一燈照隅

日本が好きな日本人です

自民総裁選は拉致問題を争点に

2006年06月30日 | 時事問題
自民党総裁選挙の争点に、靖国神社参拝を取り上げるべきと言うマスコミの声が有る。
しかし、その事より拉致問題の解決を重要争点の一つとすべきではないでしょうか。
日本国民の生命、安全が拘わった急を要する問題です。
今のところ、態度が分かるのは安倍氏だけです。他の候補者と言われる人にマスコミは聞くべきです。
それなのにマスコミは総裁選と拉致問題は関係ないような感じで、靖国神社参拝だけを大きく取り上げようとしています。
各社のアンケートを見ても靖国神社参拝を聞いても、拉致は聞いていません。
サミットでも拉致問題が取り上げられる以上、当事国である日本の総理(次期総理も)の態度が問題になります。
媚支那マスコミ以外はちゃんとして欲しいです。

北朝鮮人権法案が成立した今こそ、拉致問題を総裁選に取り上げるべきでしょう。


ブッシュ大統領はまた、今年4月に訪米した拉致被害者の横田めぐみさんの母、早紀江さんと面談した際、「涙をこらえ切れなかった」とまで言及し、拉致問題解決のため日米が連携していく考えを表明。北朝鮮のミサイル発射については容認できないとの強いメッセージを送ることで一致、6カ国協議への無条件復帰を促していく方針を確認した。拉致問題について小泉首相は「横田さんの気持ちを両国国民が共有し、日米が緊密に連携して北朝鮮が一日も早く国際社会で責任ある一員になるよう努力していく」と強調した。
6月30日付産経新聞

首相は、自らの靖国参拝への批判に対し、「靖国神社に参拝すれば首脳会談に応じないことが、いいかどうかという問題だ。参拝するなということは中国の言い分に従いなさいという人たちだ。果たしてそれでいいのか」と反論。
6月28日付産経新聞

ノイズが何故入る

2006年06月29日 | 時事問題
めぐみさん「94年に自殺」 金英男さん記者会見  

横田めぐみさんの夫で韓国人拉致被害者の金英男(キム・ヨンナム)さん(44)は29日午後、北朝鮮の金剛山で記者会見し、めぐみさんについて「鬱病(うつびょう)になり1994年4月に病院で自殺した」と述べ「幼い時の事故で脳に損傷を受けた記憶がある、とめぐみが話していた」と説明した。  

自らが北朝鮮に渡った経緯については「海で北の船に救助され、北に渡った」と述べ、北朝鮮による拉致を否定。北朝鮮では「特殊部門、具体的には統一部門の仕事をしている」と明らかにした。  

英男さんの発言はほぼ、これまでの北朝鮮の主張に沿った内容で、北朝鮮として拉致問題で韓国世論を巻き込み、幕引きを図る狙いがあるとみられる。
(共同) (06/29 18:44)


金英男の記者会見は疑問だらけ、と言うか、見え見えの嘘を何故言うのかなと思ったのです。「カラスは白い」は北朝鮮国内でしか通用しないのに。
一番気になったのは、映像に入っている「ピー」と言う不快なノイズです。会見中ずっと入ってました。
昨日の親子の再開場面では音がしていなかったと思います。
何故、この会見だけ入っていたのか、考え過ぎかもしれないがちょっと気になりました。

ジーコ前日本代表監督ブラジルへ帰国

2006年06月29日 | スポーツ
ジーコ氏は「チャオ」連発して帰国  
サッカー日本代表の監督を退任したジーコ氏(53)が29日、サンドラ夫人とともにフランス経由で帰国の途に就いた。里内フィジカルコーチをはじめとした代表スタッフ、鹿島関係者、多数の報道陣、ファンに取り囲まれながら「チャオ」を連発。笑顔で手を振りなが日本を後にした。鈴木通訳によると、しばらくはリオデジャネイロの自宅で静養。さまざまなオファーについて、ゆっくりと検討することにしているという。
[2006年6月29日14時22分] 日刊スポーツ

ジーコ前監督はオシム監督とは別のターミナルから出発した。大勢のサポーターによる見送りはなく、日本代表フィジカルコーチの里内猛氏、J1鹿島の鈴木満強化部長らが労をねぎらうように空港まで付き添った。ジーコ氏は「日本と別れるつもりはない。一時的に離れるが、気持ちはずっとみんなと一緒」と話し、静かな笑顔を浮かべて出国した。


ジーコ前監督がブラジルに帰国しました。ジーコは今までの外国人監督と違って、日本サッカー界に貢献してくれました。
まだ日本リーグ時代の2部チームであった住友金属に、現役復帰して来日、Jリーグになってからは鹿島アントラーズの選手として、また監督として活躍しました。
外国の大物選手が日本に来るようになったのも、お金だけでなくジーコが居ることもあったと思います。
今世間は、次期日本代表監督の話題にいっています。
しかし、ジーコがいたことを忘れないようにしよう。

靖国訴訟、最高裁原告側の上告を棄却

2006年06月28日 | 靖国神社
靖国訴訟2件の原告敗訴確定 最高裁、上告棄却  

小泉純一郎首相が平成13年8月、靖国神社を参拝したのは憲法の定める政教分離原則に反するとして、戦没者遺族らが小泉首相などに慰謝料を求めた2件の訴訟の上告審で、最高裁は27日、原告側の上告を棄却する決定をした。原告側の敗訴が確定した。  

歴代首相の靖国参拝に絡み、最高裁は23日に初めて、参拝が公的か私的かや憲法判断には踏み込まずに原告側の訴えを退けていた。  

小泉首相の靖国参拝をめぐっては、全国で8件の訴訟が起こされ、これまで地高裁で出された判決はいずれも原告側の請求を棄却している。このうち、福岡地裁判決(16年4月)と大阪高裁判決(17年9月)では違憲判断が示されて確定。最高裁に係属していた訴訟は3件だったが、この日の決定でいずれも原告側敗訴が確定した。 (06/27 17:47)


先日の最高裁判決に続いて残りの2件も最高裁での判決が出ました。
いずれも当たり前の判決です。
ところで、最近千鳥ヶ淵墓園が自民党内で話題に上ってきているよです。
小手先で誤魔化そうとする人は色々考えて来るものです。しかし、千鳥ヶ淵墓園に埋葬されている遺骨の多くは、靖国神社に祀られていると思うのですが。その靖国神社を蔑ろにするのでしょうか。


◆2006/06/26(月)総理の参拝が損害賠償の対象にならずは当然

小泉総理が靖国神社を参拝したのは、憲法の政教分離原則に反し、精神的苦痛を受けたとする日韓の戦没者遺族ら278人にものぼる原告らが、国や小泉総理、それに何故か靖国神社を相手取り、憲法違反であるとの確認と、1人当たり1万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が6月23日最高裁で行われ、今井功裁判長は「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない」として、原告らの請求をすべて退けた2審・大阪高裁判決が確定した。

また原告らの求めていた憲法判断について、今井裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は他人の信仰生活などに対して圧迫、干渉を加える性質のものではなく、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害され、不快の念を抱いても、被侵害利益として損害賠償を求めることはできない」と述べた上で、「内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合も異なるものではない」と判示し、「本件参拝が違憲であることの確認を求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らか」と敢えて憲法判断をしなかったそうである。

原告らに言わせれば「不当判決」であろうが、極めて妥当なものであり、他人が特定の神社に参拝することで、気分を害してしまうという奇妙な人が世の中に存在するようだが、それによって、その奇妙な人に何か被害が生じ、損害賠償を貰わなければ感情が癒されなく、気分が良くないままだからと言うのだから何が何だか分からない。

小泉総理が靖国神社を参拝する様子がテレビのニュースなどで流れたならば、チャンネルを変えるなどして、無視すれば良いのに、この原告らは敢え見て興奮し、「気分が悪い。さあ損害賠償訴訟だ」となった訳であろう。世の中は何でも自分の思った通りに動いていないので気分が悪いことだらけであり、それに一々反応していたら頭が変になる。

気分が悪くなるからカネを出してまで読まない朝日新聞や、韓国ドラマをしつこく放送するNHKに不快を抱いたとしても、知人らと朝日やNHKのおかしさについて話をしたり、ネットを利用して、報道や放送姿勢について批判することはあっても訴訟を起こすことなど考えてもいないのが普通の人だろう。

この原告ら何でも自分の思った通りにならないと訴訟を起こす癖があるようだが、小泉総理が靖国神社を参拝したことで、気分が悪くなったのは何らかの精神的な疾患があるかも知れないので、一度医師の診査を受けた方が良いであろう。これではまるで、国歌・君が代を聴くと震えが来て身体が硬直してしまうおかしな教師と同じではないか。

今回の最高裁判決は憲法判断はしなかったことで原告側は怒り心頭であろうが、怒っても仕方あるまい。小泉総理の靖国参拝によって原告や具体的な被害が生じたのであればともかく、ただ気分が悪いだけでは損害賠償を請求することなど出来る訳がなく、門前払にした判決なので、政教分離に関して憲法判断をするような訴訟ではないと言えるであろう。

小泉総理の靖国参拝によって、多くの国民の信仰生活の支障を生じて、靖国に参拝することを強制されたり、靖国以外の神社に参拝することが出来なくなったのあれば問題であろう。だが、小泉総理が「他人に靖国に参拝に行けとか、また行くなとは言わない」と述べていることからして、多くの国民の信仰生活に圧迫、干渉を加えるものではなく「靖国参拝するかしないかは各人の自由意思」としているのであり、よって政教分離に違反して憲法違反であるとの余地もないという判決も当然であろう。

ネットでしか読まない朝日新聞だが、この判決を「靖国参拝 肩すかしの最高裁判決」との見出しで批判している。なぜ「肩すかし判決」なのかというと「他人が特定の神社に参拝することで不快の念を抱いたとしても、ただちに損害賠償の対象にはならない。そんな理屈である。」を理由に上げているようだが、理屈ではなく当然だろう。では読者が朝日新聞の記事を読んで不快の念を抱けば損害賠償の対象となり得るのか。損害賠償の請求をするには具体的な被害があったことを証明しなければならない訳であり、確かに朝日の記事を読むと気分が良くないが、ただそれだけでは訴訟を起こすような人はいないだろう。

朝日の記事で正確なのは日付だけだと言われるが、この社説でも「一連の靖国参拝訴訟では、地裁や高裁で、『首相の参拝は違憲』という判決と、憲法判断をしない判決に二分されている。」とまた嘘を書いている。小泉総理の靖国参拝は「憲法違反である」との「判決」が既に出ているとは初めて聞いたが、これは福岡地裁や大阪高裁での、やはり小泉総理の靖国参拝を巡る訴訟において、主文では原告らの損害賠償請求を棄却しておきながら、傍論で違憲判断をしていることを捉えているのであろうが、裁判官の独り言と言われる傍論には何ら法的拘束力はないからして、それを「違憲判決」が出ている朝日は嘘を書いて読者を惑わしている。

朝日が小泉総理の靖国神社参拝を問題にする暇があれば、憲法の「国及びその機関は、宗教教育その他いかなる宗教的活動もしてはならない」の条文からして創価学会が公明党を組織していることの方が政教分離に反することではないのか。カルト宗教に認定されている創価学会が政治の中枢に食い込み、信者の獲得と布教の円滑化を図るために都合の良いような法案を推進し、また法案を修正させていることの方が、余程大きな問題であろう。世論調査で5%程度しかない公明党が与党の一員として日本の政治を歪めている現状を是正することは良識ある国民の義務とも言えるだろう。

