MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

義母の旅立ち (7) ~ キチン・オケ

2009-01-15 00:18:02 | その他の音楽記事

01/15      キチン・オーケストラ




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 残った最大の問題は、三度の食事の用意でした。




 設立当初は "自炊" を建前にしていましたが、大人数の
合宿では、現実問題として不可能です。

 かと言って、専門の食事責任者を、常時置くわけにも
行きません。 また、必要なときだけコックを呼ぶのにも
無理があります。

 それに、対外的にも "自炊" ということにしておかないと、
やはり色々まずいことになります。




 ここで、"アルバイト" という名目で奉仕してくれたのが、
若い学生さんたちです。 窮状を目の当たりにして、自分
たちの合宿と重ならない時期を、三度の食事作りのために
当ててくれたのです。

 献立、買出し、調理と、彼らの活躍が始まりました。

 中には、合宿の予定が無くても奉仕のためにだけ、
現地に足を運んでくれる者もいました。

 いえ、卒業してからも、貴重なメンバーとして活躍した
方々まで、何人も。




 ここで必要になったのが、調理室と浴室の移築、及び、
貴重な働き手の方々のための宿舎でした。

 このために行われた第五期工事が 1971年6月に竣工
し、すべての工事が終わりを告げたのです。





 彼らは、誰言うともなく、"キチン・オケ" という名前で自分
たちを呼ぶようになりました。 テルが "コンダクター" です。

 楽器を嗜む方が大半ですが、そうでなくても全員が貴重な
メンバーでした。




 毎年、夏の終わりに、大口の利用団体がいなくなり、仕事が
終わると、学校や所属団体の違いを超えて共に働いてきた
仲間たちは、再び離ればなれになります。

 そこでお互いの健闘を称えあい、別れを惜しむために、頃を
見計らって現地で行われたのが、"焼き肉会" (パーティ) です。
これはいつしか、毎年の慣例となりました。



              泰雄の遺品アルバムより





 また年末には、東京の応接間で "クリスマス会" も行われる
ようになりました。

 今や皆さん、"昔の学生さん" たちとなり、お子様方を伴っての
出席ですが、こういう形で旧交を温めているのは、見ていて
まことに微笑ましい限りです。




 例の古いグランド・ピアノも、声を上げて参加しています。

 この応接間は、かつては息子たちの音楽室でした。 また
ここでは、数々のキリスト教集会が催され、ピアノは讃美の
貴重な支え手でもありました。




 テルは、最後のクリスマス会に同席し、

 「ピアノを弾きたい」

と言って前に導かれ、ポンポン音を出しました。 きっと
少女時代を思い出していたのでしょう。




 彼女が旅立ったのは、それから二週間ほど経った、
ある朝のことでした。

 急を聞いて駆けつけてくれたキチン・オケの面々は、
別れを惜しみつつも、テルのために奔走し、最後の
奉仕をし尽くしてくれました。




              吉祥寺集会 M兄弟 写す




 テルは天国でも

 「集会を開きたい、ホールを作りたい、オケを組織したい」

と、電話や手紙で連絡を取り始めるような気がします。



 ひょっとすると、あなたのところへも…。


      
            テル              泰雄
      (1915/6/22 ~ 2008/12/26)  (1912/8/13 ~ 2002/5/4)





  以下は、関連サイトです。




  [北軽井沢広場]


  [催し物の案内例]




 北軽井沢ミュージックホールは、現在、長野原の町営施設として
お役に立っており、建物の外観にはほとんど変わりがありません。

 しかし、その内部で交わされた、様々な深い交流は、ひょっとして
もう見られないかもしれません。





 田中テルは、

 『神 "山の音楽堂" を完成し給えり

という小冊子を残しており、この私の文章も、ほとんどそれに
沿って書かれたものです。




 それを開くとまず目につくのは、

 「主が家を建てるのでなければ建てる者の働きはむなしい」
             (詩篇127篇)

という聖言(みことば) です。




 テルとて、単なる "器" に過ぎませんでした。

 しかし、その中に宿った力は、まことに偉大なものでした。





            当時のパンフレットより


 





 私自身は、さる大口の利用団体の渉外係として、事務局を
訪れましたが、最初に通されたのが、"ピアノのある応接間"
でした。

 この出来事が無ければ、おそらく私の人生はまったく別の
ものになっており、音楽を専門とすることも無かったはずです。

 テルに寄せる、最大の感謝の一つです。




 また、今こうしてお読みいただいている文章を書くことも、
決して無かったでしょう。






 最後になりましたが、北軽井沢ミュージックホールが

出来るきっかけとなった、息子のヴァイオリン奏者、

田中泰興(やすおき) は、少年時代から米国で学び続け、

長らく Baltimore Symphony Orchestra で活躍

しました。





    [北軽井沢周辺の写真アルバム]




 (この項終わり)