神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

台湾に向き合う

2010年04月30日 13時33分34秒 | 文化
『台湾--変容し躊躇するアイデンティティ』(若林正丈著、ちくま新書、2001)を読む。

一九七〇年代後半を大学生として過ごしたわたしは何度か海外へひとり旅をした。東アジアでは、中国はまだ簡単に入国できなかった事情があり、最初の海外旅行の地として韓国を撰んだ。朴正煕大統領の独裁政治のただなかで、戒厳令が敷かれていた。
ところが同じ戒厳令が敷かれていた台湾に行かず、韓国に行ったのはどういう理由だったのだろう。韓国の歴史と文化の蓄積に魅力を感じていたのに較べて、台湾には私を引きつける決定的な動機がなかったのだ。もちろん、台湾は、父が小学校の時に住んでいた場所(台南市)であって、興味は抱いていたが、自分の中で台湾に行く必然性が見出せなかったのである。

本書を読んで、思いつくところを書いてみよう。

1.台湾(人)もまたアイデンティティに揺れるているのだということが、本書が伝えたい重要なテーマである。1895年から50年間にわたり日本の植民地であったために、自前の国民国家をつくることができなかった。しかも日本が1945年に降伏してから国家主権を担ったのは、台湾居住者ではなく中国本土からやってきた統治者であった。
さらに1949年の国共内戦の敗北によって、蒋介石を初めとする大量の国民党の軍隊と関係者が台湾に移り住み、あらためて台湾そのものが再設定されることになった。これによって、台湾の住民は、(1)もともと台湾島に居住していた原住民(日本統治時代は「高砂族」と言われた)と、(2)漢族系のびん南族(「福ろう人」とも、祖先が福建省で、詳しくは「泉州人」と「せん州人」とに別れる)、(3)客家族(客家語をしゃべる。台湾に来ているのは主に広東省北部出身者)、(4)そして外省人と呼ばれている中国大陸からやってきたひとたち(必ずしも漢族ばかりでなく満州族なども含まれていた)といった、四つの「族群」がある。その族群が台湾のエスニシティを構成しているために、「多重族群社会」と云われている。

2.四つの族群は、言語が違う。戦後になっても原住民における部族間の共通語が日本語であったのはよく知られた事実である。また七〇歳以上の台湾人は日本語で育った人たちで、日本語による文学創作も続けられている。しかし、びん南語を中心に発達した台湾語は、戦後になって弾圧され、学校で使用が禁止され、日本語教育が徹底された奄美・沖縄と同じ情況が展開していた。こうした言語の多重性は今でも続いている。わたしの知る神戸生まれの台湾人(30歳代女性)が台湾で勉学している時、学校ではバイリンガルだったそうだ。本省人同士では、台湾語をしゃべるが、外省人出身の同級生には分からないらしく、教室内で「なにいってるの」「あっ、ごめん」と言って国語(中国語)で言い換えるといった場面は日常のことだったという。また、神戸にいると、少年の頃に耳にした中国語といえば、圧倒的に台湾出身者の台湾語であったために、あの柔和で、耳にやわらかい台湾語を聞き慣れていたわたしにとって、中国本土の北京語や、本土の言葉は耳に刺すように響いて違和感を感じでいた。

3.本書は、台湾の戦後の政治史を理解するのに、よくまとまった内容であるといえよう。特に戦後の台湾社会の政治史の変遷については、簡便に書きまとめている(反面、文化的な記述が少ないが)。台湾社会が経済成長をとげ、徐々に本省人に対して門戸を開け、そして本省人の李登輝総統の出現を準備した人物として、蒋経国の実績を客観的に記述していることも印象にのこる。

4.あれはきっと外省人系のひとだったのだろう。神戸で大きく事業を展開する台湾系のひとと口論になったことがある。その人は、日本ならびに日本人そのものに不信感を抱いていて、決して台湾の人たちがすべて親日的ではないということを、わたしに教えてくれたのである。まさに台湾は、「多重族群社会」としてのモザイクのように存在しつづけ、今でも、「台湾人」=国民というアイデンティティや均質性を模索しているのことが分かる。

