村上原基、滋賀県安曇川の山中20年⇒麓の町の田中に一人暮らし人生

山中で20年一人暮し後71歳から麓の田舎町で暮している、断捨離し自然な生き様と山暮らし体験に基づく人生論及び写真を紹介

453.都会の人は田舎の家の実態を知らなさすぎる

2018-04-20 22:10:01 | 暮らし
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
講演例
  ・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達  ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
いつでも気軽に人生相談にお越し下さい⇒滋賀支所又は京都事務所へ

出来た・出来ます
テーマ:思い込みは怖い、思い込みを直さないのはもっと怖い

都会人は、知ってか知らずか、貧相な家や街に気楽に過ごしている
自分の家が狭いだけでなく、隣家と高密度で接しており、息が詰まる
家が狭く密集している道路も空地が極めて少ない:超過密だ
都会は土地価格が高く、大工の手間賃も高いが、大工のレベルは低い

都会人は、そうは感じていない「良い家に住んでいる」と信じ切っている
「だって3000万円もしたんだから良い家に決まっている」・・・
2千万円の都会の家が、今の私には貧相で、3百万円程度にしか思えない
逆に、田舎の3~6百万円の家が2~4千万円に思える
山暮らし20年+田舎3年と京都で賃貸をやってきた私の感想だ

都会の家は投機や賃貸(儲け)の対象であり、住むには不適切なのだ
自分の家は近くの田舎に、都会には賃貸物件を持つのが最良なのだ
金持ちは良いが、大半の人はスラム街と同程度の家に住む事になる
日本では都会はスラム化し、田舎は安くゆったりという逆転現象
「日本の田舎は限界集落」なんて都会人の勝手な思い込みか逆切れ
か考え違いも甚だしい

都会の人は、物知りのようだが、実は田舎のことを全く知らない

田舎に、もっと仕事があれば、都会より数倍・数10倍豊である
工場・会社・仕事を田舎に移す会社は、これから伸びます
日本の経営者も、頭の固い・小粒な人ばかりのようです

ところで物事の基本で大事なものは何か知っていますか?
物事の基本はバランスであり、バランスが悪いことは危険信号
世界は必ずバランスをとる、バランスがとれなければ不安定
都会と田舎の関係もあらゆる面で著しくバランスを欠いている
田舎が限界集落化し、それでも都会に人が集まるのは異常だ

すごい言い難いことを、大胆に言ってしまいましたが、堪忍
元都会暮らし・現在田舎暮らし人からの暖かい忠告です
本来は都会に住む貴方自身が、考えないといけないことです

最近は自家用車を持てない都会の若者が増えたというが、
都会では物理的・経済的に車を持てなくなっているのだ
駐車場を借りるお金もない、交通網が発達していて車は要らない
田舎は一人一台の車を持っており、数台の駐車場スペースがある
ある意味今や、都会は田舎の犠牲になっていると私は思っている
田舎から観ると都会の暮らしは空しい、都会は自分をすり減らしている

自動車をきちんと利用しているのは都会ではなく、田舎の人なのだ
田舎では時間通り目的地にきちんと着くのだ
都会には自由はない、意外だが、自分が自由に行動できる場がない

豊な都会は物で溢れているが、次々買うので狭い室内は更にゴチャゴチャ
おまけに都会自体も溢れかえってゴチャゴチャだ、気が休まる空間はない
都会では大半の物事が他人任せなのだ、自分で主体的にすることは少ない

滋賀県高島市の人口密度は、
  京都市伏見区の約1/60  東京台東区の1/180
町の人口密度は我が安曇川の60~180倍、人も物も過密(壇蜜ならよいが)
1軒分の敷地に田舎の100倍の人が詰めて暮している、つらいよねー
田舎では旧家では200坪300坪の敷地なんてのは当たり前
私の超安い家でも50坪ある(家全体で350万円でした)
多分都内23区では、10坪20坪でも、なかなか買えないはず

もう少し分かりやすく言うと、やや緩めに見積もっても
安曇川田中竹の里は坪2万円、京都や東京は坪10~20万円
我が家50坪は100万円が京都や東京は坪500~1000万円
京都の人口が減り滋賀県の大津や草津のマンションに引っ越すのが
最近の顕著な傾向だそうだ。

都会では、正規のお客様が家の座敷に上がったり泊まったりしない
お庭を案内することも全くない、「だってないんだから出来ない」
「ベランダがあります」って言うが、幅1mでブラジャー・パンツの花盛り
所謂、物干し場であって、お世辞でも優雅な憩いの場ではない
無論プールも庭園も倉庫も作業場もない、自転車置き場にも困っている

家の中は立体的配置でいかにも効率的なようだが、とにかく超過密
都会では、少子化、子供1人は、狭い家では当前のことだ
家の外も過密で、近くの道路に車がひっきりなしに走りまくる歩道も狭い
安心して歩けやしない、自動車に乗ったら何時間かかることやら分からん
タクシーは料金が高く、乗っても遅いので、ほとんど乗ったことがない

