神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

第129回「Mélange」読書会+合評会〈1月28日(日)〉

2018年01月22日 09時57分36秒 | めらんじゅ
2018年が始まりました。
恒例の「奄美ふゆ旅」から帰ってきました。
奄美ツアー団は私を含めて合計4人。わたし以外はすべて団塊の世代で、まさしく「団塊(弾丸)ツアー」でした。
これからしばらく「島酔い」が続きます。

それでは神戸から詩と俳句を中心とした文学イベントのお知らせです。

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◆1.--第129回「Mélange」読書会+合評会〈1月28日(日)〉←今年最初の月例会です
◆2.--カフェ・エクリの活動〈1月は休会。2月12日(月・祝)に開催〉
◆3.―野口裕句集『のほほんと』が図書出版まろうど社から上梓されました
◆4.―第6回〈日本・韓国・在日コリアン詩人共同ユン・ドンジュ生誕100周年記念集会〉は、2月19日(月)に開催予定
◆5.--文学短報=A/――1月分のFMわぃわぃ「南の風」は1月20日(土)から視聴できます
  B/――震災の翌年から毎年1月に行っています〈奄美ふゆ旅〉から帰ってきました。
     C/――川柳誌「晴(hare)」創刊
     D/――元 正章牧師の「マリア信仰」論について
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◆1.--第129回「Mélange」読書会+合評会〈1月28日(日)〉←今年最初の月例会です

2018年最初の例会は、1月28日(日)に行います。
連絡がギリギリになってしまいました。すみません。
第一部読書会(pm1:00~3:00)。第二部詩の合評会(pm3:00~6:00)の構成です。
読書会の担当は北岡武司氏です。

この会を運営しているのは、神戸を拠点とする詩のグループ「Mélange」。事務局は私・大橋愛由等。
詩の会(二部構成)をほぼ毎月開催しています(8月と12月は休会)。

☆第一部「読書会」は詩人で哲学者・北岡武司氏による「芸術論」です。博覧強記な北岡氏のこと、ジャンルをまたいで、語りの宇宙に引き込んでくれると思います。
楽しみです。今回は参考文献は特にありません。

☆第二部は詩の合評会です〈午後3時から6時まで〉。
作品の締め切りは1月25日(木)です。
いつにもまして意欲的な作品をお待ちしています。送っていただいた詩稿は、合評会当日に「月刊めらんじゅ129号」に印刷・製本して、参加者のみなさんに配ります。合評会は厳しく、やさしく、詩にまつわる真摯な詩評の言辞が飛び交います。
合評会に出席できなくとも、送っていただいた詩稿は、「月刊めらんじゅ129号」に掲載します。


第一部、第二部とも参加費無料です。ただ、講師へのカンパをお願いしています。
会場は、神戸・三宮のスペイン料理カルメン078-331-2228です。阪急神戸線三宮駅西口から徒歩1分の便利なところにあります。

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「Mélange」月例会、2018年前半の日程です。
(敬称略・開催場所はすべて神戸三宮のスペイン料理カルメン・開催時間は毎回午後1時)
予定ですので変更する場合があります。その際には、この月報(「Mélange」メールニュース)あるいは、ブログ「神戸まろうど通信」をご覧になって確認してください。


*2018年の開催予定日(敬称略)
02月25日(日)/第130回/中堂けいこ詩集出版記念会(読書会なし。第一部に合評会をします。)
03月25日(日)/第131回/発表予定者/北野和博「獣医師は語る―いきものたちの世界 そして詩(仮題)」 
04月22日(日)/第132回/発表予定者/高木敏克「カフカ語り02『流刑地にて』」 
05月27日(日)/第133回/発表予定者/月村香「キルケゴールを語る(仮題)」 


◆2.--カフェ・エクリの活動〈2月12日(月・祝)〈開催場所・姫路市アイメッセ/発表者・得平秀昌〉〉

高谷和幸氏主宰の詩の会「カフェ・エクリ」についてです。
この会は、(兵庫県)播磨地域で表現活動することを全面に押し出した詩を中心とした文学集団です。
月に一回の詩の会(「Mélange」例会と同じく読書会パーツと詩・川柳の合評会パーツの二部制)を中心に、シンポジウム開催や、年に一回程度の小紀行を実施しています。

