ウィンザー通信

アメリカ東海岸の小さな町で、米国人鍼灸師の夫&空ちゃん海ちゃんと暮らすピアノ弾き&教師の、日々の思いをつづります。

アメリカンな『母の日』とジャパニーズな『土作り』

2024年05月14日 | 家族とわたし
保育園児だった頃の息子たちから、母の日を祝ってもらえるようになったのは、今から34年前のことだ。
まあ、保育園時代の彼らは、『母の日』の意味などわからないまま、先生に言われた通りに鍋敷きを作ったり絵を描いたりして、それらの裏側に先生が「おかあさんありがとう」という言葉と一緒に彼らの名前を書き込んでくれた。
今やコンピューターエンジニアとして中堅の働き手となった彼らから、今年はお小遣いをもらった。
ありがたや〜。

どこもかしこも母の日を祝う家族でいっぱいだったが、エチオピア料理のレストランで予約が取れたので、ランチを食べに行った。


タイトルの写真は、帰り際にいただいた一輪のバラ。
レストランに来た女性は全員、このバラを渡されるみたい。

こちらでは『母の日』はめちゃくちゃ大騒ぎになる。
1週間前にもなると、出かける先々で、ちょっとした知り合いからでも「Happy Mother's Day!!」と声をかけられる。
楽しい母の日になりますように、という感じなんだけど、それはそれでいいことなんだけど、たまにう〜ん…と考えてしまうことがある。
だって、この世はほんと、人それぞれだから。
わたしはたまたま、ありがたいことにこの歳になって、理不尽なことや不幸なことから遠ざかることができて、これまでもずっとなんのこともなく普通に生きてきたみたいな顔をして暮らしている。
そして息子たちはどちらも、はちゃめちゃな親の行為に巻き込まれ、それはそれは大変な人生を送らざるを得なくなったのにも関わらず、グレもせず立派な大人になってくれた。
だから、誰から「Happy Mother's Day!!」と声をかけられても、自然に笑みがわいてきて、「Happy Mather's Day to you, too!!」と返事する。

でもね、例えばわたしは、母親になってからでもとてつもなく大変で辛かった時があって、そんな時の無邪気な「Happy Mothar's Day!!」には落ち込んだなあ。
それに、こんなふうに誰彼なく挨拶がわりに言っちゃってたら、中には母親になることを選択しなかった、あるいはなりたくてもなれなかった、もっと言えば、母親だったけど、いろんな事情で別れたり死別するというような、とんでもなく悲しいことが起こった人には辛い挨拶になるんじゃないかな。
でもまあ、お国柄というのか、成人したと見受けられる女性には、その人に子どもがいようがいまいが、言っちゃってる。
冒頭に言ったように、レストランなんかだと、成人女性全員に一輪の花がプレゼントされる。
あんまり難しく考えない方がいいのかなあ…。


母の日は家事をしない。
そういう決まりになっているんだけど、菜園の土作りだけはどうしても終わらせておきたかったので、渋る夫にお願いして手伝ってもらった。
師匠は日本野菜専門の農場主、鈴木さんである。
彼は毎年4月末から3週間、週末の土曜日に、デラウェア州からフェリーに乗って野菜の苗を売りに来てくれるのだが、わたしは毎年その苗を買うのが楽しみで、買いに行くと必ず鈴木さんにあれやこれやの質問をする。
鈴木さんはそのいちいちに丁寧に答えてくれる。
一昨年から発生したランタンフライの被害について話すと、どうやら鈴木さんの農場にはまだ現れていないらしい。
あれがひとたび発生してしまうと、胡瓜に大きい被害が出ると思うので、デラウェアまで広がらないことを祈っている。
そんなことを話していると、じゃあ今回は思い切って、土を一から作り直しませんか?と言ってくれた。
教えてもらったことを実行してみた。

まずは土起こしをしたところに、おからの粉、窒素とマグネシウムとカルシウムの粉、そして自家製の枯葉をよく混ぜ、



そこに水をこれでもか!というほど大量にまき、黒いビニールですっぽり覆って2週間待つ。


この間に土の中はかなり高温になるので、害虫の卵は死滅する。
その後、土の中にどんどん良い菌が繁殖し、野菜がよく育つ環境が整うのだそうだ。
さて、うまくいきますかどうか、ワクワクドキドキの2週間なのである。

この夏の最初で最後の休暇旅行「レーニア山&シアトル再び編」

2023年09月19日 | 家族とわたし
レーニア山。日系の人たちが、タコマ富士と呼んだ山。
シアトルの街からもこんなふうに見えるらしい。(https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AC%E3%83%BC%E3%83%8B%E3%82%A2%E5%B1%B1

レーニア山はカスケード山脈の最高峰、成層火山群の一つで、セント・ヘレンズ山とは兄弟関係にある。
ちなみにセント・ヘレンズ山は、1980年に大噴火を起こしたことで有名な活火山だ。
レーニア山の高さは4392メートル。
標高1800m以上は氷河に覆われているので山頂に着くまでに2 - 3日かかり、登頂は難易度が高い。
我々が目指すのはもちろん、ウォーキングシューズでてくてく歩ける場所のハイキングなので、難しいことは何も考えなくて良い。
ということで、ワシントン州での最後の観光は「レーニア山国立公園」を訪ねることにした。

山がどんどん近づいてくる。

でも、ここにも渇水の影響が。

レーニア山の裾野に入る。

入り口。
入場料は自動車1台につき$30、歩行者・自転車は$15、いずれも7日間有効で、公園内の駐車は無料だから、1週間かけて散策するような人にとってはめちゃくちゃお得。

しばらくすると霧がたち込めてきた。

標高1645メートルに位置するパラダイス・インの駐車場に車を停めて、いざいざ出発!



たくさんのトレイルから選んだのはもちろん、一番簡単そうなコース😅
今回の旅では毎日長距離(わたしにとっては永遠とも思われる)を歩き続けたので、そこが国立公園であろうがどこであろうが、とにかく一番楽なコースを選びたかった。

ああそれなのに、滝があるんだって!と聞くともう大変。
見える場所までひたすら上り、下り、時には四つん這いになって目指してしまう自分が…。

こんなところにチップモンクが!(家の庭のと全く同じなのだけど、場所が違うと感慨深い😅)

鹿も庭で普通に見られるのに、やっぱりちょっと違う。

ここでちょっとしたハプニングが。
木の枝がガサガサと揺れているのを目敏く見つけた夫が指差す方を見ると、確かに何かいる。
スマホのカメラで撮ろうと近づいていくわたしの服の裾をギュッと掴んで、またバカなことをと叱る夫。
こういう時は後退りするべきで、近づくのは愚かな者がすることだと、さらに後ろに引っ張ろうとする。
「クマだ」と夫。
「あ、ほんまや」とわたし。
こんなチャンスは2度と無い。
クマは近距離にいるものの、茂みは道の脇を降りたところだし、びっくりして襲ってきたとしても、まずはこの段差を飛び上がらないといけない。
多分大丈夫だろうと、引っ張る夫をずるずると引きずりながらカメラを構えた。
子熊ちゃん、木の実を食す

水分が潤っているからか、今回の旅行で初めて活き活きとした草木を見た。





こちらがパラダイス・イン。
霧がたち込めている中にパラダイスという名前が目に入ると、なんだか妙な気分に。

今回の旅で一番美しかった滝。

一体何があったの?

どこから転がってきたの?

