Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

タイタニックのバンドメンバー

2010-09-29 15:25:16 | 豆大福/トロウ日記
ここ数日、なぜか1912年に沈没したタイタニック号のことがいろいろと気になってしょうがない。

沈みゆく船のデッキ上で、バンドメンバーたちが最後に演奏したという讃美歌、何だったかなあということが気になり調べているうちに意外なことを発見。〈ちなみに讃美歌は、Nearer, My God, to Thee(主よみもとに近づかん)。〉

船が沈む最後の時まで演奏し続けたという8人からなる伝説的バンドのバンドマスター、ウォレス・ハートレー(Wallace Hartley)がメソジストだったということ。そうだったの、と思ったら、さらにメンバーにはジョン・ウェスレー=ウッドワード(John Wesley Woodward)というスゴイ名前の人がいた。この方も、どうやら(当然?)メソジスト育ちであるらしい。ググった限りの情報では。だから何、といえばそれまでのことではあるが。

エデンの東

2010-09-28 17:46:30 | 遥かなる銀幕の世界
今日、テレ東午後の映画タイムに「エデンの東」登場。時間の都合もつくし、ブチブチカットされた放送でもまあよしと納得の上、20分遅れでテレビの前に座った。思えば、約30年ぶりの再会となるこの作品。私が初めてこの作品を観た時点で、すでに劇場初公開後20年以上経っていたはずだから、この映画自体すでに50年以上前の作品ということになる。そう思えば、確かに「古い映画」ということになろう。

月並みな感動ではあるが、この作品に対する中学生の時の目線と今のそれとでは、かなり違うことに気付く。

中学生の時の目線とは、一言でいえば、演技が上手くかっこいい先輩であるようなジェームズ・ディーン扮する、愛情を渇望する次男キャルの目線であった。その頃はまだ、米国社会の抱える闇(赤狩りとか)や、それと関連するエリア・カザン監督にまつわる暗黒面のことさえ、よくは分からない年少者であった。

原作者ジョン・スタインベックは、ユーカリスティア教会の「キリスト教と文学」講座で取り上げたこともある。そのせいもあると思うけれど、今、この映画を観ると、自分がもっと鳥瞰図的な目線であることに気付く。それはスタインベックの目線に近いかも、といえば厚かましいかもしれないが。

この映画で問題にされている善悪の基準が、すでに通俗的な米国ピューリタン社会のそれによって考えられている点で、原作の奥深さと比べると浅薄であることは否めない。原作における登場人物、中国人リーは物語に何層にも厚みを与えている重要人物であるのに、映画では全く登場しないのが残念である。

ちなみにスタインベック原作の映画でも、『二十日鼠と人間』の方がまだ原作に忠実だ。ゲイリー・シニーズもよかったけれど、とくにジョン・マルコビッチが印象的だ。でも、大福先生はこの作品に限っては、原作も映画もあまり好きではなかったみたい。作品全体に漂う”気持ちの悪さ”が嫌いだったようだ。それにしても、思えば思うほど凄い作家だなあ、ジョン・スタインベック。

そしてもう一点。かつてはかっこいいお兄さんのジェームズ・ディーンであったはずなのに、彼の時は24歳(だったか)で止まったままで、いつの間にか私はとっくにその年齢を越えている。今ではジミーが息子のようさえ思えてしまう。光陰矢のごとし。しかし過去は短く、未来は長い。長すぎるよ、本当に。たとえそれが、明日終わるとしても。

ラ・マンチャの男

2010-09-22 02:33:06 | 遥かなる銀幕の世界
ニューヨークのブロードウェイで2回は観たし、東京でも松本幸四郎さんの舞台を、最低2回は観ているこの作品。映画版?それはもう数え切れないほど、何(十)回も観ている(何せ主演はピーター・オトゥール)。

そういうわけで、セルバンテスの原作『ドン・キホーテ』よりもこちらのミュージカル作品の方が、私は何度も接していることになる。ミュージカルの方では、なんとセルバンテス自身が登場してしまうのであるが、このミュージカル作品、どれを観てもそれぞれが本当に違う。その違いの程度たるや、別の作品ではないだろうかと思われるくらいに違う。

今日、YouTubeで、何とプラシド・ドミンゴが「ラ・マンチャの男」の名曲ナンバーを歌っているのを発見した。名曲ナンバーを歌っているだけなのか、それともミュージカル作品全般を舞台で演じたのかは知らないが、あーびっくりした。