1月は休会です。

》》》》》》・2月12日(月・祝)〈開催場所・姫路市アイメッセ/発表者・得平秀昌〉

第一部の読書会は得平秀昌氏の語りを予定しています。午後2時から始めます。語りの内容は未定です。

第二部の詩・川柳の合評会は、自作品のコピーを15部程度持参してもってきてください。

「カフェ・エクリ」も2018年の活動がスタートしました。もうすぐ「OCT.」(高谷和幸氏編集・発行)最新号ができあがると思います。 

》》》》》》今後の「カフェ・エクリ」の開催日時(敬称略・開催時間は毎回午後2時)
・2018年1月は休会。
・3月05日(月)〈開催場所・たつの市ガレリア/発表者・大橋愛由等/発表内容は未定。もうすぐ決定〉
・4月以降は未定です。

》》》》》》
エクリでは、年に一回刊行の「Oct.」以外に詩誌「エクリ創刊号」を発行しました。希望の方は高谷和幸氏〈080-5311-6265〉まで。

◆3.―野口裕句集『のほほんと』が図書出版まろうど社から上梓されました。
第一句集とは思えないほどの完成度の高さです。
これから多くの評価、評論が生まれてくるでしょう。
才人・野口氏のことです。句集出版を機会にさらに表現に磨きがかかるものと思われます。楽しみです。
書誌データ/四六判本文172頁 価格(本体)2200円+税 


◆4.―第6回〈日本・韓国・在日コリアン詩人共同ユン・ドンジュ生誕100周年記念集会〉は、2月19日(月)に開催予定
去年からの動きとしては、映画「空と風と星の詩人―尹東柱」(イ・ジュニク監督 2016)が日本各地で上映されたり(映画の質として優れている)、尹東柱の記念碑があらたに宇治市志津川の新白虹橋(しんはっこうばし)のたもとに10月28日に建てられるなど、生誕百年にふさわしい一年になりました(宇治へは亡くなる一年前に仲間と訪れている)。
そこで今年も、韓国からの詩人も招いて、簡素ではありますが、詩を書く立場としての尹東柱へメッセージと作品を送り続けたいと思っています。

〈第1部〉午後3時に、京都市上京区の同志社大学今出川キャンパス内の「尹東柱詩碑」前に集合します。献花、尹東柱の詩作品の朗読などを行います。音楽演奏による追悼も企画しています。参加する詩人のみなさんは、書き下ろしの自作詩を事前に、大橋(maroad66454@gmail.com)へ2月13日(火)まで送稿してください。冊子にまとめて追悼会参加者に配ります(毎年、入試の終わった今出川キャンパスはのんびりしていて、この尹東柱詩碑を目指して、韓国からの観光客や留学生が訪れるのです。そうした人たちにもその場で、追悼会に参加してもらい、交流が広がるのです)

〈第2部〉午後5時から近くの居酒屋で懇親会を開く予定にしています。

〈ただ、この会の関係者に連絡がとれなくて困っています。今年もささやかながら開催いたしたいと思っていますので、みなさんの協力と参加をお願いいたします〉


◆4.--文学短報
A/――1月分のFMわぃわぃ「南の風」は1月20日(土)から視聴できます
神戸と奄美を結ぶ情報番組の「南の風」。本土では数少ない〈奄美専門チャンネル〉です。
放送は、FMわぃわぃのホームページから随時聞く事ができます。
放送時間は1時間。

2018年がスタートしました。今年は明治維新(1868年)からちょうど150年に当たります。そこで「南の風」では、奄美にとってこの150年はいったいどんな時だったのかを、リスナーのみなさんと共に考えていきたいと思っています。
番組では(1)去年2017年に奄美での出来事をおさらいします。(2)今年2018年の奄美は希望に満ちています。(3)NHK大河ドラマ「西郷どん」が始まりました。奄美における西郷隆盛はどのように受け止められているのでしょう。(4)毎年1月に訪れる奄美旅について。さてどんな旅行になるのでしょうか。