この滝もとても綺麗だったけど、滝の両側の断層がすごく興味深かった。

帰り道、レーニア山の頭頂が見える場所に寄って30分ばかり雲が切れるのを待ったのだけど…またのお楽しみに。

レーニア山の紹介。

静けさに惑わされる景色。
ここは力強くダイナミックな山なのだ。
500,000年の間に、何千もの噴火による溶岩が流れ、冷えて現在の火山を築いた。
それらの溶岩流は、灰色や赤みを帯びた岩石として見ることができる。
これらの噴火の際には、現在よりもはるかに大きな氷河がレーニア山を包んでいた。
それらは火山の力と協調して地形を形成した。
現在の尾根は、溶けた物質が氷河の間にたまり、溶岩流が厚い氷の両側に流れた結果である。
あなたが立っているのは、まだ熱いうちに氷河の端にぶつかった溶岩流のつま先である。

ふむふむ、つま先ね…。恐るべしレーニア山。

溶岩が流れた跡。

また来るね、レーニア山。

国立公園からシアトルに戻り、ホテルに一泊して、飛行機が飛ぶ夜の9時半までの時間をどこで過ごすかを検討した。
わたしより8年3ヶ月も若く(といってももう58歳だけど)、歩くのが大好きな夫でさえも、もうあまりたくさん歩く場所には行きたくないと言う。
それで、まずは近所を軽く散策してから、北の端にある海辺公園に車で行くことにした。

相変わらず天気が良い。今回の旅は本当に良い天気に恵まれた。

夫が見つけたガラス工房。

トイレがハンパなく素敵!


ここで30分ほども居れば、作品が出来上がると聞いて、近所に住む次男くんたちに伝えた。

簡単に周れるだろうと思っていた公園だったのだけど…。

ちょっと嫌な予感が…。

我々が歩く森のすぐ左側にはずっと海が続いているのだが…。

なんかすごい木を見つけた。


歩いても歩いても、たまにぽっかりと海が見えるスポットがあるだけで、終点はなかなか近づいてこない。
なので途中で引き返すことにした。
同じ道を引き返さずに、ショートカットのコースを選んだのだけど、それは延々と続く傾斜がめちゃくちゃきつい上り坂だった。
後悔先に立たず。
いやもう、なにこれ、ふ、ふふ、ふふふ、ふふふふ!
人は、極限に達すると、それが何であれ、笑いが込み上げてくるものだと知った一瞬だった。
いきなりヘラヘラ笑い出すわたしを気味悪そうに見る夫。
所々に設置されているベンチに座ってくたばっていると、その急な坂道を小走りで下ってくる男性がいた。
その男性が、また別のベンチに座っているわたしたちの前に再び現れて、同じく坂道を下ってきたのには驚いた。
下るには上らないといけないわけで、時間も10分くらいしか経っていない。
我々は幻を見ているのか?それとも彼が超人なのか?双子か?しばらく二人で思案したけど、足が疲れ過ぎてどうでもよくなった。

青空にはどんなものも似合う。

飛行機だって撮りたくなる。

どことなくフォート・リーの街並みを思い出させる風景。

シアトルはほんとにいい街だ。

最終日のブランチを次男くんとEちゃんが再び付き合ってくれて、シアトル生まれのシアトル育ちのEちゃんお薦めのレストランで、最後の暴食パンケーキを食べる。

そしてこの旅の最後のご馳走はちょっと奮発して、ここ、SHIRO SUSHIでいただくことにした。

カウンター席は予約が詰まっていたので取れたかったのだけど、4人の寿司職人さんたちが面白おかしく話しながら寿司を握ってくれる。

テーブル席の我々も、黙々と、シアトルならではの新鮮な寿司をいただく。






このほうじ茶ムースはマジで絶品。

いっぱい食べていっぱい歩いた。
本当に楽しい旅になったとしみじみ喜びながら空港に。

そして機内に向かう廊下を歩いている時に、自分のスーツケースを見下ろしてハッと気づいたのだった。
セキュリティチェックを受けた際に、スーツケースから取り出したiPadとAmazon Fireを、カゴの中に置きっ放しにしたことを…。
こんなことは初めてで、頭の中が真っ白になったのだけど、もう引き返すことはできないのだから空港に連絡をするしかない。
8ドル払ってインターネットを機内で使えるようにして、空港と次男くんに連絡を取った。
夫からは、こんなことで次男くんを煩わせるなと言われたけど、彼はきっと助けたいと思ってくれるはずで、申し訳なかったけど巻き込むことにした。
次男くんから続々と、空港内で物を失くした場合の解決法が送られてくる。
彼もトーナメントや出張などでいろんな国を周っていて、置き忘れたり盗られたりして大変な思いをした経験があるからと、同情して慰めてくれた。
Appleの製品同士でできる位置検索で、iPadが空港に留まっていることがわかったので、盗まれている可能性が低くなった。
空港の忘れ物課もとても親切で、合計4人の係員と話したのだけど、どの人も親身になって届けを読んでくれたり探してくれたりした。

4人目の人が、長い時間をかけてあちこちに問い合わせてくれて、とうとう見つかったので、次男くんに空港まで取りに行ってもらった。
最後の最後で大失敗をしたのだけど、そのことも含めて今回の旅は、とても思い出深いものになった。
いろいろお世話になりました!みんな、ありがとう!

この夏の最初で最後の休暇旅行「オリンピア編」

2023年09月18日 | 家族とわたし
シアトルから車で1時間ぐらいのところにあるオリンピア、そこに夫の弟Jと彼の息子のAが暮らしている。
Jは東海岸と都会が嫌いで、大学卒業後からずっと西海岸に居着いているので、同じ国にいてもたまにしか会えない人だ。
今回とうとう西海岸への小旅行を決めたのは、次男くんたちがシアトルに引っ越したこと、Eちゃんのご両親もシアトル近辺におられること、そして厳しい闘病を終え、晴れてサバイバーとなったJに会いたかったから。
というわけで、オリンピアに到着したその日、Jの案内でここに来た。


