Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

円高と事業仕分け、そして愚痴

2009-11-27 18:55:19 | 豆大福/トロウ日記
円高だ!それ、amazon の「今は買わない」リスト(洋書)のチェックだ!
…うほほ~い(ふ、古い)、中には1,500円位安くなっているのもあるぞぅ。早速、優先順位の高い順にカートに戻していくと…それなりの値段だ。結局、出ていくものは出ていくことになるのか。ない袖は振れないぜ、あきらめるしかないな、というよりはましだから、まあ、仕方がないか。

我ながら、涙ぐましい努力である。円高という時期が来るまで、研究に必要な書籍の購入も控えなければならないとは。

民主党議員中心による「事業仕分け」で、科学技術関連予算の削減をめぐり、ノーベル賞受賞者たちがこぞって発言に加わった。そのニュースを目にして、私としてはかなり複雑な思いに駆られた。

「世界最高レベルのコンピューターを作る科学者を育てることは否定しない。だが、1000億円超のお金を使うことがいかに間尺に合わないか(以下、省略)。」(毎日JP)とは、ある仕分け人の発言である。

1000億円って。想像もつかない額の予算である。以下は、しがない神学研究徒・豆大福/トロウによる、ぐち、つぶやき。

確かこの事業仕分けに宇宙飛行士の毛利衛さんが出席したときだったか、(毛利さんご本人だったかは記憶が定かでない)基礎研究の重要性を訴えていた。「基礎研究の重要性、おっしゃるとおり」と、思わず、膝を打つ。

大学や研究機関が、どこもかしこも懐事情が厳しいのは、今に始まったことではない。人文科学系、特にキリスト教学や哲学、文学系の学部の統廃合は、15年から20年くらい前から始まり、ここ数年でそれがいよいよ加速してきている。いいのか、これで。いいわけが、ない。この期間に、どれだけ優秀な頭脳が、人文科学分野から流出したことか。

でも経済難だからといって、目先の利益を追求すべく、基礎研究の充実はさておき、「集客」の見込めるような、学問の名を借りた、それらしい専門を掲げた大学院を創設したりするのは見当違いも甚だしい。

かねがね、理系の人々(特に医学や薬学とか)が、チームである研究をし、業績を上げるのを、ある意味、羨ましいと思ってきた。確かに人文科学は、チームより個人単位での研究の方が適する場合も多く、自然科学のようにはいかないところもあることは事実だ。しかし、一定の大きな成果が見出せるチームによる研究-つまりこれを学閥というのかもしれないけれども-も、なかなか捨てがたい魅力がある。

人文科学といっても、私がディープに関わるのは神学という、きわめてマイナーな分野である。この分野における基礎研究といえば、さしあたり大まかにいって、聖書学、教会史学、そして組織神学が中心になろうが、現在の日本でこの分野に関わっている人材は、私見によれば、世界の中でも大変に優秀だと思っている。巷では、「科学技術立国」として日本は世界一、と言っているが、神学界だって、本来、そう捨てたものではないと私は見ている。

でもね。大学はじめ、研究機関がこれだけ統廃合などでいぢめられてしまうとね、そういった優秀な人材はてんでバラバラになってしまうのだよ。それは社会にとって宝の持ち腐れってことに、世の中がいつになったら気づいてくれるのだろうか。さまざまな神学校もまた、今や気息奄々という状態。それで一層、基礎研究分野が疎かにされてゆくという、悪循環。そんなんで、いいんでしょうかね。

愛について

2009-11-19 18:31:48 | 豆大福/トロウ日記
研究会のメンバーである白頭庵さんのブログにinspired され、つれづれに書きたくなった。

人間にはいったい、どれほど愛(の実践)が可能なのだろうか。

「愛は忍耐強い。愛は情け深い。ねたまない。愛は自慢せず、高ぶらない。礼を失せず、自分の利益を求めず、いらだたず、恨みを抱かない。不義を喜ばず、真実を喜ぶ。すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える。」(コリント信徒への手紙一、13章4節以下)
とは、パウロの言葉である。