引用
「私の主張 ひとりの日本人として」
http://www14.plala.or.jp/threeforest/index.html


兎の手品(東京裁判8)

2006年06月28日 | 東京裁判
東京裁判の弁護側冒頭陳述で清瀬一郎以外、高柳賢三弁護人も行うことになっていましたが、裁判所により、全文却下となりました。
しかし、これは最終弁論での朗読は認められました。
文章的に難しい部分もありますが、国際法を以てこの裁判がいかに不当なものか過去の例などを出して説明して格調高いと言えるでしょう。


「兎の手品」の比喩は今日の流行であるやうだ。イギリス国会において国内輸送機関の国有に関する政府の計画を批判するにあたつてレデイング卿は、政府は比較的短い期間に「国有といふ帽子の中から社会主義の兎を」とり出す事に頗る堪能であることを示したといつた。又全印議会においてアチヤリア・クリバラニ氏は、イギリス側の提案した憲法草案を批判して、ヒンドスタン語でイギリス人は都合の好いときにいつでも帽子の中から兎や卵をとり出すといつた。私もこの世界的流行を真似て検察側の議論を特徴づける精巧に編み上げられた詭弁の網を一気に解消せしむる為に兎の手品にたとへる事を許されたい。手品師は通常の帽子を借りてきて、これを、テーブルの上に置く。そしてこれに向つて何やら呪文を唱へる。さて帽子をとりあげる。するとテーブルには小さな兎が、うようよ走りまはつてゐる。帽子の中にもともと兎がゐたのではない。手品師が兎をその中に入れたまでである。

検察側の議論はまさにこれと同様である。検察側は普通の帽子、即国家国民を拘束する国際法といふ綺麗なそして上品な周知のシルクハツトを持つてきて、これをテーブルの上に載せる。そしてこれに向つて呪文を唱へる。その呪文の中から「違法」とか「犯罪的」とか「殺人」とかいふ言葉が次第に大きく響いてくる。そして帽子をとりあげると、たちまち裁判所の中には、国内法のここかしこから借りて来た新生の国際法理論が現はれて、観衆を驚かせる。どこからそれらをもつてきたかは重要ではない。もともとそれらの理論がシルクハツトの中になかつたことだけは確かである。検察側に於てそれらを、シルクハツトの中に入れたのである。

「日中戦争」は北京オリンピックの1年後

2006年06月27日 | 時事問題
古森義久氏のコラムで書いておられたが、アメリカで「日中戦争」を題材にした本が出版されたそうである。
アメリカの次期大統領がヒラリー(民主党政権)になったら、全くの空想とも言えないであろう。
逆にこの小説のように戦争になりたくないので、支那の言うことを何でも聞くようであれば、それこそ亡国の道です。



「日中戦争」は北京オリンピックの1年後
―― 米専門家が描く悪夢のシナリオ
 「中国が日本にミサイルを撃ち込み、尖閣諸島への攻撃を開始した。米国の新大統領は日米安保条約の発動を拒み、日本を支援しないと言明した。2009年7月のことだ――」。

 こんな悪夢のような新「日中戦争」のシナリオが明らかにされた。米国でこの6月、ペンタゴン(国防総省)の元高官二人が共著で刊行した『ショーダウン』(対決)という書の内容である。同書は中国人民解放軍の実態と、その基盤となる中国の対外戦略の特徴を分析している。その副題に「なぜ中国は米国との戦争を欲するか」と記されたように、同書は中国のいまの強烈な軍拡が、やがては米国と対決するためだという前提から、具体的な人民解放軍の現実を論じ、シミュレーション(模擬演習)の形で予測される軍事シナリオをいくつか打ち出していた。現状に基づく近未来フィクションと呼んでもよい。

「米大統領は対中関係を重視し、日本の要請を断る」

 さてこの書『ショーダウン』は9章から成るが、そのちょうど真ん中の第5章が「中国と日本の戦争」とされ、日中両国の本格的な軍事衝突のシナリオが2009年1月20日を出発点として描かれる。その前年の米国大統領選挙では民主党リベラル系の女性政治家が勝利を飾り、初の女性大統領に就任してホワイトハウス入りしたという想定である。

 そこから始まる日中戦争のシナリオの要点を紹介しよう。

 「日本の首相が米国の女性大統領に尖閣諸島の至近海域で中国とロシアの海軍が合同で大演習を始めたことを告げ、米国として中国とロシアにその中止を求めることを要請する。だが同大統領は『対中関係が大切だから中国を刺激したくない』と断る」。

 「中国では北京オリンピックを成功裏に終えたが、貧富の差が広がり、失業者が急増した。共産党政権は人民の不満を抑えようと、国内ではナショナリズムを高揚させ、外部では周辺諸国、特に日本への覇権行使を行い、『中国人民は日本の首相の靖国神社参拝を中国への戦争行為だとみなす』と宣言する」。

 「日本を屈従させるため中国指導部は中国内で働く日本人技師らをスパイ容疑で逮捕して裁判にかけ、死刑の判決を下す一方、中国全土で反日デモを組織するが、そのデモが2000万人参加にまで膨れあがる。中国は日本の首相が靖国を参拝したことに対し、全面的な謝罪を求め、さらに尖閣諸島の放棄を迫る」。

 ―― 米国の初の女性大統領とは明らかにヒラリー・クリントン女史を示唆している。同書のなかではこの大統領が「小さな島のために大切な貿易相手の中国を挑発することはできない」と日本の首相の懇願をあっさり断る場面がドラマチックに描写される。「日米安保条約は尖閣諸島には適用されない」と言明した米国の民主党政権の駐日大使が現に存在したのだから、一概に「荒唐無稽」で済ませられないシナリオである。まして中国側のナショナリズムと反日デモの扇動、尖閣諸島の領有権主張、日本の首相の靖国参拝非難など、現実とそう変わらない。

「靖国神社に巡航ミサイル、海戦へ」

 『ショーダウン』の日中戦争のシナリオはさらにエスカレートする。日本にとっては踏んだり蹴ったり、まさに悪夢のような想定なのだ。

 「2009年7月8日、中国軍は日本列島の上空を通過する弾道ミサイルを発射し、日本を威嚇して、全面謝罪と尖閣諸島放棄を要求する。日本の首相は米国に支援を求め、ミサイル防衛強化のためのイージス艦増強などを要請する。だが米国大統領は『日中二国間の問題だから』と拒む」。

 「中国側は『日本人スパイ』数人を処刑し、サイバー攻撃で東京証券取引所や各地の航空管制システムを混乱させる。日本側は尖閣諸島近くに自衛隊艦艇を出し、演習を開始する。中国側は8月3日、靖国神社に巡航ミサイルを撃ち込んで破壊するとともに、尖閣侵攻の戦闘作戦を始め、日中の海戦がついに始まる」。

 「米国大統領は日本側からの再三の防衛支援の要請にも応じず、日本の首相に『米国は中国との戦争はしたくない』と告げて、不介入を表明し、国連への調停を求めるように通告する」。

 ―― 日中戦争のシナリオはこんな展開で進むのである。国連は安保理常任理事国の中国がノーと言えば、なんの行動もとれないことは周知の事実である。

この近未来フィクションをどう読むべきか

 「ショーダウン」のシナリオ記述はまだまだ先があるのだが、日本にとってはあまりに惨めな仮想をすべて紹介する必要もないだろう。第三者からみればサスペンスに富んだシナリオの結末を明かしてしまうのは著者たちへの非礼かもしれない。

 しかし、ここまでの日中戦争の近未来フィクションをどう読むべきか、は日本側にとってはまた別問題である。そうした物騒な設定をセンセーショナルな空想だとか、まったくの根拠のない妄想、劇画の世界、などと一蹴することも見識のうちかもしれない。だがこの書は前述のように国防総省高官までを歴任した専門家二人によって書かれ、レグネリー社という著名な出版社から出されている。レグネリー社は保守系の書物の刊行が多く、この『ショーダウン』も保守系の軍事専門家からリベラル派の親中傾向への警告ともなっている。保守系の思考はいまのブッシュ政権下の米国では主流であり、この書も一般の新聞や雑誌の書評で取り上げられるようになってきた。

 この書をまじめに受けとってもよい最大の理由は、著者たちが血なまぐさい戦争のシナリオを「実際に起こしてはならない危険な可能性」として使っている点であろう。

 著者のバビン、ティムパーレーク両氏は冒頭の第1章で以下のように書く。

 「もし米国あるいはその同盟国と中国との戦争が起きる場合、それがどのように起き、どのように戦われるか、私たちは中国の歴史、能力、意思に基づき、分かりやすいシナリオとして明示した。その種の戦争がどう起きうるかを生々しく描写すれば、米国とその同盟国はおそらくその戦争を外交、封じ込め、抑止などの手段によって避けることができるだろうと信じるからだ」。

 要するに戦争の防止が戦争シナリオ提示の目的だというのである。

 そしてそのシナリオ提示は、ものすごい勢いで増強される中国の軍事力に対する警戒や懸念が原因だとされている。『ショーダウン』の著者たちは、中国がアジアからやがてはグローバルな覇権を目指し、米国と正面から対決しようという意図を固めていると断じているのである。


『ショーダウン』
 この書『ショーダウン』の著者の一人ジェッド・バビン氏は先代ブッシュ政権の国防副次官だった。空軍将校の出身で弁護士活動から著作活動まで幅広い領域で活躍しているが、軍事問題に詳しい。もう一人の著者エドワード・ティムパーレーク氏もレーガン政権時代の国防総省の動員計画部長だった。先代ブッシュ政権では退役軍人問題担当のホワイトハウス高官にも任命された。海軍士官学校卒後に海兵隊将校となり、戦闘機パイロットまで務め、議会下院の軍事問題スタッフを歴任、中国軍事関連の著書も今回のほかにすでに刊行している。だから少なくとも軍事全般や中国の軍事動向には詳しい二人の筆者たちなのである。

なよ竹の…

2006年06月26日 | 日本の心
「なよ竹の風にまかする身ながらもたわまぬ節はありとこそきけ」
西郷千重子


弱いなよ竹のように吹く風に連れてゆれ動くばかりの弱い女の身だが、そのなよ竹にはどんな強風にも曲がらない節があると聞く。私も節義に殉じて一死を選ぶ。

西郷千重子は会津藩家老西郷頼母の妻。
戊辰戦争で兵力で勝る新政府軍は会津にも攻めてきました。慶応四年八月二十三日新政府軍は会津城下に侵入してきました。
この時兼ねてからの合図である士族家族の入城を告げる鐘の音が鳴り響きました。
しかし、西郷頼母邸では、家を守る母と妻千重子が子女に向かって「お城に入って殿様に従いたいが、子連れではかえって足手まといになるやもしれぬ、むしろ自刃して国難に殉じたい」と伝え、長子吉三郎のみを城に入れ、頼母の母律子、妻千重子、妹眉寿子、由布子、長女細布子、次女瀑布子、三女田鶴子、四女常磐子、五女季子、他縁者の計二十一名が自決しました。
この時に千重子が残した辞世がこの「なよ竹…」です。

二十年ぐらい前、年末の民放番組で「白虎隊」を放送したのを見たのですが、その中でこの自刃の場面が描かれていたのを思い出します。
武士の妻と言うか、本来の日本女性の気持ちを表しているように思へます。
私は偉そうに言えませんが、今は男女問わず、この辞世と逆な人が多いのではないでしょうか。


