◎「惟神霊幸倍坐世」と「生命の実相」
神とは、ありてあるものにして、すべてのものを在らしめる力です。
神とは、大宇宙に満ち満ちる力にして、生命そのものです。
神とは、生命そのものにして、叡智(みちえ)そのものです。
神は、宇宙を宇宙たらしめ。
その中に浮かぶ星々を存在せしめる力です。
神は、この地球(ほし)を在らしめる力にして、その中に生くるすべてのものを在らしめる力です。
この地球(ほし)に住まうすべての動植物、木や花といった植物たち、牛や馬や鳥といった動物たち、そして人間。
すべての命あるものを在らしめ日々生かし続けている力、それが神と呼ばれるものなのです。
それゆえ、すべてのものは神の子であるのです。人間だけが神の子なのではありません。森羅万象、目に見えるすべての生きとし生けるものが神の子にして、神の生命の分け御霊、神の現われであるのです。
しかして、子は子として別々に切り離されたものとして、独りさびしく存在しているのではありません。別々のものとして存在しているように見えますが、別々のものなのではありません。すべての子は、皆、一つの力をその内に宿し、父と子もまた同じ力を宿しているのです。
それが生命の実相と呼ばれるものであるのです。
生あるものたちは、別々の個性を与えられているが故に、一つの力、一つの生命として自己を認識することはできないかも知れません。しかし、この大宇宙に満ち満ちる神と呼ばれるものこそが本当の自分自身の姿であるのです。
神とは自分の外にありて、自分を見守り給う存在と思うかも知れませんが、そうではなく、自分の内深くに常に流れ続けているものそれが神であるのです。
小さな小さな肉体に宿るあなたという存在が、あなたの本当の姿ではないのです。すべてのものの内に流れ続けている力、それこそがあなたの本当の姿であるのです。
小さな小さな自己を離れ、大宇宙に満ち満ちる神こそが自分の本当の姿だと認識し、「我は神なり、すべてのものの内に流れる生命なり」と自覚できたとき、御霊の本当の力を発揮することができるのです。御霊の本当の力とは、生命であり、愛であり、叡智であり、豊かさであります。
「惟神霊幸倍坐世(かむながらたまちはえませ)」とは、神の御心のままにという意味もありますが、そういう意味であるのです。すべての御霊は、神の分け御霊であり、人間とは神の子であるという意味であるのです。
神の生命が遥かなる源流より流れきたりて、遥か彼方まで様々な支流をつくり流れてゆく。その支流がそれぞれの御霊であるのです。その大河を神と呼んでいるのです。
支流は支流で名前はありましょうが、すべては同じでありましょう。すべて一つの川でありましょう。
出口王仁三郎という方は、それを「惟神霊幸倍坐世」というたった一言に表し、谷口雅春という方は、それを「生命の実相」と呼んだのです。
◎穢れとは
神とは光源であると言えましょう。この世のものとこととは、すべてその光源より放たれた光が、一人一人の心のレンズを通してスクリーンに映し出されたものであるのです。
レンズが汚れることを穢れというのです。レンズの汚れが多いとこの世というスクリーンに映し出される映像は、薄暗く影の多いものとなって参ります。ところどころ影になるならまだしも、レンズが汚れすぎてほとんど映らないということも有り得る訳です。
それゆえ、心のレンズを掃除しましょう。穢れを取り払えと言っているのです。
また、違った話を致しましょう。穢れとは、木が枯れることでもあります。木はその根を地中に張り巡らし、水脈より水を吸い上げ生きております。木がその根より水を吸い上げなくなれば、その木はやがて枯れて参ります。
その木とは、私達一人一人であり、水脈とは神であります。神という水脈から神の生命を吸い上げることなくば、その木はやがて枯れてゆくのです。木は、根から水を吸い上げなくてはなりません。葉っぱや枝からでは水を体中に行き渡らせることはできないのです。
現代に生きる人の多くは、丁度、根から水を吸い上げることをせず、のどが渇いたといって必死で葉っぱや枝から水を吸収しようといる状況であるのです。それが穢れであります。