一燈照隅

日本が好きな日本人です

今日は七夕。

2006年07月31日 | 今日は何の日
旧暦で今日は七夕です。
七夕を「たなばた」と読むのは何故でしょうか。

「たな」は棚、「はた」は機です。七月七日の夜、遠来のまれびと・神を迎えるために水上に棚作りをして、聖なる乙女が機を織る行事があり、その乙女を棚機女(たなばたつめ)または乙棚機(おとたなばた)といった。七月七日の夕べの行事であったために「たなばた」に「七夕」の字を当てたのである。
そもそも七夕は盆行事の一環として、祖先の霊を祭る前の禊ぎの行事であった。人里離れた水辺の機屋に神の嫁となるべき処女が神を祭って一夜を過ごし、翌日七夕送りをして穢れを神に託して持ち去ってもらう祓えの行事であった。。盆に先立つ、物忌みのための祓えであった。
「年中行事を科学する」永田久著より

今の七夕はまだ梅雨も明けきっていない新暦の七月七日に行われるので、雨が降ることが多く星祭りとしての意味が失われていろようです。

「大東亜戦争はアメリカが悪い」

2006年07月29日 | たまには読書



「大東亜戦争はアメリカが悪い」
鈴木敏明著 碧天舎

第一章 「砲艦外交」による日本の開港

第二章 明治維新
    第一節 明治新政府の改革政策
      一・大政奉還と王政復古
      二・明治政府成立と五箇条の御誓文
      三・版籍奉還
      四・廃藩置県と岩倉使節団の欧米視察
      五・学制の公布
      六・徴兵令
      七・廃刀令
    第二節 明治維新成功の原因
  
第三章 日清戦争

第四章 日露戦争
    第一節 西洋の草刈場になった中国
    第二節 義和団の乱
    第三節 ロシアの満州占領
    第四節 日英同盟の成立
    第五節 日露戦争勃発
    第六節 日本勝利の原因
      一・下瀬火薬
      二・機関銃
      三・日本兵の律儀さ
    第七節ポーツマス条約
    第八節日本勝利の世界史的意義

第五章 アメリカD村日曽悪と村日敢蜆
    第一節 人種偏見による「人種的憎悪」
    第二節 白船事件
    第三節 アメリカが最初に日本を仮想敵国にした

第六章 アメリカの侵略主義
    第一節 インディアンとの戦争
    第二節 「モンロー宣言」と「明白なる天命」
    第三節 アメリカ・メキシコ戦争(一八四六年~一八四八年)
    第四節 南北戦争(一八六一年~一八六五年)
    第五節 一八六五年~一八八〇年代
    第六節 一八九〇年代
      一・サモアの分割
      二・ハワイ併合
      三・アメリカ・スペイン戦争
      四・アメリカ・フィリピン戦争
      五・門戸開放宣言
      六・パナマ運河開通

第七章 明治天皇の存在意義

第八章 明治時代の問題点
    第一節 満州問題
      一・アメリカの鉄道王、ハリマン工作の失敗
      二・満州に関する日清条約
      三・日本軍の撤兵問題
      四・全満州鉄道の中立化案
      五・満蒙独立運動
    第二節 統帥権
    第三節 日英同盟と日露協約

第九章 中華民国の成立

第十章 第一次世界大戦
    第一節 日本の参戦
    第二節 「二十一か条要求」
    第三節 西原借款
    第四節 アメリカの参戦
    第五節 石井・ランシング協定
    第六節 日本のシベリア出兵
      一・尼満(ニコラエフスク)事件
      二・シベリア出兵の評価

第十一章 パリ講和会議と国際連盟
第一節 日本の人種差別撤廃案
第二節 人種差別撤廃案否決の影響
第三節 ヴェルサイユ条約
      第四節 人種主義と植民地主義を容認した国際連盟

第十二章 大東亜戦争への道になったワシントン会議
     第一節 ワシントン会議は日本外交の敗北
       一・海軍軍縮会議
       二・日英同盟の廃止と四力国条約
       三・日本の譲歩を強いた九力国条約
     第二節 なぜ日本は外交べたなのか
     第三節「人種的憎悪」から生まれた排日移民法 
       一・中国人移民の歴史
       二・日本人移民排斥の歴史
       三・一九二四年(大正十三)の排日移民法
     第四節 「人種的偏見」と「人種的憎悪」

第十三章 対日経済封鎖
     第一節 日本製品に対する不当な差別
     第二節 ブロック経済化

第十四章 ロンドン軍縮会議
     第一節 軍縮交渉
     第二節 統帥権干犯問題
     第三節 明治憲法の欠陥が日本を滅ぼした

第十五章 満州事変に関する予備知識
     第一節 満州地方とはどこか
     第二節 満州の歴史
       一・満州民族王朝の出現
       二・満州は中国の領土だったのか
       三・関東軍の登場と日本の満州経営
     第三節 ワシントン会議から満州事変までの十年間に何が起きたのか
       一・なぜ国際協調主義に破綻をきたしたのか
       二・マクマリーのメモランダム(外交報告書)
       三・中国の条約違反
     第四節 満州事変までに中国で起きた主な事件
       一・一九二四年(大正十三)九月、第二次奉直戦争
       二・一九二四年(大正十三)十一月、郭松齢の反乱謝
       三・一九二五年(大正十四)五月三十日(五・三〇)事件
       四・一九二六年(大正十五)七月、蒋介石の北伐開始
       五・一九二七年(昭和二)の事件-一月(漢口、九江の英国租界接         収事件)、三月(南京事件)、四月(漢口事件)、(蒋介石の上         海クーデター)、五月(日本軍の第一次山東出兵)
       六・一九二八年(昭和三)の事件-四月(第二次山東出兵)、五月          (済南事件と第三次山東出兵)、六月(張作霧爆殺事件)七月         (張学良、全満州に青天白日旗掲揚決定)
       七・一九三〇年(昭和五)間島事件

第十六章 満州事変
     第一節 満州事変への序曲
       一・中国の排日侮日運動
       ニ・中国の革命外交
       三・中村震太郎大尉事件
       四・万宝山事件
     第二節 満州事変勃発
       一・満鉄爆破の真相
       二・事変の拡大
     第三節 国際連盟とリットン調査団
       一・満州事変に対する国際社会の反響
       二・リットン調査団
     第四節 「満州国」建国
       一・なぜごく短期間で独立国を設立できたのか?
       二・「満州国」建国宣言
       三・満州国の経済発展
       四・日本の「満州国」承認
     第五節 満州事変を非難するアメリカヘの反論
       一・ラテンアメリカ侵略
       二・「物欲」と「国家の安全保障」
     第六節 日本の国際連盟脱退
       一・連盟脱退は最悪の外交政策
       二・松岡演説失敗の原因
     第七節 満州事変の決着、塘沽停戦協定
     第八節 満州事変成功の問題点

第十七章 支那事変(日中戦争)
     第一節 北支・内蒙工作
     第二節 盧溝橋事件
       一・近衛首相の登場
       二・盧溝橋事件の原因
       三・盧溝橋事件の展開
       四・通州事件0
       五・盧溝橋事件の本質を見抜けなかった日本
     第三節 支那事変解決への模索
       一・南京虐殺事件
       二・黄河決壊事件

第十八章 アメリカの中国観

第十九章 支那事変の泥沼化とアメリカの反応
     第一節 支那事変の泥沼化
     第二節 アメリカの反応

弟二十章 日独伊三国同盟
     第一節 日独伊三国同盟の締結晒
     第二節 日独伊三国同盟は正しい選択であったか

第二十一章 大東亜戦争勃発
      第一節 日米交渉開始
        一・「日米了解案」の誤解
        二・日米首脳会談流れる
        三・東条内閣と日米交渉
      第二節ハル・ノート
      第三節アメリカの日本挑発計画
        一・なぜ日本を挑発しなければならなかったのか
        二・日本挑発計画の内容
      第四節 真珠湾攻撃
        一・最後通告は出す必要がなかった
        二・奇襲攻撃でもなければだまし討ちでもない
        三・アメリカは、真珠湾攻撃以前に参戦していた

第二十二章 大東亜戦争に勝者なし
      第一節 「自存自衛」の戦争
      第二節 大東亜共同宣言

終章 大東亜戦争の意義


この本は黒船来航から、大東亜戦争敗戦までの日本、アメリカの関係を詳細に亘って読みやすく書かれています。
今、小林よしのり氏の「靖国神社」「いわゆるA級戦犯」が売れています。それを読まれた方もそれ以外の方も、ぜひ一読の価値は有る本です。
700ページと量的には多くなっていますが(その割には1575円とお得です)、ここまでよく調べていると思えるぐらい内容は豊富です。