5.わたしはいずれ台湾の地を踏もうと思っている。亡くなった父の故地のひとつである台南に行ってみたいのである。台南はもともと台湾人意識の強い場所であることも、わたしを惹きつける。わたしの父方の祖父である大橋千代造は、アルミ工場を台南でたちあげるべく家族をともなって堺市から渡っていった(本書にも台湾の産業にアルミニウム産業があったと記述されている)。1930年代後半のことである。しかし、事業に失敗して這々の体で堺に逃げ帰ったと聞く。いわば祖父の敗地に立つことで、台湾と向かい合い、われわれの1930年代からの立ち位置を考えて行きたいと思っているのである。

二つ茶屋という名前

2010年04月09日 11時01分54秒 | 通信
わたしの家の近くに「二つ茶屋 第一マンション」といった名前の集合住宅があります。震災にも壊れず建ち続けています。

周囲は戸建てが多い中の集合住宅で目立つ上に、この「二つ茶屋」というネーミングがなにを起因として名付けているのか分からなくて、ずっと不可解に思っていたのです。

それが数日前、あるキッカケでこの「二つ茶屋」が身近に感じられるようになったのです。

それは祖父で郷土史家であった岸本邦巳が1974年に書いた歴史研究「二ツ茶屋村考」にありました。

参加自由の大阪城夜桜会

2010年04月07日 20時23分08秒 | 文化
今年も、恒例のまろうど社の花見「大阪城夜桜会」のシーズンがめぐってきました。

今回で15回目となります。参加は自由です。ブログで見たと言っていただければ、歓迎いたします。

今年は、12日(月)午後6時から午後10時ぐらいまでしています。
われわれが集う場所は、八重桜の下なので、まだまだ12日でも花の盛りです。ご安心ください。

開催場所はいつものごとく、大阪城西の丸庭園入口近くの芝生の上でします。
今年のゲストは、姫路在住の舞踏家・川柳作家である情野千里さんです。

満開のしだれ桜のもとで、暗黒舞踏系の踊りをしていただく予定です。

ちなみに川柳作家としての情野さんですが、『情野千里 川柳作家全集』(新葉館出版、2009)から、桜に関する作品を拾い出してみましょう。

 ひと暴れして来た夜の桜風呂
 チャタレー夫人の靴が桜の下にある
 盗むたび男のくちびるは 桜
 桜の下で開脚前転くり返す

以前も、前衛舞踏を踊ってもらったことがあります(今豹子さん)。その時の印象は今でも鮮明に覚えています。
この夜桜会に一度でも参加された方は分かるのですが、広大な大阪城での花宴はまことに幻想的であり、忘れることの出来ない一夜になると信じています。毎年、ふいと見知らぬ人が参加します。その出会いも楽しい限りです。去年は、失恋したという若い女性達が、われわれの会に参加して、奄美の島唄を聞いて、傷をいやしていました。

さて、みなさん、この一年はどのような年だったでしょうか。去年秋には、「安重根決起百年目の日に集う」という集会を、2009年10月26日に、枚方で開催して、金里博氏、寺岡良信氏らとシンポジウムを開催しました。

ひさしぶりに再会しましょう。初めての方も憶することなく参加してください。
すぐ打ち解けます。

会は誰でも、参加できますが、ひとつだけルールがあります。
参加するひと人すべて、自己紹介をしていただくということです。その順番は、わたしがその日の情況をみて、順不同に指名させていただきます。語り/聞き、語り/聞く--という連鎖のもとに熟成される情感の共時性を楽しんでください。

なお、会場についてですが、大阪城西の丸庭園の入り口ちかくの芝生に陣取っています。大阪城公園は広く、同庭園が午後8時に閉園すると、われわれの周囲はほとんど誰もいない状態となります。ペットボトルにロウソクをともした灯明がわれわれ
の集団の判別方法です。意外とすぐ分かります。


