神戸まろうど通信

出版社・まろうど社主/詩と俳句を書く/FMわぃわぃのDJ/大阪編集教室講師など多様な顔を持つ大橋愛由等の覚え書き

ブログの「視聴率」

2005年09月30日 19時39分41秒 | 文化
9月30日(金)

現在、この「神戸まろうど通信」以外に、ブログサイトをもうひとつと、1999年から続けているHP内の書き込み(毎日更新)を含めて三つの日記サイトを運営しています。

三つの日記サイトの書き込みの維持は正直いって大変です。

HP内の日記サイトは、へたをすると、半月分ぐらいまとめて更新することもあるのです。ブログというのは、一度投稿したものを後日変更することは可能ですが、日を遡って投稿することは出来ないので、苦労するのです。この「神戸まろうど通信」は毎日更新しようと思っているので、携帯からも投稿できるように設定しています。また写真も携帯で撮影した画像でも充分通用するので、文章とともに、投稿するようにしているのです。

ブログは以前から関心がありました。私が講師をつとめる大阪編集教室の授業でも、ライター志望者には、自らブログを立ち上げることで、自己宣伝に務めるよう言い続けています。授業で教えるだけでなく、私もブログ発信者になることで、その効用を実感しようと思っていたのです。

このブログには、管理者のみ把握できる数字として、一日ごと(ところによっては時間ごと)のアクセス数があります。HPなら、累積アクセス数を表示することが出来るのですが、管理者は前日のアクセス総数から本日分を差し引いて計算しなければならなかったのですが、ブログの場合はもっと直截的にアクセス統計が表示されます。

これが「視聴率」の役割を果たしていて、意外とクセモノなのです。もっとアクセス数を増やすために、刺激的なテーマや見出しをつけた方がいいのか、あるいは時事的な話題を書いた方が、「視聴率」が伸びるのではないかという"心配"が生じてくるのです。

99年から続けている日記サイトは、いくばくかの固定読者がいらっしゃって、その読者たちに生で会うと、書き込み内容について、議論になったり、テーマになったりするのです。ただ、このサイトも別に宣伝しているわけではありません。数多くのさまざまなジャンルのことを書いているので、Googleの検索エンジンの上位にその日記サイトが位置することが多いのです。現在のHP制作会社の売り文句の一つは「Googleの検索エンジンの上位に位置するのはどうすればいいのか」ということなのですが、私はそのために苦労したり、仕掛けをしたりしたことはないのです。

この「まろうど通信」も淡々と書き連ねていくことにしましょう。

阪神優勝の日の三宮

2005年09月29日 22時06分30秒 | 神戸
9月29日(木)

阪神タイガースが、2年ぶりにリーグ優勝を果たしました。

本日の掲載写真は、三宮駅北にある公園に集う阪神ファンを撮影したものです。

2年前の優勝は、18年ぶりだったので、同じ場所、同じ条件でも、ファンの数は、今回とは比べものにならない多さでした。しかし、大阪では徹底した警察側の取り締まりによって、梅田の陸橋はもちろん、ミナミの戎橋も大阪府警によって完全封鎖。"名物"の道頓堀ダイブは殆どなし(他の橋から飛び込んだ人がいたとのことですが)。今回は権力によって優勝の祝祭的前兆が完全に封じこめられてしまいました。

1985年の優秀時は、梅田に集った群衆が、パトカーを襲うなど不満のはけ口として機能したようですが、2003年になると、道頓堀ダイブという歓喜を体現できるはけ口が出来たので、暴徒化することはなかったのです。

1985年の日本一になった時に群衆の中にいた一人としての実感ですが、やはりファンが集まって気勢を上げるのにふさわしい場所は、キタではなくミナミなのです(最初、キタに友人といたが、陸橋で気勢を上げている姿が面白くなく、ミナミにタクシーを使って移動した)。もちろん、三宮でも河原町でもありません。河原町なら、鴨川河畔になるのでしょうか、かの地は昔から"(かわらもの)"が跋扈する場所としてあらかじめ措定されたハレの場所なので、最初から異界めいています。

