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東西冷戦時代、KGBが目論んだ10の極秘作戦(ソビエト連邦)

2015年09月18日 | 世界びっくりニュース
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 アメリカのCIAのように、ソビエト連邦(そして、現在のロシア)にはソ連国家保安委員会(KGB)というスパイ組織があり世界中で暗躍してきた。ご存じプーチン大統領も、かつてはKGBのスパイであった。

 今日知られているKGBの情報はワシリー・ミトロヒンという1人の男によってもたらされたものだ。元KGB幹部要員であったミトロヒンは、25,000ページもの極秘資料を手にイギリスに亡命した。ここで紹介するのは、ミトロヒン文書から明らかとなったKGBが遂行してきた作戦の一部である。

10. アメリカのインフラ破壊作戦


 1959~72年、ニューヨークの電力供給を遮断してしまおうと、KGBは発電所、ダム、石油パイプラインなどのインフラの写真撮影を開始した。こうして最適な攻撃目標が定まると、ペンシルバニア州ハリスバーグ近郊に隠れ家を作り、電力システムの攻撃準備を整えた。

 目標は、モンタナ州の大型水力発電ダム、ハングリー・ホース・ダムとフラットヘッド・ダムであった。この二つのダムを破壊してしまえば、同州と周辺地域の電力供給は途絶えてしまう。まずKGBはハングリー・ホース・ダムの山の斜面にある高圧電線の鉄塔を破壊しようと計画した。これが破壊されると、復旧は困難で、長期間に渡ってダムからの送電ができなくなってしまう。次いでダムの管制室を占拠し、破壊する。

 また、KGBは、アメリカのガソリン供給の要であるカナダ-アメリカ間の石油パイプラインや、カナダの製油所の破壊すら目論んでいた。

 これらの電力システム破壊工作は、ニューヨーク攻撃というさらに大規模な作戦の一環として行われた。電力供給が途絶えた暁には、その混乱に乗じて、物流の命とも言えるニューヨーク港の倉庫に大量の爆発物を仕掛ける手はずだった。

9. 人質事件の報復


 1985年、レバノンでソ連の外交官がイスラム系過激派によって拉致された。報道によれば、過激派の目的は、レバノン内戦を画策するシリアへのソ連の支援を止めることだったようだ。過激派は、銃を頭に突きつけられた人質の写真をマスコミに送り、ソ連が支援するシリア軍によるレバノン北部への攻撃中止を要求した。

 当初、ソ連側はテロリストとの交渉も止むを得ないとしていた。しかし、ソ連側にシリア軍を撤退させる気配が見えなかったことから、過激派は要求から2日後に人質の1人を処刑した。

 これを受けて、ソ連側は交渉を断念し、KGBによる介入が開始される。KGBは事件の背後にイスラム系武装組織ヒズボラがいることを掴み、報復としてヒズボラのリーダーの家族を誘拐した。そして、人質の身体を切断して、過激派に送りつけた。

 その後、KGBはヒズボラのリーダーへ向けて、他の家族の居所も把握しているというメッセージを発信した。それから間もなくして、人質になっていたソ連の外交官3人は無傷のまま解放された。

8. 盗撮による脅迫


 ソ連が共産圏に引き入れようと目論んでいた国の一つがインドネシアである。スカルノ大統領によってインドネシア共産党が勢力を拡大していたため、ソ連はインドネシアを同地域の同盟国にしようとしたのだ。しかし、インドネシアが裏切らないように手を打つ必要があった。そこでKGBはスカルノ大統領の弱みを握ろうと画策した。

 スカルノ大統領は女好きなことで有名で、KGBはそこにつけ入ろうとした。そして、映画『オースティン・パワーズ』ばりの作戦を決行する。スカルノ大統領がモスクワを訪問した際、KGBは彼が好きそうな若い女性をスチュワーデスとして飛行機に乗せ、大統領の気を引いた。トドメに滞在中のホテルの部屋へと彼女たちを送り込んだ。

 スカルノ大統領は甘い罠にまんまと嵌り、その乱交現場がビデオに収められた。しかし、事はKGBの思惑通りには進まなかった。KGBが大統領にビデオを送りつけ脅迫すると、彼は意にも介さなかったどころか、コピーをもっとよこせと要求してきたのだ。