空は快晴、見渡すかぎり枯れ草の小山だ。
夫が、韓国ドラマでよく見るお墓みたいだと言う。まさに。



これはなんのシンボルなんだろうかと寄って行ったら、蜂がブンブン飛び交っていたので慌てて逃げた。

写真だけだとわからないのだけど、容赦無く照りかかる直射日光がジリジリと皮膚を焦がしていく中を、延々と歩き続けた。

渇水状態でも苔は蔓延っている。

お次は家から歩いて数分の、サウンド(スペルもSound/音と同じだけど、意味は海峡とか湾のこと)の端っこに行った。


ほぼ湖に見える。


苔に侵食されて弱ったのか、弱ったから苔に覆われてしまったのか。

Jの家。手前の建物は彼の木工作業場。

オリンピア第2日目。
今度は車で20分ほど離れている、これまたサウンドの端っこにある湿地帯をテクテク歩くの巻。
木材で作られた道を、再び延々と歩く。



道の両側は、森や湿地やサウンドがかわるがわる顔を見せる。




今は使われてないっぽい巨大な倉庫。

木がどれもこれも境内の御神木並みにでかい。

オリンピア三日目。
今度はサウンドの上を延々と歩く。

ここがほんとにほんとのサウンドの終点。塩っ辛いかどうか降りて行って舐めてみたかったけど、地面が足を取られそうだったのでやめた。少しは大人になったのかも。

いよいよ海上の道に入る。

引き潮時だったので、いろんなものが露出していた。


終点が遥か彼方に。道はまだまだ続く。


海鵜の集団。

アサリがおっきなバケツ百杯ほど獲れそう。

まだまだ続く。

この気怠そ〜な鳥さんたちは誰だろう?風が四方からビュンビュン吹き荒れている中、揺れながら足はびくとも動かないのだった。


こんもりとした森。

風の渦に飲み込まれてしまったみたいな音に包まれながらこんな景色を見ていると、なんだか世紀末の世界に迷い込んだような気になる。

ここにもサウンドの尾っぽが。

途中の休憩所で一休み。

我々はここ(赤い矢印)にいるらしい。

終点まで行きたいのかと途中で聞かれ、もちろん!と答えてしまう自分を心の中でバカバカバカ!と罵るもう一人のわたし…でも頑張りました、はい。

サウンドから離れて駐車場に戻る道すがら、トトロが隠れていそうな穴を見つけた。
頭を突っ込もうとするわたしに、熊がいたらどうする!と叱る夫。いや、おらんて😅

ここの森も弱った木がいっぱい。




真ん中の木は、海鵜の糞被害に遭って枯れてしまったそうだ。



帰り道にもう1箇所、サウンド見学。
ここで聞こえてきたのが…。
不気味な鳴き声

ここは少し前までコウモリの棲家になっていたらしい。彼らはここからシアトルに通っていたそうな。
けれども何やら問題があって、数はかなり減ったらしい。ちゃんと話してくれたのにすっかり忘れてしまった😭。

ここも枯れ野原だったけど、珍しく花を見つけた。

鬱蒼とした森の中を歩く。


Jは優れたコンピュータープログラマーで、木工を趣味にしているのだけど、わたしからすると趣味の域はとお〜に超えているように思える。

彼の作品が家のあちこちで息づいている。




彼は釘を一切使わない。
石谷夏樹さんという、日本人の家具デザイナー&制作家の大ファンで、彼と同じく金具を使わずに木組みで作る。
ISHITANI - Making Amiisu Chairs with Paper cord seat

Jの木組みはどんどん複雑化していって、それらをうまくはめ込むことだけでもとても難しい。


この椅子は中でも最高に難しかったらしい。




経過の苦労と手間を聞いているだけでも深いため息が出るのだけど、実物を見て、手で触って、椅子に座ったり、引き出しを開けたり閉めたりしているだけで、生まれ変わった木の幸せそうな顔が思い浮かんできて、こっちまで幸せな気分になる。

何年分?

Jも息子のAも料理が得意。しかも手の込んだものを作る。
滞在中の食事は全部、彼らの手作り料理で、こちらのベーベキューコンロと中華鍋用の強烈強火コンロが大活躍。


うちのカエデの爺さんと同じく、この家の主。

ダーツ好きのJはここでも遊ぶ。けれどもこれは家の壁を傷つけないためにゴム製なので、的を狙うのはかなり難しい。

Googleで検索すると、この家の周りだけ森になっていて、屋根が全く見えない。



カエルがよくハスの葉っぱの上にいるらしい。



ブドウの木もある。

こんなガレージ、いいなあ…。

前の家主が猫好きだったみたいで、遊び場がいっぱい。

玄関前の敷石

そのすぐ横に、なぜか巨大なピンクの水晶岩がゴロンと置かれている。

朝晩は肌寒いので、薪ストーブに火が入った。


観光案内から食事の世話まで何もかもしてもらったおじゃま虫は、これで退散いたします。

次は最後のレーニア山&シアトル再び編

この夏の最初で最後の休暇旅行「シアトル編」

2023年09月16日 | 家族とわたし
シアトルから戻ってからというもの、あまりにバタバタしていて、パソコンの前に座るという時間がほぼ持てなかった。
時差はたったの3時間というものの、やはり時差は時差であって、その微妙なズレが頭と体にやんわりと居座っている。
大陸の東の端から西の端まで飛行機で6時間と聞いていたが、実際は5時間ちょっとで着いた。
帰りはさらに短くて、4時間半で戻ってきた。
こちらでは、車で3時間は序の口、4〜5時間は別に大したことがないという感覚なので、それからするとこの飛行時間は、費用の問題さえなかったらちょくちょく行ってもいいかも、という気にさせられる。

アラスカ航空は初めてだったのだけど、尾っぽに先住民の顔がシンボルとして描かれているのが気に入った。

旅に出た日からすでに2週間以上も経っていて、細かいことは忘却の彼方に飛び散ってしまったので、写真を見ながら思い出していこうと思う。

シアトルに着いたのが夜の9時半。
次男くんに空港まで迎えに来てもらい、彼のアパートメントのすぐ近くにあるホテルまで送ってもらった。
朝起きたら曇り空で涼しかったので、朝っぱらから散歩することに。
そして、歩いてみてすぐに気がついたのだった…シアトルの街は坂道だらけだということに…。
まあよい、今回はしっかり歩ける靴を二足も持参してきたのだ。覚悟はできている。

夫が歩いて20分ぐらいのところにある公園まで行こうというので、まあそれぐらいならと歩き始めたが、平坦な道がほとんど無い。
坂道というのは上りと下りがあるわけで、すっかりひ弱になったわたしの足には、そのどちらもがきつい。
旅行の2週間前から始めたYMCA通いだが、水中で運動しているので自分の体重がほとんどかかっていなかったことを痛感した。
平坦な道なら鼻歌級に楽々だった靴が、なぜだか坂道になると不安定というか、いちいちズレるというか、どうにも履き心地が悪く歩きにくくて仕方がない。
これは困った。延々と続くアスファルトの坂道を想定していなかった。思いっきり後の祭りである。

てくてく歩き続けるのが辛いので、写真を撮るふり(いや、実際に撮りたいから撮っているのだけど)をしてこまめに休憩をとる。
わけがわからない不気味なものが…真ん中の背の低い鉄柱?をよ〜くご覧あれ。


シアトルのビルディングは風変わりなのが多い。ビルディングフェチのわたしにはとても魅惑的な街である。

街の端っこにこんな風景があるっていいな。

当然後ろを振り向くと、

個人所有のボート置き場


突如、水上飛行機がやってきた!

ワシントン州は環境問題への取り組み方が半端じゃないと言われていて、だから公共交通機関の乗り物のほとんどは電気。




通りのあちらこちらに乗り捨てられている電動キックボード。
スマホで料金を払い、行きたいところまで使ったらそのまま放置。
シアトルはこのキックボードはもちろん、電動自転車のライドシェアが徹底していて、所定のラックに戻さなくても良いのですごく便利。

晴れているとなんでもかんでも撮りたくなる。


辛いことだけど、ホームレスの人たちが多い。コロナ禍以降、ぐんと増えたのだそうだ。


今年の夏は渇水がひどく、街中の緑もこんなことに。

これはなんでしょか?


イチローはもういないというのに…マリナーズの試合の応援に向かうファンカップル。

モノレール、写真をとうとう取り損なった。


シアトル版、丸ビルツイン。

ランチを一緒に食べようということで、ホテルにやって来た次男くん。
お、Lime(電動キックボード)に乗ってきたではないか。

ホテルから徒歩15分というところにあるギリシャレストランで、なぜかそこで一番美味しいらしいパンケーキとフレンチトーストのどちらにしようかと歯をギシギシ言わせるぐらい悩んで選んだのがこれ。
グルテンフリーを背負い投げして追い払い、ふつふつと湧き上がってくる幸福感と共に食した絶品。

我々が来るからと仕事を2日休んでくれた次男くんと一緒に、観光名所の市場に行った。

スタバ第一号店。

行列が…。コーヒーをやめてから全く足が向かなくなったスタバ。


観光客がいっぱい、と思いきや、結構スカスカ。次男くん曰く、週末になると歩きにくくなるほどギュウギュウに混むらしい。



この魚屋は、客が陳列棚から魚を選ぶと、その魚を陳列棚の奥にいる人に放り投げるパフォーマンスを見せてくれるので有名。
シアトル市場の魚屋さん




こちらは一番美味しいスモークサーモンを売っているという噂の魚屋。

市場の出口近くに巨大なブタの貯金箱が。


市場から出て、次男くんのガールフレンドEちゃんとの待ち合わせ場所に向かう。

ゲゲッ!ここはもしかして…。

はっきり言ってグロテスクな、噛んだ後のチューインガムをベタベタと貼り付けた壁に挟まれた通りである。
辺り一面甘い香りが漂い、汚いんだけど綺麗な気もして…感覚が大混乱すること必至な全長約15メートルの世界。


新たにくっつけたい人たちのために。

彼らのアパートメントに向かう。
シアトルの中心街の新しいビルディングのほとんどがガラス張り。カラフルなビルディングも多い。


彼らのアパートメントはもはやホテル?