ちなみに我が安曇川は、目的地にいつも定刻に着く、余分の時間は無用
渋滞なんて起きたことがない、事故や火災や盗難や喧嘩も極めて少ない
警察は暇だそうだ、そのため経験が少なく、あまり出世しないのだとか
都会は汚染水と排気ガス吸い放題、田舎は自然水と自然空気吸い放題
外は人人人、必しも歓迎すべき人ではない、出来ればいないほうがよい

日本が素晴らしいのは何故だか知ってますか?
答え:
島国で、外国人が極めて少なく、長く日本人だけで暮してきたから
訪日外国人2000万~3000万人とか・・・・
変な外国人、特に犯罪を犯すアジア人が多い、良いことばかりではない
都会はますます治安が悪くなっている、都会の空き家を民泊に、恐ろしい

最近は外人が煩い・見苦しい・落ち着かない、 安曇川は外人を見かけない
外国人も京都近郊の田舎町のことは、まだ知らないみたい「しめしめ」
安曇川はビックリするぐらい静か、ご近所の人と「自動車いないのかね?」
訪日外人増やすのも良いが、駅や繁華街や観光地の人にはいい迷惑だ
マンション(豪邸)は嘘、集合ボロアパート、隣家の騒音や紫煙が入って来る
ならば安いと思ったら大間違い、田舎の5倍はする、高い固定資産税
高くて・狭くて・住み難くくて・危険で・落ち着かなくて・庭も駐車場もなし・・・
「最悪の家に住んでいる」「わかっているんですか?」

最近問題になっているのは、マンションが古くなり、積立金もなく修理不能
ウサギ小屋ならまだよいほうで、オンボロバラックなのだ
自分の暮らしをトコトン犠牲にして、平然としているのが理解不能
日本人は、自分の暮らしや生き方をかなり犠牲にしても案外平気だ
何故、そこまでつらい思いをして都会に住まないといけないのか?
京都から45分の場所に快適な田舎があるのに、私には理解出来ない
都会でも近郊の田舎から通っている賢い人も案外いるのに

都会では
 ①和風の木の家が持てない
 ②あってもコンクリートの安アパート
 ③あっても狭い家、実に暮らし難い
 ④あっても狭い敷地に2~3階建て、一階は駐車場
 ⑤あっても価格が高い、ローンが大変
 ⑥庭がない、駐車場がない(一階が全て駐車場その上に住む人もいる)
 ⑦玄関も風呂場もトイレも洗面所も狭い。押し入れもほんの僅か
 ⑧大工仕事をする場所がない、物置もない
 ⑨庭でバーベキューも出来ない、敷地内に内と外がない
 ⑩床の間や縁側もない、窓か壁か出口
 ⑪隣の家から騒音やトラブルがひどい、静かに暮らさないといけない
 ⑫煩い・狭苦しい・危険・夜遅くまで騒々しい
 あげていったらきりがない
我が家の安曇川の洗面所、広い、玄関もトイレも台所も広い


お粗末なネズミ小屋に住んで「私、東京に住んでるの」と自慢気に言う
関東・大阪・名古屋・京都・福岡など大都会に住む人、考え直しなさい
「夜も終電まで都心で飲める、いいだろ?」そんなの全然良くない
家に帰っても休まらないから外で無駄金使うのだ
何なんでしょうね?都会という将軍様にひれ伏す都会暮らしの人達

京都や大阪でよくみるのが敷地が狭くその上にひょろ高い3階の家が建っている
しかも隣家とのすき間はごく僅か。大地震では大きくぶつかり倒壊する
都会の中高層の建物も隣とのすき間が僅かなのが多いが2~3m揺れると
互いに激しくぶつかり倒壊するそうだが、そんなのは田舎にはありえない
田舎には高層という概念自体が存在しない、山があるから、それでよい
家が隣の家に接近して過密に建てられていることも都市災害を大きくする
地震の被害を大きくするのは津波と火災だということが実証されている
また過密ということは避難場所の余裕がないことにもなる
もっと余裕を持つべきで、だからいち早く都会を逃げるべきなのだ

一言で言えば都会は不自然・異常・不安全な場所である

幸いにも大都会で巨大災害は起きていないが、もし都会で大災害が起きると
 ・被害は想像以上に巨大になる
 ・復興に膨大な時間がかかる
 ・なかなか自分の家の復旧が出来ない
 ・仮設住宅などが間に合わない
 ・余裕の金がない、国家財政破綻に拍車をかける
 ・救護・消防・医療体制も不足
 ・企業活動が停滞する
田舎で巨大災害が起こっても日本全体としての影響はほとんどない
大都会の場合はどうにもならない、被災者を受け入れる場所もほとんどない