引用
「名歌でたどる日本の心・スサノオノミコトから昭和天皇まで」
国民文化研究会・小柳陽太郎編 草思社


陸自、撤収作業開始 

2006年06月25日 | 自衛隊
25日、大型トレーラーに積まれ、イラク南部サマワの宿営地からクウェートへ向け出発する車両を見送る陸上自衛隊員(共同)

陸自、撤収作業開始 クウェートへ車両輸送  

   

【サマワ、クウェート25日共同】約2年半にわたって活動したイラク南部サマワから撤収する陸上自衛隊の軽装甲機動車など車両10数台を積載した最初の大型トレーラー車列が25日午前(日本時間同日夕)、宿営地から隣国クウェートに到着した。隊員約600人の撤収に向けた作業が始まった。  

当面は装備品や物資の輸送が行われ、その後、安全確保のため空路を利用した隊員のクウェートへの撤収が始まる。7月中の撤収完了、8月中の帰国を目指す。陸自は「迅速、安全」を第一に、実施中の人道復興支援活動と並行して作業を進める。
(共同通信) - 6月25日17時42分更新


陸上自衛隊の皆さん、2年半に亘るサマワでの復興支援活動お疲れ様でした。
8月の完全撤収まで無事に完了されることを祈ります。


ジーコ監督4年間お疲れさん。

2006年06月24日 | スポーツ
ジーコ・ジャパン帰国 敗退にも温かい出迎え
2006年 6月24日 (土) 17:59  

サッカーのワールドカップ(W杯)1次リーグで敗退した日本代表チームが24日午後、成田空港着の航空機で帰国した。成績は1分け2敗と振るわなかったが、ファン約700人が出迎え、厳重に警備された選手が姿を現すと、大きな歓声が起こった。

帰国したのはジーコ監督らスタッフと、宮本恒靖主将(G大阪)ら選手20人。不本意な戦績に終わった後の10時間以上の移動とあって選手たちは疲れた様子で、それぞれ家路についた。ブラジル戦でゴールを奪った玉田圭司(名古屋)は「(W杯は)あっという間だった」と話した。

チームは23日に合宿地のボンで解散しており、中田英寿(ボルトン)高原直泰(ハンブルガーSV)小野伸二(浦和)の3選手は帰国に同行しなかった。


ジーコ監督4年間お疲れさんでした。
4年前ジーコが監督になった時、正直私は大丈夫かなと思ったのだが、よくワールドカップ出場まで仕上げたと思います。

今回の経験はスタッフも選手もマスコミも応援していた人達も、ワールドカップ本大会がいかに厳しいものかよく分かったと思います。
日本サッカー史上最強だった、メキシコオリンピックメンバーでさえワールドカップには出場すら出来ませんでした。
その事を考えると、今回のチームは強くなっているのかと思いますが、ただ、体力面、精神面が弱くなっているように見えます。
中田はその事が見えていたのでしょう。
今考えれば、毎日の居残り練習は自分ではなく、チームへのメッセージだったように思えます。
しかし、誰も理解できなかった。

これから日本代表監督に誰がなるか分かりませんが、ゼロからのスタートです。
2年後に始まる次回ワールドカップ予選で、勝てる監督と、負けない選手に成長する事がなければ今回と同じ事になるか、それ以前に予選敗退になるでしょう。



首相の靖国神社参拝は違憲に非ず。最高裁判決

2006年06月23日 | 靖国神社
首相の靖国訴訟、原告の敗訴確定 「法的利益の侵害なし」

 
小泉純一郎首相が平成13年8月、靖国神社を参拝したのは憲法の政教分離原則に反し、精神的苦痛を受けたとして、日韓の戦没者遺族ら278人が国や小泉首相、靖国神社を相手取り、違憲確認と1人当たり1万円の損害賠償を求めた訴訟の上告審判決が23日、最高裁第2小法廷であった。

 今井功裁判長は「本件参拝によって上告人らに損害賠償の対象となり得るような法的利益の侵害があったとはいえない」として原告側の上告を棄却、請求をすべて退けた2審・大阪高裁判決が確定した。歴代首相の靖国参拝をめぐる最高裁判決は初めて。

 1審・大阪地裁は公的参拝と認定した上で、憲法判断に踏み込まずに請求を棄却。2審は公私の別や憲法判断に触れず、原告側の控訴を棄却していた。原告側は戦没者を祭祀(さいし)するか否かについての決定権を侵害されたと主張していた。

 判決理由で今井裁判長は「人が神社に参拝する行為自体は他人の信仰生活などに対して圧迫、干渉を加える性質のものではなく、他人が特定の神社に参拝することによって、自己の心情ないし宗教上の感情が害され、不快の念を抱いても、被侵害利益として損害賠償を求めることはできない」と指摘。その上で「内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合も異なるものではない」と判示した。

 さらに、こうした点も踏まえ、「本件参拝が違憲であることの確認を求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らか」とした。



■上告審判決の要旨

 【法的利益の侵害】人が神社に参拝する行為自体は、他人の信仰生活などに関して圧迫、干渉を加えるような性質のものではない。他人が特定の神社に参拝することで、自己の心情または宗教上の感情が害されたとし、不快の念を抱いたとしても、これを侵害された利益として直ちに損害賠償を求めることはできないと解釈するのが相当だ。

 原告らが主張する「戦没者が靖国神社に祭られているとの観念を受け入れるか否かを含め、戦没者をどのように回顧し祭祀するか、しないかに関して(公権力からの圧迫、干渉を受けずに)自ら決定し、行う権利または利益」もこのような心情または宗教上の感情と異なるものではない。

 このことは内閣総理大臣の地位にある者が靖国神社を参拝した場合でも異なるものではなく、本件参拝で原告らに損害賠償の対象となりうるような法的利益の侵害があったとはいえない。損害賠償請求は理由がないものとして棄却すべきだ(参拝が違憲であることの確認を求める訴えに確認の利益がなく、却下すべきことも明らかだ)。

 【滝井繁男裁判官の補足意見】他人の行為で心の平穏を害され、不快の念を抱くことがあったとしても、その行為が過度にわたり、自由を侵害したといえる場合に初めて法的保護を求めうる。

 誰でも、公権力が自己の信じる宗教によって静かで穏やかな環境で特別な関係にある故人の霊を追悼することを妨げたり、意に反して別の宗旨で故人を追悼することを拒否でき、強制を伴わなくても法的保護を求めることができる。国などの行為でそれが侵害されたときには、損害賠償を請求できると考えるが、原告らはそのような個別的利益を主張していない。

 また特定の宗教施設への参拝という行為で内心の静穏な感情を害されないという利益は法的に保護されたということはできない。侵害行為の態様にかかわらず、原告らの法的利益が侵害されたとはいえない。参拝が政教分離に反する違憲なものかどうかを問うまでもなく、侵害された利益を認めることはできないので、本件請求は失当だ。

(06/23 13:12)sankei web


判決文全文

法律の言葉は分かりにくいのだが、最高裁の判決文を読めば、靖国神社に参拝することは憲法20条1項の信教の自由にあたり、この事は総理大臣でも同じである。また、参拝そのものは第3項の宗教的活動には当たらない。と判断したと言えると思います。

総理大臣が靖国神社に参拝するのは当たり前のこと。








奇跡は起こらず。

2006年06月23日 | スポーツ
日本、決勝T進出ならず ブラジルに1―4逆転負け
 サッカーのワールドカップ(W杯)ドイツ大会で22日(日本時間23日未明)、1次リーグF組の日本はドルトムントのW杯競技場で前回覇者ブラジルと対戦し、1―4で逆転負けした。日本は1分け2敗の勝ち点1で同組最下位に終わり、前回大会に続く決勝トーナメント進出はならなかった。F組はブラジルが1位、オーストラリアが2位でベスト16に進んだ。

 日本は前半34分、玉田圭司(名古屋)が先制ゴールを決めた。しかし前半ロスタイムにロナウドに同点ゴールを決められ、後半に3失点して力尽きた。

 3大会連続出場の日本は12日のF組初戦でオーストラリアに1―3で敗れ、18日の第2戦もクロアチアと0―0で引き分け。F組突破のためにはブラジルに2点差以上で勝つことが最低条件だった。(共同)


奇跡が起こるかなと思ったが、やはり甘くはなかった。
選手以外にもいろいろ課題は残ったが、今は選手にお疲れさんと言おう




「宣誓供述書」Ⅲ徳富蘇峰(東京裁判7)

2006年06月22日 | 東京裁判
六 日本の自存、自衛、及自尊

予は歴史家の立場から、且又半世紀以上に亙る新聞記者の立場から観察して、日本は侵略国でなく、日本国民は侵略国民でなく、寧ろ其の反対で、平和国であり、同時に世界列国の中で最も平和を愛好する国民である事を、断言する者である。且つ決して自ら優越感を以て世界国民に対するどころではなく、表面は兎も角も、内心は国は小、物資は貧、文化は低いと云ふ、寧ろ我れ自ら、我が他に対して大なる欠陥ある事を自覚し、其の自覚心から、或は模倣となり、追随(ついずい)となり、反抗となり、強ひて自ら特別の位地を作つて、僅かに其の劣等感を慰むるに至つたものである事を、断言するに憚(はばか)らない。

凡そ世界に、日本人ほど、自国中心的国民は無い。日本人は自国を開いて、凡有(あらゆ)る世界の物を吸収する事を、一の国民性としてゐるが、自ら世界に向つて推し出し行くと云ふやうな事は、其の本性ではない。日本の古き文献である祝詞、即ち神様の前に告げる祈祷の文句を読めば、何も彼も日本に引寄せると云ふ事を宣言してゐるが、日本より推し出すと云ふ事は一も語つてゐない。世界が日本に向つて、日本は世界より受けるものが甚だ多くて、世界に与ふるものは甚だ少ないと言つてゐるが、其実は、それが国民性と言つてもよからう。之は恐らくは当初から、日本人は受くる事の資格は十二分に持つてゐるが、与ふる事の資格は、持つてゐなかつたと云ふ事を、証拠立つる一端であらう。それで日本人には、内に引寄せる力は十であつて、外に延長する力は零であると迄は言へぬが、殆どそれにちかかつた。彼等は故郷に恋着して、偶々(たまたま)異郷に赴(おもむ)くも、常に故郷の空を眺めてゐた事は、唐時代に日本の留学生として支那に赴き、支那では成功して大官となつたる阿倍仲麿さへも、尚ほ「三笠の山に出でし月かも」と云うて、奈良に於ける日本の光景を思慕してゐた。斯かる求心力多くして遠心力乏しき国民が、世界を征服するとか、隣国を侵略するとかと云う考のあるべき筈はない。然に其の国民が、維新以後諸方に出かけたのは何であるか。生活難である。衣食の欠乏が、彼等を駆りて、其の国民性に反して迄も外に向はしめたものである。

維新以後の、日本政府と云はず、国民と云はず、寧ろ日本国の運動は、第一は自存の為めである。即ち日本国民が、生活する為めに、衣食を求むる為めに、外に向つて動き出した事。第二は自衛の為めである。日本国が、完全の独立国となる事を努むるばかりでなく、完全の独立国として、永久に其の位地を保つべく、国家の完全なる独立を、外来の勢力より防禦する為めに運動したるものにして、明治より現代に至りたる日本国民が、余儀なく戦争に従事したるのも、畢寛(ひっきょう)多くは皆な如上(じょじょう)の理由に基づくものである。即ち自存自衛の為めである。