ジムやプールがあって、他にもいろんな施設が整っているらしい。


見晴らしが良すぎる部屋からの風景。朝日と夕陽が超きれいだそうだ。



ニードルタワーもよく見える。

ガラス張りのベランダは怖過ぎて、端には寄れない。


夕食は海鮮!だけどまたまた延々と坂道なのが辛すぎる。



きゃ〜!




翌朝、ホテルの部屋で食べた朝食(市場で次男くんが買ってくれたスモークサーモンとスモークスカロプ)。爆ウマ!

シアトル2日目。1日目に歩き過ぎて疲れたので、朝からはゆっくりして、夕方からまた、コリアンバーベキューを食べにテクテク(一部、手すりが必要なほど急な上り坂があったが)歩いて行く。

なぜか広島の街を思い出した。

なんじゃこの高さは!4リットルがこの値段?ニュージャージー州より2ドルも高い!
でもこれも、環境悪化を防ぐためのものだとか…う〜ん、ニュージャージー、いや他の全州も見習うべきなんじゃないのか?

洒落っ気たっぷりのコリアンバーベキュー店。


すでに美味しそう。

食欲がどんどん増してくる。



さすがは食通コリアンアメリカンのEちゃんのイチオシ店。すっごく美味しかった。

虹の横断歩道

アートな壁

シアトルにたった一本しかない地下鉄の駅。


夫とわたしはこれに乗ってシアトル空港近くのレンタルカー屋に行く。

これが切符なのだけど、改札口も何もない。

来た!

中はけっこう混んでいて、空調があまりよくない。

自転車置きがあちこちにある。

空港からバスに乗ってレンタルカー屋に到着。


シアトル三日目。
夜はEちゃんの親御さんたちと会食をする予定になっていて、ホテルもチェックアウトしなければならなかったので、それまでの時間を水族館で潰すことにした。

こじんまりとして可愛いのである。
けれども中に入ってみると、なんとも興味深いものだらけなのである。

波がザブンザブンと押し寄せる水槽。


ヒトデやイソギンチャクやウニに直接触る。





ストレスになるんじゃないかと尋ねたら、触れられることは嬉しいのだそうだ。ほんまかいな?

クラゲさん。

昼寝中のタコさん。

だれ?

ナマコさん。

えっと…。

フグさん。


きれいすぎ!




ニモ〜!

この方はあまりに奇抜すぎて、しばらく見惚れてしまった。


ちびクラゲちゃんたち。

タツノオトシゴさん。

ウルトラQに出てきそうな方々。



ロンリーかもめ。

ここに鮭が実際に帰ってくるらしい。





ヒトデさんの裏側を初めて見た。

キノコとしか見えない。

再びナマコさん。

これもイソギンチャクなのかな?

この方は?


水族館から街を見る。



ラッコもオットセイもいたけど、なんかのんびり休憩してて、無理やり芸とかさせられてなくて、いい感じだった。

ちょっと乗ってみたかった観覧車。

シアトルの横断歩道に必ず設置されている歩行者用のボタン。

水族館まではウーバーで行った。
ずっと下り坂だったので、これをもし歩いていたら…と思うだけでゾッとした。
帰り道、ウーバーが見つけやすい場所までの坂道を、だらだら上って行くよりは階段の方がマシだと思った。
シアトルに住んだらきっと、足腰が強くなるんだろうな。


このけったいなブツは一体…。

会食の場所に早く着いたので、ご近所をちょいと散策。
やはりここも海が近い、シアトルの郊外の町。

野外市場が開かれていた。

タンポポという名前のお店。

ミニコンサートも。

お互いに平気なふりをしていたが、実は夫もわたしも超緊張して入った、待ち合わせ場所のタイレストラン。


Eちゃんのご両親はとても気さくな楽しい人たちで、偶然にもうちの近くに友人が居るらしく、今度はニュージャージーで会いましょうということになった。
こんな親同士の付き合いが、Eちゃんと次男くんのプレッシャーにならないことを願いつつ、でもやっぱりいつかは家族になれたらいいな〜という気持ちもある。
いずれにせよ、若い二人が健康に気をつけて幸せに暮らしてくれることを心から祈りつつ、再会を楽しみにしながらみんなと別れた。

次はオリンピア編。

誕生日おめでとう!

2023年07月11日 | 家族とわたし
今日は夫の58歳の誕生日。
「欲しいものは?」って聞くと、いつものごとく「別に無い」と言う。
毎年夏は稼ぎが極端に少なくなる時期なのだから、贈り物用にと事前にへそくっておけばよいものを、急な入り用のために使い果たしてしまっている。
ならば、『肩たたき券作戦』で行こうではないか。
ということで、朝から菜園で菜葉を摘み、夕ご飯までに萎びてしまわないように水を吸わせておいて、あとは冷凍冷蔵庫内の食品を駆使して、アルモンデ誕生日おめでとうディナーを作ることにした。
そこに『肩たたき券』ならず『神の手マッサージ券』をプラスしたら、それなりに喜んでもらえるはず。

4月に日本に居たので、自分の誕生日は母と義父の家で迎えた。
どちらも大人の誕生日など祝う日ではない世代の人たちだから、その日はおめでとうの一言も無かった。
こちらでの23年間、誕生日というと朝から晩まで特別な人扱いをしてもらい慣れてしまったからか、あまりにも寂しかったので、スーパーに行って赤飯を買った。
夕飯を食べる時に、「今日は誕生日おめでとう〜」と自分で自分に言ったら、呆気に取られたようで、「いきなり何を言うてんの」と苦笑いされた。
いやはや習慣というのは恐ろしいものだ。
久々に祝ってもらえない誕生日を過ごした夜に、しみじみとこちらの誕生日を恋しく思った。
年老いた親から、兄弟姉妹から、社会の中堅どころになった子どもたちから、友人たちから、おめでとうの電話がかかってきたり、プレゼントが送られてきたり。
もちろん大人だから、平日であれば普通に仕事をする。
でも特別なのだ、その日の起きている間の16〜7時間は。
あなたが○○年前の今日生まれてきたことを心からお祝いします、という人たちがいて、その人たちの声を聞いたり顔を見たりしながら、生まれてきたこと、そして今も無事に生きていられることに感謝する。
誕生日って感謝する日なんだなと思う。

誕生日おめでとう。

これは誕生日イブの外食。
これに比べると今日のアルモンデディナーはかなり見劣りするのだが、夫はしきりに昨日の料理より何倍も美味いと言う。
愛、なんでしょうかね😅


ごめんなさいが言えなかった父

2023年07月05日 | 家族とわたし
窓の外から、どこかで上がっている独立記念日の、花火のクライマックスの音が聞こえてくる。
今年は夫もわたしもクタクタに疲れていて、花火見学を見送り、家のテレビでNetflixのドラマを観て終わりにすることにした。

先日、大好きな『うさと』の洋服を買いに、アップステートにあるS子さんのお宅まで、友人のNちゃんと出かけて行った。
洋服の販売と共にいろんなイベントも行われていて、生まれて初めて霊能者の方と30分間お話しした。
彼女にまず名前を聞かれたので伝えたら、いきなり「68歳」と言う。
「え?68歳?」
「今68という数字が来たんですけども、何か取り掛かっている作業がありますか?」
「取り掛かりたいと思っていることはあります」
「やってください、2年で叶います、形になります、活動し始めます」
「一回始めたからには毎日毎日やらなければならない、というふうに考えないでいいです。途中で休憩してもいい。気分に任せてやったりやらなかったり、基本的にやりたいことに向かっているので気楽に続けていいんです」

ふむ…どれのことだ?
作曲のことか?物語書きのことか?自身の演奏能力を高めていくことか?指揮のことか?