ジーコ戦犯論に待った

2006年07月28日 | スポーツ
ジーコ戦犯論に待った  三浦知良

世間は日本代表のオシム新監督の話題で持ちきりだね。僕はオシム監督とはあまり話をしたことがなくて、映画「ゴッドファーザー」に出てくる晩年のヴィト・コルレオーネに似ているな、くらいのイメージ。
気になるのは、全面的にオシムが良くてジーコが悪いという風潮だ。今の日本では理論的な監督の方がわかりやすくていいという評価で、確かにそれもわかる。でもちょっと待ってほしい。ジーコのやり方で成功した部分もあったはずだし、それを面白いと言って賛同した人もいたはずだ。
それに、結果を出すことが優れた監督の条件なら、ジーコはアジアカップで優勝したしワールドカップ予選も突破した。本大会でもプラン通りにいかなかったのはオーストラリア戦の最後の3失点のところだけ。
それなのに1次リーグで敗退した途端に、手のひらを返すように戦犯扱い。プロの世界だから仕方がないけれど、オシムの言うように過剰な期待をかけていた部分もあっただろう。この4年間を否定すべきではないし、絶対に自分の意志を曲げなかったジーコの強い信念には賛辞を贈りたい。
これからの日本代表については本当に楽しみ。ヒデ(中田英)が引退した今、次のスーパースターの登場も求められている。チームとしてすぐに結果が出るかどうかわからないけれど、Jリーグの千葉で多くの選手を育てた指揮官だから、きっと面白い仕事をしてくれるはず。僕もいいものを吸収していきたい。
代表監督が代わったからアピールしないとなんて、選手はいろいろ考えてしまうものだけれど、先のことをあれこれ考えるのは過去を振り返るのと同じで、エネルギーの無駄遣い。ひたすら目の前の試合に集中するように意識的に自分をコントロールしている。
僕自身も日本代表でプレーしたいという夢は持ち続けている。だけど今は横浜FCで1部(J1)に上がるという目標だけを見据えている。J1に上がれなかったらどうしよう、なんてことも考えない。それもエネルギーの無駄だし、失敗を恐れて臆病にもなってしまう。余計なことを考えず、練習や体のケアを怠らないこと。それが一番いい結果につながるはずだから。
(元日本代表、横浜FC)7月28日日経新聞



ジーコに対するカズの発言、私も同じように思います。
ジーコだから言うのではありません。私は最初からジーコは日本代表監督には向かないと思っていました。
日本人の気質なんでしょうかね。順調にいっていても最後に上手くいかなかったら、それまでのことが無になってしまう所があります。プロ野球の監督が良い例ですし、所謂A級戦犯も同じです。
今,オシムに期待しすぎると、同じ事になるでしょう。






桂でない米朝戦争。

2006年07月27日 | 時事問題
自民・山崎氏、北朝鮮との対話の必要性を強調

 訪米中の自民党の山崎拓前副総裁は26日、ワシントンで記者会見し、北朝鮮のミサイル発射に関連して、制裁を追求すると「米朝戦争になる」と語り、当面は対話を優先すべきだとの考えを示した。同時に「軍事的制裁までやって北朝鮮を完全に崩壊に導くことは考えにくい。最大の被害国は日本になる」と警告した。

 山崎氏は「米朝戦争はひいては米中戦争にまで発展する、そういうシミュレーションができる」とも指摘。「現実には起こらないと思う」としながら、日米は米朝対話を含め、あくまで硬軟両様の姿勢で北朝鮮に核・ミサイル開発の放棄を迫るべきだと強調した。

 日本で敵基地攻撃能力の保有問題に関する発言が相次いだことには「自民党全体が、専守防衛に徹するという基本的な安全保障政策の原理原則を忘れたような感じがある」と改めて批判した。自らの発言の真意については「総裁選とは直接関係ない。総裁選で争点を作るために発言しているのではない」と説明した。(ワシントン=加藤秀央) (12:51)日経新聞


えっ、米朝戦争。桂米朝の跡継ぎで、ざこばと南光、小米朝が戦争するのか。
大阪人の私は新聞に米朝と出ていたら、つい人間国宝の桂米朝を想像してしまいます。
アメリカと北朝鮮なんですね。

山拓氏はアメリカは国連で北朝鮮制裁決議案を共同提出したのを忘れたのでしょうか。
福田氏が総裁選に出ない事を表明して焦っているのでしょうか。それとも支那の工作員として代弁しているのだろうか。

元宮内庁長官メモの疑問。

2006年07月26日 | 靖国神社
インターネットの世界では富田元宮内庁長官のメモの分析が行われています。
私も新聞に掲載されていた文の前後と、前後のページに何が書かれていたか興味がありました。
それで、今までに分かっている事から、私なりの考えを書いてみます。

メモの日付の翌日、昭和63年4月29日各新聞が昭和天皇の記者会見を掲載しています。
その中から毎日新聞の記事を掲載します。(天皇陛下の記者会見はどれも内容は同じと思っていたが、各紙少しずつ違いがありました。その中で毎日が一番詳しく書いていた。)一部省略

会見は二十五日午後、皇居、の休所「林鳥亭」で行われた。一問一答は次の通り。

―五十年以上、陛下にお仕えした徳川(義寛前侍従長)さんが退任しました。徳川さんをめぐる思い出を。

「徳川侍従長に対しては思い出も深いのでありますが、特に終戦の時に録音盤をよく守ってくれたこと、戦後、全国を巡遊した時に、岐阜の付近で歓迎の人波にもまれて、ろっ骨を折ったことがあります。よく裏方の勤務に精励してくれたことを私は感謝しています。ヨーロッパやアメリカの親善紡問の準備のために語学力を利要して、それに準備をよくしてくれたので、親善訪間はだいたい成功したように思われます」

―陛下が即位(昭和三年十一月に即位式)されてから六十年日に当たります。この間一番大きな出来事は先の大戦だったと思います。改めて大戦についてお考えを。

なお、(前の質問に)付け加えておきたいことは、侍従長の年齢のために、このたび辞めることになりまして、私は非常に残念に思っています(このあたりで目をしばたたかせ、左目に光るものが見えた)。今の質問に対しては、なんと言っても大戦のことが一番いやな思い出であります。戦後、国民があい協力して平和のために努めてくれたことをうれしく思っています。今後も国民がそのことを忘れずに平和を守ってくれることを期待しています」

―陛下は今、戦後四十数年を経て振り返られ、日本が戦争への道を突き進んでしまった最大の原因は何だったとお考えでしょうか。

「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」

―沖縄訪問について、お気持ちを。

「私が病気のために、沖縄の旅行を中止したことを今も残念に思っていますが、その時に暫ったことですが、『健康が回復したならば、なるべく早い時に旅行したい』と考えを述べましたが、今日もその精神に関しましては何も変わっていません」


毎日新聞にはこの記者会見の裏事情も書いていました。
天皇陛下の記者会見を前に、宮内庁と宮内記者会の間で"綱引き"があった。
日本人記者が初めて陛下と会い、言葉を交わしたのは敗戦後間もない二十年末。その後、宮内記者会と陛下の会見は数回あり、三十六年からほぼ年一回が定例化、六十年からは誕生日前に約三十分間行われてきた。
今回は宮内庁側から、会見は十分間程度で、質問も五項目ぐらいに、と要望があり、関連質間も遠慮して欲しいと非公式に意向が紀者会に伝えられた。記者会では質問事項を取りまとめ、総意で六問を選んだ。手術、沖縄ほか、天皇陛下が米軍の沖縄占領継続を望んだのではないか、と国会でも取り上げられたいわゆる「天皇メッセージ」問題、戦争責任や広島への原爆投下についてもお考えをお尋ねしようという内容。二・二六事件についてなど五項目は、文書で回答を頂きたい、と申し入れた。
しかし、宮内庁は「これでは会見は実現できない」と、変更を求めた。記音会は論議を重ね、緒局、会見を実現するため質問を作り直すことを決めた。会員の一部には「会見実現のために譲歩した方がよい」との意見もあったが、表現を変え戦争についても質問することになった。
最終的に同庁もこれを受け入れ、会見が実現したが、手術の際のお気持ち、星后さまのご体調、戦争の最大の原因についての質問は文書提出していない関連質間だった。
会見で陛下は「先の大戦」について「いやな思い出」と述べられた。内部の事前打ち合わせでは「つらい思い出」とお答えになる予定だったという。会見は十七分間だった。


