Cafe Eucharistia

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MOOCは大学なのか

2014-01-20 14:44:36 | 豆大福/トロウ日記
1月19日朝日新聞グローブ版特集「大学ってなんだ?」を読んで、いろいろと思うことがあった。主に米国の大学で展開中の、講座をネットで無料配信する教育サービス(Massive Open Online Courses)。MOOCで学び、そこで優秀な成績を収めた“学生”は、提携企業から就職のお誘いを受けることもできる。アメリカの大学は授業料が高いが、それを払うことなしにキャリアアップできる。「大学に行かなくても、独学で新しい知識を身につけることができる時代だ。変化の速い現代社会では不可欠な才能だ」と。

それはそうかもしれないけれど、ならば専門学校でよいではないか。何でそれが「大学」である必要があるのか。

「戦前50に満たなかった大学は、1970年代に400校を突破し、いまや800に迫ろうとしている。18歳人口が減り続けているにもかかわらずである。このような大学のあり方が続くわけはないとだれもが感じている」と三浦年章編集長は記す。亀山郁夫名古屋外国語大学学長が、「大学は研究より教育の場である」というタイトルでこう言い切っているのも、そのようなスタンスを大学が積極的に示していかなければ生き残れない、という事情が透けて見える。

大学生としてはあまりにも幼稚な――外国語能力にせよ、中学生並みの数学にしても、コミュニケーションスキルにせよ――学生たちを、手とり足取り指導して「一人前の大人」にまで何とかもっていけるようにするということが、果たして大学に求められるべき教育といえるのだろうか。

そのような専門教育スキルに長けている人財こそ、中学・高校の教員になればよいのに。そのような専門教員を中学・高校教員として新たに配置することで、教員免許をもつ教員はクラスマネジメントに集中できる。実際、中学・高校の先生たちは皆、忙しいと訴えているのだから。そのように仕事を再配分することで新たな雇用が生まれ、ポスドク問題への解決にも少しは貢献できるのでは。

大学に勤める研究者たちは、いよいよ研究の場を失い疲弊している。といっても、私の周囲の人々、すなわち狭い範囲の人文系の教員のことぐらいしか知らないけれども。大学が、研究より教育の場であるということになれば、研究者たちはいったい、いつどこで研究をすればよいのであろうか。

一方、特集では「究極の少人数教育。大学の原点を守る」というタイトルで英国オックスフォード大学とケンブリッジ大学が紹介されている。素晴らしい研究環境にはため息をついてしまうほどだが、教える側も教えられる側もそこに関わる人たちは特権階級だ。「学生1人にかかる費用は年間約260万円」とある。それを支えるのは「日本とは桁違いの卒業生らによる寄付金」だとしても、その卒業生たちもまた特権階級の人々なわけで、結局、そのような階級の人の連鎖しか起こらない。私などは、うらやましいなあ、で終わってしまう話である。

いずれにしても、今自分にできることは何かを考える。まずは研究の場が確保できればよいのだけれど。

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