7. アメリカの軍事コンピューター400台に不正アクセス


 1980年代、KGBは初期のインターネットARPANETとMILNETを経由して、アメリカの軍事機密を盗み出そうと目論んでいた。その任務についたのが伝説的ハッカーの1人、マルクス・ヘスである。
 
 ヘスは、ドイツのブレーメン大学から遠く離れたアメリカの軍事コンピューターにハッキングを開始した。そこからアメリカ軍が所有する400台のコンピューターに不正アクセスを成功させた。その一部には、ドイツや日本などの駐屯基地に設置されたものや、マサチューセッツ工科大学で研究用に利用されていたもの、あるいはペンタゴン内のコンピューターもあった。

 この広範なハッキングは、ローレンス・バークレー国立研究所で発生したちょっとしたエラーから露呈してしまう。調査に当たったシステム管理者のクリフォード・ストールは、わずか75セントの食い違いを調査しているうちに、何者かが9秒間だけ無賃で不正にコンピューターを使用していた形跡を発見する。さらに調査を進めると、不正アクセスはシステムの欠陥を巧妙に突いた高度な技術を有するハッカーの仕業であることが判明した。

 調査はそれから10ヶ月間行われ、犯人がバージニア州の軍需企業にアクセスしようとたとき、ついにその尻尾を掴んだ。ストールはその行動をすべて記録し、謎のハッカーが全米の軍事基地に不正アクセスし、軍事機密や核兵器のファイルを漁っていることを突き止めた。

 通報を受けた当局は、ローレンス・バークレー国立研究所に米軍との共同研究を装った偽の部署を作り上げ、犯人の身元特定を急いだ。犯人は餌に食らいつき、西ドイツ、ハノーファーに潜んでいることが特定された。

 アメリカから連絡を受けた西ドイツの当局は、ヘスの隠れ家に踏み込み、ようやく身柄の拘束に成功した。自分たちの国にアメリカの軍事機密をソ連に売り渡している人物がいるなど、夢にも思わなかったようだ。ヘスは3年の懲役刑を言い渡されるが、保護観察付きで早期に釈放されている。

6. 史上最大の監視ミッション、RYAN作戦


 1980年代、冷戦は再び緊張の度合いを増し始めた。当時のソ連最高指導者レオニード・ブレジネフがアメリカは戦争準備を進めており、核兵器による奇襲作戦を実施する可能性があると主張したのだ。対するソ連は、KGBにRYAN作戦という、史上最大の監視ミッションを命令した。

 RYAN作戦の目的は、アメリカからの核攻撃を早期に察知することだ。そのためにソ連の人工衛星COSMOSが利用されることになった。KGBの狙いは、アメリカの軍事基地を24時間監視し、核兵器が発射される気配があればすぐに本国に知らせることだ。

 作戦ではアメリカ国内にある全レーダーが監視されていた。アメリカ市民の行動や国外に出る米軍兵も監視された。さらにNATOも監視対象とされ、アメリカとヨーロッパ間の電話も傍受されていた。

 遠隔からの監視に加えて、有事の際には直ちに行動に移れるようにとスパイ網も形成された。だが、この大掛かりな作戦は莫大なコストがかさみ、作戦開始からわずか3年後の1984年に縮小されることになった。

5. アメリカの銀行を買収


 KGBがアメリカ政府の機密入手にスパイを利用していなかったとき、彼らは銀行を利用しようとしていた。

 1970年代中頃、KGBが目論んだのは、北カリフォルニアの銀行3行を買収して、同地域のハイテク企業の機密を入手することだった。銀行はハイテク企業に融資実績があるものが選ばれた。こうしたハイテク企業の多くはアメリカ軍とも提携しており、あわよくば機密軍事技術を入手できればと企図されたのだ。

 KGBは手始めに、シンガポール出身のビジネスマン、アモス・ドーと手を結び、銀行の買収工作を仕掛けることにした。しかし、買収はCIAによって察知されてしまう。敗因は、ドーの資金がソ連系銀行から流れていることをCIAに感づかれたことだ。

4.アメリカの人種差別に便乗した PANDORA作戦


 1960年代、アメリカでは大きな人種問題を抱えていた。市民権運動で人種暴動が発生し、国中が社会的混乱に陥っていたのだ。KGBはこれを利用して、アメリカの弱体化を図ることにした。