1月分の放送を含めて「南の風」の放送は以下のサイトからいつでも聞くことができます。
http://tcc117.jp/fmyy/category/program-info/okinawa-amami/
(この番組は1996年=震災の一年後=からスタートした奄美のシマウタと文化を紹介する番組です)

B/――震災の翌年から毎年1月に行っています〈奄美ふゆ旅〉から帰ってきました。
今回で23回目でした。
☆旅程/2018年1月15日(月)から18日(木)
☆今回の旅は同行者がいました。「月刊めらんじゅ」誌友の北岡武司氏(哲学者)と高木敏克氏(小説家)です。
訪れた島は沖永良部島、徳之島、奄美大島の三島。
23年も通っていると、島で会う人が少しずつ旅立っていく人や、現役を退いたりする人も出てきます。時のうつろいを感じます。
奄美では、「月刊めらんじゅ・島尾敏雄生誕百年・特別号」と「特選奄美俳句5選  第二集」の二冊の冊子を作成して、シマの人たちに配ったのです。
 
C/――「吟遊 京都句会」〈3月23日(金)〉
私が同人である俳誌「吟遊」の第1回「吟遊京都句会」が3月23日(金)午後2時から4時半まで「SOBA Café ざらざん 五条店」で開かれます。
☆「SOBA Café ざらざん 五条店」/〒600-8178 京都府京都市下京区鍵屋町烏丸西入鍵屋町327番2 TEL075-201-3848
☆参加費/5500円(そばガレット、ドリンク付)☆ドリンク持込可(一本につき持ち込み料1000円必要)
☆参加希望の方は、2月末までに、090-7237-6193(麻田)まで連絡を。
☆事前投句、選評が可能かどうか、また投句内容などは担当者まで問い合わせてください。

D/――川柳誌「晴(hare)」創刊
川柳の世界で小池正博氏とならんでその活動を注目している樋口由紀子氏が自ら主宰する川柳誌「晴(hare)」を創刊しました(小池氏は去年10月に「川柳スパイラル」誌を創刊している)。つねに意欲的な活動をしていて、川柳界のもっとも先鋭的な表現を作りだしている樋口氏と小池氏です。今後の展開に注目したいと思っています。〈冷蔵庫に蛸の頭を補充する 樋口由紀子〉〈蓮根によく似たものに近づきたい 同〉〈たこ焼きは熱い熱いと巫女の言う 同〉

E/――元 正章牧師の「マリア信仰」論について
島根県益田市にある益田教会の元(はじめ)正章牧師が「マリア信仰」について論述しています。
すぐれた内容なので、みなさんに読んでいただこうと思います。

ただ、長文なので、以下のサイトに貼り付けています。
 
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マリアの賛歌  ルカ1:46-56    元 正章
    益田教会  2017年12月17日

http://blog.goo.ne.jp/maroad-kobe/d/20180121
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元正章牧師が「マリア信仰」論

2018年01月21日 09時44分27秒 | 思想・評論
 
島根県益田市で益田教会の元正章牧師が「マリア信仰」について論述しています。
すぐれた内容なので、みなさんに読んでいただこうと思っています。
全文引用しています。


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マリアの賛歌
                            
ルカ1:46-56    元 正章
                             
益田教会  2017年12月17日



アドベント第3週を迎えました。イエスの母マリアの信仰について共に学んでみましょう。

本田路津子「 一人の手」(訳詩 本田路津子 作曲 ピート・シーガー)
一人の小さな手  何もできないけど それでも  みんなの手と手をあわせれば
何かできる  何かできる
一人の小さな目  何も見えないけど それでも  みんなの瞳でみつめれば
何か見える  何か見える
一人の小さな声  何も言えないけど それでも  みんなの声が集まれば
何か言える  何か言える
一人で歩く道  遠くてつらいけど それでも  みんなのあしぶみ響かせば
楽しくなる  長い道も
一人の人間は  とても弱いけれど それでも  みんなが みんなが集まれば
強くなれる  強くなれる
それでも  みんなが みんなが集まれば 強くなれる  強くなれる