道頓堀周辺は、大坂が豊臣秀吉によって商都として整備開発されて以来の繁華街としてあり続けている場所です。全国の諸都市をみていると、繁華街の変遷がある中で、400年近く続いている繁華街はそう多くないでしょう。ここは、関西の祝祭(カーニバル)空間のコアというべき場所なのです。

しかも、橋というメディアに人が集うのも注目したい。橋は悪所(繁華街/ダウンタウン)という他界へ向かう"結界やぶり"のツールであり、異界そのものが跋扈するトポスなのです(刀の千本狩りをしていた弁慶が巣くっていた)。つまり橋はケからいとも簡単にハレの空間に転位する準備態であるのです。そこを祝祭空間として選んだ関西の人たちは、内蔵された文化遺伝子をしっかり機能させているのです。

同時に、祝祭を嫌悪するのは、いつの時代も権力側なのです。これは国家、民族を問いません。今回、ファンが抑圧された分、1985年のように一部が暴徒化する傾向が出ています。孫子の兵法では、自軍が圧倒的に優勢な軍勢で敵方と対峙していても、敵の退路を用意しておくべき、と書かれていたと覚えています。退路を断たれた敵軍は、実力以上に刃向かってきて、味方の損失が大きくなるからです。今回の警察権力による、中国政府のような完璧な押さえ込みは、かえってファンの暴徒化を助長することになるでしょう。

互換性がない

2005年09月28日 17時41分46秒 | 奄美
9月28日(水)

先日、放送したFMわぃわぃ「南の風」奄美篇〈坂元武広氏・徳之島"山"の島唄〉の番組を、演奏部分だけを抜き出して、一枚のCD-Rに焼き込もうとしています。これはFMわぃわぃスタッフに無理をいってお願いしているものです。

「南の風」奄美篇の番組は、10年200回以上放送しているので、今回のようにCD-Rとして保存すべき貴重な音源は多くあるのですが、放送現場で記録媒体として使っているMD(ミニディスク)とパソコン作業の際のアプリケーションの互換性がなく、それが隘路になっているのです。

例えば、放送用にMDにトラックマークをつけて編集しても、パソコンに取り込む時、そのトラックマーク情報が消えてしまうのです。パソコン上で再び、音の区切り目を編集するという面倒くささがあります。また、CD-MDラジカセのように、高速でダビングすることもできず、MDに録音されたそのままの時間に、付き合わなければならず、これもまた大変な面倒です。

こういうことになったのは、MDを開発・普及させたソニーにその責任があるのです。デジタル機器同士なのに、MDとパソコンの記憶様式に互換性を持たせなかったばかりに、手間暇がかかってしまうのです。

むかし、島尾敏雄が歩いた坂道

2005年09月27日 19時55分03秒 | 神戸
9月27日(火)

昼にたまたま出会った男性は、神戸外大OBで卒業後は教官もされていた方。私が「島尾敏雄も教えていましたね」と、話題を替えてみます。年頃を考えると、ちょうど島尾が神戸外大で教壇に立っていた頃(~1952年)に学生だったであろうと推察したからです。

「ええ、教えてもらったことがあります」と貴重な発言。かつて、島尾は、神戸外大があった場所(灘区)の近くに住んでいたのです(現在は、親和女子中高校の校舎)。「オンボロ校舎でねぇ」としみじみ述懐されておられました。阪急六甲駅から歩くこと15分。急な坂道を昇っていくのですが、長躯を猫背気味にして歩く青年・島尾の姿がわれわれの間近に甦ったのでした。

本を買う

2005年09月26日 21時22分26秒 | 出版
9月26日(月)

大阪に出るついでがあって、久しぶりに旭屋書店本店に行きました。

人文書関係ではやはりさすがの品揃えですね。梅田の紀伊国屋書店が新刊を中心とした、早い棚の動きであるのに対して、ここは、本の流通のスパンがゆったりしています。これは人文系の哲学、思想、評論の世界では大切なことです。

