ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

南無阿弥陀仏

2010年10月27日 | 世界とわたし
被爆ピアノコンサートでお出会いした、浄土真宗のお坊さん、ニューヨーク本願寺の中垣住職が書かれた本を読んでいる。

仏教というものを改めて、いや、本当のところはなにも学んでいなかったような気がして、我ながらに驚いている。

本の中から抜粋したい文章がいっぱいあるのだけれど、同時多発テロを経験された住職の、仏教徒としての思いの中に、ナモアミダブのいう言葉がいかに大きな存在であるかという話があり、それがとてもすばらしいと思ったので、ぜひここで紹介したいと思う。

あのテロが起こってから二日後に、すでに町のあちこちで、反戦運動が起こり始めていた。
マンハッタンに在住するあらゆる宗教家が集まり、怒り、恨みを超えて、慈悲の心を実践すべく、それにはどのように行動していけばいいかの話し合いがもたれていた。
けれども目の前で起こったことは誰の心をも揺るがし、皆それぞれに混乱し、動揺していた。
中垣住職もその中のひとりだった。

その混乱の中、彼が見いだしたことがこのように書かれている。

『浄土真宗の教えは『南無阿弥陀仏』に尽きるのですが、この南無阿弥陀仏という『言葉がある』ということを本当にありがたく思いました。
混乱している場合は、静かに座っていても、心がなかなか落ち着かないものです。
言葉があるということは、そこに還るようにすればいい、ということになります。
ナモアミダブという言葉は仏さまが選び取られた言葉です。
私が自分で考えるまでもなく、そこに言葉が選ばれているのです。
ナモあるいはナム(南無)とは帰依する、たのみにするということで、安住の場所に身をよせるという感じでしょうか。何にナモするかというと、アミダ(阿弥陀)たる仏さまにナモするのです。
アミダとは無量寿・無量光と訳され、量り知れない命(アミターユス)と量り知れない光(アミターバ)という二つの言葉がひとつになっているのです。
このアミターユスが慈悲の心を表し、アミターバが智慧の心を表しているのです。
仏はブッダのことで、目覚めた者、真理を悟った者ということです。
南無阿弥陀仏は感じて書いてあるので、何となく日本語のような気がしますが、実はサンスクリット語であり、その音を取って、漢字を当てはめた言葉ですので、今であればカタカナを使うことになる言葉です。ナモアミアブです。

詳しいことはさておき、その当時に私に聞こえてきた念仏とは、「周りのものに踊らされるのではなく、智慧の目で見ていきなさい(アミターバ)、憎しみ・恨みの心ではなく、慈悲の心を忘れてはいけません(アミターユス)、このことに目覚めつつ(ブッダ)、あなたの中心としていけばいいのです(ナモ)」というものでした。
この言葉によって、私の腹は据わった感じになりました。
それまでは、これから何が起こるのだろうかと不安な気持ちが先に立っていたのですが、「この先、何が起ころうと、智慧と慈悲をもって対処していこう」と思えた途端に、不安な気持ちがふっとんだ感じがしたのを覚えています。
ある意味で、人生に必要な言葉はナモアミダブに尽きるのだ、というのが浄土宗や浄土真宗の心意気ではないかと思うのです』


日本は仏教の国として、世界でただひとつ、原爆を投下された国として、この智慧と慈悲をもって、そして平和憲法を携えて、もっと積極的に、もっとリーダーシップをとって、世界に平和を訴えていかなければならない。
そのためには、自分をはじめとする仏教徒が一丸となって、葬式専門の寺ではなく、地域に根ざし、人々を支え、頼られるような存在になれるよう、具体的に行動しなければならない。

何度も何度も、本の中に、この思いがくり返し書かれている。
非暴力の平和運動こそが仏教の本領なのだと。






今年はかなりやばい!

2010年10月27日 | 音楽とわたし
多分これはわたしの思い違いと、願い過ぎが原因。
そして多分、気持ちがどこか他の所にあって、きちんと考えていなかったことも原因。

生徒達の曲が仕上がらない。
思ったよりも進みが遅く、夏休みの間にある程度形づけておけばなんとかなっていた例年ともまた違い、まだまだ発表できるまでに至らない子が半数ぐらいいる。

発表会の日を決めようにも、決めるのが恐ろしいぐらいのカタツムリ状況のまま、気がつけばもう10月が終わるではないか?!
三カ所のホールに打診をして、それぞれの空きの日をとりあえず押さえてはいるものの、多くの人が「いい所だよ」と言う近所の教会の中を見学に行くことにした。

車のフロントガラスにはまだ葉っぱがいっぱい。


道すがら、昨日の嵐で、すっかり地面に落ちてしまった葉っぱの色がばっちくならないうちにパチリんこ。
 

教会の前にもまだ、辛うじて葉っぱが残っている木があった。


教会のおむかえの家の、燃えるようなモミジ。


この教会はうちから歩いて行ける距離にあるので、ピアノの状態が良くて、人数に見合う場所が希望の日時に空いているようであれば、使わせてもらいたいと思う。

散歩しながら紅葉をもう少し。きっともうあと数日もしたら、みんな地面に落ちて、葉っぱの山を作るのだから。
 

これはうち。右端に、シッポをタランと垂らしてポーズをとるリス君が居る。


さて、今日もこれから7人の生徒がうちにやって来る。
彼らにだって事情があったのかもしれない。難し過ぎたかもしれない。頑張る!と言ってみたものの、頑張っても頑張ってもできないのかもしれない。
『頑張る』ということの質や量の違いを今頃嘆いたところで、なにも変わらないし、いい方向にも進まない。
わたしは経験者として、なにかいい知恵や方法を彼らに教えてあげられるはずなのだから、感情をコントロールして、一ヶ月弱でなんとか人前に出て弾いても大丈夫な形に仕上げられるよう、とにかく冷静に考えてあげなければ。

と、自分を戒めるために、美しくも儚い紅葉の写真を見ながらこれを書いている。

 


 


また来年ね!

2010年10月27日 | ひとりごと
今日は今年のインディアンサマー最後の日。
昨日の晩から天上は荒れ狂っていて、朝起きたらこの通り、葉っぱがすっかり散ってしまいました。

で、旦那がわたしのブログ用に撮ってくれた写真の中から2枚。



近頃すっかりアシスタントっぽくなってきました。ガハハ!

今日一日、まだ荒れ模様が続き、雷なんかもあるそうで、そのあと気温がぐんぐん下がる予定です。
掛け布団、また1枚増やさにゃ~。

家猫はこの天候が理解できなくて(そりゃそうだ)、昨夜は一晩中不安だったのか、旦那が朝起きて寝室のドアを開けるや否や、「にゃ~~~~~あ、にゃ~~~~~」と、節がついた長い長い鳴き声をあげて旦那を見上げていたそうです。
毎朝、ドアの外で、旦那が起きてくるのをおとなしく待っていて、ドアが開いても黙ったまんまで、旦那に抱き上げてもらう彼女なんですが、よほど心配だったのでしょうね、可哀想なような可笑しいような、気持ちをきちんと語れる猫なのであります。