やはりドミンゴの歌、上手い。

私が持っているCD「アヴェ・マリア集」の中の一曲に、ドミンゴとウィーン少年合唱団所属の一人の少年がコラボレートしたものが入っているが、正直のところ、その少年が気の毒だと思った。上手さのレベルが違いすぎる。「ラマンチャの男」でも同じで、セルバンテス/ドンキホーテを演じた他のどの俳優よりドミンゴの方が、それはもう段違いに歌は上手い。

でもね、やはりこの作品は演技力が勝負だと思うのだ。いや、ドミンゴだってオペラ歌手として様々な人物を演じている。オペラ歌手としてのドミンゴは私も好きだ。月並みだが、特に「カルメン」のドン・ホセ役で彼の右に出る者はいないに一票、とさえ思っている。でも、何かが物足りない。

そうだ、今分かった。歌が上手すぎるのがよくないのだ。有名な「見果てぬ夢」の歌詞に、

And the world will be better for this
That one man, scorned and covered with scars
Still strove, with his last ounce of courage
To reach the unreachable stars
(これで世の中も少しは良くなるだろう 一人の者が、嘲けられ、傷だらけになりながらそれでも最後まで勇気を振り絞り 届かぬ星を追い求める限り)

という件がある。このような歌詞を歌いこなすに、歌うのが上手すぎてはいけないのである。だって、その歌い主は「傷だらけ」なのだから。この歌を歌う者は、もっと不良でなければならない。少なくとも、不良を演じられなければならない。ご正道を行くカタギではダメなのだ。

そうなのだ、ドン・キホーテにしてもセルバンテスにしても、とんでもない不良で変人だ。普通に真面目そのもので、世の中に誠実すぎる不良だ。

と、私、サンチョ・パンサは思うのである。「憂い顔の騎士」ドン・キホーテの従者、サンチョ・パンサ。それとも私の立ち位置は、痩せ馬ロシナンテの方かな。別に痩せてないけど、最近やつれてはいるし。

夢を想う

2010-09-19 02:29:05 | 豆大福/トロウ日記
「私には夢がある。」
先週、民主党の代表戦最終演説で、菅直人、小沢一郎両氏ともにこのように言っていた。

私が訪れた時、米国アトランタのマルティン・ルーサー・キングゆかりの教会で、”I have a dream”演説を繰り返し流していたの思い出す。私には夢がある――いい言葉だ。当たり前だけれども、夢がある人にしか使えない言葉である。

今日(というかもう昨日)、西神田にあるカトリック教会の周辺を、時間の合間にぐるりと散歩していてふと、夢を想う。

文化財に指定されているらしい教会堂が素晴らしいのはもちろんであるが、何よりも個人的に目を剥くのは十字架である。日輪に十字。(ハイクロス〈ケルト十字〉ではなくて。)むむっ、こ、これは……。日本の教会で、このシンボルが使われているのを見るのは初めてだ。しかもローマン・カトリック教会で。他の教会で使っているところがあるのかな、この十字架。

とても素敵な教会堂を、外側から眺めながら想う。いつか私たちの夢が叶うときが来るのかな。God knows. 叶うといいね、ひとつ、またひとつ。

いつか言って(書いて)みたい言葉

2010-09-12 01:00:11 | 豆大福/トロウ日記
法律関係の本を読んでいて、思わず「かっこいい」と唸った言葉。

「…この本では、諸君をそこまで理解する能力のあるものと前提している。…そこを読んで『不必要なことばかり書いてあって、どうもすっきりしない』と感ずる人があったら、私が前提しているだけの能力がないと悟って、あせらずに心静かに理解するように努めてもらいたい。」

こぉんなに「上から目線」のセリフを臆面もなく言える大御所、かつてはいたんですよね。人によっては、「なんだ偉そうに」と拒絶反応を起こしかねないけれども、私はこういうタイプの学者先生、好きだなあ。直接は全然知らない先生だけど、我妻栄、昭和四十六年のお言葉。私もいつかこんなセリフ、言ってみたいなあ(けど、まず無理)。いや、大御所になりたいというのではなく、この位のことが堂々と言えるほどに自分の専門分野を極めたい、という意味で。