ところが、購入を予定していた一冊(文庫)は絶版でした。これはまいった。新刊として出ている時に、いずれ買おうと思っていたのが間違いでした。文庫のうち、人文系のものは、見た時に購入しておかなければ、すぐに絶版になってしまう可能性があることを忘れていました。そしてもう一つは、久しぶりに、同書店に行ったので、在日論の棚を探してうろうろしているうちに、待ち合わせの時間となり、購入しなかったのです。

この日購入したのは、西川長夫著『国民国家論の射程』(柏書房)でした。立命館大学で、私がシンポジウム「複数の沖縄」に参加した時に、少しだけお話しさせていただいたことがあります。国民国家論を考える時に、避けては通れぬ人です。いずれまとめて、西川氏の著作を読んで考えていきたいと思っています。

でも、旭屋にもなければ、最近では、ネット購入しかないのでしょうね。神戸からの電車代を考えると、ネットの方が安くつく。新刊、古本と、買わなければいけないものが6-7冊あるので、この際、ネットを使って購入することにしましょう。



俳句の読書会

2005年09月25日 18時19分18秒 | 俳句
9月25日(日)

「ヒコイズム研究会」という名の定型詩人が集う読書会に参加してきました。
現在対象としているのは、筑紫磐井(つくし・ばんせい)著『近代定型の論理--標語、そして虚子の時代』(豈の会)という評論集です。

発表者は、田彰子、樋口由紀子、岡村知昭の皆さん。今回読んだのは、第三部でした。

高浜虚子については、多くの研究がなされていますが、虚子自身が書いた俳論は、その長い人生の中で多くなく、語らない(評しない/自らコトノハアゲしない)ことで、〈空虚な中心〉のロケーションを選択し、対立する俳句潮流の"自滅"を待っていたのではないかという議論がされました(とすれば、私と私の周辺の俳人たちも「勝手に自滅組」でしょうか)。

次回に私が発表するので、今回は聞き役に徹していました。以下、読書会で発言した中で私なりに面白かった論点を上げてみましょう。

堀本吟さんの子規と虚子の俳句作品の傾向について、「子規俳句は生身の人間としての実感を伴う作品があるが、虚子は、作者自身の実感にもとずく作品が多くないのではないか」という発言------これは、以前、詩誌『Melange』の読書会で私が発表した内容に添うのですが、虚子はいきなり自分の作品を、北川透流に言えば〈作者〉ではなく〈語り手(仮構の主格)〉から、天沢退二郎流だと〈作者〉ではなく〈発話者(仮構された語り手)〉として、またそれを受けて展開した私の発想の〈俳句作家〉ではなく〈仮構された規範(季語・季感・切れ字・十七音字といった俳句性)〉に依拠しながら作句したので、子規作品のような実感がともなわなかったのではないかと思っています。つまり虚子は〈仮構された(俳句という)規範〉を身体化していたものと思われます。つまり虚子の俳句は生身としての虚子が作句したのではなく、虚子自らも〈表象としての虚子〉を演じていたのでしょう。

次に、磐井氏が虚子の文章から抽出した「後方文学」という概念について、石田柊馬さんが「後方というのは、軍隊用語としてある。また、チャンバラ活劇でも"後づめ"という後陣に位置している人たちを形容する言葉がある」として、"後方"あるいは虚子の文献の中に現れる"後の方"という表現は、戦前の社会では身近に使用されたと思われる軍隊用語から引用したのではないかと推察。また、虚子が「後の方/後方」という立場に身を置いたのは、俳句の「前方/前衛」と措定されていた河東碧悟桐や新興俳句に対する自己確認作業ではないかとの意見が出されました。これも面白い考えです。こうして表層的には、一歩身をひく構えをして、じっと相手が自壊するのを待つという戦略を意識的に選択したのかどうか分かりませんが、虚子ならびに『ホトドキス』のありようを知るためには、興味深い解釈でしょう。

あと、「花鳥諷詠論」についても議論が達し、なぜ「花鳥風月」ではなく「花鳥諷詠」なのかについてもテーマに。また、虚子自身は、「季語」という言葉は使わず「季題」と言っていたことにも言及され、これから私が俳句を考える際のテーマの一つとして用意されたのです。

