意外と社会派(予定)

赤熊の辛口社会派(予定)ブログです。
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小中学校での英語教育は必要ない

2014年03月01日 | 教育
文部科学省が小中高校の英語教育の強化計画を打ち出したそうである。

>小学校で英語を教え始める時期を現行の小学5年から小学3年に早め、5年生からは正式な教科にする。中学の英語の授業は原則英語で行い、高校では生徒が英語で発表や討論をできるようにする。そんな内容だ。(読売新聞)

それでこんな記事を見つけた。

英語教育改革よりも日本語で主張をすることが先じゃないかね?  清谷信一
http://blogos.com/article/81360/

この筆者の意見に大よそ賛成です。
赤熊も率直に言って『どこの植民地ですか?』と言いたい。
まずは日本語・・・というのはその通りだと思います。

ただ、『日本語で自己主張をし、議論ができる能力を伸ばす教育』をすべきかどうかは疑問です。
というのも『そんな暇あるの?』という素朴な疑問があるからです。

新たな内容を追加する・・・というのは、言い換えれば『他の内容を減らす』ということに他ならず、今でさえ、あれもこれもと詰め込んでいる状況なのに、他のことをするのはなかなか難しいと思います。
何でも教えられるわけじゃないのですから取捨選択が必要なのです。
問題は『必要かどうか?』『重要かどうか?』の意見というのは経験や立場や状況によって大きく変わってくるもので、そんな中で話し合っても結論というものは出ません。
少量なら変えることはできるでしょうが、全面的な改定など夢のまた夢です。
基本的な事柄って決まってるしね。

であるならば、内容はそのままでも効率的な授業内容を構築すべきです。
これならば組み換えだけで済むのですから問題ありません。

それを考えれば、中学校ですら英語教育をするのは即座に否定される話なのです。

まず、早期教育をすれば早く英語を身に付ける・・・そうすればLとRの発音がきちんとできる・・・とかそういう幻想を持っている人がいますが、3歳児くらいではそうかもしれませんが、小学校に上がる年齢だともう手遅れでしょうね。
というか、LとRの発音ができること自体、それほど有効じゃないでしょう。
特に日本語というのは複雑な言語なのに、そんな時分に他のことをやってる暇はないんですよ。
ならば、スパッと諦めたほうがいい。
むしろ中途半端に施したところで他の教化を圧迫するだけですから逆に害悪にすらなってます。

また、日常生活において英語というものは必要ない。
たとえば、『昨日、あなたは英語が必要でしたか?』
そう聞けば、ほとんどの人間で答えはNOでしょう。
生涯で何度かあるかもしれない外国人に道を聞かれたときに必要かもしれませんが、そのために3年間(それ以上)を使うなんて馬鹿馬鹿しいを通り越して愚かですね。
少なくとも義務教育で教えることではない。
もっと有用なことはたくさんあります。

なので、義務教育である中学校で英語教育を施すのはそもそもが無駄であるし、効率という観点に立てば否定されることです。
義務教育ですべきではないし、少なくとも高等教育からすべきことです。
それに『1日1時間を6年間』するのと『1日2時間を3年間』するのではどちらが効率的か?といわれれば、おそらく後者の方が効率は良いでしょう。

まぁ、それほど変わらないという意見もあると思いますが、語学は『母国語の理解力と比例する』という研究結果もあるわけです。
感覚的にも日本語が理解できないのに、英語なら理解できる・・・なんてことは考えられないわけです。
であるならば、先に語学の基本的なことを先に教えておくべきです。
語学・・・日本語は生きていくうえで英語より何百、何千倍も重要で、ここが解らなければ仕事にならないですしね。

それで役に立つのは『古典』と『漢文』でしょう。
古典や漢文というのは昔の物語を読んで面白かったとか、ためになったとか、そういう教養的な使われ方をしてますが、その本質は、古典なら『日本語の変遷』であり、漢文なら日本語でありながら半外国語(中国語)であるという絶妙なもので、『日本語の構成』を学ぶためにあるです。
これらは変化を読み取り、日本語の理解を深めるのに非常に有効なのです。

・・・・・・今の古典・漢文教育にそれができているかどうかは置いときます。

まぁ、完全にできてませんが、この2つをきちんと押さえておければ、その後の英語教育に非常に有用なのです。(なので英作文のように古日本語作文や漢作文の授業が必要だと思います)
大正・明治時代の日本人が英語能力が高かったのはそのためだとも言われてます。
まぁ、特定の選ばれただけの人間しか学んでいなかった時代ですから、それをそのまま鵜呑みにするわけにはいきませんが、それでも理解の一助にはなってたはずです。

中学の英語の授業をすべて廃止して、高校の古文と漢文と組み替えるべきですね。
そのまま組み込んでも失敗するでしょうから配分や内容は考えないといけませんが、教師を確保するのも組み替えるだけなのでそれほど苦はありません。(これらも固めて教えることにより、より効率的に教えることができると思います)

加えて、英語教育で国際人うんぬんとかコミュニケーションを取らせるようにすべきとか言ってるのが嗤えるのですが、本当にコミュニケーションを取らせようとすれば、教えるべき内容は自分自身のバックボーン、つまり日本の事ですね。
文化や歴史、習慣、風俗・・・といったことですね。
例えば、参勤交代について英語で説明しろ・・・と言われてもすぐには難しいわけです。
他にもこんにゃくとか味噌とか醤油とか日本独特の食べ物などを英語で説明しろといわれても難しいですよね。

でもこういうことを説明できることこそがコミュニケーションの一歩なわけで、相手のことで知らないことは相手に聞けばいいんですよ。
それがコミュニケーションです。
ついでに言うと日本の事なら教わる方も取っ掛かり安いでしょうし、歴史なら歴史の授業の復習にもなるしね。

いいことづくめなんですけど、どうしてか外国文学や外国の話になってるんですよね・・・英語の授業。
非効率ですね。
英語が好きな人は英文学とか好きだもんね。
おそらくその関係で取り上げてるのでしょうけど、でもそんなのは教育として無駄。
外国のことも知らなければならないって主張する人もいますけど、そういう比較文化論的なことは日本語でやったほう早く深く正確に理解できますから英語ではなく国語の範疇なのです。

まずは、そういったことから見直したほうがいいと思います。
その上で、新しいことを加える削るを考えないといつまでたっても無駄な授業を繰り返すだけです。


2014.03.02  訂正・追記あり

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