 PANDORA作戦と命名された計画ではまず、ユダヤ系右翼組織ユダヤ防衛同盟のものに見せかけた偽パンフレットが配布された。KGBが作成したパンフレットには、ニューヨークで黒人がユダヤ人を襲ったり、ユダヤ人が経営する店舗から略奪したりしていると喧伝されており、「黒いヤツら」と戦おうと読者に呼びかけていた。

 同時に、ユダヤ防衛同盟が黒人を襲っているという偽の手紙も黒人系過激派組織に送られている。手紙にはユダヤ人に報復せよと記載されていた。

 1年後、ユダヤ防衛同盟のリーダー、メイル・カハネが暗殺された。だが、犯人は黒人系過激派組織とは関係なさそうなアラブ人男性であった。

3. ヨシップ・ブロズ・チトー暗殺計画


ユーゴスラビアのリーダー、ヨシップ・ブロズ・チトー自身は共産主義者だったが、不思議なほどにソ連、とりわけスターリンからの怒りを買っている。ユーゴスラビアの独立を実現するために、アメリカともソ連とも距離を置いたことが原因であるようだ。
 
 こうしてスターリンはKGBの前身であるMGBにチトー暗殺を命令した。この任務に就いたのは、かつてスターリンの政敵レフ・トロツキーを暗殺した、ソ連最高のエージェントであった。しかし、チトーは奇跡的に無傷で暗殺を逃れている。

 暗殺に失敗したMGBはさらに狡猾な計画を立案する。特別に開発した致死性の細菌を、チトーが出席する外交会議でばら撒くことにしたのだ。ワクチンを接種していないエージェント以外は全員が死ぬことになる。

 さらに毒ガスを仕込んだ宝石箱も開発した。宝石箱をプレゼントとしてチトーに贈り、開けた瞬間に吹き出す毒ガスによって殺そうというのだ。幸いにも、どちらの毒ガス暗殺計画も実施されることはなかった。結局、チトーはスターリンよりも30年近く長生きし、1980年に87歳で天寿を全うした。

2. ホテルに盗聴専用の階を設置


 冷戦期、KGBの盗聴技術は非常に優れていた。あるホテルなどは一階丸ごとが盗聴マイクによって監視されていた…20年間もだ。

 1970年代、ソ連の衛星国エストニアが観光地として人気を博すようになった。ソ連はこれを経済立て直しのチャンスと見たが、KGBは外国人をスパイするチャンスだと見た。1972年、KGBは国際ビジネスマンがよく宿泊していたホテル・ヴィルの頂上階に高性能盗聴器を仕込んだ。

 ホテルの60室は常時盗聴器され、他の部屋もいつでも盗聴することができた。ホテル・ヴィルは外から見ると22階建てに見えるが、実は23番目の階が極秘に存在したのだ。ここからKGBのエージェントは各部屋の宿泊客を監視することができた。これはソ連が崩壊する1991年まで続けられている。

 これ以外にも、例えば、1945年の行事で子供が駐ソ連アメリカ大使にアメリカの国璽を掘った木製の盾をプレゼントしたが、これには盗聴器が仕込まれていた。このような具合に、KGBはあの手この手で人々の会話を盗み聞きしようとしていた。

1. テロリストに資金援助


 ヤセル・アラファトがパレスチナ解放機構(PLO)の議長に就任すると、彼はKGBと同盟関係を結んだ。以降、KGBはPLOの兵士の訓練や武器の供与を行うようになる。

 この間、PLOは数多くのテロ行為を実施してきた。1969年だけでも世界で82回のハイジャックを繰り返した。これについて、元KGB第一総局長アレクサンドル・サハロフスキーは、ハイジャックを考案したのは自分であると発言している。

 また、KGBはパレスチナ解放人民戦線(PLPF)の資金援助も行った。ちなみに、数々のハイジャックを指揮した元PLPFリーダーのワディ・ハダッドは、KGBのエージェントであったことが判明している。
 
 1972年にはアイルランド共和軍(IRA)に対しても大量の武器を供与していた。ソ連とKGBがIRAに目をつけた理由の一つは、彼らがマルクス主義的な側面を有するようになっていたため、アイルランドを共産圏に組み込もうと目論んだからである。

via:listverse

 ちなみにこれはKGB職員時代のプーチンである


 KGB時代、プーチンは観光客に成りすまし赤の広場で、アメリカの元大統領ロナルド・レーガンのそばに立っていた写真が数年前に公開され話題となった。


 金髪のズラもお似合いのプーチン。でもその鍛えた筋肉はごまかせねぇ


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