運動会の光景

2005年09月24日 18時36分51秒 | 思想・評論
9月24日(土)

この三連休中、神戸市内の各地で、小中高校の運動会が行われています。

運動会の最初は、入場行進です。整然とした行進をするよう日本の学校教育では、小学校の頃から躾られます。中学生になる頃には、入場式の行進というのは、こういうものだという刷り込みが完了しているのです。 

これは、明治以降に日本の教育現場に採り入れられた軍隊式修練のひとつと思われ、軍国主義が潰えた戦後になっても継承されています。もちろん、戦後生まれの私もこうした集団教育を受けてきたわけです。

ところが、数年前に、英国のパブリックハイスクールで学んだ若い日本人女性と話していると、ロンドン市にあるその学校では、生徒たちが整然として行進するという機会がなく、またそうした訓練もしたことがないということです。

これですぐ気付くのが、国威発揚の場であるオリンピックの入場行進です。日本人が一糸乱れぬ歩調と規律正しい集団美を演出させたのは、東京オリンピック(1964年)の日本人選手団の姿がまず瞼に浮かびます。たしか、あの時代は、閉会式の時も、整然と行進していたように記憶しています。

これに較べて、他の西洋各国は、国としてまとまって行進していたものの、何百人が同時に、右足を出して次左足といったように、同じ歩調、同じ歩幅で歩くという姿ではありませんでした(これは現在も一緒ですが)。

この傾向がすぐ分かるのが、アフリカなどの小国の場合です。数人で参加する場合、歩調を合わせず悠然と歩いている姿を想起してもらえば分かると思います。日本人なら、少数であっても、歩調を合わせて入場するのではないでしょうか。これは一つの民族の姿(シーニュ)なのでしょう。

オリンピックは為政者にとって、そしてその国民にとって、国威発揚の絶好の機会であるので、ベルリンオリンピック(1936年)のナチスドイツ、そして現在行われている北朝鮮の数々の国家行事パレードも、一糸乱れぬ行進によって国家・国民が一体となって行動していることを示唆するのです。

先にこの日本人にとってこうした入場行進をするようになったのは、明治以降だと書きましたが、近代を迎えるにあたって、西欧に追いつくために、国家は日本人にさまざまな身体加工を施したということは三浦雅士の著作によって明らかにされています。つまり近世までの日本人(その大半を占めていた農民たち)も、集団で歩調を合わせて行進するという機会はなく、いざ軍隊式の集団歩行を学校教育の中に採用しても、当初はなかなかうまくいかなかったようです。

西洋化を取り入れて約140年、日本人の身体所作は大きく変わりました。運動会行事における入場行進の次のマスゲームは、全員による準備体操です。何百人が同じ体操服を着て、一斉に右手を同じ方向、同じ角度に上げるさまは、視覚的にも社会的にも日本人が集団美と感じる一瞬です。すでに日本人は、こうした光景をごく普通の日常光景として認識するようになっています。(この意味で、百人以上の人たちが、同じ連のもとに、一糸乱れぬ踊りを展開する阿波踊りは、昔からあのようだったのでしょうか。同じ浴衣で編み笠を目深に被って一人ひとりの個を抹消して集団で踊るさまにも注目したいものです)。



とある出版記念会

2005年09月23日 22時05分08秒 | 出版
9月23日(金)

詩誌『Melange』同人である栗山要氏が、ライフワークとしている阿部国治著『新釈古事記伝』の全7巻のうち、5巻が刊行されたことを祝する出版記念会が、神戸市中央区の湊川神社の中の会館で行われました。

記念会の前に、出席者全員で拝殿で神道儀式によるお払いをうけます。ただ、神祗不拝を原則としている私は、神道式の拝礼がおこなわれている時は、直立不動で待機しています。

