「乱歩と東京」松山巌/ちくま学芸文庫
1920年代の東京と江戸川乱歩。松山巌氏は、緻密な当時の世相や時代背景の分析と乱歩の小説をまるで迷宮の道筋を解いていくように綴っている、本書は精緻な分析で日本の近代化の一側面を探った力作である。以下はその簡易メモ。(2日連続投稿予定)
章・感覚の文化と変質
<探偵の目>
1920年代の東京は地方からの流入者が増え急激に人口が増加、都市から大都市に変貌した時代であった。その一側面として、コーヒーを飲みながら無為に時間をつぶす若者たち(=高等遊民)を受け入れる開放空間としての喫茶店が増えていったのである。『D坂の殺人事件』における私と明智小五郎も、この喫茶店で探偵小説を語り合っている。彼等はそこでのみ出あうという希薄な人間関係である。この関係の希薄さは、都市の新しい貌でもあった。その希薄さは傍らで現実の生活の中に矛盾やズレを発見する鋭い目付(=探偵の目)を内在させていく。それは探偵小説そのものであった。D坂で起こった殺人事件の背景の裏側にある「非日常的でドロドロとした間関係」を明智小五郎はきっちり見抜いていたのである。
<目と舌と鼻、そして指>
東京が急激に近代化・都市化されるにつけ私たちの感覚(五感)における視覚の優位性が強調されるようになっていった。乱歩は、触覚によって統合される体性感覚の低下に異をとなえるかのように『人間椅子』を発表する。(他にも『虫』『盲獣』)興味深いのは、椅子の中に男が潜んでいると恐怖におののいた女性が、それが置いてある洋間から畳のある日本間に逃げ込む場面である。その描写は私たちは、どんなに西洋風の文化を生活に取り入れようとも、“靴を脱いで床に座る”という触覚によって統合されている日本人の身体の「体性感覚によって、いまだ統合されている」ということを
如実に語っているのである。
章・大衆社会の快楽と窮乏
<高等遊民の恐怖>
近代化に伴う視聴覚文化の洪水(映画、写真、印刷、ネオン、ラジオ、レコードなど)は、都市そのものをハレの空間へと変貌させた。このハレ空間の中で、すべてに退屈し無為にブラブラ生きる高等遊民の物語(『屋根裏の散歩者』に登場する郷田は、実は都市の絶え間ない「刺激から逃れて、瞬時の自己回復を得ようと」する男であった。自己の殻に閉じこもり屋根裏を徘徊する郷田、彼が天井裏から覗いた恐怖とは、人間の内と外という二面性ではなく、「人格を機械化し個性を劣弱ならしめる社会機構の中で生きる己が顔」、つまり「自らの視線」そのものであった。彼の殺人行為を見破る明智小五郎は、その無意識の僅かな徴を見逃さなかったのである。
<貧乏書生の快楽>
乱歩のデビュー作『二銭銅貨』は、1920年代に入って経済は恐慌に突入し高等教育は受けたものの仕事がないという貧乏書生の知恵比べの話である。それは今までの探偵小説にはなかった“暗号解読”をテーマとした小説であった。その暗号解読という本題とは別に、「もう一つの暗号」=“お金”がちりばめられた作品ともなっているのである。「5万円から20銭のブリキの金歯までお金が主人公の話としても読める」のだ。すべては“私”の冗談から始まる話なのであるが、不況の時代に相応しく、「いかに人が金によって翻弄されるか」という実験話であった。
章・性の解放、抑圧の性
<姦通>
大正デモクラシーは「新しい女(=社会進出する女性)」たちを生み出していっが、以前夫権優位の体制は変わることなかった。(何と戦後まで『姦通罪』が存在していたのである)『D坂の殺人事件』『接吻』『一人二役』『覆面の舞踏者』『お勢登場』といった作品は、男尊女卑の時代において妻の不貞をテーマとした物語であった。ところで、大都市においては大家族が解体し核家族化が進行する。具体的な「家」制度と現実の矛盾の間で生きているより旧家出身の無能者?そんな心理的モラトリアム青年を描いたのが『人でなしの恋』。女性はドアを開けようとも相方は自己の殻に閉じこもったままなので、“お勢”のように女性たちは「真に自立した男に出会うまで」きっと彷徨続けるしかないのだ。
<スワッピング>
「20年代はエロティシズムに彩られた時代というが、むしろ性が貧しさによって深い影におおわれた時代」であった。乱歩は「性が制度のなかにあって、なおかつ、その枠を超えてしまうとき、つまり性が犯罪となって現れる、瞬間にこそ」興味を持ったのである。『覆面の舞踏者』『一人二役』は「夫婦像の形骸を残して自由な性愛を求めた」作品だ。そこでは「性知識の氾濫のなかで、夫婦は必死で想像力を駆使して、貧しさを忘れ合っているのである。」