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〈まろうど社 2010年 大阪城夜桜会〉
■日時・4月12日(月)午後6時00分~(だいたい午後10時半ぐらいまで。何時に来てもいいですが、だいたい7時にこられる方が多いようです。情野さんの舞踏は、午後8時から約20分間行います)。
小雨決行。大雨の時は、おそらく谷町6丁目「すかんぽ」で残念会。当日の決定に
ついては、大橋の携帯090-5069-1840 まで

■場所・大阪市中央区の大阪城公園・西の丸庭園入口の近くの芝生です。(交通機関は、地下鉄谷町線「谷町四丁目」駅下車。大阪府警・NHKの方に歩いていって、大阪城に入り、大手門をくぐり抜け、西の丸庭園を目指してください。我々の花見会
場は、庭園の入口近くの芝生で行います。今年は、庭園が営業してるかどうか分かりませんが時、午後8時に閉園となりますので、後はまったく静かな環境になります。ですから、イメージするような花見会場とは全く位相の異なる会場です) 

まず、ネットで出てきた「西の丸庭園」の位置です。 
http://map.goo.ne.jp/mapc.php?MAP=E135.31.32.721N34.41.00.261&MT=


■参加・誰でも参加自由です。もちろん、参加費は不要です。ただし、飲み物、食べ物はなにがしかのものを持ってきてください。また、夜は冷えますので、暖かい格好をしてきてください。

近現代史再考

2010年04月04日 14時24分00秒 | 思想・評論
『日本の近現代氏をどう見るか(シリーズ日本近代史10)』(岩波新書編集部編、2010.2.)を読む。

この「シリーズ日本近現代氏」は、すでに9巻の既刊が出ているのだが、総括編にあたる10巻目だけを読むという“ずる”をして、このシリーズが目指そうとした意図を知ろうとした。

以下、本書の読後感を箇条書きにまとめとみると、以下のようになる。

1.あきらかにこの「シリーズ日本近現代氏」は、歴史修正主義者に対するアンチとして、企画されている。歴史修正主義者が歴史の「読み直し」を企図したように、読み直しをされた側としてのあらたな研究成果を、シリーズの名のもとに、表出しようとしているかと思われる。

2.歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。安倍政権の「戦後レジームからの脱却」というあきらかな歴史の「誤読」を危険視した岩波知識層が、もういちど戦後に積み上げられた歴史研究を、自ら再点検してみようとする強い意志を感じる。

3.『日本の近現代氏をどう見るか』は、シリーズを担当した9人の著者が、自著の総括と、新書という原稿量の制約の中で書ききれなかった研究成果をまとめていて、興味深い内容になっている。いままで歴史研究者が切り捨てていたり問題しなかった立場の人たちの言説を取り上げ、評価したり(幕末の対外交渉にあたった幕府側役人たち)、反対にいままで疑わなかった歴史評価を相対化する(戦後社会はすべて米軍占領統治によって良くなったという美談を点検する)といった作業など、労作が多い。

4.先に「歴史研究は、その研究者が置かれた時代、状況に左右されることが認識できる。」と書いたが、それは、本書に展開されている研究は、イデオロギー対立が明確に歴史研究に深い影を落としていた時代には、困難であったろう視野の広角さが見られるからである。歴史修正主義者が提起した「戦後という時代の否定」に触発されて、彼らが「誤読」した「近現代史」のありようを、自分たちなりに「再読」してみようとした試みなのである。その「再読」には、戦後という時代に形成された「前時代を否定することで構築された合意」を再点検したり否定したりすることなども含まれているように思われる。こうした視座は、一見あやういものとみることも出来ようが、「誤読」を自分たちなりに回収した上での「再読」の確立という評価も出来るために、本書の置かれた位置は、新たな歴史研究の姿を提示しているのかもしれない。