引き続き、行われた出版記念会では、私が司会を務めました。栗山氏は、ちょうど父の学年と一緒(大正14年度生)で、満州のハルピンで(旧制)中学校を過ごし、本土に帰ってきて、茨城県水戸市にあった「大東亜共栄圏」の指導者を育成する目的の「満蒙開拓指導員養成所」で学びます。ここで教官をしていた阿部国治氏と出会うわけです。 

私の父も、「五族協和」「王道楽土」という満州国の理念を実践するための人士を育成する満州建国大学に学んだわけですから、父と栗山氏という二人の同世代人が、青春期に満州に対してかけた想いを私なりに考えながら、司会を担当したのです。

「満蒙開拓指導員養成所」については、勉強不足で知りませんでした。青年たちを集めて、「大東亜の指導者」を養成するという行為は知っていましたが、国内でもこうした教育機関があったのですね。この満州については、これからも少しずつ書いていくつもりです。父が学んだ満州建国大は、現地で、各民族のエリートたちを集めて全寮制で教育していたわけですが、国内でも満蒙開拓指導員を育成していたのです。

記念会は、阿部国治氏の遺族も出席されます。阿部氏は戦後、連合軍によって、パージを受け、7年間公職に就くことが出来ませんでした。いわば古事記研究という戦前の天皇絶対主義の時流に乗ったわけですから、時代が変わればこうした国粋的傾向を持つ教官は拒絶されたわけです。その7年間に、自転車の部品をトラフィックするという仕事を黙々と続けていたことが遺族から報告されました。

この『新釈古事記伝』は、戦前に刊行されて、当時多く売れた本だったそうです。それを、栗山氏が、戦後の時代にあうように編纂して、再び世に送り出そうとしておられます。『古事記』という書物は読み物として面白く、私も時々繙きます。戦後は皇国史観によらない『古事記』研究が多くだされながらも、1989年から始まった東欧・ソ連の社会主義国家群の消滅と、それに伴った日本国内の左翼的言説が衰退することによって、ようやく読み物として直視できる環境になりました。それまでこの書物を取り上げる自体、思想的敗北者か、民族主義者とみなされてきたのです。

栗山氏の世代は、国家主義が完膚無きまでに国民に浸透した昭和10年代に教育を受けた世代です。「大東亜の建設」や「五族協和」といった日本にしか通用しなかった国家目標を捏造したもうひとつ上の世代はすでに退場(死去)し、そうした概念を教育の場で学び純化していった世代である栗山氏や私の父が、いまや80歳前後となっています。私にとっても、満州とは何だったのかを考える際に、終戦当時に多感な青年だったこれらの人たちが、どのように満州と戦前の教育を継承しようとしているのか、気になるところです。

そうそう、本日の写真の説明をしておきましょう。"能管"という能で使われる横笛を吹いている女性は、京都在住の野中久美子さんです。とても素晴らしかった。拝殿で神道儀式によるお払いをしている時は、衣冠束帯の格好で一曲披露。よどみのない演奏はさすがです。そして出版記念会では上写真のごとく衣裳をがらりと替えて登場。これもまた聞き惚れるぐらい素晴らしい演奏でした。野中さんは、和洋中の諸楽器や、舞い、朗読とのコラボレーションもされているようです。これは素敵な方と出会いました。野中さんにはさっそく、私が制作と番組進行をしているFMわぃわぃ年末特別番組「ながた人物交差点」のゲストとして出演していただくようお願いしたのです。

神戸を離れる神戸っ子

2005年09月22日 19時22分36秒 | 神戸
9月22日(木)

完璧な"神戸弁"なのです。同じ神戸で生まれた私などは、「~しとお」「行っとお」「ごっつぅ~」といった神戸弁の基本的言い回しも出来ない体たらくなのです。

稲垣暁氏。

きれいで濁りのない神戸弁は、神戸市兵庫区兵庫生まれの祖母ゆずりのものなのかもしれません。ここは、"プレ神戸"というべき場所で、幕末に外国に向けて開港した神戸が出現する前の江戸時代に、幕府直轄の内国貿易港として栄えた兵庫津があったところです。ここには多くの回船問屋や商家があったといわれ、ひとつの地域言語を形成するのに充分な都市環境があったと思われます。こうしたきれいな神戸弁をしゃべる人に、あと、タレントの西条遊児さんがいらっしゃいます。