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1920年代の東京と江戸川乱歩。松山巌氏は、緻密な当時の世相や時代背景の分析と乱歩の小説をまるで迷宮の道筋を解いていくように綴っている、本書は精緻な分析で日本の近代化の一側面を探った力作である。以下はその簡易メモ。(2日連続投稿予定)
章・感覚の文化と変質
<探偵の目>
1920年代の東京は地方からの流入者が増え急激に人口が増加、都市から大都市に変貌した時代であった。その一側面として、コーヒーを飲みながら無為に時間をつぶす若者たち(=高等遊民)を受け入れる開放空間としての喫茶店が増えていったのである。『D坂の殺人事件』における私と明智小五郎も、この喫茶店で探偵小説を語り合っている。彼等はそこでのみ出あうという希薄な人間関係である。この関係の希薄さは、都市の新しい貌でもあった。その希薄さは傍らで現実の生活の中に矛盾やズレを発見する鋭い目付(=探偵の目)を内在させていく。それは探偵小説そのものであった。D坂で起こった殺人事件の背景の裏側にある「非日常的でドロドロとした間関係」を明智小五郎はきっちり見抜いていたのである。
<目と舌と鼻、そして指>
東京が急激に近代化・都市化されるにつけ私たちの感覚(五感)における視覚の優位性が強調されるようになっていった。乱歩は、触覚によって統合される体性感覚の低下に異をとなえるかのように『人間椅子』を発表する。(他にも『虫』『盲獣』)興味深いのは、椅子の中に男が潜んでいると恐怖におののいた女性が、それが置いてある洋間から畳のある日本間に逃げ込む場面である。その描写は私たちは、どんなに西洋風の文化を生活に取り入れようとも、“靴を脱いで床に座る”という触覚によって統合されている日本人の身体の「体性感覚によって、いまだ統合されている」ということを
如実に語っているのである。
章・大衆社会の快楽と窮乏
<高等遊民の恐怖>
近代化に伴う視聴覚文化の洪水(映画、写真、印刷、ネオン、ラジオ、レコードなど)は、都市そのものをハレの空間へと変貌させた。このハレ空間の中で、すべてに退屈し無為にブラブラ生きる高等遊民の物語(『屋根裏の散歩者』に登場する郷田は、実は都市の絶え間ない「刺激から逃れて、瞬時の自己回復を得ようと」する男であった。自己の殻に閉じこもり屋根裏を徘徊する郷田、彼が天井裏から覗いた恐怖とは、人間の内と外という二面性ではなく、「人格を機械化し個性を劣弱ならしめる社会機構の中で生きる己が顔」、つまり「自らの視線」そのものであった。彼の殺人行為を見破る明智小五郎は、その無意識の僅かな徴を見逃さなかったのである。
<貧乏書生の快楽>
乱歩のデビュー作『二銭銅貨』は、1920年代に入って経済は恐慌に突入し高等教育は受けたものの仕事がないという貧乏書生の知恵比べの話である。それは今までの探偵小説にはなかった“暗号解読”をテーマとした小説であった。その暗号解読という本題とは別に、「もう一つの暗号」=“お金”がちりばめられた作品ともなっているのである。「5万円から20銭のブリキの金歯までお金が主人公の話としても読める」のだ。すべては“私”の冗談から始まる話なのであるが、不況の時代に相応しく、「いかに人が金によって翻弄されるか」という実験話であった。
章・性の解放、抑圧の性
<姦通>
大正デモクラシーは「新しい女(=社会進出する女性)」たちを生み出していっが、以前夫権優位の体制は変わることなかった。(何と戦後まで『姦通罪』が存在していたのである)『D坂の殺人事件』『接吻』『一人二役』『覆面の舞踏者』『お勢登場』といった作品は、男尊女卑の時代において妻の不貞をテーマとした物語であった。ところで、大都市においては大家族が解体し核家族化が進行する。具体的な「家」制度と現実の矛盾の間で生きているより旧家出身の無能者?そんな心理的モラトリアム青年を描いたのが『人でなしの恋』。女性はドアを開けようとも相方は自己の殻に閉じこもったままなので、“お勢”のように女性たちは「真に自立した男に出会うまで」きっと彷徨続けるしかないのだ。
<スワッピング>
「20年代はエロティシズムに彩られた時代というが、むしろ性が貧しさによって深い影におおわれた時代」であった。乱歩は「性が制度のなかにあって、なおかつ、その枠を超えてしまうとき、つまり性が犯罪となって現れる、瞬間にこそ」興味を持ったのである。『覆面の舞踏者』『一人二役』は「夫婦像の形骸を残して自由な性愛を求めた」作品だ。そこでは「性知識の氾濫のなかで、夫婦は必死で想像力を駆使して、貧しさを忘れ合っているのである。」
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