MARU にひかれて ~ ある Violin 弾きの雑感

“まる” は、思い出をたくさん残してくれた駄犬の名です。

義母の旅立ち (4) ~ 有るとき払いの…

2009-01-12 00:18:20 | その他の音楽記事

01/12      有るとき払いの催促なし




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 新しい施設の実現に向けて、片づけなければならない
問題は、山ほどありました。




 テルが真っ先に相談を持ちかけたのは、夫です。




 この話を聞かされた田中泰雄は、一瞬息を飲んだものの、

 「ヴァイオリン奏者の息子が受けた恵みの一部を、
 他の方に少しでもお分けしなければ…」

という妻の熱意に動かされました。




 そして、齋藤先生から受け取った図面を眺め、

 「先生がそこまで乗り気なら、一つ一つ本腰を
入れて実行していこう…」

と承諾し、自ら齋藤先生の元に足を運び、詳細な
打ち合わせが始まりました。




 お金が関係する事柄だけに、この時点で夫君の同意が
得られなければ、実現は到底不可能だったでしょう。

  





 必要だった発起人も、テルの個人的な交友関係の
ほか、師と仰ぐ齋藤先生の呼びかけに呼応して、
弟子たちの母親のみなさんが、何人も名を連ねて
くれました。




 また、齋藤先生の親しい友人で、設計図を書いてくれた、
工務店の佐藤社長は、幸いにも大変温かい方で、

 「手付け金など要りません、日本で初めての、
大自然の中の音楽施設なら喜んで協力します」

と言ってくれたのです。




現地の周和工務店社長、植原氏も、

 「有るとき払いの催促なしで行きましょうよ!」

という態度を、以後、四期工事に至るまで、
一貫して崩そうとしませんでした。




 しかし、さらに難問が幾つか、待ち構えていました。





 まず、建設資金を調達しなければなりません。




 音楽関係者や財界に当てて、募金をお願いするための
手紙書きが始まりました。 夫妻の指は腫れ上がり、
思うように動かなくなったと言います。

 宛先は、北は北海道から南は九州まで、いや、米国の
ロックフェラー財団にまで及びました。

 毎日山ほどの手紙が大きな箱に詰め込まれ、何度となく
郵便局に運ばれました。 齋藤先生の弟子の母親の方々
からも、貴重な協力が得られました。




 しかし、書かれた膨大な手紙が送金にまで結びついた
事例は、ごく限られた数に止まりました。




 「"日本で初めての施設、善行、手書きの手紙、真心…" と、
 自らの行いをいつしか誇りに思う、心の傲慢さに気付いた」、


 そのような記述が、この時期のテルの手記には多く見られます。

 「大事なのは祈りだった」、そう頻繁に書かれるようになります。





 以後、二度に亘る慈善コンサートによって、かなりの資金が
集まりました。

 しかし、「養老院や障害者施設に比べて、こんな贅沢なものに
寄付など出来るものか」、そのような見方が当時多かったのも、
また事実です。

 また周囲からは、「祈りだけなんて甘い、大事なのは行動だ」
というお叱りをいただくことも多く、物心共に困難な日々が続き
ました。




 お金集めに追いまくられる状況は、のちの第四期工事に
至るまで、終始変わりませんでした。 手元にお金が無くても、
次の工事を計画せざるを得なかったのです。





 そうこうするうちに、何とか第一期工事が始まりました。
小規模な練習スタジオや、付随する部屋の工事です。




 しかし、竣工する1967年夏に向い、難問がもう一つ
立ちはだかりました。

 群馬県庁に申請した、財団法人の認可が難航を
極め、容易には許可が下りないのです。




 (続く)