さてその稲垣氏が来月から沖縄へ移住することになるのです。これは彼にとって今年が、「阪神大震災から10年 大手新聞社に就職して20年」のちょうどいい区切り目になることで、人生の変転を決意したようです。

ナイスガイな人柄である稲垣氏のことですから、沖縄に移り住んでも、多くの素晴らしい友人たちに囲まれた生活をおくるでしょうが、今年春、「神戸奄美研究会」に入会してもらったばっかりで、これから、神戸のこと、奄美のことを熱く語ろうとした矢先だっただけに、私としては、残念なことです。

この稲垣氏もまた、今年1月の「震災から10年」を迎えるまでの、去年夏から、1月にかけて心の調子がおかしくなってしまった人の一人です。私も、震災から10年後の1・17を迎えるのがこわく、そうとうナーバスになっていました。私なりの1.17のイベントを企画して催すことで、自分の心を鎮めるつもりが、今から考えると反対に10年後の1.17にこだわりすぎて、その呪縛から離れられない自分があったのです。これついては、稲垣氏と深く共鳴しあったのです。




読書という陥穽

2005年09月21日 14時02分15秒 | 出版
9月21日(水)

最近あまり読書をしていないことに気付きました。

出版編集者というのは、仕事柄、いつも活字に触れているのですが、それは原稿や、校正紙であったりする場合が多く、いわば本になる以前の活字群。必ずしも書籍という完成した媒体を読んでいるわけではありません。

しかし、エディターというのは、つねに他社が造った本を読むことで新しい知識の吸収をしていかなくてはならない宿命を背負った職業です。ですから、大変多忙だと言えます。短い時間を見つけて、読書をしなくてはいけない。その世界の研究者と互していけるほどの知識量、判断力が要求される。しかも効率よく読まないと、時間が無駄になるのです。最近の私のように、みずから研究論考を書いていると、ますます時間がなくなる。だから、読むために読むことが出来ずに、書くために読むという、読書が手段になってしまうのです。

しかし、今夏は殆ど読書が出来なかったことを反省して、今秋は、性根をいれて、読書と執筆、そして編集に励むことにしましょう。欲張りかな。




神戸を愛した人

2005年09月20日 17時50分25秒 | 神戸
9月20日(火)

ダイエー創業者の中内功氏が昨日、死去しました。「平成の紀伊国屋文左衛門」というには、酷すぎますが、一代で築きあげた"ダイエー王国"の栄華と、経営破綻し、現在は産業再生機構の管理下に委ねられるという経営者として天国と地獄を経験した人です。

晩年は、「最後の牙城」ともいうべき中内学園が運営する神戸流通科学大学でみずから教鞭に立つなど、最期まで情熱を失わない人でした。

この中内氏のもう一つの側面は、神戸をこよなく愛したことです。

一時、ダイエーの新規事業の殆んどを、神戸でスタートさせるほどでした。また、中内氏が新しい店舗が完成して、見回る際に、パン売り場から5メートル離れた場所で、大きく鼻から息をすって、パン独自の芳ばしい香りがしなければ、やり直しを命じたという有名なこだわりも、パンが美味しい神戸で育ったことの反映と思われます。

そして阪神大震災が起きた直後でも、電気がまだ来ていない地域であっても、店をとにかく開いて、店頭で売れるものは、売っていくという姿勢を貫きました。「あっ、ダイエー開いてるやん」と被災者は驚き、かつ勇気づけられたのです。被災者にとって、震災の翌日は間違いなく巡っきます。次の日も次の日もとにかく生活をしていかなくてはならない境遇に置かれた私を含めて神戸の人間に大きな希望をもたらしたのです。この意味で、ダイエーとコープ神戸が、神戸を本拠地にしていることの利点を享受できたわけです。


徳之島の島唄

2005年09月19日 22時34分21秒 | 奄美
9月19日(月)