ところで、禅問答に「隻手の音声」という話があります。ある日、和尚が修行僧全員を集め、彼らの前で両手を合わせて「パチン」とたたきました。そして、和尚は彼らに、両手でたたけば音が出るが、お前たちはこれから片手の音を聞いてきなさいといいました。彼らは賢明に片手で音を出そうとするのですが、手に力が入るだけでできません。これは、自分にこだわる限り音は出ず、相手の手を必要とするという問答なのです。(渡辺純幸著『人生に締切はありません』より)。

小さな手であれ大人の手であれ、自分にこだわっている限り、何もできないという、ちょっとした小噺です。自分の掌をぐっと固く握りしめていれば、息苦しくなってしまわないでしょうか。拳骨を振り回している限り、随分と大げさな振る舞いにみえますが、要は空を切っているだけです。そして最後には疲れ果ててしまい、足がよろけて倒れてしまうだけのことです。それよりも、思い切ってぱっと掌を開いたとき、そこから自分の持っていたものが飛び出して、花開くことになるのではないでしょうか。そのとき、自分の大事にしていたものを、風が運んでくれるのです。聖書の言葉では、風のことを聖霊とも言っています。

「風は思いのままに吹く。あなたはその音を聞いても、それがどこから来て、どこへ行くかを知らない。霊から生まれた者も皆そのとおりである」(ヨハネ3:8)と、イエスはユダヤ人の議員であるニコデモに言いました。「あなたがたは新たに生まれねばならない」と。

讃美歌では、「みんな手と手を合わせたとき、ひとりの手ではできなかったことが、できるようになる」と歌われています。それが何なのか、そこまでは具体的に描かれていません。しかし、「何かできる 何かできる」と、二度同じ言葉が繰り返されています。そこに相手の手がそっと差し出されたとき、何かできるのです。その手が「救いの御手」となるのです。そこで聴く耳のある人には、「パチン」というさやかな響きを聴くことができるでしょう。その響きはまた、御子イエスの産まれた泣き声「おぎゃあ」とも重なってきます。それは「飼い葉桶の中で寝ている乳飲み子」の、まことに小さな泣き声でしかありません。でも、その誕生こそが、私たちに示された神のしるしなのです。

われらの救い主イエス・キリストが、母マリアのお腹の中に宿られたこの物語は、まことにもって奇跡としか言いようがありません。科学的には、復活の出来事がありえないように、この処女降誕の出来事もありえません。そのことは、神のしるしを実証できないというのと同じことです。その点では、2000年前の人たちも、現代の私たちも、実証できないということにおいては一緒です。しかし、です。乙女マリア自身の立場に立って考えてみれば、どうなるでしょうか。ある日突然、みごもったのです。そのことを、彼女自身どう説明できるでしょうか。納得できたでしょうか。神のしるしを実証できないことで一番驚き、不安に恐れおののいたのは、実にマリア自身でありました。

今週も、マリアの信仰について学んでいます。マリアは言うまでもなく女性です。女性なればこその信仰、神への賛美が歌われています。「マリアの賛歌」であって、「ヨセフの賛歌」にはなりません。なぜなのか。男と女、父親と母親の相違が一番大きな原因であるかと思います。父ヨセフもまた神に対して従順ではあるのですが、その服従にはどこか男の面子というか抗いがあって、一種の主従関係が成り立った上での隷属意識が働いています。しかしマリアの場合、なんとも単純にして、素朴です。最初は恐れと不安におののいても、いったん胸の中に納まりますと、「お言葉どおり、この身に成りますように」と言えるのです。このような柔軟性を男は欠いています。子守唄はやはり母の懐に抱かれて唄われてこそ相応しいのであって、父親のゴツゴツした腕の中では、サマになりません。それにまたマリアのような慎ましやかさは、男性がいくら真似をして真似できるものではありません。やはりというべきか、天性の素直さがマリアには備えられています。

だからこそ、この後カトリック教会でも特にラテン社会では、「マリア崇拝」が熱烈に起こります。それはキリスト崇拝よりも超えています。父なる神よりも、母なる大地を信仰する民衆の気持ちを捉えています。それは日本でも同じような現象であって、隠れキリシタンはマリアと観音菩薩とを習合させた「マリア観音」を拝むことで、自分たちの信仰の拠りどころとしました。これは父性原理よりも母性原理の優位を示しています。男に頼むよりも、女にすがりたい本能が、マリア信仰を生みました。これは理屈ぬきの信仰、生活に根差した土着的な信仰です。