東京から大阪更に京都そして滋賀の山奥で今は田舎町に移り住んだ私に言わすと
 ・田舎と大都会は正反対
 ・田舎暮らしをいなかっぺと思うか都会暮らしが悲惨で可哀そうと思うか
 ・都会で不満があるのに田舎に移らない都会人
 ・何かを得るために、あるものを失う覚悟がない
 ・何が重要で何が重要でないかが分かっていない
 ・何しろ頭が固い、馬鹿みたいに都会を祭り上げる
 ・意外にだらしない・弱い・小さい・ふんぎりが悪い
 ・自分独自の人生観がない、見栄をはっているつもり
 ・孤独に耐えられない、寂しがりや
 ・何もない退屈な暮らしに耐えられない
 ・人生に一度くらい大きな断捨離をしようと思わない
皆とは言わないが、私のような老人がわざわざ都会に住む必要はない
「大病院が近くにないと困る」なんてのは、この際、考え直すことだ

正反対の暮らしに飛び込む勇気がない、不安で、考えたくもない
東京から大阪更に京都は関東から関西に、近代都市から古都程度
そして滋賀の山奥から今は田舎町に移り住んで、住む場所の断捨離
今思えば上手いこと、徐々に山暮らしへの道へ導かれて行った私
でさえ、広い庭がある広い家に安く住めることを知ったのは
田舎暮らしをして70歳の頃だからあまり都会人のこと言えないが
一般的に都会に住む人はそんなことは全く知らないのだと思う

東京の賃貸ワンルームマンションをネットで見ていたら、すごくびっくり
月4万円の場合、ひどく狭く風呂もない、とても住めないようなもの
 まず東京の場合、都心では月4万円なんてのが、あまりない
京都だったら市内でもそこそこ快適に一人暮らし出来る物件があるのに

月4万円年50万円の賃貸とすると、安曇川では6年で中古の家が買える
東京で月6・5万円だったら年80万円として、たった4年で買えてしまう
のんびりと、人口減少町村の田舎で暮してみたら案外素晴らしいですよ
人口減少の田舎町は、静かでドライブやサイクリングも快適
道路で二人で何かしていてもひかれることもないほど空いている
ネットで”人口減少町村 田舎暮し”で検索してみよう

私の場合、最近まで、京都に3軒安曇川に2軒の家を持っていたが
全部足しても2500万円、東京だったら狭い家一軒分程度のものだ
当時京都で2軒を賃貸していたが安いと言っても
 年72万円実質60万円くらいの収入があった
でもさすがワンルームマンションはボロで維持が困難で早めに手放した
ところが、なぜか
京都のこんなボロマンションも値上がりしていて高く売れたのには驚いた

京都で、かつて、どういうことが起きていたかというと
東京の人が京都の安い物件を買って賃貸し収入をあげている
資金の少ない東京の人が京都で堅実に家賃収入を得ている

安曇川~京都まで45分この時間を書斎や動画を観る時間とすれば
動く書斎と思えばよいのだ、JRもそういう通勤列車を考えればと思う
京都に家を持つより通勤しても安曇川に広い家を持つほうがずーと良い
浮いたお金を資金に京都の安い物件を賃貸すると別途収入も得られる
私が昨年までやっていた手法の一つである(※昨年2軒高値で売却済み)

金稼ぐのは都会だと短絡的に信じこまず、都会に近い田舎から通勤して
より多い収入を得ることもできるという事実を知るべきである
ちなみに安曇川駅から自動車で5分の正しく閑静な我が家は
敷地152㎡(家62㎡ 前庭は60㎡ 他30㎡) 33年中古木造平屋

もし京都で同じ家を買うと2350万円はするが安曇川の6倍以上する
2350万円を頭金350万円の20年ローンにすると月8万円程度の返済
安曇川であれば頭金350万円だけで買えてしまうのでローンは無用
賃貸で月8万円なんて場合、安曇川で家を買えばローンなしで終わり

また観方を変えると京都で(65~90歳)夫婦2人で月6万円の家を借りるより
安曇川で広い一軒家を買うと中古で350万円、月当たりの負担は約2万円
または京都の家を2000万円で処分すれば、
 1500万円程度の資産が新たに浮く計算だ、これって、凄くない?
ということで、
70歳で少し頭の良い人は、安曇川みたいな京都近郊の田舎に住む

都会の全てを今すぐに処分し都会暮らしを棄てなされ。  かーつ
なにしろ都会人は近郊の田舎のことを分かってない
ところで
安曇川に来れば困った時は、私が人生相談にも乗りますぞ
晩年の人生をいかに生きるべきか?を真剣に追求し直してみて下さい

安曇川田中の350万円で購入した我が家


同じく安曇川長尾の山のログハウス(私の描いた絵です)