次に、富田元宮内庁長官の問題の文の前のページの解析したものを見てみます。

63.4.28 ●

☆Pressの会見
①  昨年は 
  (1) 高松薨去間もないときで心も重かった 
  (2)メモで返答したのでつくしていたと思う 
  (3) 4:29に吐瀉したが その前でやはり体調が充分でなかった 
  それで長官に今年はの記者印象があったのであろう 
  =(2)については記者も申しておりました         
                    
②  戦争の感想を問われ嫌な気持を表現したがそれは後で云いたい  
   そして戦後国民が努力して平和の確立につとめてくれたことを云いたかった    
  "嫌だ"と云ったのは 奥野国土庁長の靖国発言中国への言及にひっかけて

<<次ページ>>
                    4.28 ④
前にあったね どうしたのだろう中曽根の靖国参拝もあったか
   藤尾(文相)の発言.
   =奧野は藤尾と違うと思うが
   バランス感覚のことと思う単純な復古ではないとも.
  私は 或る時に.A級が合祀され その上松岡.白取 までもが、
   筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが 
   松平の子の今の宮司がどう考  
   えたのか 易々と松平は平和に強い考が
  あったと思うのに 親の心子知らずと思っているだから 私あれ以来参拝
  していない.それが私の心だ

  ・ 関連質問 関係者もおり批判になるの意

※余り閣僚も知らずそうですかが多い


記者会見は4月25日に行われているが、富田メモは4月28日の日付になっている。
なぜ3日後の日付なのだろうか。普通なら当日に書くだろう。
もし4月25日付のメモが有れば何が書かれているか知りたい。25日付で書かれていたら28日になって書かれたこのメモは不自然です。
25日の一番大きな出来事は、天皇誕生日に発表する記者会見だからです。

記者会見記事を読んで気づくのは、徳川侍従長に対して他の質問にお答えになる前にも、侍従長について述べられるぐらいかなりの思いがあられたようです。
大戦についてのお考えのお答えは、富田メモに書かれた[2]と合いますし、この時期奥野発言で国会はもめていました。藤尾前文相の発言も出ています。


(1)の高松薨去ですが、これは昭和天皇も昭和62年4月21日の記者会見で使われています。
(3)4.29に吐瀉したが… 前年の昭和62年4月29日に宮中で吐瀉されています。
前のページに書かれていることは、記者会見の内容とほとんど合います。
問題のページの=奥野までと、最後の関連質問も記者会見の内容と合います。
問題の文は、誰の考えなのかは分かりません。

メモには通し番号が書いてます。しかし、①②④になっています。
③が抜けています。③に何が書かれてあるのか、②の続きが書いてあると思います。問題文の前のページは下までいっぱいに書かれてあります。
メモの貼り方も右開きに貼ってます。手帳は普通左開きです。左開きの手帳に右開きで貼れば開きにくくなります。
問題の文自体も不自然さが感じられます。
もし本当に所謂A級戦犯合祀で行幸されないのなら、宮司を出す事はないでしょう。この文は宮司まで批判していることになります。


1)メモの出所が日経の記事に書かれていない。重要な資料が見つかると普通は○○さん所有とか書いてあるのですが、報道発表の記事には日経新聞が入手したとしか書かれていません。これは富田氏の遺族から入手した事が書かなくても分かると判断したからなんでしょうか。(それとも出所を書かないこともあるのかな)AERAによると富田元長官の奥様からと書いてあった。
2)一番不思議に思えるのは文です。
自分の意に沿わない人間が祭神として祀られているからとしても、それ以外の300万以上もの英霊に対しても同じように御拝礼されないということが考えられるでしょうか。誰々が気に入らないから行かないと言われるでしょうか。
まして、靖国神社への行幸は戦後宮内庁が判断するはずです。

私は、今のところ徳川侍従長の発言を富田長官がメモに書かれたのではないかと思います。
じゃあ、徳川侍従長は自分の思いを言ったのか、他の人の言葉を言ったのか、それが不明です。
このメモは戦前の田中上奏文のようです。

今回、富田メモで一番批判されることは、たとえメモに書かれたことが昭和天皇の御発言だったとしても、記者会見でお述べになられた「そのことは、人の、人物の批判とかそういうものが加わりますから、今、ここで述べることは避けたいと思うています」とのお言葉を無にしたことです。



中国の対日宣伝工作 Ⅲ

2006年07月26日 | 時事問題
中国の対日宣伝工作(下)
最後はメディアを使っての世論操作が書かれています。
戦争におけるプロパガンダは当たり前です。
日本人は卑怯なことは恥との感覚がありますが、支那人は利用できる物は何でも利用する、騙される方が悪いの感覚です。その事に利用される日本の政治家は議員としての資格がありません。

中国の対日宣伝工作で最大の効果をあげているのが、「南京事件」に関する宣伝戦だ。さらに宣伝工作の対象は在日中国人にも広がっている。

■大虐殺記念館

中国・南京の「南京大虐殺記念館」(侵華日軍南京大遭難同胞記念館)は1985年に建設され、現在は拡張工事が行われているため閉館中だ。2年後に敷地面積7・32㌶、建築面積2万3000平方層の大規模施設に生まれ変わる。
「三〇〇、○○○」
記念館の前面に掲げられた数字は中国が主張する虐殺者数だ。「30万人虐殺」は、当時の南京市の人口や軍事常識では不可能で、誇張された数字であるのは研究者にとって,"常識"だ。しかし、この記念館を訪れた日本人修学旅行生や政治家は、凄惨な展示内容に絶旬し、瞭罪意識を植え付けられるという。
「(過去を忘れず未来を大事にするという)中国側の姿勢に心の豊かさを感じた」
17日、記念館を訪れた自民党の古賀誠元幹事長はこう語った。中国側は、休館中の記念館を古賀氏のために特別に開いた。
だが、展示物には、偽造写真や事件と関係のないものも少なくないという。日本政府も6月、「『記念館』に対し、写真パネルで用いられている写真の中に、事実関係に強い疑義が提起されているものが含まれている旨を指摘している」(河村たかし衆院議員の質問主意書に対する答弁書)との見解を示した。
記念館を訪れたことのある河村氏は、「あんな展示を見たら、中国人は日本に復讐心を持つ」と語る。

■歴史力ード

中国事情に詳しい国際政治学者によると、対日歴史力ードの扱いや、宣伝工作の基本方針を決めるのは中国共産党中央政治局。実行に移すのが党中央宣伝部だという。
ことに南京事件の宣伝工作は、1930年代に国民党が生み、共産党が1980年代に育てた"国共合作"といえる存在だ。
東中野修道・亜細亜大教授によると、1937年12月の南京陥落から7カ月後に出版されたハロルド・ティンパーリ編「戦争とは何かー中国における日本軍の暴虐」が宣伝戦に大きな役割を果たしたという。
「私の調査で『戦争とは何か』は中国国民党の宣伝本だったことが百パーセント確認された」と、東中野氏は指摘する。ティンパーリは英国紙の中国特派員で、同書は南京在住の欧米人(匿名)の原稿を編集、38年にロンドンや二ユーヨークで出版された。この本をもとに「残虐な日本」、のイメージが定着していった。
実はティンパーリは、中国国民党の「顧問」だった。東中野氏が台北で発見した極秘文書「中央宣伝部国際宣伝処工作概要」(1941年)に「国際宣伝処が編集印刷した対敵宣伝書籍は次の2種類」とあり、そのうち1冊が「戦争とは何か」だった。
国民党で宣伝活動を担当していた作家の郭沫若は著書「抗日戦争回想録」で「宣伝は作戦に優先し、政治は軍事に優先する」との当時のスローガンを紹介している。
「中国共産党は、『アジプロ』を重視していた。アジテーション(扇情)とプロパガンダ(宣伝)という意味だ。日本人は『扇情』『宣伝』というと後ろ暗く感じるが、彼らは公然とやっている」と、現代史家の秦郁彦氏は指摘する。秦氏は「最大限で4万人」との立場だが、かつて中国人学者に30万人説について聞いたところ、「『たくさん』という意味だ」との答えが返ってきた。
秦氏は「中国は『30万人』は絶対に譲らない。つじつまが合おうと合うまいと、情報戦の世界では『たくさん』というイメージを作るのは当たり前。中国がカードを切れば、日本国内で何倍も大騒ぎしてくれる。こんなに安くつく情報宣伝工作はない」と指摘する。

