池波正太郎の主な小説はほとんど読了し、最近はエッセイを読んでいる。
「おおげさがきらい」(講談社文庫、全集本編集時に見つかった未収録エッセイ集)の中に、「四十眼」という一文がある。昭和38年の「日曜随想」に書いたものだ。
老いから来る不自由を楽しみとして捉えよう、という生き方についてのエッセイで、
・年をとるにしたがってこんな楽しみがあるもんなんだね。
・老人になるにしたがって、いろいろのたのしみがふえていくに違いないと私は思う。
・肉体の力がおとろえることは悲しいが、よく考えてみると、日々のあけくれを味わうことが、いまの私にとって何よりもうれしいことだ。眼鏡をかけ本へむかうと、「さあ読むぞ」という闘志さえもわいてくる。
・五十になったらどんなたのしみが待ってくれるだろう。
・たのしみとともに五十の悲しみもやってこようが、私はたのしみだけを探って生きたいものだと考えているのだ。
このエッセイは、題や文からわかるように、池波40歳のものである。
自分を省みると、まだ若いと思いながら、初めて「ぎっくり腰」を経験したころである。「たのしむ」などとは考えても見なかった。
「たのしい」ことと、「悲しい、苦しい」こととは、表裏一体のことのようで、芥川の「朱儒の言葉」の中の「瑣事」という項に、
・人生を幸福にする為には、日常の瑣事を愛さねばならぬ
とあるが、相通ずるものがある。
しかし、芥川は人生を斜めにみているのに対し、池波はあくまで積極的にとらえている。大きな違いだ。
「都市型限界集落」などという言葉が出て来るこのころだが、もっと前向きに高齢化社会を考えていきたいものだ。池波の生き方にヒントを得たい。