第三に数ふべきは、自尊心である。即ち一面に於ては、完全なる独立国として、世界列強並に待遇せられざる不平、不満の爆発したる抗議である。又た世界列強が為す所を見て、舜(しゅん)も人なり我れも人なりと云ふやうな気分になり、英米露独其他の列国が為す所を、日本一人指を啣(くわ)へて、之を見物してゐるは、余りにも不見識であり、余りにも腑甲斐(ふがい)なくあると云ふ事を考へ、所謂る国民的アスピレーシヨンとして、それが原動力となつて働き出した事も、亦た此中に加へねばならぬ。之は要するに、日本人の最も多量に持つてゐる模倣性の発露したるものであつて、我等は決して此事を包み隠す事が出来ぬ。例へば、一滴の酒を飲まぬ者でも、其の傍に杯盤狼籍(はいばんろうぜき)、絃歌(げんか)四方に湧き、素人も玄人も踊り出すが如き場合には、仮令(たとい)禁酒会の幹事でも、教会の牧師でも、其心は浮かれて踊り出す事は当然である。況(いわ)んや普通の人間に於てをやだ。若し日本の運動が、万一其中に帝国主義的の不純の分子がありとすれば、日本人民にそれをコーチした者は、誰れであるか。それは世界列強が皆なそれである、と断言するを揮らない。十九世紀の下半より、二十世紀の上半に於ける日本の歴史は、決して日本だけの歴史でなく、世界共通の歴史であつて、唯だ日本人が、其の役目を果す事に於て列国人ほど巧みでなかつたと云ふ事は、或は言ひ得るかも知れぬが、日本人はあとから後から、皆な先進国の真似をして来たものであつて、日本で言ふ「鴉(からす)の鵜(う)の真似」と云ふやうな事は、言ひ得るかも知れぬが、其の手本は、鴉が発明したのではなくして、鵜が発明したものである。列国は皆な水中に潜ぐつて大小の魚を獲たが、日本だけはそれを真似して、魚を得ないばかりでなく、己れ自ら水に溺れたのである。日本人の愚は及ぶべからずであるが、此の如き模範を示した先進諸国は、日本人の伎倆(ぎりょう)の拙(つた)なきを嘲(あざけ)り、若くは笑ふ事は勝手であるが、之を責め、之を咎(とが)め、之を以て日本を罪せんとするが如きは、神の眼から見れば、決して公平の措置ではあるまい。

今日に於て日本人を咎むれば、支那を見誤り、米英諸国を見誤り、ソ聯を見誤り、独逸伊太利亜を見誤り、殊に最も多く日本を見誤り、孫子の所謂る彼を知らず己を知らずして今日の状態に立ち到つた一事であつて、日本人としては自業自得、誰れを咎むべくもなく、若し咎むべき者があれば、我れ自らである。日本人の中には、之を軍閥とか、唯だ其の責任を、一局部に推�(すいい)して、涼しき顔をしてゐる者もあるが、総ての行動は、予の見る所に依れぼ、日本国民全部が負ふべきものである。其の中に濃淡軽重の差別はあるが、今更ら今日となつて、知らぬ存ぜぬなどと言つて、己れ一人いい子とならんとするが如きは、全く日本精神の何物たるを、忘却したるものと云はねばならぬ。

予は今日に於ても、日本国民の一として、昭和十六年十二月八日、宣戦の大詔を、其の文字通りに信奉したる者である事を、確言するに憚(はば)からぬ。固(もと)より至尊が、昭和二十年八月十五日、親しく御放送あらせられたる後は、最早や此の詔勅に就て、彼是(かれこれ)申すべき筋合でないが、詔勅中にのべさせられたる、此の戦争は、日本人に取ては、好ましくないが、強ひて相手方より押し付けられたる戦争、即ち受け身の戦争である。日本は所謂るA・B・C・Dの包囲に陥り、立つに立たれず、座るに座られず、此上は死中活路を見出し、暗中の飛躍をなすの外はなしと決心するに至りたる其の意味合は、予は今日に於ても、尚ほ其の通りに確信してゐる者である。今日では、此の問題を論ずるには、余りに時間が接近し、且つ予の如きは、日本の一新聞記者として、其の立場が極めて不利なるが為めに、或は予の言説は、予が自ら信ずる如くに他の信用を得る事が出来ぬかも知れぬが、百年の後公平なる歴史家が出で来ったならば、必ず予の言を諒(りょう)とするであらうと信ずる。

最後に、新聞記者として予自身に就て述べたい。予は大正の初期から、日本の二大脅威は、ソ聯と米国である事を確信し、此点に就て、我が国民に屡々(しばしば)警告した。殊に予は、予の幼年以来アングロ・サクソンの文化に負ふ所多大であつて、予の新聞記者たる初歩も、今尚ほ其の名だけは継続して、ニユーヨークで出版しつゝある雑誌“The Nation”に依て啓発せられ、其の為めに予の発刊したる新聞も、「ネーシヨン」と同一の名目である「国民新聞」と名付けたる程である。米国と戦争などと云ふ事は、夢にも希望してゐなかつた。然し米国の我れに対する態度が、太平洋岸に於ける移民問題、学童問題などを始め、ワシントン会議に於て、我れに一大打撃を加へたる以来は、国民的自衛の上からも、国民的自尊の上からも甚だ危険を感じて、其の為めに日本人に警告するばかりでなく米国人にも警告し、現に其の一小部分とも云ふべき一は、英文に翻訳せられ、ニユーヨークに於て出版せられてゐる。
(“Japanese-American Relations ”By the Hon.Iichiro Tokutomi. Pub.
The Macmillan Co. N. Y. 1922)予の言論の中には、頗(すこぶ)る露骨率直のものがあつたが、之は予が米国のCandid friend たる所以にして、衷心(ちゅうしん)より、米人が日本に対する態度を改善せん事を希望したるに外ならない。其他日米の関係を改善する為めに著述したる文章は、新聞雑誌は勿論、箸作の上にも頗(すこぶ)る多く散見してゐる。然し時局が愈々(いよいよ)進むに連れて、日本は米国の為めに、自衛自尊を危ふくするばかりでなく、日本の生活の上に迄危殆(きたい)を及ぼし、所謂る自存の点をも危ふからしめんとするが如き、通商条約廃止、資金凍結、日本に必須なる貿易品の輸入禁止などが行はれ、所謂る日本に於ける維新以来の三大条件が、米国及び其の与国の為めに、悉(ことごと)く侵害せらるゝを見て、此上は是非なしと考へしむるに至つたものであつて、予の多くの苦辛も、著作も、之が無効に帰したるばかりでなく、日本をして今日の状態に至らしめたる事を、衷心より深く痛嘆する所である。而して予の横井小楠の遺志を継げる眇(びょう)たる門弟の一人として、事志と違ふたるを痛嘆し、新聞記者として、一生の労苦も、殆ど水泡に帰したるを見、自らの微力なるを、今更の如く慙悔(ざんげ)する者である。


この文章には強調したい部分が何カ所が有りましたが、あえてしませんでした。
徳富蘇峰はこの時病身でありながら、勝者が敗者を裁く、しかもこれまでの日本を否定するような事に、またその事に同調する日本国民に怒りを感じてこの宣誓供述書を書いたのでしょう。

「宣誓供述書」Ⅰ徳富蘇峰 

「宣誓供述書」Ⅱ徳富蘇峰



「宣誓供述書」Ⅱ徳富蘇峰(東京裁判6)

2006年06月22日 | 東京裁判
徳富蘇峰の宣誓供述書、前回の続きです。
明治維新から、昭和初期を述べています。

四 明治維新の動機と根本政策

維新の改革は、其の動機は今此処に悉(ことごと)く挙ぐる訳にはゆかぬが、最も大なる動機、即ち根本原因とも言ふべきは、幕府では到底日本国の独立が出来ない、幕府に任せて置けば、日本は諸外国の為めに侵略せられて、如何なる憂目(うきめ)を見、如何なる恥辱を蒙(こうむ)り、軈ては日本其物が亡滅するに至るも測られない。依って皇室を中心とし、日本を統一し、日本国民の全力を挙げて日本国を防禦し、完全なる独立国として存在せねばならぬと云ふ事であつた。之が即ち、殆ど大なる面倒なくして、改革が短時日の間に成就せられたる所以である。

従て維新以来の根本政策は、其の趣旨を遂行するに外ならなかつた。即ち第一は、先づ日本国を外力より安全なる地位に置く事である。第二は、日本国を完全なる独立国とする事である。第三は、日本国を、国際社会の仲問入りをなし、其の一として、若くは重もなる一として、国際上に列強並の働きをなさしむる事である。而して如上の目的を達する為めには、其の根本政策として定めたのが、即ち明治元年(一八六八)三月十五日発布せられたる「五条の誓文」である。五条の誓文が、我が国策の基調であつて、一切の事は之より割り出して来たものであつた。爾来殆ど八十年間、時としては横道に趨(はし)つた事もあるが、概して言へば、其の線に沿うて今日に至つた。

明治維新を政治的に指導したるは、三条、岩倉、西郷、大久保、木戸であつたが、其の大なる筋書を指導したる、即ち指導原則を与へたのは、必ずしも彼一人と言ふ事は出来ぬが、其の代表的一人は横井小楠である。前にも述べたる如く、五条誓文のインスピレーシヨンは、横井小楠が、其の原案の起草者若くは其の一人由利公正(ゆりきみまさ)に与へたものであつて、それは誰れよりも先づ由利公正が、明かに之を認識してゐる。横井小楠は、世の所謂る空理空想に趨る、所謂るドクトリナー(Doctrinaire)ではなかつた。彼れの反対者さへも、彼れの一派を「実学党」と称した程であつて、彼れは眼は天を眺めたるも、足は地を踏んでゐた。彼れは恒に理想を実際化する事を努めてゐた。彼れが維新の初め、其の故郷肥後より、朝廷の召命を承けて京都に喚び出されたる際に、彼れより先に朝廷の参与職に任じてゐた越前の由利公正―当時は三岡八郎―は、彼れを大阪に迎へたが、横井は由利に向つて、日本は洵(まこと)に幸運である。第一は、日本が万世一系の皇室を戴いてゐる事である。第二は、日本が世界列国に後れて、開かれたる事であると言うたと、由利は語つてゐる(『小楠遺稿』参照)。万世一系の事は、今此処にに語らず。横井が斯く言うた事は、西洋人が千辛万苦(せんしんばんく)して得たる一切の智識は、日本人が其儘之を学修する事が出来るのみならず、西洋の短を捨てて、其の長を取る事が出来る。それで労は少なくして、功は之に倍すると云ふ事を、意味したものであらう。而して横井は、其の書きたる物に依て、且つ其の語りたる物に依て見れば、少年であつた明治天皇に大なる望みを属(しょく)し、天皇に依て維新の大政が光を放つ事が出来ると、斯く信じてゐた。而して彼れは、軈て頑冥(がんめい)党の為めに暗殺せられたが、彼れの志は、彼れの門人でもあり、且つ友人でもある元田永孚(もとだながざね)に依て完成せられた。横井は、出来得べくんば自ら日本の使節となつて米国に押渡り、米国大統領の同意を得て、世界平和の会議を催しい世界平和の端緒を、日本に依て啓(ひら)く事を世界に対する第一の貢献である、と信じてゐた。但だ之は、其人亡んで、其の理想は実行出来ずして已んだ。横井は、支那に於ける理想的君主たる尭舜の次には、ワシントンを崇拝し、一国の元首たる者は、ワシントンを以て模範とせねばならぬと唱へてゐた事は、元田の横井に就て語つたる所に依ても、明白である(『小楠遺稿』参照)。彼は儒教の信者であつて「仁者敵無し」と云ふ言葉を、実行出来るものと考へてゐた。彼れの目的は政治の倫理化であつて、其の倫理化は、一家、一町村、一国より、延(ひ)いて世界に及ぽすべきものと、信じてゐた。従て維新の政府は、戦争に依て出で来つたが、維新の政府が将来の戦争を為さんが為めに出で来つた政府でなくして、現在の平和を一国的に維持し、軈は世界の平和を、国際的に維持する事を主眼とした事は、今更ら言ふ迄もない。