などと頭の中で混乱が生じたのだけど、口から出てきたのは今の自分の、夫との関係に対する不安の話だった。
いや待て、なんでこの話をするわけ?関係ないやん…と思うのに、彼との馴れ初めから説明している自分にストップをかけることができなかった。
「まうみさんは一生ピアノを弾き続けるし、一生女であり続けます」
「周りや生い立ちを見て、そろそろ落ち着かなきゃ、なんて思いがよぎることもあるけど、全くそんな気が無い人です」
「わたしは女として、ピアニストとして一生生きるのよっていう、ガンとしたエネルギーを堂々と自分の中に流して欲しい」
「そうすることによって、彼に対する愛が無いわけじゃないっていうこともちゃんと思い出せます」
「愛はあります。愛を思い出して、愛があるからこその正直な会話をし始めると、一人で今までクヨクヨと思い悩んでいたことから離れて想定外の展開がおきます」

なんてことを聞きながら、話は名前の話になり、ここでは書けないような、あまりにも赤裸々でプライベートな話になり、そこでも彼女の返事に何度もびっくりさせられた。
彼女はわたしの話を聞きながら、体のあちこちに痛みを感じたりしたが、それらは必ず話と深くつながっている場所だった。

そうこうしている間に時が経ち、残り時間が少なくなってきたので、気になっていた亡き父のことを聞こうと思った時、
「あ、ちょっと待って、耳鳴りがしてきた、ちょっと待ってね…コレなんだ?お父さん…お父さんのことどう思いますか?」
と突然聞かれた。
しばし絶句して、気を取り直して、父のことを簡単にまとめて話した。
「恨んで当然のことを何度もしてきた人でしたけど、やっぱり好きだったし」と言ったところで、彼女が「伝わってる」と一言。
それを聞いた途端、涙があふれてきた。
「お父さんここまでね、ここまで出かけてきてるんですよ、ごめんなさいっていう言葉が。けどね、それを言うことが返って卑怯じゃないか、狡いんじゃないかっつってここで止めてるんですよ」
「ごめんなさいに値しない親であった、人間であったというところで彼が止めていて、けれどもここまで気持ちが出てきているから、その気持ちを今届けさせてもらいますね」
「ごめんなさいと言いたい。けれども都合良過ぎじゃないか、それで帳消しにするみたいに思われそうでできない」
「なんでこんな俺を好きであり続けるのか、俺を見る眼差しが怖かった。酷いことをしても、それで傷ついている目が、俺のことを愛している目だったって言ってます」
「普通そんなふうに半端じゃなく痛めつけられるような辛いことが続いたら、そしてその原因を作ったのが父親だとわかっていたら、人間としてみなさないような目線になるはずなのに、目が違った。それがすごく怖かった。なんだこの生き物はと思うぐらい」
「普通だったら俺のことを人間じゃないような目で見るのに、まだ見捨ててない目線というものがあったと」
「今ね、棒読み状態でいいから『ごめんなさい』と『ありがとう』って言ってって彼に伝えてます」
「あ、『こんな僕でもよろしければ、守護霊の位置に置かせていただけませんか』と、かなり丁寧に、敬語でおっしゃってます。許可をもらわないとやってはいけないと思ってるみたいです」

家に戻り、父からの「ごめんなさい」を弟にも伝えなければと考えながら、父に弟とわたし、そしてわたしたちの家族を守ってくださいと、父の遺影に話しかけた。
弟はわたし以上に、父のために大変な思いをした。
彼も父からの謝罪の言葉は一言も聞くことができなかった。
弟よ、怖かったんだってよ、わたしたちの目が…これこそ泣き笑いものだよね〜。

鮮やかなみどりと義父の命日

2023年05月12日 | 家族とわたし
今年に入ってから外に出た回数が両手の指の数より少ない。
若い頃に散々焼いたからこそのシミなのに、70、80にさらに増えないようになどと思ってしまうアホらしさ。
もうええではないか、太陽の光をどんどん浴びよう。

ここに植えてから、ただの一度も花が咲いたことがない牡丹😭
毎朝つぼみに向かって、頑張れ〜開け〜と念じている。

ただのクローバーかと思ってたらこんな綺麗な花を咲かせてくれる誰かさん。

雑草に埋もれていた方々。


フキ一家。

茗荷一家。

今年も元気なミント。

家の敷地内の地面の下に埋もれていたレンガを一つ一つ掘り出して作ったこの道は、オズの魔法使いに出てくるレンガの道をイメージしながら作った、つもり…。(ずいぶんと違うけど😅)



今日は義父の命日だった。
もうあれから1年経った、というより、生々しく思い出される1日だ。
誰一人泣かなかった。
自分はどうしたらいいのか、どうしたいのかがわからなくて、戸惑ってばかりの1日だった。
あまりにもわからないことだらけだったので、全てがぼんやりしてしまって、悲しいのかどうかもわからなくなって、だけど義父はくっきりと死んでいた。
あの日、義父はお昼ご飯をいつものように食べて、しばらくして咳が出始めて、それがどんどん激しくなって、そのうちに下顎呼吸になって亡くなった。
そばには家族は誰一人おらず、看護師に見送られて息を引き取った。
義母が、溜まりに溜まっていた介護と看護の疲れを癒すために、車で数時間離れたリゾートに出かけた日の翌日に、まるでその時を狙ったかのような死だった。
彼は静かなるライオンのような人だったので、きっと自分の死に様を、家族であっても見せたくなかったのかもしれない。
今夜は夫と二人で、義父のお骨と遺影の前にワインをお供えして、鐘(リン)を2度鳴らしてお祈りした。
おとうさん、聞こえましたか?