■コントロール

在日中国人向けの中国語新聞や雑誌は現在、約20も発行されている。
そのうち公称部数8万部の「中文導報」は20日付の1面トップで、台湾の馬英九中国国民党主席の訪日を「3つの誤算があった」と報道。「国民党は政権を目指すなら、自分に対する認識と世界に対する認識を改めるべきだ」と厳しく批判した。
その一方、2面では「日本は靖国の代替施設建設について政権中枢で熱心に議論、胡錦濤国家主席訪日のため道をつくろうとしている?」との記事を掲載。さらに中国側が歓迎した民主党の小沢一郎代表の訪中を「昔を思い、今を大事にし、未来をとらえる。小沢は丁寧に中国の旅を作り上げた」と持ち上げた。
記事の内容は中国政府の方針に近い立場をとっているようにみえるが、同紙の楊文凱編集長は「本国政府や大使館から編集方針で圧力はない」と語る。
だが、日本国内で発行されている中国語新聞・雑誌の大多数は中国政府を批判する記事を載せないのが特徴だ。
ある日中関係筋は、「中国人向けマスコミの中には経営者や記者が定期的に大使館に呼び出され、指導を受けているところがある。本国の意向に反する記事を掲載したら、パスポート更新をはじめ、嫌がらせを受ける可能性があるからだ。逆に意向に沿った記事を載せれば広告の便宜や事業で大使館に後援してもらいやすいのでメリットがある」と明かす。
在日中国人の活動を紹介する情報誌「日本僑報」を創刊し、出版活動やメールマガジンを運営する段躍中・日中交流研究所長は「政府の息がかかっている媒体もある」と関係筋の話を裏付ける。段氏によれば、「中国政府はインタ!ネットを自分の意見を述べる道具に使おうとしている。それは中国政府関連のホームページで日本語表記が充実しつつあることなどをみれば分かる」という。日本国内向け中国系マスコミの中には「北京週報」の日本語版などがインターネット版を開始、対外宣伝機能の強化をはかる動きが出ている。
こうした指摘に、在京中国大使館の李文亮報道部参事官は、「中国の広報活動はまだまだ非常に足りていない。どこの国でも同じことで相互理解のためには、まだ努力しなくてはならないと思っている」と語っている。

この企画は高橋昌之、阿比留瑠比、小島優、比護義則、矢板明夫が担当しました。

■日中関係をめぐる主な動き(肩書は当時)
昭和
12.7 盧溝橋事件発生、日中戦争が始まる
 12 日本軍、南京を占領(南京事件)
20.8 日本がポツダム宣言を受諾して降伏
24.10 中華人民共和国成立
 12 国民党政府、台湾へ退出
27.4 サンフランシスコ講和条約発効
45,12 中国が尖閣諸島の領有権を主張
47.9 日中国交正常化
53.8 日中平和友好条約締結、相互内政不干渉強調
 10 靖国神社がA級戦犯14人を合祀
54.4 大平正芳首相が靖国参拝、中国は問題にせず
60,8 中曽根康弘首相が靖国神社に公式参拝
61.8 中曽根首相が中国の抗議で靖国参拝とりやめ
平成
4.10 天皇、皇后両陛下が初訪中
7.8  村山富市首相が戦後50年談話発表
11.7 日中両政府が遺棄化学兵器廃棄の覚書に調印
13.4 台湾の李登輝前総統が来日,
13.8 小泉純一郎首相が靖国参拝
14.5 日本の藩陽総領事館に駆け込んだ脱北者を中国警察が連行
16.3 尖閣諸島上陸の中国人7人を日本側が逮捕、起訴せずに中国に引き渡す
 5  上海の日本総領事館員が自殺
 11 中国原潜が沖縄の日本領海を侵犯
17.4 北京などで大規模反日デモ
 10 小泉首相が5度目の靖国参拝
18.3 日中友好7団体が訪中、胡錦濤主席と会談



中国の対日宣伝工作。

中国の対日宣伝工作。 Ⅱ



「南京大虐殺」の創作者たち

2006年07月25日 | 支那事変


■■ Japan On the Globe(455)■ 国際派日本人養成講座 ■■■■

Media Watch: 「南京大虐殺」の創作者たち

 中国の中央宣伝部に協力した欧米人記者たち


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■1.中国のプロパガンダ機関の協力者だった欧米記者たち■

 1937(昭和12)年12月18日、ニューヨーク・タイムズ
に次のような記事が載った。

 南京における大規模な虐殺と蛮行により・・・殺人が頻
発し、大規模な略奪、婦女暴行、非戦闘員の殺害・・・
南京は恐怖の町と化した。・・・恐れや興奮から走るもの
は誰もが即座に殺されたようだ。多くの殺人が外国人たち
に目撃された。[1,p106]

 日本軍の攻撃により、中華民国の首都・南京が陥落したのが
12月13日未明。その二日後、15日に南京を脱出したアメ
リカ人記者ティルマン・ダーディンが発信した記事である。事
件当時、現地にいた中立的なアメリカ人記者が書いた記事なら、
誰でもが事実だと信じてしまうだろう。実際に、現在の日本の
中学校歴史教科書でも次のように書かれている。

 1937(昭和12)年7月7日、北京郊外の廬構橋で日本
軍と中国軍との衝突がおこり、宣戦布告もないまま、日本
軍は中国との全面戦争をはじめた(日中戦争)。年末には
日本軍は首都南京を占領したが、そのさい、20万人とも
いわれる捕虜や民間人を殺害し、暴行や略奪もあとをたた
なかったため、きびしい国際的非難をあびた(南京事件)
[日本書籍、平成13年版]

 しかし、事件から70年近く経って、ダーディン記者をはじ
めとする、当時の南京にいた欧米人のジャーナリストの一部は、
実は中国側のプロパガンダ機関の協力者であったことが明らか
にされたのである。[a]でも紹介した亜細亜大学教授・東中野
修道氏による『南京事件 国民党極秘文書から読み解く』が明
かした事実を追ってみよう。

■2.二人のプロ編集者■

 東中野教授は、台北の国民党党史館で『中央宣伝部国際宣伝
処工作概要 1938年~1941年4月』という資料を見つける。蒋
介石の国民党は軍事的に劣勢であったため、南京陥落の直前か
ら宣伝戦に総力を挙げていた。そのための機関が「中央宣伝部」
であり、その中の一部門で特に国際宣伝を担当していたのが
「国際宣伝処」である。この「国際宣伝処」が、南京陥落前後
の3年間に行ってきた工作を記録したのが、この資料なのであ
る。冒頭のダーディン記者の名は、この資料の中で工作の対象
として何度も登場する。

 中央宣伝部で、国際宣伝の中心を担っていたのが、宣伝部副
部長の薫顕光と、国際宣伝処の処長・曽虚白の二人であった。
薫顕光はアメリカのミズーリ大学とコロンビア大学大学院に留
学し、『ニューヨーク・イブニング・ポスト』などの記者を経
験した後、中国に戻って『北京英文日報』などの編集長を長ら
く務めた。薫顕光も米国のセント・ジョンズ大学を卒業し、南
京大学教授を経て、上海の『大晩報』の編集長に転じた。

 二人とも欧米のジャーナリズムに明るく、またプロの編集者
であった。欧米のマスコミを通じた国際宣伝には、まさに格好
の人材であった。

■3.「国際友人」による「われわれの代弁者」■

 薫顕光は「宣伝という武器は実に飛行機や戦車と同じく重要
だ」と考え、1937年11月中旬に、従来の組織を大幅に再編強
化して、曽虚白を処長とする国際宣伝処を発足させた。

 曽虚白は、その自伝の中で「われわれは目下の国際宣伝にお
いては中国人みずから決して前面にでるべきではなく、われわ
れの抗戦の真相と政策を理解してくれる国際友人を探し出して、
われわれの代弁者となってもらうことを話し合った」と述べて
いる。

「国際友人」とは、主に中国に在住する欧米の記者や学者であっ
た。特に新聞は雑誌や書籍に比べて発行部数が多く、それだけ
多くの人々の目に触れる。上述の資料では「各国新聞記者と連
絡して、彼らを使ってわが抗戦宣伝とする」として、

 われわれが発表した宣伝文書を外国人記者が発信すれば、
最も直接的な効果があるが、しかしそのためには彼らの信
頼を得て初めてわれわれの利用できるところとなる。この
工作は実に面倒で難しいが、決して疎かにしてはならない。
[1,p45]

 ジャーナリストとしての良心を持つ人間なら、「われわれが
発表した宣伝文書」をそのまま自分の記事であるかのように発
信したりはしないだろう。逆に、国際宣伝処の存在やその工作
自体を報道されたら、ぶち壊しになってしまう。薫顕光と曽虚
白が「実に面倒で難しい」というのは、一人一人の外国人記者
が、「われわれの代弁者」になってくれる人物かどうか、慎重
に見極める点にあったのだろう。