本日午後1時から、FMわぃわぃ「南の風」奄美篇の生放送を担当しました。今回で222回目の放送となります。

出演していただいたのは、徳之島(徳之島町)の山(さん)集落出身の坂元武広さんと、章子さん父娘。 

◆さて、本日の番組で演奏していただいたのは、以下の8曲です。

(1)島あさばな
(2)徳之島ちゅっきゃり節
(3)三京ぬ後
(4)道節
(5)長雲節
(6)井之ぬいびがなし
(7)まんかいざし
(8)与路ぬ与路くまし

いずれも一曲の演奏時間が5分以上という熱の入った演奏でした。

もちろん、坂元さんは、20年以上にわたり武下流を支えてきた一人なので、声質は申し分ありません。そしてハヤシを務めたのが、永年父とコンビを組んできた娘さんである章子さんなので、二人の息はぴったりあっていました。

今回の収録の収穫は、出身の山集落のまさに"しまうた"が聞けたということです。特に、「三京ぬ後」では、これはハヤシのない曲なのですが、山独自の工夫がされていて、興味深かったのです。つまり、ハヤシがない分、・歌詞を交代で歌う・最後の歌詞をユニゾンで歌う、といった聞かせる工夫がなされているのです。私がいままで録音した「三京ぬ後」では、ハヤシがないままに淡々とひとりの唄者が歌うことが多かったのですが、山では昔からこのような歌唱方法を採用していたとのこと。これは私にとって、大きな発見でした。

こうした工夫は、山が大島に近い分、洗練されているのか、とも推測できます。山は徳之島の中でももっとも大きな入江をもつ地形から、琉球軍が大島攻略をするときの軍船の停泊地として選ばれ、この集落が軍事的に大きな意味を持ったのです。そういった経緯があるために、与路島が山と同じ間切に編入されたと思われますし、大島との交流拠点としても機能していたのでしょう。 

もう一曲、「与路ぬ与路くまし」についてですが。テーコ(太鼓)を章子さんが取り出します。私が「あれっ」と思っていると、「これはもともと田植え歌なのです」と坂元さんの明解な答え。この短いやりとりをもってしても、"しまうた"というのは、唄として独立しているものではなく、その集落(シマ)の生活と共にあるのだというすぐれた事実が確認できるのです。

もちろん、私は、"島唄"というのは、こうしたシマの生活と直結したうたでなければいけない、とは思っているのではありません。それは、いま歌われている島唄というのは、すぐれた嗅覚をもつ先輩の唄者たちが、自分のシマ(集落)を越えて、採取した唄を、自分のものとしてアレンジして歌い、それが現在に伝わっているからです。今でも、関西在住の二世三世が、島唄を歌い始める時、自分の親の出身地以外の唄を積極的に採用している姿勢が見受けられ、これを私は高く評価しているのです。

いい唄者の生演奏に間近に接する時の悦びというのは、FMわぃわぃの仕事をしていて、常に感じることです。言葉にならない至福といえましょうか。あらためて、坂元さん父娘に感謝いたしたいと思います。なお、この番組は、今週の土曜日24日(土)午後6時から再放送されます。FMわぃわぃのホームページにアクセスしてください。インターネット放送局なので、世界中どこからでも聞くことが出来ます。

これから、今回の録音について気付いたこと/考えたことを、後日に書き足すことにしましょう。






読書会&合評会

2005年09月18日 22時44分04秒 | 文学
9月18日(日)