裏庭の大木が倒れる危険があり大枝を伐採した


屋根の端にテレビのアンテナがあり、昨年の風で倒れ掛かっていたので
除去しようとしたがなかなか苦戦している、山では、何でも自分でしないといけない

コメント
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452.都会を脱出し山奥で暮そう

2018-04-07 20:29:18 | 暮らし
指導や講演を依頼出来ます    村上原基 
講演例
  ・自分の人生論 ・山暮らし ・会話上達  ・素人大工  ・老後の暮らし ・自主防災 ・資産運用 ・

   滋賀事務所: 滋賀県高島市安曇川町田中(通称:竹の里)     
村上原基人生勉強会
台東区立育英小学校⇒台東中学校⇒都立白鴎高校⇒東工大⇒大阪松下電器⇒京都エンゼル工業⇒
    ローム⇒テクノ経営⇒関西ISOシニアコンサルタントネットワーク創業⇒人生勉強会創設
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出来た・出来ます
テーマ:都会を脱出し山奥で暮そう

山暮らし20年続けた私にとって、都会は、今や地獄か牢獄にしか見えない
そんな私の「都会は素晴らしくない論」だが当然のこと、他人には受け入れられない
しかし、少なくとも私は今、都会で自分の人生論を豊にする自信は全くない
時々京都の我が家に行くが、都会人は、私のそんな気持ちを全く知るよしもない
都会の人は「都会こそもっとも素晴らしい住処」と全く疑いの念を持たない
都会人は今や「田舎に住む経験もなく、都会に住むのが当前」と認識している
その都会人が私とは別世界の人のような、はたして人なのかと疑いさえする
表現が適切ではないが、都会人が「ゾンビ」のように怪し気に見えることも多い

私はかつて松下電器で10年目に、この会社は駄目とあっさり辞職してしまった
それは私は35歳、今から40年前松下電器が最盛期のことであった
親も周辺の人々も呆れていた、「阿保か」「何考えているんだ」「世間知らず」・・・・
  その20年後以降、私のこの判断は正しかったとホットしている
同様に、都会についても、駄目を出し、そして私は60歳で都会を見捨ててしまった
 (三大都市圏への人口集中が60%近く、特に関東圏への過度な集中の流れを
   道州制などで何とか止めるべきだ)
  大災害発生時のことを考えて、早めに高齢者だけでも田舎に誘導すべきだ
  今後、私の判断は正しかったとなる恐れがあるが、早く都会を見捨てて欲しい

0~55年住んでいた都会が何故そんな悲惨な場所に変わり果ててしまったのか?
少なくとも私には「都会はもう限界だ」「限界は田舎の小集落ではなく、大都会だ」
都会人の思惑に関係なく、都会はどんどんひどくなり、かつ脱出する行先もない
東京に24、大阪4、京都27、すなわち都会に55年、滋賀(山と田舎)20年
もし危うくこの20年を都会で住み続けていたならば、碌な人生ではなかったろう
偶然とは言え、55歳で脱出先を見つけた私ほどの幸運者はいないと思っている
私に言わせれば、都会に住み続ける人は、何も得ずに一生を終える恐れもある

都会の高層ビル化はますます辞退を悪化させつつある、都会崩壊の予兆だ
不自然に異常に高い・大きい・速いものを作るのは、末期症状に近づいている
そんなにリスクを犯してまで無理をするのか?(第二次大戦突入の日本を思い出す)
田舎や山をどうするか以上に、せめてもっと都会にブレーキ・制限を課すべきなのだ
都会は
高層ビル・コンクリート化・巨大交通網・膨大な人・巨大汚染・巨大災害のリスクを増している
順調のうちはよいが、大変化や大災害が起きるととんでもない事態になるが平然としている
マンモスや恐竜が短期間に滅んだことを教訓にしなければならない
 (もっと住みやすい魅力的な自然豊かな山や田舎モデルを作るべきだろう)

原点・基本は人生論にある、人としての原則や基本を都会人は忘れている
ちなみに人生論は、なかなか良い師匠との出会いや学ぶ環境が整っていない
誰から教えてもらうかは大事であり、必要な人生論を深く理解しないといけない
立派な人から人生論を聴かされるほどひどく楽しいことはないのだが
友人や先輩の多くが中途半端の偽者であって、本物の人は、ほとんど存在しない
私の場合は、引っ越しや転職や山暮らしの自然体験から人生論を少しづつだが蓄えて来た

元々、私は頭は悪い、人付き合いは下手、知識も乏しく、一人で篭りがちのタイプだったが
読書や講演を聴き、禅僧や偉人からも細々と人世論を長く学び続けて来た
世間では友人は宝だと言うが、さほどの友人もいなかったし、私はそうは思っていない
友人などというものは、さほど重要なことを与えてくれるものではないと思っている
友人とは何なのか未だに私にははっきりさせていないが、私が欲しいのはよき師である