■4.「外国人記者を指導した」■

 そのための工作として、国際宣伝処が行ったのは、頻繁な記
者会見や、講演会、お茶会を開くことだった。『工作概要』で
は、その実績をこう記録している。

 1937年12月1日から38年10月24日まで、漢口で
行った記者会見では、軍事面については軍令部より報告し、
政治面は政治部が担当し、外交面は外交部(外務省)が発
言して、参加者は1回の会見で平均50数人であった。会
見は合計3百回開いた。[1,p47]

 また「1938年度は毎日1回お茶会を開く」とあり、外国人記
者たちとの間で、親密な会話が行われた模様だ。

 通常及び臨時会議のほか、外国人記者は民衆文化団体、
国民外交協会、反侵略会、新聞同業者の集会などに参加す
るよう、毎週平均2回、外事課(JOG注:国際宣伝処の一部
門)から外国人記者に通知し、外国人記者を指導した。各
集会に参加した外国人記者と、外国駐在公館の職員は、毎
回平均35人であった。[1,p47]

「外国人記者を指導した」という表現に、本音が出ているよう
だ。こうした工作の効果はどうだったのか。

 外国人記者たちは、平素は当処(国際宣伝処)が誠心誠
意宣伝指導にあたっていることから、そうとうに打ち解け
た感情を持っている。そのほとんどはわが国に深い同情を
寄せてくれてはいるが、・・・[1,p53]

 頻繁な接触を通じて、外国人記者たちは中国に「深い同情」
を寄せてくれるようになったのである。

■5.検閲と洗脳■

 前項の引用文はこう続く。

しかし新聞記者は何かを耳にすると必ずそれを記録すると
いう気質を持っているので、噂まで取り上げて打電するこ
とにもなりかねない。含蓄をこめた表現で、検査者の注意
を巧みに逃れることにも長けている。中国駐在記者が発信
した電報を各国の新聞が載せれば、極東情勢に注目してい
る国際人士はそれを重視するものであるから、厳格に綿密
に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除または
綿密に検査する必要がある。妥当性に欠けるものは削除ま
たは差し止めにしたうえで、その理由を発信者に説明し、
確実に了解を得られるようにして、その誤った観点を糺
(ただ)した。[1,p53]

 外国人記者たちが本国に打電する内容で「妥当性に欠ける」
ニュースは「削除または差し止め」とされ、「その誤った観点
を糺」した。これはもう完全な検閲と洗脳である。その検閲は
次のような方法で行われた。

 あらゆる電報は初級検査を受けたのち、問題がなければ、
検査者が本処(国際宣伝処)の「検査済みパス」のスタン
プを押し、電信局へ送って発信する。もし取り消しがある
場合は「○○の字を取り消してパス」のスタンプか、ある
いは「全文取り消し」のスタンプを押す。[1,p54]

 電信局は国民党政府に管理されているので、外国人記者たち
は国際宣伝処の検閲を通った記事しか本国に打電できなかった
のである。

■6.「竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んできて」■

 国際宣伝処に「そうとうに打ち解けた感情」を持った記者の
一人が上述のダーディンであった。薫顕光は次のように記して
いる。

 11月19日になると、私の『大陸報』時代の同僚で、
現在は『ニューヨーク・タイムズ』の中国大陸駐在記者で
ある竇奠安(ダーディン)が私のオフィスに駆け込んでき
て、すでに蘇州は陥落したという悪いニュースをもってき
た。その翌日、私は蒋(介石)委員長から直ちに南京を離
れて漢口へ行くようにという命令を受け、蒋委員長は私と
曽虚白の乗るその夜の船を予約してくれた。ところが、突
然、蒋委員長から、竇奠安(ダーディン)に渡して『ニュ
ーヨーク・タイムズ』へ発表する電報文の内容を翻訳して
ほしいという要請があった。[1,p42]

 ダーディンは薫顕光のオフィスに駆け込んできたり、蒋介石
から直接指名を受けるなど、いかにも緊密な連携関係であった
事が窺える。

 ダーディンは南京陥落2日後の12月15日に南京を脱出し
たのだが、その際に冒頭の記事を書いた。いかにも自らの実体
験のような描写であるが、よく読むとこの部分は「殺されたよ
うだ。多くの殺人が外国人たちに目撃された」と、伝聞を書い
ているに過ぎない。

 実はダーディンのこの記事は、南京大学教授で著名な宣教師
だったマイナー・ベイツが書いてダーディンらに送ったレポー
トを下敷きにしたものである。ベイツは中華民国政府顧問だっ
た。

■7.ベイツのレポートを下敷きにしたダーディンの記事■

 ベイツのレポートと、ダーディンの記事を比べてみよう。

ベイツ: 恐怖と興奮にかられて駆け出すもの、日が暮れてか
ら路上で巡警につかまったものはだれでも即座に殺さ
れたようです。

ダーディン: 恐怖のあまり興奮して逃げ出す者や日が暮れて
から・・・巡回中のパトロールに捕まった者は誰でも
射殺されるおそれがあった。

ベイツ: 市内を見まわった外国人は、このとき通りには市民
の死体が多数ころがっていたと報告・・・

ダーディン: 市内を広範囲に見て回った外国人は、いずれの
通りでも民間人の死体を目にした。

 ダーディンの記事がベイツのレポートを下敷きにしている事
は、一目瞭然であろう。そのベイツのレポートも、「即座に殺
されたようです」「死体が多数ころがっていたと報告」と伝聞
体でしか、記述していない。

 もしベイツやダーディンが実際に市民が虐殺される様を見て
いたら、間違いなく自ら見た事実をそのままに伝えていただろ
う。しかし、実際に陥落後の南京にいたベイツもダーディンも
伝聞でしか、書けなかったのである。

■8.「お金を使って頼んで本を書いてもらい」■

 ベイツは中華民国政府の顧問であり、薫顕光とも交友があっ
た。薫顕光の宣伝に協力して、ダーディンらに記事を書かせよ
うと、このレポートを送ったのである。

 ベイツのレポートは、南京陥落の翌1938(昭和13)年7月に
出版された『戦争とは何か -中国における日本軍の暴虐』に
も掲載された。『工作概要』には、中央宣伝部がこの本を対敵
宣伝物として出版したという記述がある。

 この本の編者は、英国『マンチェスター・ガーディアン』紙
中国特派員ハロルド・ティンパーリ記者であったが、戦後出版
された『曽虚白自伝』では、中央宣伝部がティンパーリ記者に
「お金を使って頼んで本を書いてもらい、それを印刷して出版」
したという証言が記されている。[b]

 この本は、現在でも「南京大虐殺」を主張する人々が典拠と
しており、70年近くもプロパガンダとしての影響力を発揮し
ている。

■9.ベイツへの二つの勲章■

 東京裁判で「南京大虐殺」が裁かれた時、3人の欧米人が証
人として出廷した。ウィルソン医師は「2万人からの男女子供
が殴殺された」と述べたが、実際に彼が見たのは病院内の患者
だけで、「2万人殴殺」の確証は示せなかった。マギー師も日
本軍の殺人、強姦、略奪を証言したが、自分自身ではどれだけ
見たのか、と反問されると、「ただ僅か一人の事件だけは自分
で目撃しました」と述べたに留まった。

 もう一人の証人がベイツであった。ベイツは4万人の不法殺
害を証言したが、それはベイツ自身がレポートに書いた内容と
同じであった。しかし、彼は自分が中華民国のアドバイサーで
あったことも、ダーディンらにレポートを送ったことも、そし
て『戦争とは何か』の分担執筆者であったことも秘密にしてい
た。

 一方、「南京事件」を世界に告発したダーディンやティンパ
ーリは、東京裁判に出廷しなかった。出廷して反対尋問を受け
たら、彼らの記事が何らの事実に基づいていないことが露見し
てしまう恐れがあったからであろう。

 ベイツは1938年と1946年、「日本との戦争中の人道的奉仕」
に対して中華民国政府から勲章を授与された。1938(昭和13)
年は、ベイツが分担執筆した『戦争とは何か』が中央宣伝部か
ら出版された年でであった。1946(昭和21)年は、ベイツが東
京裁判に出廷して「日本軍4万人不法殺害」を証言した年であっ
た。

 その後、中共政府は被害者数を30万人にまで膨らませて、
プロパガンダとして使い続けている。「南京事件」は戦時プロ
パガンダとしては、史上最高の傑作であった。
(文責:伊勢雅臣)