しかしこれらが愛の実践となるのか、正直のところ、私にはピンと来ないところがある。これらはまるで、道徳律の羅列ではないか。いや、道徳としては、これはこれで素晴らしい。しかし、これらを満たせば、私たちは果たして愛を実践したことになるのか。

もちろん私は道徳を否定するわけではない。けれども道徳は、往々にして私たちの存在を上から目線で弾圧するような抑圧者に成り代わる、きわめて取り扱いの危険なのものでもあるのだ。そして、多くのクリスチャンたちが、道徳と化した愛のあり方-パウロが示したような-を実践することだけで、自分はこれで立派に愛を実践しているのだという高みに舞い上がっている。

そのように舞い上がった人々には、もはや愛の厳しさを知ることは難しいだろう。とくに前掲のパウロの言葉の後半部分、「すべてを忍び、すべてを信じ、すべてを望み、すべてに耐える」ことのみが、愛の実践における至上命令だと洗脳された人々には、およそ闘いとみなされる事柄はすべて悪と思い込んでいる場合が極めて多い。愛を実践する際には、世の中に満ち溢れた不条理と闘う場合も多い。不正に、貧困に、抑圧に、障害に、病気に、そして老いや死に対して闘いを余儀なくされることが、神とともにある者たちにとっての愛の実践であることを、彼らはどれだけ承知しているのだろうか。

むしろ、この「すべてを…」を忠実に実行することで、かえってある人の悪魔的な行動を助長させる結果をもたらす事例が、いかに多く見られることか。例えば、ある高齢のご婦人のこんな話がある。経済的に困窮した実娘夫婦が、あるときから実家に身を寄せることになった。しかし娘は次第に母親を煙たく思い始め、何かにつけては母親の行動を叱り、外出を制限し、仕舞には暴力を振るうまでになった。しかし母親は、耐え続けた。それがクリスチャンとしての愛の実践であると信じて。

闘いは、悪なのであろうか。すべての闘いが悪であるはずはない。イエスの愛の実践は、不正、貧困、抑圧、障害、病気、死に対する、壮絶な闘いの叙事詩として福音書に表されているではないか。闘うことこそが、イエスの生涯における愛の実践であった。悪魔と闘う大天使ミカエルが、歴史的にキリストと同視されてきた(ところもある)所以である。そういった闘いのさなかから、慈愛や忍耐という、上掲のパウロの愛の賛歌が生まれ出づるのである。

しかしながら、私たちはイエス・キリストにはなれない。(これは努力の問題ではなく、存在する次元が異なるからだと言った方がいいだろう。)なれないのならば、倣えばいい。ほんの小さい存在でしかない私たち人間ができることは、自分やこの世界全体がキリストの霊によって満たされていること、そのことで、私たちは常に神とともにあることを感謝するぐらいしかない。

最後に現実的なたとえ話を、ひとつ。プロポーズの言葉としてもはや常套文句と化した、「(大抵は男から女に対して)結婚してください、君を必ず幸せにするから!」というのがある。もし私がこんな言葉でプロポーズされたなら…コホン(以下、言葉遣いに不適切な箇所があるゆえ、咳払いを)…

「なに考えとるんじゃワレ、お前、何様じゃい!」と言って、グーパンチを食らわすに違いない。「あんだって?君を幸せにするだと?お前は私の幸せの、何を分かっとるちゅーんじゃい。思い上がるのもいい加減しろ、このボケカスが」(以上、不適切箇所終了)となるだろう。

でも反対に、「君と一緒に暮らすことで、僕に幸せな人生を送らせてください」と言われたなら、即答でOKだ(もちろん、それだけ好きな人に言われることは前提で)。これは、お前の母性本能をくすぐられるセリフだからにすぎないんじゃないの、と思われたら、それは違う。こちらの発言の持ち主は、幸せはそうそう他人に与えることなどできないという限界を知っている人物だ。愛の実践の厳しさを、心底分かっている人物だ。そういう人とでなければ、私ならば安心して一緒に暮らすことはできないだろう。