予は決して如上(じょじょう)の観察を、机上の空論に依て語る者ではない。維新政府を組織したる重もなる人物に就て、其の一人一人を吟味するも、未だ曾て侵略主義者が維新の根本政策を作為したとか、指導したと云ふ事は、事実の上に其の痕跡だも見出す事が出来ぬ。殊に日本の重もなる維新政府の政治家である岩倉、木戸、大久保等は、明治四年(一八七一)の末より、明治六年(一八七三)の半ば迄、アメリカより欧羅巴を巡回し、親しく欧米諸国の現状を見て、到底日本の現状では、欧米諸国と競争なぞは、出来るものではない。先づ第一に、日本の位地を向上せしむる事を本務とせねばならぬ。それには、凡有(あらゆる)る外国の長所を取り入れる事を急務とせねばならぬと云ふ事に、其の決心を固めて来た。従て維新政府が、軍国主義であるとか、軍国主義の卵であると云ふ事は、夢更ら無き事である。明治天皇は、維新の当初は未だ幼少であらせられて、自ら政治を判断するの資格は学修中であつたが、明治十年(一八七七)より以後は、漸次に天皇親政の、名ばかりでなく、実が行はれて来た。而して天皇の最も信頼せられたる政治上の相談相手は、前には岩倉、後には伊藤の二人であつた。此の二人とも、何れも平和的政治家であつて、何人も此の両人を以て、軍国主義者と見倣す者はあるまい。且つ又た、個人として、明治天皇に畏れながら最も深甚なる感化を与へ奉りたるは、日本人としては元田永孚である。元田永孚(もとだながざね)は、如何なる事を天皇に告げたかは、予が曾て出版したる『元田先生進講録』が、詳しく之を語つてゐる。彼れは横井小楠を縮小版としたやうな漢(おとこ)であつて、横井小楠の「荒削りなる疵(きず)を除(はら)つて、精金美玉」としたやうな人物であつた。其の意見も亦た其の通りであつた。外人で最も感化を及ぽしたのは、米国の前大統領グラント将軍であつて、明治天皇は明治十二年(一八七九)の秋、日本に来遊したるグラント将軍に向つて、随分立ち入つたる点まで問答された。当時明治天皇は、既に二十八歳の青年として、最も印象深くグラントの進言を、聞こし召された。グラントは、日本が余りに熱心に欧米文化を取り入れるに就て、拍車を加へたのでなくして、寧ろブレーキを加へた。
而して陛下に向つて、日本が完全なる独立国となり、外人の不当なる干渉より免れん事を祈つて已まなかつた。明治天皇が如何に平和的、世界協調的の典型的君主であらせられたかと云ふ事は、天皇御自身の歌集が、よく之を語つてゐる。此の如く明治政府の中心である明治天皇、天皇を輔翼する重もなる政治家、皆な悉く軍国主義者でなきのみならず、其の痕跡もなき程である。此の如き天皇、此の如き政府に向つて、世界侵略の陰謀などの、存在すべき理由なきは、予が殊更らに弁明を侯(ま)たざる所である。

要するに明治の中期迄は、日本は如何にすれば、完全なる独立国となる事が出来るかと云ふ点に就て、政府も人民も、其の憂身(うきみ)を窶(やつ)したした。凡そ日本人の心を悩ましたる、最も大なるものは、日本に治外法権の存在したる事、〔関税自主権の〕日本人の手に存在せざる事の二つであつた。此の税権・法権の回復は、如何なる犠牲を払うても、遂行せん事を期したが、それに就ては、日本の意見は、自ら二派に岐れた。一は速かに日本の文化の程度を引上げ、外国人が安心するやう、満足するやう、日本を欧米化し、之を実行すべしと云ふ意見と、一は日本は日本流で立て通し、欧米人も此儘では、永く日本人を継子(ままこ)扱ひをせねばならず、其の為めに欧米人に取つても寧ろ不便利なる事が多く、困却する事が多いから、欧米人より「我」を折らせて、向ふから条約改正を、日本に申し込む方が、寧ろ近か道であると云ふ論とである。即ち前者の欧米化主義に対抗して、条約励行論などが出て来た。即ち条約の文字通り、一点一画も変更せしめず、例へば外人の自由通行を十里以内と決めたる以上は、十里から一尺でも足を踏み出す事は出来ぬやうにして、外人に窮屈を感ぜしめ、閉口の余り対等条約を、彼れより申込ましめんとする意見であつた。是等の騒ぎで国内は沸騰したが、それらの事も、明治二十七年(一八九四~九五)以後に至つて、自然に落着する処に落着した。
即ち維新以来の、我が官民の努力が漸く欧米諸国に認識せられ、対等としては取扱はぬ迄も、三年たてば三つになると云ふだけの、日本の進歩生長を認めて、漸くグラント将軍が言うたる、完全なる独立国と殆どなつた事は、明治政府創立以来、三十年の後であつた。

五 近代日本に於ける内外の刺激

日本に向つて、支那の怖るるに足らざる誨(おし)へた者は、欧米諸国であつた。日本は其の教へを忠実に遵奉(じゅんぽう)したばかりでなく、それに輪をかけて、支那の恐るるに足らざる事を知つたが、同時に支那に対する尊敬と恐怖に、又た輪をかけて、欧米諸国に傾むけた。然し目本にも、中村敬宇の如きは、明治の初期に、支那侮るべからざる論を世の中に公けにし、日本人
の支那に対する態度を、改めん事を警告した。又た勝海舟の如きも、明治二十七八年戦役前後、日本人が支那与みし易しと有頂天になつた際に、支那人の方が、日本人より智慧分別が多いと、日本人の浮足を警(いま)しめた。此処に日清戦役に就て一言するが、日清戦役は、西暦第七世紀の頃、即ち今より千二百有余年前、天智天皇の朝に、支那と朝鮮に於て戦うたる、其の戦争の延長とも言ひ、若くは其の繰返しとも言ふ事が出来る。但だ前に於ては、朝鮮に於ける日本の勢力は、支那の為めに全く駆逐されたが、二十七八年の役には、朝鮮に於ける支那の勢力を殆ど駆逐し去つた。朝鮮が日本の防禦の第、線であつた事は、日本上古史以来の事であって、今に始まった事ではない日本が朝鮮から全く撤退した後は、日本は従来に倍して、九州の防禦を厳にした。然し軈(やが)ては、朝鮮を策源地として、蒙古の来襲を蒙むつた。幸に所謂「神風」の力で、蒙古軍は逐(お)ひ払ったが、それでも日本人は恐怖心が止まず、其の策源地を一掃せんが為めに朝鮮に対する出兵を企てたが、それは内治上の事情で中止となつた。明治六年(一八七三)に、西郷隆盛等の、所謂「征韓論」なるものも、其の真意は、日本と朝鮮とが攻守同盟を結び、露国に対抗せんとするのが、其の目的であつた。然し反対党は、其の為に却て露国との事件を惹起せん事を虞(おそ)れて、それに反対した。それで反対者も主張者も、総ての見地は、外国の勢力に対する防禦の方法及び方針に就て意見が分裂した迄であつて、朝鮮が日本防禦の第一線と云ふ事は、日本開關以来の常識であつて、誰れもそれを疑ふ者はなかつた。
話は元に還つて、支那は元来日本を物の数とも考へてゐなかつた。其の日本が、或は琉球に手を出し、台湾に手を出し、朝鮮に手を出すなどと云ふ事を見て、怪しからぬ事をすると考へ、単に日本を侮り賎(いやし)むばかりでなく、憎み、怒り、且つ怖るゝやうになつた。斯くて支那の慣用手段、遠交近攻を利用して、外国の勢力を引つ張つて来て、日本を牽掣(けんせい)し且つ復讐をした。之は支那人としては、決して賢明の仕業ではなかつた。少なくとも当時の所謂る支那分割の端なるものは、茲に開らけた。日本でも、支那戦争中より、支那と握手せん事を期待したる者は少なくなかつた。伊藤などの如き平和政治家は云ふ迄もなく、日清戦役に日本のモルトケの役目を勤めたる川上将軍の如きも、最も熱心に其事を考へてゐた。而して支那にも、日支提携する方が支那の長策であると考へた者も、皆無ではなかつた。然し其の多数に就て見れば、日本人は支那与みし易しと云ふ一念が行き渡り、支那に対しては、大なる研究もせず、又た大なる準備もせず、宛(あた)かも門前に在る石を、何時でも勝手に之を動かし得るものであるかの如く考へてゐた。支那の方では日本に対する憤慨心或は復讐心は、皆な其の胸中に燃えて、何かの機会に報復する所あらんと考へてゐた。然し当分の間は、日本には敵はぬから暫くは虫を殺して隠忍して、其の時節の到来を待つてゐた。此の如くにして、維新以来日本と支那は、隣国でありながら、又た文字を同じくしてゐながら、遂に相識(し)り相親しむと云ふ迄には至らなかつた。勿論個人間には相当の交際もあつたが、国としては徹頭徹尾表向だけの交際であつた。即ち打ち釈(と)けて協力するなどと云ふ事は、遂になかつた。今ま此処に日支事変の曲直などに就て、議論をする場合でないから姑(しばら)く措くが、日本人は支那与みし易しと云ふ一念の為めに、自国を失はんばかりに大なる代価を払うた。今少し日本人が支那を知り、支那を研究し、支那に向つて善処する途を得たならば、今日の如き事には立ち至らなかつたと思ふが、日本人は同時に二個以上の事を考へる余地を持たぬから、茲に至つたものであらう。兎に角日本人は、支那人を砂の如き民族と、考へてゐたが、支那人は日本人に対する反抗心、敵愾心、復讐心を利用し、我等の点から見れば寧ろ悪用し、濫用したと云ふべき程に、対日本の抵抗心を刺激煽動し、此の如くにしく日本は砂である支那人に向つて、セメントたる役目を勤め、今日では砂の塊りではなくして、眼前に突兀(とつこつ)た一ノのコンクリートの城を見るに至つたのである。此の如くにして、当初日本に向つて、国民的精神を寄与したる支那は、又た久しき距離を隔てて、日本より支那に向つて、利息まで附けて償還する事となり、此の如くにして、今日国民党や又た共産党までも出で来つたものであらうと判断する事が出来る。然して日本を、支那の馬に乗り替へたる米国なども、果してそれが得策であつたや否やは、今ま茲に明言する限りでない。何れ遠からず歴史が之を語るであらう。