中国の対日宣伝工作。 Ⅱ

2006年07月25日 | 時事問題
中国の対日宣伝工作の(中)です。
沖縄に対する工作、支那は沖縄を日本から引き離そうとしている。
沖縄は左翼的な新聞しか無いと聞きます。この事も大きいでしょう。
大学への浸透も大きな問題です。
大学を作ったが学生が集まらない様なところが、支那からの留学生を積極的に受け入れるのでしょう。
悪循環に陥っています。


中国が対日宣伝工作で力を入れているのは、政界や言論界だけでない。米軍基地や尖閣諸島を抱える沖縄へのアプローチや東西の有力私大への働きかけも活発化させている。

■自衛隊訓練中止

今月16日、台湾と国境を接する沖縄県与那国島で、防災訓練の一環として実施されるはずだった陸上自衛隊第1空挺団(千葉県船橋市)の隊員によるパラシュート降下が中止された。これに先立つ6月28日、与那国町役場に町長を訪ねた八重山地区労働組合協議会の代表は「いたずらに近隣諸国を刺激し、友好的な発展を阻害する」として中止を求める要請文を手渡した。要請文には「明らかに与那国町民への宣撫工作であり、想定されている中台問題や尖閣問題を視野に入れた瀬踏みだ」と書かれ、関係者によると、町長も同調するかのような発言をしたという。
陸上自衛隊は「町長からの要請でやめたのではなく、パラシュート訓練は天候に影響されやすいのでやめた。代わりにヘリコプターによる負傷者救出訓練を実施した」(広報室)と説明する。しかし、同じ八重山地方の石垣市は4月、自衛隊が計画していた演奏会開催のための市民会館使用を「混乱が起きるのは好ましくない」と不許可にした。相次ぐ自治体の自衛隊への厳しい対応に中国の影をみる向きもある。
「中国は戦略的に重要な地域である沖縄で、盛んに『中国人観光客が沖縄の観光業を救う』と宣伝している。他の地域でも同じことを言って浸透をはかっている」
在京のある外交官はこう指摘する。
沖縄の本土復帰後、日中友好関係の組織がほとんどなかった沖縄に平成16年、「新しい沖縄と中国の友好交流を推進する会」が発足した。これに呼応する形で、中国は、中国から伝来した沖縄の伝統競漕「那覇ハーリー」に広東省からチームを派遣するなど急速に交流を深めている。
沖縄在住のジャーナリスト、恵隆之介氏はこう警鐘を鳴らす。
「沖縄では戦後、米陸軍第8心理作戦部隊が県民に本土復帰の気持ちが起こらぬよう反日宣伝を徹底した。その影響で、中国に朝貢していた時代が美しく語られている。県民に国家帰属意識が薄いことに中国はつけ込み、ここぞとばかりに浸透している」

■孔子隠れみの?

京都市の立命館大学。その本部近くに「立命館大学国際平和ミュージアム」があり、「わだつみ像」が玄関に立つ。戦後、「きけわだつみのこえ-日本戦没学生の手記」の収益金を基金にして発足した「日本戦没学生記念会(わだつみ会)」の事業としてミユージアムはつくられた。その2階に「立命館孔子学院」がある。
孔子学院は、世界での中国語教師育成や中国文化普及を目的とする教育機関。中国政府が世界各国の大学、研究機関と連携、世界中にlOOカ所創設しようという一大プロジェクトだ。一昨年12月にソウルに第-号が開校されて以来、現在では米国の10カ所を最多に世界80カ所に設置されている。
日本では、立命館大に昨年10月、設置されたのが最初。その後、愛知大、北陸大、桜美林大とわずか半年で4私立大学に開設された。中国大使館によれば、北海道や東北、九州など国内各地に開校の予定がある。
学校法人立命館の鈴木元総長・理事長室長は、「立命館は戦前から、中国の留学生を受け入れ、戦後も国交のないころから交流を進めてきた歴史がある。自国語の教育施設を一気に数年で世界につくろうというのは中国の明確な国家戦略だと思う。それを分かったうえで『日本で一番初めに』とアプローチした」と語る。
設立から半年、立命館大の孔子学院では中国語講座や講演会などを行っている。周璋生立命館孔子学院長は「孔子学院の設立は、言語教育と文化交流の促進が狙い。世界への宣伝戦略ではないし、政治的なことはやらない」と語る。
しかし、中国の国内事情に詳しい上村幸治・独協大学教授は疑問を投げかける。「『孔子』というのは共産党色がないから、カムフラージュにはちょうどいい。大きな枠組みでいえぱ対外宣伝工作だろう」と分析する。

■「腫れ物触るな」

早稲田大では今年4月から7月まで「中国総合講座」を開催した。1回目に中国の王毅駐日大使が「中国の発展と中日関係」と題して講演、10回にわたって、大使館の参事官クラスが講師となり、外交や貿易、科学技術、文化、中日関係などについて講義を行った。早稲田大学広報室では「政治的な内容はなかった」としているが、中国大使館がこうした講座を開くのは初めてだ。
平成14年11月、慶応義塾大学で行われた学園祭「三田祭」。その期間中に台湾の李登輝前総統の講演を、学生サークルが企画していた。が、大学側は自粛を要請、最終的に学生組織の三田祭実行委員会が却下し、中止となった。当時、大学側は「一切関与していない」と説明したが、慶大の執行部内では李登輝氏講演に消極的な意見が多数を占めていたという。慶大教授の一人は「李登輝氏の講演は、脈々と実績を培ってきた慶応と中国の関係に殴りこんできたようなもの」と明かす。
早慶だけではない。複数の大学で教鞭を執っていた国際関係研究者は、中部地方の大学で講演した際、大学側から「中国人留学生が多いから中国との問題には触れないでほしい」と頼まれたことがあると証言する。この研究者は「今や地方の私立大学はどこも中国人留学生がいないとやっていけない。中国人教員は中国人留学生のリクルーターでもある。自然と中国人の発言力は大きくなるし、大学側も『腫れ物に触るな』となる」と語っている。


中国の対日宣伝工作 Ⅰ

中国の対日宣伝工作 Ⅲ


中国の対日宣伝工作。

2006年07月24日 | 時事問題
今朝の産経新聞に「中国の対日宣伝工作」と題して、日中友好の裏側で活発化している支那の対日工作の記事が出ていた。
上となっていたので続きがあるようです。

今朝の記事には、ヤマハ発動機の支那へのへり不正輸出事件も出ていた。
これは軍事転用されるのを知っていて輸出した事件です。これも対日工作の一環なのかと思います。
自民党総裁選において親・眉中派が総裁になれば、日本は本当に支那に飲みこまれるだろう。
逆に支那政府から嫌われるような指導者でなければならない。

北朝鮮のミサイル乱射を受けた国連安全保障理事会での日本と中国の攻防は、熾烈を極めた。中国首脳は靖国神社参拝の姿勢を変えない小泉純一郎首相とは国際会議の場でも会おうともしない。その一方、胡錦濤国家主席は首相との対決姿勢を鮮明にする民主党の小沢一郎代表と会談、自民党に揺さぶりをかける。「日中友好」の裏側で活発化している中国の対日宣伝工作の実態を探った。

■いきなり排除

PHP総合研究所の江□克彦社長はこの7年、中国の地を踏んでいない。それ以前の25年間は、頻繁に中国で講演していた。きっかけは、PHPが平成11年、当時の李登輝台湾総統が書いた「台湾の主張」を出版したことだった。
「以前は中国へ行くというと、中国の学術機関から招待状が届いた」と江口圧は振り返る。
中国は、彼が松下電器出身で「経営の神様」といわれた松下幸之助氏を長くサポートしてきたことから、経済界とも太いパイプを持っていると判断していたようだ。
「松下幸之助は『経済の井戸』を掘った人として、中国でも尊敬されている。近くにいた私から話を聞きたいという人が、中国には非常に多い」と江口氏は語る。
しかし、「台湾の主張」を出版したことでその関係は切れた。
その年の秋、日本の某大学教授から「あなたは北京で石原慎太郎さんとともに『悪のオピニオンリーダー』と話題になってますよ」と忠告された。
その後も中国の大学などから口頭で講演依頼が7、8件あったが、招待状は一度も届かなくなった。江口氏は「大学が中国政府に申請しても却下していると思う。『台湾の主張』を出した江口はけしからん、ということなのだろう」と語る。