ただいま

2023年04月26日 | 家族とわたし
4月8日、満開のぽんちゃんに見送ってもらった。
3月をほとんどまるまる、しんどい、辛い、苦しいと言いながら過ごし、4月の1週目で無理やり元気を取り戻して漕ぎ着けた出発だった。
夫が空港まで車で送ってくれた。
「忘れ物はないよね、パスポート、財布、陰性証明…」と、いつものように夫が聞いてくる。
「バッチリ、大丈夫」と即答しつつ、念の為に大事な物をまとめて入れているポーチの中を手で探る。
あれ?このもやもや感はなに?
あっ…そういや日本で必要な証明書類を荷物に入れた覚えがない…まさか…。
途端にわたしの頭の中はパニックになった。
車はもうほぼ空港に近づいている。
正直に言って家に戻ってもらおうか、いや、夫は空港からとんぼ返りで患者さんを診なければならないのに、そんなことは頼めない。
空港に到着し、パッパと荷物を降ろし、バタバタとさよならをして、チェックインと荷物預けを終え、出国検査の列に並んだ。
並びながら悶々と考えた。
夫に書類の在処を伝えるのは難しい。
見つけたとしても、それを急ぎの便で送ってと言われた時の夫の顔が目に浮かび、やっぱりこれは自分で家に取りに戻るしかないという結論に達し、ごった返していた列を逆行し、空港の外に出た。
最寄りのウーバーを探し、あと2分で到着するという時になって、車が1階の到着ロビーの外に来ることを知り、そりゃ普通に考えて、タクシーがこれから出国する人間を迎えに行かないだろうと、慌てて2階の出国ロビーから1階に降りた。
もう空港に入ったら暑いだろうからと薄着になってしまっていたので、その数分の待ち時間が寒くて、焦る気持ちが増長した。
車に乗るや否や、「ごめんなさい、めちゃくちゃ急いでいます。わたしはこれから飛行機に乗る人間で、忘れ物を取りに帰るので、また空港に戻ってもらわなければなりません。飛行機に乗り遅れることもできません。できますか?」と聞いた。
運転手さんはかなりビビったみたいだけど、「今の時間帯は空いてるから、多分ギリギリ間に合うと思います」と言って、結局本当にギリギリだったけれど間に合わせてくれた。
いやあ、我ながら、何事もなく普通に旅の始まりを迎えるということがどうしてできないのかと思う。

日本に到着。
日本の電車に心が癒される。

今回は母の家にずっと居る予定なので、到着した夜だけ浅草に泊まった。


ホテルで鰻の美味しいお店を聞いて食べに行った。
母は鰻が嫌いなので、まず食べておこうと思った。

ホテルの朝食券を使って朝からハンバーグ😅
病気で痩せた5キロがみるみる戻ってくる予感…。


母の家に向かう。

前回、昨年の11月から12月にかけて行った時、母はどんどん気弱になって、また3月に来るんやろと何回も繰り返し、とうとうその約束をしてこちらに戻ってきた。
そしてその約束を守るべくチケットを買い、準備したのだけど、体調を崩して4月になった。
歩きづらい、食欲が無い、何を食べても美味しくない、眠れない、体が怠い、ふらつく、ちょっとした動作が元でひっくり返る、気分が悪い。
88歳の母は、日毎それらのことを並べて嘆く。
わたしにできることは、LINE電話で話を聞くこと、行って食事を作り、できるだけ楽しい話をして一緒に時間を過ごすことぐらい。
今回もそう思って行った。
だけど母はしんど過ぎたからか機嫌がすこぶる悪く、大きなため息と愚痴と文句を朝から晩まで吐き続け、同じ部屋にいる義父とわたしの気持ちを萎えさせた。
特に義父は一日中、些細なことで怒られ、貶され、時には罵倒されて、横で見ているだけでも相当滅入るのに、その精神力の強さというか慣れというか、一体どうやって添い続けられているのかと不思議で仕方がない。

そんなわたしたち3人の毎日に、程よいクッションになるのがやっぽんぽんの湯なのである。
母と義父の家から車で40分。滋賀県の山奥にあるこの宿の湯と料理は本当に素晴らしい。
コロナ禍前の、まだ母が元気だった頃は、ミニゴルフと温泉を楽しむだけに通っていたほどのファンだ。

少食版晩ごはん







朝食のバイキング

母は自分はもう絶対に温泉もゴルフも無理!と頑なに拒否していた。
そういう時は無理に勧めても仕方がないので、知らんふりして気分が変わるのを待った。
彼女の体調不良は気分が大いに影響していると、わたしはその道の専門家ではないけれども長年の付き合いでそう思っている。
しばらくすると、ゴルフならと言い出した。
よし、行こう。

母は88歳になってようやく、夫に手をとってもらって歩くことを自分に許した。

ほんの半年前までずっと、杖も人の腕も借りない、そんな物を借りて歩いている姿を見られるぐらいなら死んだほうがマシだと言っていた。
もう90歳近くになって、一体何を言っているのだと何度言っても、かくしゃくとして歩いている人はいっぱいいる、それに比べてなんと惨めな姿だろうと嘆く。
きっと容れ物の年齢と心の年齢がかけ離れているのだろう。
こうでありたい、こんなはずがないと、事あるごとに混乱し失望しているのだろう。



母を温泉にどうしても浸からせたくて、もう一晩泊まった。
ゴルフを2日続けてできた母は気分が少し軽くなったのか温泉にも浸かりに行った。

二日目の食事は洋食のバイキング。

この日は昼過ぎから雨が降ってきたので、なんと初めてカラオケもした。
コロナ禍になる前までは、趣味友達と一緒にカラオケルームで5時間も過ごしていた母だったが、この3年の籠城生活で喉も体力も一気に萎えたのか歌い辛そうだった。
でもまあ滅多にないことができて、義父もわたしも、そして母も、それなりに楽しい時間を過ごせたと思う。

などと偉そうなことを言っているが、温泉旅行の費用は全部彼らが払ってくれた。
わたしには一銭たりとも出させてくれない。
義父はずっと国家公務員として定年まで働いてきた。
少ない給料で暮らすには倹約に倹約を重ねる必要があった。
母はもともと倹約が苦にならない、倹約を美徳として誇りに思う人だったのか、それとも薄給ゆえの生きる術だったのかはわたしにはわからないが、とにかく凄まじい倹約っぷりで、そこに株や証券などを流用して資産を増やす能力も加わり、老後の人生を心配せずに暮らせるまでにした。
だから誰にも頼らず、世話にならず、どこかに出かける際の費用は全て自分たちが持つと言い張る。
ありがたいのだけれど、こんなことでいいのかと必ず自責の念に駆られる。
母は、子どもを置いて出て行ってしまったことへの罪滅ぼしだとたまに言う。
そんな半世紀以上も前のことをいつまでも引きずる必要など無いのだと言っても聞く耳を持たない。
置き去りにされた者の傷と置き去りにした者の傷。
どちらもそれぞれにしかわからない傷なのだけど、心の傷はなんと厄介なものなのだろうと思う。

温泉から家に戻り、わたしの料理&片付け当番が始まった。
いきなり3日も続けてゴルフをした母は疲れ切ったのか、機嫌電池が切れてしまったように不機嫌の極みだ。
わたしが食事の用意をするのも気に触る、作ったものも気に入らない。
母も義父も、普段は配達されるおかず弁当か、スーパーで買ってくるお惣菜しか食べていないので、もう「いただきます」も「ごちそうさま」も言わない。
実に奇妙な食事風景で、義父以外、それぞれ違う理由で機嫌が悪い。

今回は母の、リハビリに通うための良い靴を見つけたかった。
そのためには、前回の旅行の際にお世話になった、一鍼灸院の瀧本先生のところに母を行かせる必要があった。
瀧本先生の整体と鍼灸で、母の痛みやふらつきの治療をしてもらい、さらには靴とインソール選びを手伝ってもらいたかった。
それで母に内緒で2回分の予約を取り、タイミングを見計らって母に伝えたのだけど、案の定断られてしまった。
結局2回とも、義父に送ってもらってわたしが治療を受けた。
外反母趾を緩和するための靴選びを教えてもらい、さっそく購入した靴を持って行ってインソールを入れてもらった。
いわゆる母へのデモンストレーションである。
瀧本先生の治療院までは、車でちょうど1時間かかる。
車に乗るまでにすでに(靴を履いたり家の前の階段を降りたりするための)時間がかかる母は、いくらその先生が優秀でも通えるわけがないと言う。
わたしはひたすらうんうんと頷くだけで何も言わない。
言わないけれど、インソール入りの新しい靴を履いては、「ああこれはいい、長年苦しんできた外反母趾が改善される予感がめっちゃする」とつぶやく。
もちろん瀧本先生がいかに優れた整体師であり鍼灸師であり、かつ外反母趾や足のむくみなどの相談にも真摯に乗ってくれる人だとアピールすることも忘れない。