日本には、所謂る軍閥なるものは無かつた。是れだけは、予は良心的に之を確言する事が出来る。予は老人であり、且つ壮年以来の新聞記者であるから、凡有る日本の人物に接触してゐる。殊に日清事件には自ら従軍し、日露事件には極めて密接なる立場より之を眺め、其他軍事に関する凡有る問題に対しても、予は常に意見を発表する事を揮からなかつた。具体的に言へば、日本の陸軍の巨頭は山県元帥であつて、此人が日本陸軍を背負つて立つてゐた。然るに此人は、軍人出身ではあつたが、内務大臣とし、又た二回ほど総理大臣とし、後には元老として一般政治に最も大なる感化を及ぼした。日本の軍制を改革して徴兵令を布きたるは、山県其人の力であつて、彼は之に依て、五十万、其の家族を合せて二百五十万の、武士たる特権階級を廃し、護国の義務を国民全般に頒つ事とした。彼は露国とも、出来得る限り衝突を避くべく、露帝のモスコウに於ける戴冠式には、自ら日本の代表として出掛けた。彼は日英同盟の最も熱心なる主張者であり、若くは賛成者であつた。彼れの大なる功績として見るべきは、日本に自治制度を布いたる事である。予は彼とは、政治上の意見が全く同一ではなかつたが、彼は恐らくは、近代百年に亙る日本に於ける大なる政治家の一人である。彼は軍国主義者ではなかつた。唯だ平和の為めに、我国防禦の為めに、軍備を充実する事を希望してゐた。彼は一般陸軍に対しては、刺激力ではなくして、恒に鎮圧力となつてゐた。(予が編著『山縣公傳』―正伝也―参照)之は同時に、海軍の中心勢力であつた西郷(弟)、山本、東郷等に就ても、言ふ事が出来る。殊に西郷と山本は世界協調論者であつて、我より進んで事を起こすなどと云ふ事は、絶対に反対した。其他予の知り得る範囲に於ては、陸海軍の重もなる人士は、其通りと言ふ事が出来る。例へば大山元帥の如きも、満洲軍の総司令官として日本を出立するに際し、戦争の責には我等奮(ふるい)て之に当る。然かも平和の政策は、公等決して其の時機を誤まる莫(なか)れと、慇懃(いんぎん)に言ひ残したと云ふ事である。故に大正の中期迄は、殆ど一切の事が秩序整然として、明治天皇の平和の意思を遵奉して行つたが、其の以後に於て我が政界に変調を来したのは、何故である乎。それは内と外との両者から、之を観察する必要がある。
先づ内から言へば、大正天皇の末期よりは、政党内閣が行はれ、或は官僚内閣が行はれ、或は政党と官僚との混合内閣が行はれ、種々の内閣が行はれた。然かも政党は横暴を極めて、国民少くとも良民の信用を殆ど失墜(しっつい)した。官僚内閣も亦た異つたる意味に於で、国民の信用を失うた。政治の争ひは、唯だ其の位地を得ん事の争ひであり、位地を得て後には唯だ其の利益を得ん事の争ひであつた。固(もと)より其間に、一貫の目的があつたでもなければ、一定の方針があつたでもない。唯だ全く手から口、其日暮しの政治であつて、跡は野となれ山となれ、唯だ現在の安きを貧り、所欲を達すれば足ると云ふやうな状態であつた。そこで政党に失望し、官僚に失望したる国民は、唯だ軍人の間に、若くは軍隊の間に、初めて国家に忠良なる人物を見出す事が出来ると考へた。而して軍人中の若者、即ち学校を出でて未だ年月を経ざる中少尉、遡(さかのぼ)つて漸(ようや)く中少佐位の所には、自ら日本改革の役目を、買つて出でたる者が出来た。之が爆発して、或は五・一五事件とか、二・二六事件とか云ふものが出で来つた。
若し世の中に、軍閥と云ふ言葉を用ふる事が出来れば、或は軍人中の寧ろ一小部分である此の一派一味を指して言ふ事が出来るかも知れぬが、然し軍其ものとしては、未だ曾て軍閥などと云ふものは、在り得なかつた。唯だ不幸なるは日本であつて、総ての腐敗から、総ての無能力から、取り残されたる最後の恃(たの)みであつた所の軍人階級も、いざとなれば政党官僚に劣らぬ醜態を暴露し来りたるは、洵(まこと)に以て遺憾の極みであるが、然し世間で称ふる、所謂る軍閥などと云ふものの存在してゐなかつた事は、予の語りたる所に依て、之を知る事が出来よう。

外からの刺激は、即ち第一回世界大戦以後であつて、従来日英同盟に依て、少なくとも東亜の安定は保たれてゐたが、世界大戦後間もなく、之は有れども無きが如き姿となつた。ヴエルサイユ会議に於ける日本は、同盟国の英国及び其の植民地から手厳しき取扱を受け、又た其の準与国とも云ふべき米国からは、尚更ら厳しくやりつけられた。軈(やが)てはワシントン会議となつて、此の会議で日英同盟は全く廃棄せられ、米英連合の力に依て、漸く一人前とならんとする日本は押さへ付けられた。兎角人は、相手側ばかり見て己れを考へる事はないが、若し世界大戦以後、或は更に遡つて日露戦争以後、米英諸国が如何なる態度を以て日本に臨みたるかを反省せば、思半ばに過ぎるものがあらうと思ふ。日本は漸く一人前となって、之からこそ列強と手を携へて、世界の舞台に乗り出す事が出来ようと考へた所、豈図らんや、荊棘(けいきょく)の重囲に陥つたやうな状態を自ら見出した。日本の諺に、「出る杭は叩かれる」と言ふが、日本は愈々(いよいよ)叩かれる時期に到達したのだ。明治維新の際には日本の人口は三千余万であつた。然るに大正の末期には、七千万を数ふるに至つた。人口は年々百万以上増加しつある。食糧不足は覿面(てきめん)に起つて来た。然かも日本は世界の何れの処に於ても、高札をたて、日本人入る可らずと云ふ事になり、折角入り込んだる土地からも、追放せられ、若くはせられんとする困難に立到つた。而して日本開国以来の親友であつた米国の如きも、日本を仮想敵として其の大海軍を建設した。露国は素(もと)より伝統的に日本の脅威として、日本に臨んでゐる。然かも隣国の支那は、相変らず遠交近攻の政策を掲げ、日本の出鼻を挫きつゝある。然るに日本の内閣なるものは、此の如き国家の危急を他所事(よそごと)に眺めて、唯だ得ざる者は得ん事を欲し、得たる者は失はざらん事を欲し、政権や利権の争奪のみを維(こ)れ事として、国家の安危存亡などは、殆ど顧みるに遑(いとま)なかつた。斯かる場合に於て、軍隊の若者等が憤慨したのも、相当理由ありと云はねばならぬ。又た国民の或者が、之に同情を表したのも決して偶然ではあるまい。之が即ち大正の末期から昭和の中期に亙る実際の日本の情勢であつたと、長き予の経験は、斯く観察せしむるものである。


「宣誓供述書」Ⅰ徳富蘇峰(東京裁判5) 

2006年06月22日 | 東京裁判
東京裁判の清瀬一郎弁護人に宛てた、徳富蘇峰の手紙を掲載しましたが、徳富蘇峰は裁判所に宣誓供述書も提出しています。
しかしながら、この供述書は全文却下されました。
日本の歴史を簡潔にまとめ上げて、日本と支那の関係、近代における西欧諸国の驚異、日本国内の情勢などを書いた供述書です。
なかなかの文章なので、全文を掲載します。
(ブログの文字数に制限があるので2回に分けます)

目次
一 予の略歴
  予の家 予父子と横井小楠 五条誓文と小楠 予の学歴 予と新聞 予の著述同志社大学と予 予の修史事業 予の公職 予の感化者 予の母

二 日本歴史の鍵(一)
  日本に対する誤解 日本国民と平和 維新の目的 歴史を貴く防備 日本日本の重大関心事たる自衛 徳川幕府の鎖国政策 日本の国民性と伝統的国策 支那の寄与感化を受けたる日本国民性 日本人と文化支那 対支模倣と競争 対支対立意識

三 日本歴史の鍵(二)
  聖徳太子と支那 日本書紀 日本人の対支尊敬と恐怖 最も偉大なる日本主義者は支那学者 道真と和魂漢才 親房と神皇正統記 円月と中正子 虎関と元亨釈書 素行と中朝事実 本朝通鑑と光囹 日本歴史の金科玉条―大日本史 支那崇拝と足利義満 異りたる隣国の出現―西洋 日本の恐怖、露国 活動する英国 杉田玄白 橋本左内 惴々乎外国の侵略を怖る

四 明治維新の動機と根本政策
  維新改革の根本原因 根本政策三大条件 国策の基調五条御誓文 明治維新の政治的指導者 横井小楠と五条誓文 横井と由利公正 明治天皇への横井の期待 横井の志と元田永孚 横井の理想政治の倫理化 維新政府と世界平和 維新政治家の欧米観 明治天皇と平和的政治家―岩倉、伊藤 明治天皇と元田永孚 明治天皇とグラント将軍 日本の欧米化とグラント 平和協調の典型的君主―明治天皇 明治中期迄の日本及日本人 税権法権の回復と二派の意見 欧米化主義対条約励行論 日本の完全独立生成

五 近代日本に於ける内外の刺激
  日本に対する欧米の教訓 対支態度への敬宇、海舟の警告 日清役の遡源的観察 蒙古来襲 征韓論の目的 国防の第一線たる朝鮮 支那の対日感情変化 遠交近攻 支那分割の端 日支握手提携の期待者 日本人の対支安易感 支那の隠忍 遂に親善の実なかりし 脆砂支那を堅凝せしめたるは日本 日本には所謂軍閥無し 平和主義者山県元帥 西郷 山本、東郷 大山 大正中期以後日本政界の変調 其日暮しの政党及官僚政治 青壮軍人の不満爆発 不幸なる日本―軍人階級の醜態 第一次世界戦後日本に対する外部の刺激 日本は荊棟の重囲 出る杭は叩かる 日本人入る可らず 国家の安危に無関心の政治

六 日本の自存、自衛及自尊
  予は断言す、日本人は最も平和愛好の国民也 欠陥を自覚し強て自ら慰む 日本国民の対外吸引性 内包力に富み外延性に乏し 故郷恋着心 日本の生活難日本を外に駆る 日本の自存運動 完全独立の為めの自衛 自尊殿傷への抗議 国民的アスピレーシヨン 帝国主義的に日本をコーチせしは誰ぞ 鵜を真似て鴉溺る 先進者後進を責罪する乎 彼を知らず己を知らず 責任は日本国民全部に在り 十二月八日宣戦の大詔 今尚確信す詔勅の意義 後世史家の判断に侯つ 新聞記者としての予の出処進退 予とアングロサクソン文化 雑誌Nationと国民新聞 米国の対日態度と予の警告 英文訳されし予の論著 米国のCandid friendたる予の本領 一生の労苦水泡に帰す


一 予の略歴
      蘇峰 徳富猪一郎
予は今こゝに予の略歴を語る。誇張もせず、謙退もせず、予の自ら真実と信ずる所を語る。
予の家は、九州肥後の南端、薩摩に界(さかい)したる、山を帯び海に瀕(ひん)したる水俣に、数百年居住してゐた。此地は千年以前の国史にも、中央政府で定めたる駅逓(えきてい)の一であつた。予が家は、貧でもなく、富でもなく、其の土地に於ては屈指の家柄として、代々地方の公吏となり、治水、植林、開墾等の事に従ひ、又学校を設けて、地方の教育をも扶(たすけ)けた。予が父は横井小楠の門人にして、維新の改革には、熊本藩政の改革に、貢献する所が少なくなかつた。