むしろ、自然や異文化体験や古人から重要な教えを得るほうが大切だと考えている
人は堕落しているので師としては不適格であり、自然や古人に学ぶほうがずーっと良い

人のタイプは例えば”知者と仁者”の二つに分けられると言われている
つまらん分類より、自分は、どういう人間的な存在であるかを云々したいものだ
周囲の先輩や友人も、必しも程度の高い人ではないし、本物の知者・仁者もいない
自分と同等程度の友人が多いから、友人がいないと真剣に悔やむ必要もない
友人がいないのならば、それで良しとし本を読み、自分自身で考えるほうがずーと良い
くだらん友人とつまらん議論をするくらいならば、そんな縁は、さっさと断ち切るべきだ
貴方にとって付き合うほどのレベルの人が周辺にいないのだ。それだったら
いっそ私のように山奥で暮らしたり古人に学ぶほうが真の出合いが訪れるはずだ

間違いやすいのは、物や情報や人で溢れる都会にいるほうが何もない山に暮らすより
数倍早くかつ素晴らしい人生論を構築・人間完成できると思い違いしている

ところで少し脱線
65歳以降の私は全く旅行をしなくなった、老いたからかもしれないが
あちこち旅行し知識や見聞を広めるのは少年や若者のすること
旅行は、老人の私の人間的成長に貢献せず、むしろ無駄でしかない
それよりも老い先短い私にとっては、一か所にじっと静かに暮らして
自然と深く交わり自分を静かに見つめることで、仁者としての成長を選ぶべきだ
・旅行好きな人は多く知っているが、単なる物見遊山や買い物ツアー的だ
 知者とは到底言えず、本等からの知識は死に知恵・ゴミ知恵になりがち
・多くの本を読み難しいことを言う人を多く知っているが、単なる頭でっかちだ
 仁者とは到底言えず、俄か知者が単に仁者を装っているだけのこと

●参考までに(インターネットから抜粋):仁者と知者について、孔子がいう
・仁者は心に私欲がないので、まず自分の行いがたい義務をやり遂げて、
 利益を考えることを後回しにする。このようであれば仁者ということができる
 仁者は道理の上に安住してその心は山に或る
・知者は事物の道理に通じてその心は水の流れて滞ることのないように動くから、
 その好む所は水に在る。
それゆえに、知者は常に快活であるが、仁者は静かに生きるので寿命を長らえる
知者は物に渋滞することがなくて心が活動し、仁者は内からも外からも物に煩わされる .
知者と仁者が合わさると理想的かもしれないが、まあ無理なことのようだ●

知者と仁者の話を出したのは、私も、かつてこんなことを考えたことがなかった
やれ優しいとか真面目とか明るいとか我慢強いとかそんな俗な分類は本質的でない
相手を選ぶような状況では、「仁者だから選んだ」みたいなことを思うべきだ
こういう人間の基本的な分類を当てはめて厳しく自分を分析する必要がある

やや大胆な分類で恐縮だが
 ・都会人はどちらかというと知者の集まり、頭でっかち
   都会人は箱物・店・飲食・人・交通などしかも新しいものがないと耐えられない
   何もないところでのんびり出来ない、落ち着きがない
 ・山や田舎の人は、どちらかというと仁者の集まり、ごく自然な生き方
   田舎人は山と川と自然さえあればよい
私の体験から山暮らしを勧めているが、その効果をうまく伝えるのは至難だ

多分イエスも釈迦も孔子でさえも弟子を育てるのが最も難しかったことだろう
想像に過ぎないが、イエスも釈迦も孔子のような偉い人でも
後世に伝えられずに、無名のまま死んだ偉人も多くいただろうが、しかし
キリスト教も仏教も多くの人に伝わったが、世界が平和になっただろうか?
当時は伝わったとしても時代とともに廃れていくなり、歪曲されて行く
禅でも言う、不立文字教外別伝、文字を読めばわかるようなものではないのだ

私も子供や部下の教育が苦手だった、自分の思いを下に伝えるのは至難だ
伝わっているようで全く伝わっていないものだ
生まれてずーっと都会暮らしをして、都会の狭い小屋に篭って老いて行く
私は多くの人が山暮らしや田舎暮らしをすることを、すっかり諦めている
しばしば勧めても、前向きに反応する人が全くいない
山暮らしや田舎暮らしを人生論を高める大事な方法手段とは考えていない
「あまりに素晴らしいことほど他人には伝わり難い」とつくづく思う
世の中そんな程度のものだから、自分だけがあれこれ深刻に悩むことはない

例えばラーメンやグルメやお菓子やお洒落、ゴルフや野球や歌など
どうでもいいことは、多くの人に反応され、いとも簡単に伝わって行く
絵や美術工芸品などは案外、そこそこ後世に伝わっていく
あっという間に伝わるようなことは実は、どうでもよいくだらんことが多い
すごい人気のあることは、私は、実はくだらんことなのだと思っている