多くの人が、女の中の女、母の中の母をマリアに見て取るのは、いったい何故でしょうか。それは彼女のひたむきさと謙虚さにあります。「わたしの魂は主をあがめ、わたしの霊は救い主である神を喜びたたえます」という神への絶対的な信頼にあります。自分のことを、「身分の低い、主のはしため」と呼び、自己の無価値を告白しています。自己の権利を主張するのでもなければ、もちろん相手を批判攻撃するのでもなく、神さまが何もないような自分に目を留めてくださったことに感謝しているだけです。彼女には誇るような功績など何もありません。取るに足りない、田舎生れの貧しい一少女に過ぎません。

そのように現実のマリアは神を畏れ敬う一介の少女にすぎず、世の常の女として、母として生きていただけのことです。陣痛の苦しみを味わえば、生れてきた子どもにお乳を与えたことでしょうし、わが子の健やかな成長を期待するような平凡な女です。決して特別待遇されるような人ではありませんでした。それよりも、不義の子を産んだ女として、世間の冷たい視線に晒されていたことでしょう。聖書には一言も書かれていませんが、マリアの人知れない涙を私たちは読み取らないといけません。神の子を宿した主のお母さんは、世界一幸いな女であると同時に、彼女自身が「剣で心を刺し貫かれた」女でもあるのです。それもこれも、「多くの人の心にある思いがあらわにされるためです」。

イエスが十字架に付けられた処刑場で、彼女はその側に立って、わが子の最期を見届けなければなりませんでした。どうして、幸いな者でありましょうか。でも彼女自身が主イエス・キリストにどこまでも従ったからこそ、「女の中で祝福された方」となったのです。もしマリアに爪の垢ほどの野心があったり、自己誇示するような気持ちが心の片隅に少しでもあるようであれば、マリア伝説は生れません。彼女の一生はどこまでも神に、わが子に仕える人でした。イエスから、「婦人よ、わたしとどんなかかわりがあるのです」と素っ気なく呼ばれても、それで動じる女性ではありませんでした。「この人が何か言いつけたら、そのとおりにしてください」と、召使に対しても頭を下げて、頼み込むような女性です。案外に激しさを込めた女性であったことでしょう。それも無理からぬことです。救い主イエスの母として、わが子を育てあげたのです。それこそどれだけ身勝手な世間の声に惑わされ、苦しめられたことでしょうか、想像するに余りあるほどです。否が応でも、逆境に耐えるほかない人生を過ごすしかないのです。聖書には、その具体的な姿がほとんど描かれていませんが、きっとイエスの蔭日向となって、我が子を支え続けたことでしょう。

か弱い一人の女性に、どうしてそこまで出来るのか。それは、そこに神の業が働いているからです。「主はその腕で力を振るい、思い上がる者を打ち散らし、権力ある者をその座から引き降ろし、身分の低い者を高く上げ、飢えた人を良い物で満たし、富める者を空腹のまま追い返され追い返されます。その僕イスラエルを受け入れて、憐れみをお忘れになりません」(ルカ1:51~54)。これはまさに革命です。暴力ではなくて、愛と義による福音の革命です。マリアの賛歌が、革命歌とも呼ばれる所以です。ここで神学者バルトはこう説教します。「人は自分が上り詰め、その最後に、自分のなりたいと思っていた者になった。自分を大きくなした。神なしで大きくなった。しかし、それは転落に他ならない。もし私たちの計画が、神なしに成功し、目標が達せられるなら、それこそ最も恐ろしい地獄である。神を大きくする時、私たちは小さくなって、消えてしまうのではない。主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。何と幸いなことかと思う」。

「マリア、恐れることはない。あなたは神から恵みをいただいた」と、天使は告げました。

マリアはそのとき、芯の底から恐れたはずです。ありえないことが起こったからです。でもその恐れと不安を取り去ったのが、神さまへの信頼です。そして今、賛美にと変わりました。

