延喜式神名帳に記載された神社を式内社と言います。「延喜式」とは平安時代醍醐天皇の延喜二七年(927年)に完成した律令や格の施行細則を定めたものです。その巻九、十の「神名帳」に祈年祭に朝廷からの幣帛にあずかる神社が2861社、(神の数で3132座)記載されていて、これが官社であり、式内社と呼ばれます。
とてもたくさんありますね。式内社にならなっかった神社もかなりあるので、大変な数になります。ただ、少し不思議なことがあります。私が確認したものではありませんが、大学の先生にお聞きしたものです。
関西のある大学で建築を専門にしていらっしゃる先生が、近畿の式内社の建築様式を調べたそうです。拝殿の殆どが江戸時代の様式で、鎌倉時代のものが若干で、平安以前の様式は殆どないそうです。建て替えたとしても前の様式をそのまま引き継ぐでしょうし、不思議がっておられたそうです。
お話を伺った先生は、不思議ではないと仰います。「延喜式神名帳」であって「神社名帳」ではないのです。御歳神社も載っていますが、「みとしじんじゃ」ではなく「みとしのかみのやしろ」と読むのです。なるほどと思いました。延喜の頃に現在の神社の様式で存在していると考えるから不思議なわけで、神社の建物ではなく、神様の鎮座地を示したものだと解釈すると、当時の式内社が拝殿や本殿を持っていなくてもある意味不思議ではないのです。
古代神祭りは神奈備とよばれる山や森とそれに隣接する神聖な場所に、常緑樹で作った神籬(ひもろぎ)や巨大な自然石の磐座(いわくら)をしつらえ、臨時に神を迎えて祀っていました。その古代からの意味においては大切なのは建物ではなく「場」なのだと思い至ります。御歳神社の現在の本殿も江戸時代の移築です。その前はどうであったのか、いつか知りたいと思っています。古文書などは伝わっていなく、調べる方法は今のところ思い至りません。どなたかヒントがあれば教えてくださいね。
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神明造りのお社が建っていたそうです。ちょっと感激!どんなお社だったのかなあ。想いがめぐります。
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