横井小楠は、予が父の師であるばかりでなく、又た小楠の夫人と予が母とは、姉妹であつて、姻戚の関係があり、予自身も亦た一生を通じて、小楠の学説を受け継ぎたる、人であつた。小楠は明治維新の改革に際しては、其の重(お)もなる指導者の一入であつて、明治維新の根本国策の基調とも云ふべき"五条の御誓文"は、彼れ自ら執筆者ではなかつたが、其の最初の原稿は、彼れの門人由利公正(ゆりきみまさ)が、執筆したるものであつて、他にも幾多の参加者、修正者があつて完成したが、然かも其の根本精神は、小楠のインスピレーシヨンに本づく事は、疑を容れない。此事に就ては、予の国民史で、詳しく叙述してゐる。
予は一八六三年(文久三年)に生れ、一八七三年(明治六年)頃熊本洋学校に人り、米人キヤプテン・ゼンスに就て、英語を学んだ。一八七六年(明治九年)東京に赴き、更に京都に到り、同志社に入学し、新島襄の門下となつた。而して一八八○年(明治十三年)まで帯在し、卒業の間際に至り、学校当局と意見を異にし、卒業証書を携へずして、東京に去つた。同志社在学中は、米人ラーネツト博士に就て、歴史、政治、経済等の初歩を学んだ。予の学歴は之に止どまる。
予は同志社を去つた年、即ち予の十八歳より、予の八十三歳、一九四五年(昭和二十年)八月十五日まで、殆ど間断なく、新聞人として、新聞に従事した。中にも一八九〇年(明治二十三年)より一九二九年(昭和四年)までは、「国民新聞」の社長及び主筆として、又た其後終戦の日までは、「毎日新聞」社賓として、専(もっぱ)ら筆を執つた。而して晩年推されて大日本新聞協会会長に任じた。

新聞刊行以外に「民友社」なるものを起し、雑誌、新刊書籍の出版発行等を為した。此の民友社にて、又た社外にて、予の出版したる著書は、数百部にも上つてゐる。

予は又た新島襄氏を扶け、其の大学創立には、聊(いささ)か尽す所あり。更に氏の死後、同氏の志を完成するために、大学委員長となつて、聊か力を効した。又た朝鮮に於ける「京城日報」の監督者として、十年未満其の力を尽した。又た「国民教育奨励会」を設けて、国民教育のために貢献し「青山会館」を設けて、成人教育、社会教育等のために努力した。

然かも新聞記者以外に、最も予の力を効したのは、日本歴史編纂の一事であつた。之は今日に至るまで、殆ど三十年に幾かき歳月を費し、出版せられたるものが、既に七十余冊。原稿の出来上がつたるものは、既に九十余冊に及んでゐる。之が為に、予は帝国学士院にて、恩賜賞を与へられ、又た有栖川宮奨学金を与へられ、而して学士院会員に推薦せられた。又た幾(いくばく)もなく、帝国芸術院会員にも、推薦せられた。更に一九一一年(明治四十四年)貴族院議員に勅選せられた。而して一九四三年(昭和十八年)には、文化勲章を授けられた。それらの一切は去年、悉く辞退して、今日では門を閉ぢて謹慎、病を養うてゐる。

最後に、予の一生に於て、最も予を感化したる者を挙ぐれば、横井小楠、新島襄、勝海舟及び予が父徳富淇水である。横井小楠には、年齢の相違のために、親しく接するの機会を得なかつたが、其の凡有(あらゆ)る学説は、予の父を通して、之を聴く事が出来た。新島襄は、典型的日本人であつて予は彼れ依て、日本人は斯く在るべきものと云ふ事を、教へられた。勝海舟は、予が接したる多くの人物中、稀に見る卓越の日本人であつて予は彼に依て、柳か人間学の一斑を、学び得たと思ふ。以上に止どめて尚ほ茲に一言するは、予の母である。予の母は、予に多くの事を教へた。其中にも、如何なる窮地に陥つても、天を信じ、命に安んずる事を教へた。彼女は自らそれを実行した。予は今日に於て、特に予の母の遺訓を有難く感じてゐる。

二 日本歴史の鍵(一)

今日では、日本国民を好戦国民とし、維新の皇謨は、日本が武力を以て世界を侵略せんとするに在るかの如く誤解せられ、外人のみでなく、日本人の中にも往々斯かる説を、現在に於ては、為す者あるに至つた。之は全く、曲解に非ざれば誤解であつて、予は今ま日本歴史の研究者たる一人として、其の真相を語る義務あるを痛感す。

予の日本歴史検討の上から、先づ其の結論を掲ぐれば、日本国民は、平和を愛好するの点に於ては、世界の何れの民族又は国民に劣らない。而して維新の皇謨は、是迄国際社会の外に孤立したる日本を、国際社会の仲間に入れ、其の一員として、相当の働きを為すべき立場に到達せん事を目的としたるものであつて、一口に言へば、日本が世界列強並に自ら進歩し、列強並の立場を占め、列強と与に協調を保つて行くべき位地に到達する事を、目的とし
たものである。其の意味から言へば、世界侵略などと云ふ事は、夢にも考へなき事である。従来日本の歴史は、世界を侵略するよりも世界より侵略せらるる事を最も怖れ、常に其の防備のみを目的としてゐた事は、日本歴史の初めより終りまで一貫したる一の大なる事実である。予は此処に事実を挙げて語らんとするも、それでは日本歴史の講義となるから、遺憾ながら唯だ其の事実の上から帰納したる結論だけを挙げて措く。即ち自衛と云ふ事は、日本に取ては何よりも最も重大なる事であつて、東北に柵を設け、西南に水城を築き、東北には鎮守府将軍を置き西南には防人を薇発して衛戍せしめ太宰府を設けて之を喜轄せしめたるが如き、皆然りで、徳川幕府が鎖国令を布きたるも、単に徳川幕府其物の安全を主とするばかりでなく、日本が外国から侵略せられざらん事を欲して行はれたる政策であつて、或る意味に於ては、徳川幕府の鎖国政策は、アメリカのモンロー主義と似通うたるものがある。

世界の歴史家は素より、日本の歴史家さへも、日本の国民性が何物である事を諒解してゐない。今ま此処に、日本の国民性、従つて其の国民性より湧き出したる、日本の伝統的国策、其の伝統的国策を延長して、維新の改革笈びたる迄の由来を一口に述べる事は、最も困難である。然し予は今ま此処に、其の鍵(キイ)だけを示して置きたいと思ふ。鍵とは何であるか。日本の隣国に、支那なる大陸の大国が存し、単り土地が広く人口が多きばかりでなく、文化の程度に於て非常なる懸隔がある、其の一国の存在したる事である。或る意味から言えば、日本の国民性は、其の過半は支那に依て、若し製造されたと言ふ事が出来なければ、寄与せられ、若しくは感化せられたと言ふ事が出来よう。

日本の上古史は姑(しばらく)措き、日本人が日本人として、自ら目醒める頃に於て、日本人の眼には、前に申した通り、其の附近に、土地も人口も、日本よりも十数倍し、若くは幾十倍し、其の文化の程度に於ても、日本より最も高級の地位を占めた国を、或は意識し、或は無意識中に感得したであらう。茲に於て日本人は、文化的には支那に対して、大なる感激、大なる嘆美、而して大なる羨望、大なる憧憬を覚え、何事も遺れて之に模倣せん事を努めた。同時に又た日本自身は、此の大国の傍に在つて、如何にして日本なる独自一己(いっこ)を保つべきかを考へた。即ち第一は、文化的に於ても、其他の点に於ても、日本を支那と同等の水平に持つて行くと云ふ、所謂る競争心である。然るに如何に競争しても、日本は島国である。日本の人口は少なくある。如何に模倣しても、本家本元程に、其の出店請売店は及ぶものでない。それで一面支那に対して、凡有(あらゆる)る模倣若くは学習を努めたが、他の方面に於ては、支那の持たざる何物かを持ち、それを以て支那と競争せん事を努めた。此の如くにして、日本人には人なる模倣性、大なる適用性を長養したると同時に、又た日本独自の或物を発見せんとする一種の性格を、養ひ来つた。それ等の総ての物が、今日の日本人には歴々として其の痕跡が見出されつゝある。日本人は己惚(うぬぼ)れて、自ら優越国民と信じ、他国を蔑視するなどと云ふ事は飛んでもない間違ひであつて、日本人は支那に対しては、到底及ばぬがせめて支那文化の模造でもして、日本の体面を保ちたいと云ふのが精一杯であつて、それから、更に一転して、支那何者ぞ、彼れが量で来れば、我れは質で当る。彼れが数で来れば、我れは品で当る、彼れが物質で来れば、我れは精神で当る、と云ふやうになり、支那は大陸であるが、易姓革命の国である、我れは島国であるが、万世一系の皇統を戴いて居ると云ふ、此の一点で、漸く日本も支那と対立するだけの位地を占むるに至つたと意識するやうな点まで、漕ぎ付けたのである。

三 日本歴史の鍵(二)

日本の歴史を知るには、日本の重もなる人物を、其のインデキスとするに若くはなし。其の最も適当なる一は、聖徳太子である。彼は日本国民の支那に対する崇拝心を、一人で背負つて立つと同時に、又た支那に対する対立心若くは競争心を、最も遺憾なく発揮してゐる。一方では、日本の制度の皇帝に向つて、東天皇西皇帝に告ぐとか、日出処の天皇日没処の皇帝に告ぐとか云ふやうな文書を、交換してゐる。凡そ日本に於て、今日まで存在したるもので、支那を対象としないものは少ない。例へば仁徳天皇の御陵の如きは、世界に対して、其の大を誇るに足るが、之も秦の始皇の驪山(りざん)の陵や、漢の五陵若くは唐の昭陵に比すべきものであらう。又た奈良の大仏なども、其通りであり、日本国史の父とも云ふべき日本書紀も、其の意味に於て、編纂されたものである。

日本人は、一方では支那に対して、時として尊敬、時としては恐怖を持つてゐたが、又た其の尊敬の半面、恐怖の半面には、支那に対して独自一己を保持し、同時に又た之を発揮するに最も苦心した。日本の思想界には、向支那反支那のこ潮流あるが如く見えるが、其実は其の淵源は一である。即ち、支那にはとても敵(かな)はぬと云ふ根本思想が一はそれを顕(あらわ)に受けて、支那崇拝に没頭し、他はそれを逆に受けて、支那排斥と云はざる迄も、対抗の方面に発展した。それで、日本に於て最も偉大なる日本主義者は殆ど挙げて最も大なる支那学者である。例へば日本の白楽天と呼ばれたる、菅原道真の如きは、「和魂漢才」の説を述べて、芸術に於ては支那に学ぶも、精神に於ては日本固有の物を失ふ勿れと称してゐる。又た個人の著はしたる日本歴史の中で、最も卓越したる『神皇正統記』の著者北畠親房の如きが、それである。親房は、支那の古典に通じたるばかりでなく、彼れと時代接近したる程朱(ていしゅ)の学やら、朱子の『通鑑綱目(つがんこうもく)』なども読んでゐる。然るに彼れの『神皇正統記』は、巻頭に「日本は神国なり」と特筆して、自国を支那と対等の位地に置くばかりでなく、より以上の国まで、持ち上げてゐる。彼の書は二つの大なる目的を以て書いてゐる。第一は、日本の皇室は、南朝が正統であると云ふ事である。之は誰れでも気付く所である。其二は、日本は支那印度の諸大国に比して、国柄として劣らぬばかりでなく、立ち勝さつてゐると云ふ事を、張胆明目して語つてゐる。此の方面には、世間では余り関心の人が少ないやうに思はるる。要するに、北朝に対する南朝の抗議、支那印度に対する日本の抗議、此の二大抗議が此書の生命である。