そんなこんなの、なかなかにヘビーでしんどい思いが続いた10日間だったけれど、最後の最後に神さまがプレゼントしてくれた。
もう今日1日が最後だという日の前夜、義父の入れ歯がいきなり外れてしまった。
それで、早々に歯科医に予約を取らなければならないことになり、翌朝に電話をかけようとしていた彼に、わたしがふざけて「そんなに歯が欠けてたらフガフガになるやんな、こんなふうに」と言ったら、応対に出たスタッフの人が困るほど、わたしたち3人は爆笑してしまった。
可笑しくて、もう本当に可笑しくて、下の前歯が一本欠けている母と、上の前歯が一本欠けているわたしと、たったの9本しか歯が残っていない義父が、大きな口を開けてワハハワハハと涙を流しながら笑った。
なんとか予約を取り付けた後も、思い出しては笑い、また思い出しては笑う母。
やっと初めて、心から、来て良かったなあと思った。
出発の朝、こんなチャンスは2度と無いからと言って、3人で歯抜け爆笑記念写真を撮った。
年齢66歳、77歳、88歳の記念写真である。
こんなにすてきな笑顔の二人を見たのは初めてで、わたしはこの写真を一生の宝物にしようと思う。

追記
なんと母は朝から爆笑した最後の日に、いきなり瀧本先生のところに行くと言い出した。
それで慌ててスポーツ専門店に行って靴を買い、お薬手帳と一緒に持っていくようにと念を押して、あとは義父に任せた。
治療を受けてみて、やはり家から遠く疲れがひどいから通えないと思い、もう2度と行かないと言っていたのだけど、その夜は5時間も続けて眠れて、しかもそれだけ長く寝ると必ず痛んだ足がちっとも痛くなかったので、また治療を受けに行くことにしたらしい。
先生とは治療当日までに何度もLINEで話をし、母の性質や症状などを細かに伝えた。
1時間半かけて、整体と鍼治療、そして歩き方の指導などをし、その様子をLINEで話してくださったのだけど、その中で母のことを「バイタリティ強めのじゃじゃ馬母さん」とおっしゃっていて、そのあまりにも的確なあだ名に感動した。

家族もよう

2022年06月08日 | 家族とわたし
義父がこの世を卒業した日からもうすぐ1ヶ月。
不思議な時間の流れ方だった。
すごく前のことだったような気もするし、まだついこの間のことだったような気もする。
最も近しい家族たちは淡々と、静かに、ひそやかに、自身の気持ちを整えている。
わたしはまだ中学生の頃から、周りに自分の他の誰もいないまま、目の前で息を引き取っていく家族や親族を看取ったことが何回もある。
まるで知らない赤の他人さんなのに、たまたまお浄霊をさせていただいている時に最期の時が来て、看取らせてもらったこともある。
看取った後で亡くなったことを伝えに行くと、人それぞれのいろんな反応が返ってきたのだけど、そこには常にあふれ出てくる涙や言葉があった。
けれども今回経験したお見送りは、これまでのどのお見送りとも違う、実に淡々とした、もっと言えば清々しいお別れで、それがわたしを大いに戸惑わせた。
義父が息を引き取った瞬間から、彼の存在は義母の心の中に移った。
だからご遺体はもうただの物体で、遺灰もただの粉なのだ。
けれどもだからといって、その粉をそこらへんに撒いて捨てるわけにもいかない。
どうしたらいいものかと思案していたら、ある人からアメリカ合衆国政府が管理している、軍人、軍関係者や民間の重要人物等が埋葬されている墓地が、実家から車で15分ほどの所にあることを教えてもらい、そこに埋葬してもらうことにした。
セレモニー、埋葬、そしてその後の管理一切が無料で、妻である義母も、その時が来たら一緒に埋葬してもらえるのだそうだ。



そこでこれをお葬式の代わりにすることにした。
義父の妹たち、妻と息子と娘、孫たち、そしてとても近しい友だちや関係者だけが墓地に集まり、その後近くのホテルでランチを食べながら、義父の思い出ビデオをみんなで鑑賞した。

墓地でのセレモニーは一家族約15分。
トランペットではなくソプラノサックスがタップスを演奏し、その後3発の空砲が撃たれた。
事前に小さな子どもや心臓に疾患がある人は耳を塞ぐようにとの警告があり、わたしはそのどちらでもないけれど耳を塞いでおけばよかったと後悔するほど、とても心臓に悪い爆音が響いた。
その後に始まったこの儀式、国旗を広げ、また折り畳んでいく作法がとても興味深かったので、こっそり撮影したのだけど、案の定後で夫から呆れられた。


動画をここに載っけたら叱られるのかなあ…。内緒でここです→ https://youtu.be/_brMaP2lpLo

国旗を受け取った後、退役軍人さんからのお悔やみの言葉をいただく義母。


このセレモニーに参加するために、次男くんがまた西の端っこから東の端っこに帰省した。
彼は直前にシカゴで大きなトーナメントがあったらしく、そこですでに2時間の時差ボケをし、さらにここで1時間の時差ボケが追加され、普段からの寝不足も加わって体調が良くなかった。
三つの違う仕事を掛け持ちしている彼は、常日頃から極端な寝不足が続いている。
そこに、ついに自分がデザインしたゲームの完成が間近に迫っていることも重なって、無理に無理を重ねているので、せめて里帰りしている間ぐらいゆっくりさせてあげようと思っていた。
なのに、例えばわたしが台所で、溜まりに溜まったゴミ袋をゴミ箱から取り出そうとして、思わずウッと唸り声をあげると、リビングでくつろいでいるはずの次男くんが「どうしたん?」と言って駆け寄ってくる。
彼のすぐ隣で携帯電話記事を読んでいた夫は、その次男くんの慌てぶりに驚いて、何事かと付いてきた。
もしも次男くんがいなくて夫一人だったら、わたしが大声でヨイショーッと叫んでも、1ミリも動くことはない。
手伝おうとする次男くんに夫が一言、「これ、手伝う必要ある?」。
わたしの心の中に吹き荒れた大嵐については割愛する。

とにかく彼は優しい。
頼みもしないのに何かと気遣って助けてくれる。
頼んでもあれこれ理由をつけて断ってくるどこかの誰かさんとは桁違いの優しさなのである。
なのでやっぱり甘えてしまった。
左腕の上部が痛くて重いものが持てないので、ガーデニングの土やウッドチップを買い控えていたのだけど、この時とばかりに店に行って運搬を手伝ってもらった。
疲れてるのにごめんねと言うと、ちょうど運動不足だったので良い運動になると言って、バーベルのように頭の上に持ち上げたりする。
いやあ全く、一体誰の子だ?
いやいや、親バカが炸裂してしまったようだ。ここらへんでやめておこう。

長男くんと奥さんのTちゃんも2泊3日で来てくれた。
3人が揃うのは本当に久しぶり。
次男くんのフィアンセのEちゃんもいたら良かったのだけど、愛犬スミくんを置いて来るわけにはいかない。
それはともかく、このろくすっぽ会えなかった魔の2年半の間に、長男くんは出世し、Tちゃんはグリーンカード&公認会計士資格を取得し、新居に引っ越した。
次男くんとEちゃんも、それぞれの夢だった仕事に就職し、西海岸に引っ越して行った。
なのに夫とわたしは、全く何もしないまま時間だけが過ぎてしまっていた。
なのでこの機会に、残念ながらEちゃんはいないけど、せめて3人にご馳走しようと、最近見つけたお寿司屋さんに出かけた。
へそくりがちゃんと財布の中に入っているのを確認して、みんなにおまかせ寿司を薦める。

