根折の和泊歴史民俗資料館では先田光演館長と面談。
福田さんが歌った「島口説」に正名は粟が特産と歌われていることを契機に、例の1609年の薩摩軍の沖永良部攻略の際、正名の人たちが粟粥を作ったというくだりを、先田館長は文献から実証して疑問を呈したのです。これはかなり面白い(先田館長には、粟粥を正名で作って薩摩/鹿児島の人たちに食べてもらおうか、などと挑発的な提案もしたのです)。
また来年には「沖永良部から問う--薩摩侵攻400年を考える」(このタイトルは先田館長の前で私が提案したものです)イベントをする予定だということです。これも極めて面白い。
また徳之島の口説「まんま口説」の話では、各島によっては民話や他の芸能で表現されていること。沖永良部のヤッコ踊りが、ヤマトと琉球の要素を兼ね合わせてこの島で独自に展開したこと。沖永良部の行政区分が、三間切/方あったうち、琉球服属時代は琉球に近い現・知名町に統治の中心を設定。薩摩が乗り込んでくると、三間切という数字は変更せずに集落をバラバラにして地域としての一体感を解体しようとしたこと、さらに薩摩藩が黒糖徴収の利便性のために再び19世紀になって三つの「方」に変更したこと(他の奄美の島々では間切をいくつかの「方」に分けること。徳之島では間切の下の「方」をアツカイとしたこと--これは宮古にもアツカイの行政区があった--などが確認され、薩摩〈あるいは琉球も含めて〉行政区の扱いは島毎に展開されていたこと)。また集落の間切所属の変更ばかりでなく、個人の農耕地も島役人から配置がえがあったらしく、便宜を図ってもらおうと、担当役人の田地役人に「賄賂」を送ったことなどが確認されたのです。