偉大な奇跡の始まりです。この「逆転」「ひっくり返し」は、聖書の至るところに述べられています。「先の者は、後の者に。後の者は、先の者になり」「強い者は弱く、弱い者は強くなり」「貧しい人々、今飢えている人々、今泣いている人々が、幸いになる」と。ルカ福音書16章19-31「金持ちとラザロのたとえ」は、その典型的な物語です。「身分の低い、この主のはしためにも 目を留めてくださったからです。今から後、いつの世の人も わたしを幸いな者と言うでしょう」これが聖書のメッセージであり、神の業、イエスのこの世での働き、福音のおとずれでした。だからこそ、このマニフィカートには、「身分の低い」マリアの感謝の思いと、神の正義の賛美が美しく気高く溢れているのです。マリアは、神の偉大な不思議な業を賛美せずにはいられなかったのでした。

 マリアの賛歌は、「わたしの魂は、主をあがめ」ここに尽きるのです。「あがめる」というのは、相手を大きくすることなのです。自分よりも大きくするのです。私たちは、信仰をもっていると言いながら、自分を大きくしようとしたり、見せかけたりすることがあります。信仰を、自分を大きくしたり、自分を飾ったりする道具にしてしまうのです。そのような人の信仰はあくまで人生の飾りであって、自分の人生の中心には自分がいるのです。そうではなくて、主にあって大きくなるのです。美しくなるのです。それゆえに、それが何と幸いなことかと、しみじみと思うのです。神をあがめるというのは、自分の力で高く駈け上るのではなく、神さまが取るに足らないこの私を、心にかけてくださることを覚えるのです。向こうからこちらに駆け寄ってくださるのです。神は主のはしためである、身分の低いマリアを心にかけられた。これがルカ福音書の大きなテーマなのです。

またもう一つ、小さくて地味な存在ではありますが、従妹エリサベトの存在を無視することはできません。マリアの悩みと不安と恐れは、まさしくその先輩でもあるエリサベトと同じでした。おそらく誰にも相談できず、自分一人だけでは背負いきれなかったことでしょう。やはりいつの時代でも、共に生きる仲間、友がいてこその自分でもあります。お互いに話し合い、聞き合い、慰め励まし合い、祈り合うことでもって、私たちは支えられ、安定し、成長し、完成されていくのです。人間の目で見れば、まことにちっぽけな弱々しい存在であって、神さまの目で見てもらえるのならば、“おっと、どっこい”です。こんな自分でもそれなりに生きるに価値があり、実際たくさんの愛に包まれて祝福されているのが分かるのです。そういった幸いに気づく心、感じる心、それが「信仰」というものです。そして、そういう信仰は、決して自分独りだけでは生まれてきません。他に誰かが身近にいることで、生きた信仰となります。マリアにとって従妹のエリサベトは決して付けたし(おまけ)ではありません。彼女が相談相手になってくれたからこそ、喜びと感謝と祈りが歌となったのです。 たとえ「取るに足りない自分」であったとしても、そのことを謙虚に受けとめることができるのならば、「おめでとう、恵まれた方。主はあなたと共におられる。あなたは神から恵みをいただいた」と、天使から祝福されるのです。

私たちはクリスマスを祝う時、神さまがそこで何をなさろうとしておられるのかを忘れないようにしましょう。大事なことは、私たちがこの「マリアの賛歌」を自分自身の日常生活にあって歌い、喜ぶことで、今の状態を超えた視点を与えられ、悔い改めて、新しく生き始めることです。そこで初めて「共に喜び歌う」ことができるのです。隣人愛が、本物となるのです。

最後に一つ質問します。「氷が溶けたら何になるでしょうか」。そうです。「水」です。でも他にも考えられないでしょうか。皆さんの頭を空っぽにして、目をつぶって、ある光景を浮かべてください。「氷が溶けたら、春になります」。冷たくなった物は、冷たい心では溶けません。北風は身も心も凍えさせますが、お日さまの暖かいぬくもりは頑なになった魂を和らげます。

毎年、クリスマスのこの時期から、日は一日一日と長くなっていきます。春の訪れを告げ知らせるイエスさまの誕生日まで、あと一週間を迎えるまでになりました。

今年のクリスマス、私たちもこうした目には見えなくとも神さまの恵みと祝福を心に留めながら、まことの喜びへと導かれたいと願います。

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