景気が良いとか株価が上がったなんてこともくだらんことなのだ
人が関心を示すことなんか、格別大事な事でも何でもないものだ
オリンピックで金メダルなんてのも、実にくだらない、典型である
国民栄誉賞を与えるなんて、政治家の程度の低さを世界に表明するだけだ
金メダルをとった本人も「なぜ国民栄誉賞なんだ」と戸惑っているに違いない
そんな賞を採った人から、私は何も学ぼうとはしないし、全く関心がない
人の考えることや、やることほど、つまらんことはない、最近の私は感動さえしない

心地良いこと・便利・享楽・物質的豊かさなどは人間を堕落する元
こういうものは雑草のように心に蔓延り、抜かずに放置するので生え放題になる
そんなものを次々に追い求める現代人は、どんどん堕落するばかり
現代の中途半端な有識者や宗教家は堕落している自分を自覚し悔いてない
都会で泥まみれ糞まみれの有識者や宗教家の言う事なんか何も信じない
大臣・政治家・先生・経営者・先輩・有識者皆100%信じられる存在ではない

今の自分を大きく変えるような本来望ましいことは、とびきり無理、難しい
安易なことには、人はすぐに飛びつく、難しいことは何だかんだと避ける
イエスも釈迦も孔子も自分だけ成長していることは気がひけただろう

仏陀や孔子レベルの人が身近に沢山いるなんてことはあり得ない
宝くじが当たる確率より低く、ごく稀に仏陀や孔子並みの人がいるだけ
キリストや仏陀や孔子が多くの完璧な弟子達に囲まれたということではない
貴方の周囲にもそんな立派な人がウヨウヨいるわけがないのだ
貴方の友人が何人いようと、いかに好きだろうと、本物の仁者でも知者でもない

もしより良き人生論を手に入れようとすれば、相応の心構えや覚悟が必要である

 ・孤独、独りぼっちは当たり前、寂しくはないし、何も問題ではない
 ・俗世間など相手にする必要もなく、友人がいなくても、さほど問題にしない
 ・孤独は悪くもないし、悲しくも寂しくもなく、むしろ充実している
 ・苦しみや悩みに打ち負かされず、喜びや励みにする
 ・暇ではないし、追われるほどの多忙にも陥らない
 ・他人と係わることが大事と言われているが、煩わしければさほど必要はない
 ・真剣に自分の人生論を磨かく日々
 ・人生論を磨くことだけにひたすら集中し努力する
 ・・・・・・・

人がやっていることは、大したことではなく、一時の享楽であることが多い
享楽的な暮らし・生き方から遠ざからなければ永遠に人生論には出会えない
ごくごく一部の僅かな人が、崇高なものと出会い、素晴らしい人生を体現する
・そういうごく一部の人が享受している格別なことは他に伝わり難い
・いくらテレビや雑誌や講演会や教育しても良いことほど伝わってない
・それは例え親子でも親友でも上司部下でも伝わらない

昔から日本では弟子に教えない、師のやっていることを盗めという
教えるから伝わらないという、一見逆説的な日本的教育方法なのだ
盗めないような程度の人間には素晴らしい人生論が身につくはずもない
素晴らしいことは教えない、教わりたい人間は必死に盗めということ
例えば腰痛を直すのは多分簡単なのだが、現実に真剣に腰痛にならないように
行動している人が少ない、普通の人には良いことが続けられないのだ

良いことほど人は続けられないのだが、続かない人に必死に教える愚かさ
私は60歳以降自分の子供にさえ、親の考えを伝える愚かさを悟った
日本では昔から弟子には手取り足取り教えなかったものらしい
弟子がそれこそ死ぬ覚悟で学ぼうとしたら、少しは目をかけてやる程度だ
私のように山に入って20年、そんな中で自分自身で学び取るものなのだ
山暮らしとか自然という師は、何も教えてはくれない、学び取るしかない
人や都会暮らしから一生懸命学んでも、俗ぽく、人世論を高めてはくれない

「自分がやっていることで素晴らしいと思うことがあれば」誰かに勧めてみなさい
多分相手の人は「そんなに良いことならば私もやってみる」とは言わない
良いことはポスターや張り紙で訴えても一向に良くなることはないものだが
ポスターや張り紙がやたらに貼ってあり、〇〇大会とか〇〇教育などと
賑やかな会社がある、そんな会社が良い会社と勘違いしている会社は多い

張り紙するのも良いが、他人向けはやめ、自分向けにするべきだと思う
貴方が良き師にも出会わず、漫然と、都会で自堕落な暮らしを続けて居れば、
腰痛が良くならないのと同様に、貴方の人生も決して良くはならない