5回目となる『Melange』読書会・詩の合評会が開かれました。

読書会のテーマは「ミニマル・アート」について。発表者は、詩人の高谷和幸氏。『Melange』同人です。

まず、最初に高谷さんがミニマル・アートに触発されて書いた詩作品を紹介することにしましょう。

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◆ストライプ・ノート  高谷和幸

*赤い大きな三角形と/自転車はどちらが大きいですか

青い小さな三角形と/自転車はどちらが大きいですか

黄色い中ぐらいの三角形と/自転車はどちらが大きいですか


*赤い点線の自転車と/赤い自転車はどちらが大きいですか

赤い点線の自転車と/赤い自転車はどちらが早いですか

赤い点線の自転車と/赤い自転車はどちらが重いですか

赤い点線の自転車と/赤い自転車は同じです

赤い自転車が壊れたら/自転車のかけらになるが
赤い点線の自転車が壊れたら/赤い点になります
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ミニマム・アートというのは、「最小限度の作家の個性、作品に関する最小限度の情報によって特徴づけられるこれらの作品は、最小限度の芸術、ミニマルアートと総称された」と高谷さん持参の資料に書かれています。つまり、"私性"を極限まで削除することによって創造していこうとする態度と作品群だと言い得るでしょう。この芸術傾向が登場したのは、1950年代後半のアメリカ。パクス・アメリカーナ(アメリカの繁栄)が現実のものとなって、社会や日常生活に過剰な商品や記号が満ちあふれるようになった時に登場した、いわば時代の"鬼っ子"的な反証事象でしょうか。

繁栄と前進という社会の隅から隅まで、"意味"に満ちあふれた時代のなかで、あえて登場した反-意味の芸術活動なのですね。高谷氏は、ミニマム・アートを語る際に重要な基本的テキストになっているマイケル・フリードの論考「芸術と客体性」をもとに紹介していきます。

これに対して読書会に参加した富哲世氏は、この論考が現代思想の中でどのように位置づけられているかに注目したいと発言。現象学で提唱された〈間主観性〉の概念を紹介して、このミニマム・アートを理解する手だてを指摘したのです。

これは、私にとっても、面白い指摘でした。つまり、この読書会に出席した「ミニマル・アーティスト」あるいは「脱ミニマル・アートの担い手」と評論家たちに評されている大野浩志氏の作品を見ていると、作品そのものの自律的な意味を問うことも充分可能ですが、単色に塗りつぶされた作品を見ていると、その作品が関係する世界(周囲、環境、作品が置かれた部屋・建物、それを観ている人々の息づかい、そして観客の存在さえも含めて)そのもの"作品"と見なすことが出来るとするなら、作品という個を越えた〈間主観性〉の状態の顕現として考えることも可能なのです。

そうした作品情況を創出させたのは、むしろ、極限までに"私性"や"意味性"を排除しようとしたミニマル・アートの傾向ゆえでしょう。単色に塗るという行為の連続はどこか、自分をモノ化しているようにも思えます。反-意味を目指して、作家がモノになりきる。その作品が他者にさらされた時に、単体としてではなく、関係性の中で〈意味〉を獲得していく、と言ったらいいのでしょうか。冒頭の高谷さんの詩作品は、ミニマル・アートの概念に触発されて書いたもので、最小限度の単語と意味に絞り込み、それを反復性という装置に委ねることで、「反-意味の意味」を創出している面白い作品です。


準備

2005年09月17日 22時57分00秒 | 文学
9月17日(土)

明日の『Melange』読書会と詩の合評会の準備をします。

今朝、参加予定者へ、詩稿をまとめて送るつもりがなかなかうまくいきません。

ワードのテキストファイルをメールに添付するのですが、そのファイルを開けることが出来ない人もいて、ホームページに張り付けて、そのサイトを見てもらうことにしました。

ところが今度は、携帯からそのサイトを見ようとして果たせない人も出てくる始末。

ネット社会は、仕様が統一されているようで、実際は、多様。目に見えぬOSやアプリケーションの障壁がたちはだかっているのです。


出版社の移転

2005年09月16日 18時48分20秒 | 出版
9月16日(金)

鹿児島の出版社「南方新社」から、社屋移転のお知らせメールが届きました。

出版社にとって事務所移転は、慎重にならなくてはいけません。商品である書籍の奥付けには、住所が明記されており、本という性格上、商品が流通する期間が長いことから、過去に刊行した本を頼って連絡がある場合などは、対応できなくなるからです。

しかし、それでも事務所を移転せざるを得ないの大きな理由のひとつは、在庫スペースの確保です。この物理的条件からはどうしても逃げられないのです。