然し又た其の反対の思想も、日本には相当流れてゐた。北畠親房と殆ど時代は相異なき円月なる禅僧は、『中正子』と称する書を著述して、日本皇室の祖先は、呉の泰伯の子孫であると書き、其の為めに朝廷の物議を受け、其の著述は焼かれたと云ふ事がある。之に反して、同じ禅僧で、日本仏教史とも云ふべき『元亨釈書(げんこうしゃくしょ)』の著者虎関(こかん)和尚の意見は、思想の系統が親房と同一と云はぬ迄も、其の傍らに在つた。

江戸幕府の初めに於て、山鹿素行『中朝事実』を著した。『中朝事実』は、日本書紀神代の巻に就て、其の意見を述べたるものであるが、之は北畠親房に之続を掛けたる程であつて、中朝と云ふ事は、支那の事ではなくして、日本を中朝と称してゐる。書物の題目を見ても、其の内容を知る事が出来る。然るに此の山鹿素行も又た、当時に於ける、最も卓越したる支那学者であつた。之と前後して江戸幕府は、其の学政を掌らしめたる林家―林家とは林道春及其子春斎等のこと―に命じて、日本歴史を編纂せしめた。
それが即ち『本朝通鑑』である。此の歴史が編纂せられてそれが披露せらる、際に、徳川幕府の親戚で、世間では副将軍と称したる水戸光闘が之を閲したる所、意外にも、日本の皇統は呉の泰伯の後である云々の事が書いてあつたから、そこで光圀は、之は宜しくないと憤慨して、そこで日本歴史の金科玉条とも云ふべき『大日本史』の編纂を思ひ立つたと云う事が伝はつてゐる。予は必ずしも之が唯一の動機とも思はぬが、此の伝説も亦た、一笑に付すべきものではないと思ふ。

足利氏時代迄は、日本は全く支那崇拝で、足利義満の如きは、支那から衣冠を貰ひ、それを着けて誇りがましくして居り、彼れの死するや、支那から恭献王と諡名(おくりな)した。所が徳川幕府以後は、支那の代りに異つたる相手が出で来つた。それは西洋である。それ迄の相手は、支那だけが日本の隣国であつたが遠洋航海の流行以来大なる隣国が増加して来た。即ち西洋である。一の支那でさへも厄介であるのに、多くの隣国が出で来つてはやりきれぬと考へ、茲に鎖国令が布かれ、成べく隣国を、傍らに近づけないとする方針を執つた。それに関はらず、隣国はやつて来た。其中で最も大なる隣国が、即ち露国である。日本は、初めから支那を文化国として尊敬してゐたが、露国に対しては、文化国よりも寧ろ「赤秋(せきてき)」として恐怖してゐた。如何に日本が露国を恐怖し、露国の南下の勢に対抗すべきかと云ふ事に就て心配したかは、予が『近世日本国民史』に詳しく之を掲げて置いた。外国に対する恐怖心と共に、又た外国の文化に対する憧憬心も出で来つた。之が即ち蘭学の興隆である。此事に就ても予は詳しく語つた。当時日本の最も怖れたる対象は露国であつたが、軈(やが)ては又た英国がそれであつた。露国は北辺を騒擾(そうじょう)したが、英国は日本幕府の禁令を破つて、無遠慮に□□□、長崎奉行は責任を負うて切腹する事になつた。然かも英国の、印度から支那辺海にかけての活動は、手に取るやうに日本に聞こえ、日本は露英の間に挟まつて、果して其の独立を保つ事が出来るや否やと、国防上に於ける一大関心が出で来り、之を前にしては、有名なる蘭学者杉田玄白の如きは、とても露国南下の勢には対抗する事が出来ぬから、長きものには巻かれよで、姑(しばら)く露国と握手するに若(し)かずと言ひ、又た其後ペルリ提督の日本に来る時代に、橋本左内なる当時の卓見者は、今日の日本は、露に結ぶか、英に結ぶか、何れにか結ぶ必要がある、然し、英は老黠(ろうかつ)にして与(くみ)し難いから、寧ろ露に結ぶに若かず、と云ふ論を立ててゐる。要するに、対支那の心理状態は、其儘(そのまま)之を拡大し、若くは加重して、対西洋となつて来たのであつて、日本は侵略どころか、惴々乎(ずいずいこ)として、外国から侵略せらるる事を、維れ怖れてゐた。又た外国に超越どころか、とても外国には敵はぬと云ふ事を口にこそ大きく言ふ者はなかつたが、心中には賢不肖敦(ふしょういず)れも皆な、銘々の立場々々で考へてゐた。日本が世界第一の国であり、日本国民が世界第一の国民であり、他国を侵略したり、他国に対して優越感を持つなどと云ふ事は、維新頃の日本人には、薬にしたくも無い事であつた。偶(たまた)ま調子外れた言論を為す者があつたが、それは全く心にもなき強がりを言うたものであつて、恰かも今度の戦争で、外国軍が上陸したなら竹槍で突き弊すと云ふ説と、其の根本動機は同一であつた。

以下続く。



午後3時の悪夢

2006年06月21日 | スポーツ
明日(正確には日本時間で明後日の午前4時)、ブラジル戦です。3戦目にしてやっと夜の試合です。
1戦目、2戦目は日本で見るにはちょうど良い時間に試合が行われましたが、選手にとっては大変でした。
今朝の日経新聞に“日本「午後3時の悪夢」”と題したコラムが載っていました。
これを読むと、日本サッカーが点を取れない欠点は、FWだけの問題でなく、小学校からの横並び教育も原因しているのではないかと思えます。
今回、森島のような積極的に裏に飛び出していく選手がいないのも有るのじゃないでしょうか。

さあ~。明日(明後日)は早起きで応援しましょう。

日本「午後3時の悪夢」  沢木耕太郎

戦いには人知を超えたものが勝敗に決定的な影響を与えることがある。人は、それを「運」という言葉に置きかえる。私には、ドイツ大会の日本代表にはその「運」がなかったと思える。
「時の運」がなかった、と。私が「時の運」と言うとき、それは時機とか時節とかいった抽象的なものではない。まず、極めて具体的な「時刻」に関する運がなかったのだ。
日本は第1戦も第2戦も試合開始時刻が午後三時だった。日が暮れ切るのが午後十時という六月のドイツにあって、午後三時はほとんど真昼であり、最も温度が高くなる時刻である。そして、実際、オーストラリア戦の日も、クロアチア戦の日も、すさまじい暑さになった。観客席にいてさえ、吹き出た汗が乾くと、Tシャツに白い塩が付着しているほどだった。その酷暑の中で、日本の選手たちは消耗のスピードを早めていった。

一次リーグの緒戦の二試合のスケジュールは、ドイツ時間の午後三時と六時と九時に設定されている。六時にはだいぶ日が陰り、九時になると爽やかな空気に満たされる。それなのに、どうして日本は二試合とも真昼の午後三時に戦わなくてはならなかったのか?
この大会において、二試合とも午後三時に戦うということがどれほど特異なことかは全試合のスケジュールを眺めてみればわかる。
参加三十二チーム中、午後三時に戦わざるを得なかったのは約半数の十七チームしかない。しかも、それが二試合ともということになると、わずか三チームに激減するのである。トーゴとセルビア・モンテネグロと日本。
もしかしたら、それはテレビ局の意を受けた日本サッカー協会が「依頼」した結果なのかもしれない。なぜなら、ドイツの午後三時は日本の午後十時であり、この時間帯の試合だけが国民が揃って楽しむことのできる唯一の枠だったからだ。あるいは、そうしたことを見越してFIFAが特別に「配慮」してくれたのかもしれない。いや、単に、ヨーロッパのゴールデンタイムにふさわしくないカードと判断されたための「偶然」だったのかもしれない。
「依頼」か「配慮」か「偶然」か。何が理由だったにしろ、日本の国民は間違いなく大きな「楽しみ」を手にいれることができた。しかし、あの酷暑の中で二試合も戦わなくてはならなかった日本代表は不運だった。つまり日本は、国民の「楽しみ」を得ることで、大事なものを損なってしまった可能性があるのだ。
日本が「時の運」から見放されてしまったもうひとつは、天候の周期である。
この時期のドイツは天候が変わりやすいらしく、晴天が長続きしない。快晴が一日二日続いたと思うと曇りがちになり、雨が降り出したりする。実際、オーストラリア戦が終わると天気が崩れはじめたし、クロアチア戦が終わった翌日のいまも雨が降ったりやんだりしている。つまり、日本戦の日は、その日だけ太陽にピンポイントで狙われたかのように酷暑の日になってしまったのだ。
外国のジャーナリストに「日本チームの武器は何だと思うか」と尋ねると、多くが「俊敏性だ」と答える。走るスピードでさほど際立った選手はいない。パス回しの巧いチームは他にいくつもある。しかし、それらを含めた総合的な俊敏性にすぐれたところがあると言うのだ。
ところが、酷暑が、その大事な俊敏性を奪ってしまった。クロアチア戦での日本は、後半の動きがオーストラリア戦のときよりさらに悪かったが、それはあの第1戦の消耗から本当には回復していなかったのではないかと思えるほどのものだった。
もちろん、暑さは相手の選手にも同じように襲いかかったはずである。しかし、ダメージは日本にとってより大きなものとなった。それはどうしてだったのか。

クロアチア戦がスコアレス・ドローに終わり、私は重い気持ちを抱いてニュルンベルク駅から列車に乗り込んだが、そのコンパートメントで、意外な日本人の若者と隣り合わせた。
彼は、十七歳で高校を中退するとドイツに渡り、ブンデスリーガの三部のチームで七年間プレーしたプロのサッカー選手であり、いまは二部のチームでコーチ業の修業をしているのだという。
彼によれば、日本のサッカーの根本的な問題はタテヘの意識の希薄さにあるという。例えばドイツでは、とにかくゴールに向かってタテに進むことの大切さを教えるが、日本ではまずパスで回すことを覚えるためヨコヘの意識が強くなる。重要なのはゴールヘの「突破」であるはずなのに、まず「展開」ということになってしまう。
確かに、クロアチア戦での日本は、タテに向かうことより、ヨコにヨコにと開くことにエネルギーが注がれていた。
しかし、いくら巧みにヨコに「展開」しても、ゴールを奪うためにはいつか「突破」しなくてはならなくなる。そのために、日本が磨きあげてきたのが、正確なパス交換と素早い飛び出しによってゴール前に迫るという方法だった。
後半6分に絶好機をもたらしたのも、加地から高原への滑らかなパス交換と柳沢の鋭い飛び出しによるものだった。しかし、それに失敗すると、以後、パスは不正確になり、飛び出すタイミングもずれるようになってしまった。酷暑による疲労が日本のほとんど唯一の武器を奪ってしまったのだ。
日本はクロアチアと引き分けることで、さらに状況は厳しくなった。しかし、同じく「午後三時の悪夢」を共有したトーゴとセルビア・モンテネグロは、第三戦を待たずに敗退することが決定した。わずかに日本だけが「首の皮一枚」を残して希望をつないだのだ。
6月21日経新聞