そこで私も山暮らしの素晴らしい体験と結果をブログに掲載はして来たが
しつこく教えようなんてことは止めた、無駄なことを一生懸命やる愚かさに気づいた
「こんな良いことだから、さぞかし人々は気付くだろう」は単なる幻想に過ぎない
タバコを吸う人に、昔はさんざ禁煙を忠告したものだが、20年前から止めた
親や上司も同じような幻想を抱く愚か者・出来損ない、無駄骨折り者達よ

学校教育なんてのも、かろうじて進学テストという魔やかしによって
あたかもきちんと伝わっているような錯覚をしているだけなのだ
よくよく吟味してみると、あまり大したことは伝わていない、
非常に重要なことは学校教育程度のことでは、到底伝わるもんではない
学校教育の限界である、実は、学校教育は先生もシステムも限界教育なのだ

後進国に比較すれば、常識がない・読み書き計算出来ない人は少ない
そして、日本は学校教育によって経済発展して来たと信じられている
でも、多分それは違う、単なる勘違いに過ぎない
戦後の貧しさ、周囲の状況、日本の経済発展の勢いが経済発展をさせたのだ
そんなことを安易に信じていると、今に手痛い反撃に遭うだろう
元々高い教育レベルや日本人の勤勉性や真面目さや協調が主な理由だ
学校教育の貢献度は低く、日本の押し着せのテスト中心の学校教育はひどい
教育というのはもっと多様で教わる側の主体性が大事でかつ体験的であるべき

私の過去を振り返っても、学校教育自体の貢献は、読み書きや常識程度のもの
現代ではテレビやネットがあれば教育だけならば学校の必要はない
よく日本の品質管理、QC活動が日本の品質を上げたというがこれも嘘だろう
日本では、何かそれらしいものを勝手に理由付けにしてしまう傾向がある
何かというと「日本独自の〇〇」とやたらと誇示したがる

時代とともに物事の価値も減っているのに、減らさないよう無駄な努力をする
例えば文化財なども、保存に膨大なお金がかかる一方、観られない使われない
私も文化財や絵画などを観ようとも思わず、実際に観に行くことも全くない
わざわざ県や市が書画骨董を収集するが税金の無駄使い、実に愚かしいことだ
文化財もそろそろ考え直す時期だが、学校教育も大きな曲がり角なのだ
文化財も今の1/10に断捨離して、大半を民間に売却すべきだろうと考えている
日本の過去の学校教育はむしろ多くの弊害がある、副作用が大きい
都会人は幻想にはまり込んでいく、やがてその幻想から抜け出せなくなる

やや無理はあるが、都会暮らしもそろそろ大きな曲がり角に来ていると
真剣に見直す時期が来ている、単に限界集落対策どころではない
 ・技術革新
 ・新しい価値・現代人が求めるもの
 ・社会構造の変化
 ・個性的生き方
 ・環境の選択
 ・巨大災害リスク
 ・将来的に人口減少

そのような変化の時代に都会より田舎や山を選択する時期が来ると私は確信する

なぜ大都会が超過密で災害にも弱いとわかっていながら更に集まるのだろうか?
「都会は素晴らしいものを沢山与えてくれているだろうか?」多分そうではない
都会人の幻想から抜け出すには。私は強く思う「山暮らしを是非やって欲しい」
世界に冠たる山国日本を忘れてはいませんか?古人は多く山に篭ったものだ

都会が暮らすにふさわしい場所だと思うのも、ほんの束の間かもしれない
北朝鮮が核放棄をするように、都会人に都会を放棄させて欲しいものだ
「北朝鮮の金将軍様を観て、私がふり直せ」と言いたい、異常な姿は直さなければ
よくよく考えて欲しい、物事は時の流れとともに変わるもの・変えるべきものなのだ
というより、基本原点にいつも戻れと言うことなのだが

例はよくないかもしれないが、
お金は大事だ、お金がないと生活に困ってしまう。
しかし、そのお金を増やすことが目的になって必死に追い求めるようになる
お金は手段でなく目的になってしまうのだ
同様に都会に住むことは、単なる手段の一つであるはずが、目的化している
目的化すると、思考の自由度を失い、正しい選択が出来なくなってしまう

現代は錯覚・幻想・思い込み・便利さ偏重・楽追求、そういうものが
更にただでも異常なものを、更なる大きく複雑な異常さへと追いつめている
断捨離は難しい、でもやらなければならないのだが
それが都会暮らしの人にはなかなか出来ないと決めつけることも危ない

最近こんな話があった
・A:私は東京から大阪そして京都更に滋賀の山の中と変わって、
  今は滋賀の田舎町に暮らしている。私はもう大都会には戻れない
・B:ある人が福井から京都そして今東京に変わって
  今は東京がすごい気に入っていてそのまま住み続けたいそうだ
すなわち、どこで生まれ、その後どこへ移り住んだかは、単に”どこからどこへ”
では済まされない、180度人生論が違ってしまう可能性もあるようだ


