感謝祭の連休、家族でバージニア州を旅してきました!
ルーレイ鍾乳洞
1878年に発見され、今では年に50万人近くの観光客が訪れるそうです。
子供たち、写真以外で鍾乳洞を見るのは初めて。
私も子供時代以来なんですが、圧巻でした。
Stalactite(鍾乳石):上から下へ向かってツララ状にのびる石
Stalagmite(石筍):洞底から上に向かって伸びる石
Colum(柱):鍾乳石と石筍がくっついたもの。
水面に映る鍾乳石
鍾乳石をパイプにして作られたオルガン。
洞窟中に繊細な音が響きます。
ガイドさん、「最高のrock musicですね!」
下の子たちが、今の分った?分った?とママに何度か確認。
自然が生み出すアートに、家族で感動しっぱなし。
ルーレイ鍾乳洞に隣接して、
植木迷路や、
こんな器具を装着しての、
綱渡り場があったり。
すっかり高所での「綱渡り」に自信をつけた子供たち。
車博物館や、
19世紀の村を再現した博物館も満喫!
当時の学校。
ルーレイ鍾乳洞から1時間ほど車を走らせ、
ウッドロウ・ウィルソン氏の生家&博物館へ。
米国28代目の大統領で、
国際連盟創設に貢献しノーベル平和賞を受賞したウィルソン氏。
米国プリンストン大学総長もつとめ、
歴代大統領の中で唯一博士号を持つ政治学者、
女性の選挙権獲得にも貢献した民主党大統領です。
牧師の父親に育てられた生家。
屋内は写真撮影禁止。ガイドさんが丁寧に説明してくださいました。
19世紀後半の米国アッパーミドルの生活を肌で感じたひとときでした。
民主主義を標榜し、世界戦争を阻止するために奔走したウィルソン氏。
同時に、人種差別主義者だったという批判も聞かれます。
学長をつとめたプリンストン大学への黒人学生の入学を認めず、
有色人種に対する差別的とも取れる言動もいくつか残されています。
日本が国際連盟創設時に提案した「人種的差別撤廃提案」を却下に持ち込んだのも、
ウィルソン氏とされています。
(オーストラリアやイギリスなどの他国や米国上院とのかけひきから、
国際連盟創設を優先させるためにやむ得なくともいわれています)
去年は、ウィルソン氏の名前がつけられたプリンストン大学の建物などに対し、
黒人学生による「名前を変えるべき」という運動も起こっています。
(大学側は、国際連盟創設などウィルソン氏が貢献したことをたたえ名前をそのまま用いることを決定)
「現代からみると許されないこともあります。それでも当時のメガネをかけて眺める必要があるんです」
とウィルソン氏の生家のガイドさんが、
「メイド部屋」を案内してくださった時に言っていた言葉を思い出します。
生家にも、黒人のメイドが、6畳ほどの部屋に3人詰め込まれ、
1人は番をするため、玄関の床の上のクッションで寝起きしていたといいます。
ウィルソン家の記録にも、メイドの名前は一切触れられず、引越しにも連れられていくこともなく。
ヒトとしての扱いではなかったのだろうとのこと。
同じ家屋に、全く人とは扱われない人々と共に、暮していたんですよね。
そうした当時の南部的風土や環境の中で育つなら、まあ人種差別的になるのも自然ですよね。
ウィルソン氏は、リンカーンのように奴隷制を否として立ち上がる少数の白人よりも、
大多数の人々が持つ同じような偏見を黒人に向けていたと言われています。
こうした批判は、 ウッドロウ・ウィルソン博物館の展示には、
みられなかったんですが、博物館では、
プライベートな家族についての展示も興味深かったです。
1人目のワイフ、エレン・ルイーズ・アクソンさんに向けた言葉。
「私の成功は、あなたに依っています。
私が人生と仕事において最大限の力を発揮するには、
私はあなたの愛だけでなく、
あなた自身と、あなたと共に生きることを必要としています」
アーティストでもあったエレンさんは、ウィルソン氏が大統領任期中に亡くなります。
そして、大富豪の未亡人イーディス・ボリング・ガルトさん(ポカホンタスの子孫!)と再婚。
ウィルソン氏の死後に分ったことだそうですが、
任期中に脳梗塞に倒れたウィルソン氏には、左半身付随、言語症など重い後遺症が残り、
職務を遂行することが不可能だったとのこと。
それでもこの事実は国民には隠され、
イーディス大統領夫人が事実上国政を司っていたといいます。
全て、つい100年近く前の出来事なんですよね。
子供たちと共に、歴史の連なりの中で今を思う機会になりました。
現代のバージニア州スタントンの街並み。
みなさん、今日もよい日を!