これは先月の末に、結婚30周年記念を祝って夫と二人で食べたメニューで、それがとても美味しかったのだ。





と続き、とびっきり旨い寿司が登場する。

次にミニステーキがやってきてデザートで〆る。


息子たちは二人揃って、親とは真逆の高給取りで口が肥えているからか、寿司以外にはあまり感動してくれなかったけど、でもまあいいや、みんなで楽しく食べられたんだからと、気を取り直してお会計をしてもらおうとすると、
いや、今夜は僕が出すつもりやったと長男くん。
え?そういうわけにはいかんわ、わたしが勝手にメニューを決めてお祝いのつもりでご馳走しようと思ったんやから。
そのお金ってどっから?
どっからって、わたしのへそくりやん。
そんなら余計に使わすわけにはいかんわ、僕が払う。
というわけで、長男くんには大金を散財させて、次男くんには肉体労働を強いた、とほほな母親で終わってしまったのであった。

さようなら

2022年05月17日 | 家族とわたし
5月11日の朝、義父が亡くなりました。
享年81歳、来月6月の82歳の誕生日を迎えることはできませんでした。



彼が数年前に癌を発症してからの闘病生活の介助、昨年末に肺炎を発症してからの看護と介護は、長年連れ添った義母が一手に引き受けていましたが、在宅ホスピスケアが始まってからは流石に一人では無理になり、最期の2ヶ月間は夜間ケアを引き受けてくれる看護師を雇いました。
息子であり、鍼灸や漢方の治療ができる夫は、毎週末の3日間はペンシルバニアにある実家に通い、父親の容態に合わせて看護を続けていました。


義父の容態は日々変化し、調子が良かったり悪かったり、もう危ないかと思ったらまだまだ大丈夫と思ったり。
施設や病院には入りたくないという彼の思いを尊重するには、介護する家族の者が、さまざまな医療機器をレンタルしてはそれらの使い方を学んだり、口から食べてもらえる食事の工夫や空調管理、床ずれ防止の方法などを身に付けなければなりません。



それに義父は紙オムツの使用が本当に嫌だったので、自分で用を足そうと最後までもがいていました。
そもそも父は、家族にさえ、くつろいだ服装を見せないような人でした。
パジャマ姿はもちろんのこと、どんなに暑い日でも下着やカジュアルな部屋着などで過ごすこともなく、ショートパンツでさえ履かなかったので、この30年、わたしは義父の太ももはもちろん脛も素足も見たことがありませんでした。
あ、そういえば、ハワイに旅行した時だけ履いていたかもしれません、ショートパンツ。
でも、絶対に泳がなかったので、水着姿も見たことがありません。
なので自分の意思でおしっこを出さなかったり、うんちを我慢してしまうようなこともありましたし、もう自分では立てないのに立とうとして、女性の看護師さんを困らせたりもしたようです。



最後の最後まで自分らしくあろうとした義父は、家族が誰もいなくなった日の朝に、いつものように食事をし、付き添いの看護師さんと一言二言言葉を交わし、その後静かに息を引き取りました。



小学校の頃からの知り合いで、中学校高校とお互いを気に留めながら過ごし、大学時代から恋人になり、結婚をし、その後60年を義父と共に暮らしてきた義母は、彼の闘病をずっと支えてきました。
義父は癌の発病後数年で視力をほとんど失い、生活の中の事細かな部分で助けが必要となり、服の着替えから靴を履くことはもちろん、会議への出席やメールの読み聞かせなどの事務的な補助や食事の管理など、義母にとっては一日中休む間も無い状態が何年も続いていました。
ベッドに寝たきりになってからは、そういう類の世話はしなくてもよくなりましたが、今度は命の存続に関わる事態になったので、義父の症状が良くなる食べ物やサプリメントを与えようと奮闘していました。



主任看護師や義母、そして夫が見る限り、これは長期戦になるんじゃないかと考え始めていた今月の初めに、義母はここらで一度休みを取ろうと決心し、家から4時間ほど車で走ったところにあるリゾートに出かけることにしました。
それを義父に伝え、実に6、7年ぶりに夫の元から離れ、独りの時間を過ごしに出かけたその二日後の朝、台湾人の鍼灸師に施術をしてもらっている最中に訃報が届いたのでした。
その場に居合わせた鍼灸師は、ショックでうまく息ができなくなった義母が落ち着くまで寄り添ってくれたそうです。



義父らしいお別れだったなあと、今ではしみじみそう思います。

義父はハーシー社の重役を務めた後、存続が危ぶまれていた保険会社の再建などに活躍し、さらには非営利団体や官民団体の役員を通して芸術への並外れた貢献と支援を続け、数々の表彰を受けました。
それらの活動を通して彼と関わった人たちは皆、口を揃えてこう言います。
「彼がいなければ今日の〇〇は存在しなかった」
「彼はとても物静かだが、仕事は受動的でなく、物事をきちんと把握し、失敗を許さなかった」
「彼は慈善活動を通じて、謙虚で静かな人柄を保った」
「既存のアーティストや古典的な作品に資金を提供するのではなく、新しいものを積極的に求めることに並々ならぬ情熱を持っていた」
「人生の最後の30年間を、非営利団体のリーダーシップと非営利団体内のリーダーの息性に捧げた」
彼のお悔やみ記事は、地元紙の日曜版の3ページ目を全て使って大きく掲載されました。


大々的な表彰式には何回か出席したことがあったので、彼の業績や貢献をわたしなりに理解していたつもりでしたが、彼は本当に偉大な人だったんだなと思います。
彼のような人と出会えたことを、心から感謝したいです。

義父が亡くなった日、夫とわたしは仕事を全てキャンセルし、ペンシルバニアの実家に向かったのですが、途中で義母を出先まで迎えに行くべきだと考え、行き先を母が滞在しているリゾートに変更しました。
結局辿り着いたのは夜の11時。


急遽、数時間だけ寝るためだけに一部屋借りてもらい、翌日の朝早くに、わたしたちを待つ義父の元に戻りました。




義母は自分の胸に手を当て、もうあの体には彼はいない、ここにいるのだからと言って、葬儀屋の人たちが彼のご遺体を家から運び出す際にも見送ることもしませんでした。
先週の始めまで長期戦になると思っていたので何も決まっておらず、先週末は火葬や遺灰の埋葬などの日程を決めることで忙しかったのですが、今はそれらのほとんどの段取りがつきました。
義母を寂しくさせないようにと、夫も一昨日まで実家に留まっていましたが、多分大丈夫だろうとこちらに戻って来ました。


結婚する前の15年間、結婚してからの60年間、本当に長い年月を共に過ごしてきたパートナーでした。
その相方がいなくなった義母の喪失感を、わたしには計り知ることなどできません。
けれども義母は、どんどんとできないことが増え、心底嫌がっていた下の世話を断ることができなくなった夫が、弱々しく手を振りながら、なんとかしてベッドから出ようとする姿を見るにつけ、こんな質の悪い生活を長く続けさせたくないと考えていたようです。

在宅ホスピスという、家族にとっては最も大変な方法を選び、最後まで頑張り抜いた義父と義母。
もうこの舞台は閉じられます。


部屋の主がいなくなったことを敏感に感じ取っている家猫ピーターは、ここで昼寝をすることが増えました。



お義母さんのこと、頼むね、ピーター。