■対日工作組織

昨年夏、東京・六本木ヒルズで中国政府主催の写真展「ともに築こう平和と繁栄-中国と日本60年の歩み」が開かれた。日本の政府開発援助(ODA)が中国の経済発展に役立ったことをPRするコーナーもあり、会場は友好ムード一色。中国国務院新聞弁公室の趙啓正主任(閣僚級)は記者会見で、写真展の前に中国で起きた大規模な反日デモによる日本人の対中感情悪化に触れ、「日中関係が難しい時期だからこそ、お互いのいいところを見なければならない」と述べた。
しかし、同様の写真展は中国国内では開かれなかったという。趙主任の言葉と裏腹に、同じころ、中国では日中戦争での中国空軍の業績をたたえる「抗日航空烈士記念館」が南京で着工され、米国など連合軍の元兵士約200人を北京の「抗日戦争勝利式典」に招待するなど、「反日イベント」が頻繁に開かれていた。元公安調査庁調査第2部長の菅沼光弘氏は「中国は対外宣伝活動を統一方針の下、理論的、組織的にやっている」と話す。
中国は数多くの対日交流機関や窓口を設け、日本の政党、民間団体、学術機関、マスコミなどに常時働きかけている。

政界へ「アメとムチ」駆使

中国事情に詳しい専門家によると、対日情報収集や宣伝工作で、最も強い影響力を持つのが国家安全省。全国各地に下部組織の安全局があり、日本に「工作員」を派遣する実行部隊となる。日本の政治、経済などの情報を収集しながら、日本に住む民主化運動家や台湾の協力者らを監視するのが主な業務だ。
人民解放軍の情報部も重要な役割を担っている。日本の軍事、産業情報などを収集するプロ集団であり、大使館に武官を派遣している。
関係者によると、この2つの部署から中日友好協会などに出向するケースは少なくない。また、人民解放軍総政治部の下にある国際友好連絡会が創価学会など宗教団体や海外援助活動に熱心な財団をカバーしており、活動範囲は広くきめ細かい。元公安調査庁調査第2部長の菅沼光弘氏は「一見バラバラに見えるが、活動方針はすべて共産党中央で決められており、一つの組織としてみた方が妥当だ。中国のやり方は巧妙なだけに日本にとっては脅威だ」と指摘する。

■突然の中止

中国が対日工作で最も重視しているのは政界への働きかけだ。昨年11月、日中友好議連の中国訪問が突然中止になった。関係者によると、訪中団の人選に中国側からクレームがついたという。
訪中団名簿には町村信孝元外相の名前があった。その半年前、中国各地で激しい反日デモが起き、外相だった町村氏が緊急訪中したのだが、外相会談の冒頭、テレビカメラの前で抗議したことが怒りを買った。
中国側は日中友好議連に、間接的に「胡錦濤国家主席と会える」との好条件をちらつかせながら、町村氏をメンバーから外すよう求めた。しかし、日本側が拒否したため、訪中そのものが中止となった。
自民党関係者によると、一昨年9月、北京で開かれたアジア政党国際会議でも同様の騒動が起きた。自民党は棚橋泰文氏らを派遣しようとしたが、在京の中国大使館参事官が「棚橋先生では困る。直近に自民党員として台湾に行った人は中国として迎えられない」と激しく抗議。メンバー変更を強く求めたが、この時も党執行部の判断で、代表派遣を見送った。
一方、中国は7月4日、訪中した民主党の小沢代表に対し、胡主席との会談をセット、友好ムードを演出した。日中関係筋は「現在の対日政策の基本的な柱は民主党や与党内の親中派勢力と交流を深めることだ」と語る。小沢氏に秋波を送ったのも、自民党内で野中広務元幹事長ら「親中派」とされた大物議員が相次いで引退したことが大きく、野党第一党である民主党を押さえておきたいとの思惑からだという。
中国は「親中派」とみなした議員には、要人との会談を設定、熱烈な歓迎ぶりをみせ、地方都市の名誉市民や大学の名誉博士といった「称号」を与えて歓心を買う。逆に「反中派」とみなした議員には訪中拒否などで冷遇するといった「アメとムチ」の戦術を使い分ける。
京都大学大学院の中西輝政教授は、国連安保理の対北朝鮮決議の日本提案に中国が強く反対したことを「アジアのもう一つの大国である日本が国際政治の舞台で一人前のプレーヤーになってほしくないからだ」と分析する。同時に「中国の対日工作の攻勢をはねつけるには、国民がしっかり団結して対応しなければならない」と語る。
組織的かつ戦略的な中国の対日宣伝工作にいかに対応するか。「ポスト小泉」政権にとって重要な課題といえる。


中国の対日宣伝工作 Ⅱ

中国の対日宣伝工作 Ⅲ


入江相政日記を見てみよう。

2006年07月23日 | 時事問題
元宮内庁長官のメモを裏付ける物として、元侍従の入江相政日記の以下の文が出される。

昭和54年4月19日(木)
「靖国神社に松岡、白鳥などの合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになっちまふ。」


これだけ読めば、昭和天皇が合祀に不快感を示したように見えます。
これは全文の中の抜粋なので、この日付の前後の文を書いてみます。

昭和54年4月19日(木)
「朝、園子さん来て下さる。朝刊に靖国神社に松岡、白鳥など合祀のこと出、テレビでもいふ。いやになっちまふ。直接、吹上げへ出る。お召しといふことで出たら昨夜、赤坂からお帰りの車中でうかゞつた「沖縄をアメリカに占領されることをお望みだった」といふ件の追加の仰せ。蒋介石が占領に加わらなかったので、ソ連も入らず、ドイツや朝鮮のような分裂国家にならずに済んだ。同時にアメリカが占領して守ってくれなければ、沖縄ならず日本全土もどうなったかもしれぬとの仰せ。今日は御気分もよく迎賓館でも御立派。…」


これを読んで貰えば明らかなように、昭和天皇のお言葉でなく、入江氏自身の感想です。しかし、この部分だけを抜粋したら昭和天皇のお考えにもなってしまいます。
入江日記を持って昭和天皇のご意志とするのは、これは明らかに捏造です。
このようなことを平気で言うマスコミやコメンテーターは、どのような意図があって嘘を言うのでしょう。

もし本当に昭和天皇が不快な気持ちを持って居られたなら、「今日は御気分もよく」となられるだろうか。
私は逆だったと思います。


マスコミは使う人間を考えろ。

2006年07月23日 | 時事問題
マスコミで靖国神社の事になると、加藤紘一がよく出てくる。
マスコミも自民党内で反対するなら、誰でも良いという程度なのでしょうか。
この加藤紘一は最初言っていたことから変わっています。
最初靖国神社参拝は支那、韓国との外交関係の問題といっていたが、今は内政問題に変わっている。

しかし、一番変わったのは何と言っても、中曽根内閣で所謂A級戦犯が合祀されているのを知っていて、公式参拝した事です。
その同じ人間が、靖国神社に所謂A級戦犯が合祀されているので参拝に反対する、分祀すべきだと言っている。
自分は良くて外の人は駄目ということのようです。
このような人間をいつまでマスコミは使うのか。

靖国神社参拝、加藤紘一の変節



デヴィ夫人と押しの強さ。

2006年07月22日 | 時事問題
今朝の産経新聞に、デヴィ夫人のことが書かれていました。
私は正直この人は好きではありません。
しかし、誰に対してもはっきりと主張する、これは日本人においてはなかなか出来ないことです。
ところが支那・韓国に行く政治家は何時も相手の言うことを黙って聞いているだけのようです。
その事によって日本の方が間違っているようにみられます。
政治家も役人も海外に於いては主張するべき時は主張する態度を取らなければ、国を守ることが出来ないでしょう。

デビ夫人の健闘

インドネシアの元スカルノ大統領夫人で日本人のデビ夫人が先コろ韓国の大韓赤十字社から赤十字会員有功章を贈られた。デビ夫人は近年、国際的な難民や飢餓、災害救援などボランティア活動に熱心で、昨年は北朝鮮に対する食糧の人道支援もしている。そんなこともあって大韓赤十字社から感謝となったのだが、韓完相総裁との会見の際、こんな場面があった。
居合わせた知人から後で聞いたのだが席上、デビ夫人が「ひとつお願いがあります」と言って靖国神社問題で日本に対する理解を求めたというのだ。彼女の話は「韓国人の気持ちは分かるが、靖国神社は日本人の文化、歴史、心の問題です。合祀されているA級戦犯は死刑を宣告され処刑されており、罪があったとしても処刑によって罪は終わっているのです。日本人の多くはそう思っています」というものだった。
進歩派で親・北朝鮮的な学者出身の韓総裁はいわゆる「A級戦犯分祀」論で反
論したがタジタジだったという。彼女は「ヨーロッパでは60年以上もたって戦争などのうらみを言ってる国はありません」などとも言ったそうだが、立派なものだ。ついでに故スカルノ大統領などインドネシア独立運動家の親日的な日本観も紹介してあげればよかった。
(黒田勝弘)7月22日産経新聞