更に、この話を少し考えてみよう
1.人によって考え方は180°違うということ(東京は良い/東京は最悪)
2.私Aのように大都会から限界集落に移り住む人は少ない
3.Bさんのように地方から都会に出て田舎に戻らない(戻れない)人は非常に多い
4.そして東京などの大都会の楽しさにどっぷりはまってしまう
5.私は逆にその東京的なものに対する嫌気がどんどん増して行った
  都会は良いのではない、良さそうに見えるだけなのだ、
  都会は嘘誤魔化し、幻想・蜃気楼に過ぎない、山にはそんなものはない
6.地方から都会に出ることは理解はできるが私としては逆だと思う
.地方から都会に出る人は、都会暮らしの劣悪さや怖さを認識しない
8.劣悪さや怖さより便利さや楽しさに目を奪われて抜けだせなくなる
  その結果都会に人が集中してしまう
9.人は、田舎という不便で刺激もなく面白くない場所に戻ろうとはしない
10.私としては大都会から山や田舎に移る人が増えて欲しい
11.政治家が地方再生のために田舎に都会を持ち込むはずだが、大きな間違いだ
12.田舎を観光客目当てにいじらず、田舎は田舎らしくを維持して欲しい
 ・赤ん坊としてどこで生まれ育ったかは、まず重要だ(出発点)
 ・その後正反対の場所に移り住んだかが次に重要だ(変革)
 ・その結果、新しい土地に馴染むか、元の土地に戻るかが鍵だ(評価)
 ・どこに戻ったか、都会か田舎や山かが結果的に重要だ(結論)
これは住む場所についてだけのことではない。何についても応用できるから
やってみることだ、必ず自分の生き方を深く考え良い結果に導いてくれるだろう

ところで言いにくいが、Bさんのケースは私的には実は不幸なケースなのだ
何もない所に生まれて、東京のように世界一何でもある所に移り住むと
無・空・捨どころか抑えられていた欲望が一挙に爆発してしまう
それに対して私は、
何でもある東京から何もない山に移り住んだが、その差はお分かりだろう
東京に生まれてよかったと思っている。そして関西に単身赴任してよかった
20年の歳月によって、あれこれ実に淡々と捨てられたのだから

実は、AとB以外にもう一タイプあるUターンというやつです
C:田舎生れで東京に出て、最後に田舎にUターンする人もかなりいる
だけどこのCタイプの人がはたしてどうなるかは私にもよく分からない
Aタイプの私は、さんざ都会で暮らした後に山奥にたどり着いたが
Cタイプの人は、
C1:大都会で長く暮らしたが絶望し、田舎にもどる人
C2:大都会の暮らしに耐えられなかった人で、かなり多い
それでは、単に田舎に逃げ帰っただけのことで人生論的には不完全だ
何事も一度暮らし始めたら、すぐに逃げてしまうのは私としては駄目だと思う
だから、山奥に高齢になるまで住んでいるご老人は尊敬に値する

田舎から東京に出てきて、出世して大金持ちになり大きな家や高級車を持つ
それがその人の人生論なのだろうが、そんな人は世界に沢山いるが、
私はそんな人生が素晴らしなどと微塵も思わない今日である
イチローや松井選手をはじめ、所謂成功物語を人生論の中核に据えてはならない
そんな人間は、その程度と考えて勝手にやらせ・威張らせておけばよいのだ
世の中競技や金儲けには必ず何人か成功者が出るので、彼らが素晴らしいのではない
宝くじもなかなか当たらないが、当選者は誰か100%必ず存在するようなものだ

「一生何も変わらずに生まれた状態のままだった」という人もあろうが
一度も会社を転職をしなかった人も同様であるが
そのような人生論は非常に浅く、起伏のない、つまらんものになる恐れがある

圧倒的に都会派が多いので田舎も都会的になっていくのだろうが、残念だ
都会と言うところは、私の実感であるが、退廃的・自堕落にする風呂みたいなもの
自然以外なにもない山奥では退廃的・自堕落にする風呂はない

限界なのは、むしろ大都会、それを田舎に導入するのはわざわざ悪くするようなもの
例の賭博場を作るという話も退廃的・自堕落を増やすだけのことだ
都会とはそういうものだが、砂糖に群がる蟻みたいに人は都会に密集していく
人間は便利さ・楽・贅沢を求めバカ殿様や金持ちのバカ息子のようになっていく
しかしそんなものを幾ら手に入れたところで、人間は成長するどころか衰退していく

私が、若くて元気だったら、本格的な山奥に入り静かに暮らしてみたかった
ざんねーん


都会は庭のない家が多くピント来ないかもしれないが、田舎では庭や空き地がある
ところがアジサイなどは、買って来た時は小さいが、庭植えし数年する巨大化する
近所の玄関横の庭にアジサイが巨大化していた。抜こうとトライしたが2時間かかった
コメント
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