画家だった。幼少の頃から絵を描くのが大好きで、小中学校の絵画コンクールで入賞したことも何度かあった。発想力にも絶対の自信を持っていた。趣味でブログにアップした漫画を読み返すたび、己の才能に陶酔した。オレは天才だと思った。
 しかし、一方で、自信を持てば持つだけ芽生える猜疑心もあった。才能を確信するまでの拠りどころはなかったし、その「拠りどころ」を得るために他人からの裁きを受けるのは怖すぎた。普通の人が当たり前にできることすら満足にこなせない彼にとって、漫画を描くことは自我を保つための精神薬みたいなものだった。そこをもし否定されようものなら生きていけないと、本気でそう思っていた。
 結局、就活はしなかった。そんな様子を見かねて厳しく叱咤してくれる友人には申し訳ない気持ちでいっぱいだったが、最初の一歩を踏み出そうとするたび足がすくんでしまう自分がいた。普通のサラリーマンになることも、漫画家になることも、どういうわけだろう、どちらも未来の姿として想像しえなかった。
 現在までのところJAPAN最後の優勝となっている2009年WBCの直後、彼は無職という身分に放り出された。それでもなお、将来の明確なビジョンは描けず、バイトで最低限の食い扶持を稼ぎつつ、親のすねも少しだけかじりつつ、気が付けばフリーター生活も4年目を迎えていた。

 そのような暮らしに転機が訪れたのは、もうすぐ27歳になろうかという夏の初めだった。ほんの気の迷いから覚醒剤に手を出し、警察に逮捕されてしまう。
 初犯ということもあり実刑こそ免れたが、代償はあまりに大きかった。バイトは当然クビになり、親にも勘当された。頼れる知人もいなかった彼は、人の群れへと逃げ込むように東京の駅構内に居を構えた。
 時はただ過ぎていった。ゴミ箱の空き缶を拾ったり日雇いで稼いだりした金で飲む安い酒が唯一の楽しみだった。シラフでいると自殺に走ってしまう気がして、ひたすらにアルコールを摂取した。
 そんな生活を随分と長く続ければ55歳になっていた。冬のある日、どうやって居場所を突き止めたのか、弟が彼の元を訪れた。親父は4年前に心筋梗塞で、お袋も去年肺炎で、それぞれ亡くなり、特に母はどこにいるかも分からない長男を最期まで気に病んでいた。だから、これも親孝行と思い、兄と暮らす決心をしたということらしい。
 居心地が良いような、悪いような、そんな日々だった。弟の奥さんが作る料理はどれもおいしく、風呂や寝床が確保された生活は夢のようにも思えたが、働きもせず一日中ぐうたらしていることへの罪悪感も計り知れなかった。この歳になっても人見知り気質は治らず、義妹との接し方に苦労したこともあって、弟からの小遣いを持って開店から閉店までパチンコ屋に入り浸った。
 予備校時代と何ら変わらぬ生活に自嘲する彼だったが、ただひとつ、決定的に変わってしまったこともあった。漫画家になろうという夢も、絵描きとしてのささやかな自信も、そしてそれゆえに抱いた不安や葛藤も、その全てをいつの日からか失っていたのだ。心の炎は消え、目は死んで、若き日の抜け殻を纏ったままに、気が付けば初老の年齢になろうとしていた。

 宮本はそっと呟いた。
「死ぬのも惜しくない人生だな……」

 家に着き、物語のカタルシスを噛みしめるようそっと深呼吸をした彼は、キッチンから持ち出した包丁で自らの背中を刺した。苦しみに悶え、薄れゆく意識のなか、大空をひらりと舞う夢想に耽った。


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