今日の産経には、もう一つ似たコラムがありました。
国連(連合国)における、北朝鮮非難決議をめぐる安倍官房長官と外務省の対応についてです。


世界で通用しない引きの手法

17日付の本紙掲載記事
「対北非難決議採択10日間の攻防」(束京版)には、またも外務官僚の弱腰外交が露呈していた。外務官僚が「落としどころ」を探ろうとはやるのに対して、安倍官房長官は「日本が降りるにしても最後の最後。ギリギリまで妥協に応じるそぶりすら見せては駄目なのに、なぜ分からない」と、ため息まじりにつぶやいたそうだ。
私の在米15年の個人的生活でも、日米では落としどころを探す手法が違うことはすぐに思い知らされた。「米」は「世界」におきかえられることはいうまでもない。
アメリカ人はまず一歩も二歩も前にでる。相手を論破する論理的思考、言葉そのものの力、法律、知的な脅しというカードすらも活用して押しあいへし合いして双方の妥協点を探す。一方、日本式手法はまず互いに一歩引く。自分が引いたことを相手が阿眸の呼吸で理解することを阿件の呼吸で期待する。が、引く文化がない国では、こちらが引いたことを言葉で説明しない限り、その行為(好意)は無である。
押しの文化はアメリカだけではない。ニューヨークには知的レベルの高い中国人留学生や研究者が大勢いたが、同じアジア人なのにどうも彼らの言動が私の神経に触る。私の個人的領域に土足で入ってくる感じなのだ。が、すぐに彼らも押しの文化の人と知る。なにしろ中国では「日本人みたい」と形容されたら「押しの弱い駄目な奴」という意味になるのだそうだ。
かくも引きの手法は世界では通用しない。しかし、こんなことは優秀な外務官僚なら当然分かっていることではないか。安倍氏ならずとも、「なぜ?」と問いたくなる。
(評論家・井ロ優子)7月22日産経新聞



ブログ開設1周年。有り難うございます。

2006年07月22日 | Weblog
当ブログを開設して1周年を迎えることが出来ました。
これも当ブログをご覧頂いている皆さんのおかげだと思っています。
厚く御礼申し上げます。


内外の状況うを沈思しませう。

このまゝで往けば、日本は自滅する外ありません。

我々はこれをどうすることも出来ないでせうか。

我々が何もしなければ、誰かがどうしてくれませうか。

我々が何とかする外無いのです。

我々は日本を易(か)へることが出来ます。

暗黒を嘆くより、一燈を點(つ)けませう。

我々は先ず我々の周圍(い)の暗を照らす一燈になりませう。

手のとゞく限り、至處に燈明を供えませう。

一人一燈なれば、萬人萬燈です。

日本は忽(たちま)ち明るくなりませう。

是れ我々の萬燈行であります。

互いに真剣にこの世直し行を励まうではありませんか。

「萬燈行」安岡正篤


最初の記事です。
靖国に祈る米国青年


六然

2006年07月21日 | 朝聞暮改
自処超然  自ら処すること超然

処人藹然  人に処すること藹然

有事斬然  有事には斬然

無事澄然  無事には澄然

得意澹然  得意には澹然

失意泰然  失意には泰然


自処超然
人間というものは自分の問題になると、いろいろ物にとらわれて審理が複雑になり、執着したり拘泥したりするものです。然しそう言うことではだめで、事に望んで自分に関する問題には一切捕らわれないで解脱している、脱けきっておる、という風でなければならない。

処人藹然
人に処する場合には、常に好意を持ってなごやかに接する。藹は、春の草木の青々と茂った雰囲気を表す文字で、人に接すると春の山に霞のかかったようなのんびりとした温かい気分になる、そういう雰囲気が藹然です。

有事斬然
何か問題があるときは、うろうろしたり、うじうじしたりしないで、活気があってきびきびしている。

無事澄然
何も無い時は氷のように澄みきっておる。

得意澹然
得意の時はあっさりしておる。人間得意の時は好い気になって、どうかすると威張りちらしたり、驕ったりするものでありますが、そういうことをしない。

失意泰然
失意の時はばたばたせずにゆったりと落ち着いておる。 

元宮内庁長官のメモ!?

2006年07月20日 | 靖国神社
昭和天皇、靖国のA級戦犯合祀に不快感
≪元宮内庁長官、発言メモ書き残す≫

 昭和天皇が靖国神社のいわゆるA級戦犯合祀に不快感を示していたことを示すメモが表に出たことについて、安倍晋三官房長官は20日午前の記者会見で、「政府としてコメントする事柄ではない」と述べた。だが、自民党内は現在、戦没者の追悼をめぐって、A級戦犯分祀(ぶんし)論、国立追悼施設の建設や千鳥ケ淵戦没者墓苑の拡充論など百家争鳴状態にあり、波紋が広がるのは間違いなさそうだ。

 政府は、小泉純一郎首相の靖国参拝に関しては「首相自身が判断するもの」(安倍長官)との姿勢だが、首相の参拝に反対する勢力が、今回のメモ発見を利用し、勢いを増すことも想定される。またメモ発見が、首相の靖国参拝に反対している中国の高官が、「A級戦犯分祀論」を唱える自民党の古賀誠元幹事長に賛意を示したばかりというタイミングの問題もある。

 ただ9月の自民党総裁選に向けて「公になった言葉ではなく、非公式な会話メモで判断するのは、昭和天皇の『政治利用』につながりかねない」(百地章・日大教授)との懸念も出ている。

 政府筋は「(故・富田朝彦宮内庁長官のメモだけでは)昭和天皇が本当に不快感を示すご発言をしたかどうかは、誰も分からないだろう」とも指摘する。

 また、仮に内心がどうであれ、昭和天皇も現天皇陛下も春秋の例大祭には靖国に勅使を派遣するなど、靖国重視の姿勢を示し続けてこられた事実は重い。靖国の現宮司の南部利昭氏は就任に際して「天皇陛下から『靖国のこと、よろしく頼みます』と直接、言われている」(関係者)ともいう。

 今回のメモ発見でも、「戦没者追悼の中心施設は靖国」(小泉首相)という事実には何ら変わりはない。

 ■「政治利用」に懸念も

 昭和天皇が昭和63年、靖国神社のA級戦犯合祀(ごうし)について「あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などと不快感を示されたとする当時の宮内庁長官、富田朝彦氏(故人)のメモが残されていることが20日、分かった。昭和天皇は50年以降、靖国神社を参拝されていない。A級戦犯合祀は昭和53年。

 関係者によると、富田氏は昭和天皇のご発言などを手帳などに書き留めており、63年4月28日付で靖国参拝に関するメモが残っていた。昭和天皇が「私は或(あ)る時に、A級が合祀され、その上、松岡、白取までもが」「だから私(は)あれ以来参拝していない。それが私の心だ」などとお話しになったとしている。

 「松岡」「白取」はA級戦犯として祭られている松岡洋右元外相、白鳥敏夫元駐イタリア大使を指すとみられる。

 ほかに「筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが。松平の子の今の宮司がどう考えたのか、易々(やすやす)と。松平は平和に強い考(え)があったと思うのに、親の心子知らずと思っている」などの記述もあった。

 「筑波」はA級戦犯の合祀をしなかった筑波藤麿・靖国神社宮司(故人)、「松平」は最後の宮内大臣の松平慶民氏(同)、その「子」は長男でA級戦犯合祀をした当時の松平永芳宮司(同)とみられる。

 富田氏は昭和53年から63年まで宮内庁長官を務めた。

【2006/07/20 大阪夕刊から】

(07/20 16:00)産経新聞

私は或る時に、A級が合祀されその上
松岡、白取までもが
筑波は慎重に対処してくれたと聞いたが
松平の子の今の宮司がどう考えたのか易
々と松平は平和に強い考があったと思う
のに親の心子知らずと思っている
だから、私あれ以来、参拝していないそ
れが私の心だ(原文のまま)
富田メモ・靖国部分全文


今朝の日経新聞に、元侍従長のメモが報道されていました。
内容の真偽のほどは不明ですが、
あまりにもタイミングが良いように思えます。
支那がA級戦犯分祀に発言した翌日の報道、しかも反日マスコミとは云え日経新聞。
これが、朝日か毎日だったら捏造かと思う人がかなり居るでしょう。

内容も疑問点が残ります。