私の書く文章や考え方や行動について、「男」とか「オヤジ」とか言われることが若い頃から多い。一方で、いやいや、豆大福さんはすごく女性的と言ってくださる優しい方(実際私は女性なのでこう言っていただいた方が性的アイデンティティーと一致するという意味で)もいらっしゃる。というわけで自意識としては、自分は結構両性具有的存在なのかなとみている。しかしそのような意識をもつようになったのはごく最近である。最近まで、自分のジェンダーについて、あるいは他人がどちらのジェンダーであるかなど、ほとんど意識する必要がなかったのである。
幸か不幸か、物心がついた頃から夫が亡くなる数年前まで、自分が社会的に女性であることを意識しなければ生きてゆけないような不遇な環境になかったせいだからだろうか、たとえばジェンダーに関わる問題は、私見によればマイノリティーや弱者差別に収斂されるべき問題であった。つまりそれは同時に、私がジェンダーに関わる事理についての感受性が、あまり高くないことをも表しているのであろう。
キリスト教の祈りには「父なる神」という表現が伝統的にある。フェミニズム神学が最も興隆した20世紀後半には、ここもまた批判の対象になっていた。この点、日本語の場合には、神を代名詞で呼ぶことはないこともあって、あまり問題にはされなかったようである。「父なる」のところが気に食わなければ、それを割愛して「神」だけでよいのだから。しかし例えば英語であれば、Godを代名詞に置き換えるのになぜHeなのか、She でもいいのではないかとか、S/Heという表記にすべきだとか、いろいろあったのである。そのような論争があった中、私自身といえば「父なる神」で神学的に全く問題ないと考えていたので、私たちの教会ではそのとおり、つまり伝統通りの呼び名で祈りを捧げてきた。
キリスト教の父なる神は、愛における全知全能の神である。言い換えれば、愛について知り尽くしており、それを私たちに惜しみなく与えてくださる究極の存在である。それは「濡れ落ち葉」どころではなく、こちらが鬱陶しく思い払っても払っても、どれだけこちらが拒否しようがあちら側から与えられる種類の愛である。
そのような愛がどのような愛かは、「コリント信徒への手紙Ⅰ」13章を参照していただきたい。とくに4節以下。どうでしょう、愛なる神がここに書いてあることを完璧にこなせる存在だとしたら。このような存在は優しいと同時に、欠点だらけの存在である人間にとって、ある場合には怖いのではないだろうか。
新聞記事で読んだ、歌舞伎役者の市川海老蔵さんが父團十郎について語っていたことが、私が長年理解できなかったことに対する答えを与えてくださっている。海老蔵さんは、團十郎が亡くなったときに自らおっしゃっていたように「やんちゃな息子」なのだろう。その彼が父親のことを、「言葉数が少なく、優しい父にひたすら見守られていることは、怒られるより怖かった」と振り返っている。
暴力を振るい暴言を吐きまくる父親ならばともかく、それどころか子のために心から尽くす優しい父親が、とくに息子からは怖い父親と思われることが往々にしてあることが、私には不思議でならなかった。フロイトの有名なエディプスコンプレックス論に至っては、息子は父親を殺害したいとさえ願うというのである。とくに何か問題がある父親というわけでもなかろうに、ただ父親だという理由だけでその者を排除したい心理とは……私にはどうにも理解できなかったのである。
キリスト者の実践すべき愛は、無償の愛とか見返りを求めない愛とか、自己犠牲的な愛というように考えられている。それは間違いではないだろう。なぜならそれは、上に挙げたコリント前書の該当箇所から導かれる愛の姿であろうからだ。しかしそのような愛が、常に優しいだけの愛だとは限らない。ときには厳しく、叱咤する愛でもある。
團十郎の目力の強さは歌舞伎の舞台上だけのものではなかったはずだ。そのような目力のある、しかし優しい視線で息子を見守っていたことに対して、息子の方は怖いと感じるものなのだなあということを、今回の海老蔵さんのインタビューから学んだ。
幸か不幸か、物心がついた頃から夫が亡くなる数年前まで、自分が社会的に女性であることを意識しなければ生きてゆけないような不遇な環境になかったせいだからだろうか、たとえばジェンダーに関わる問題は、私見によればマイノリティーや弱者差別に収斂されるべき問題であった。つまりそれは同時に、私がジェンダーに関わる事理についての感受性が、あまり高くないことをも表しているのであろう。
キリスト教の祈りには「父なる神」という表現が伝統的にある。フェミニズム神学が最も興隆した20世紀後半には、ここもまた批判の対象になっていた。この点、日本語の場合には、神を代名詞で呼ぶことはないこともあって、あまり問題にはされなかったようである。「父なる」のところが気に食わなければ、それを割愛して「神」だけでよいのだから。しかし例えば英語であれば、Godを代名詞に置き換えるのになぜHeなのか、She でもいいのではないかとか、S/Heという表記にすべきだとか、いろいろあったのである。そのような論争があった中、私自身といえば「父なる神」で神学的に全く問題ないと考えていたので、私たちの教会ではそのとおり、つまり伝統通りの呼び名で祈りを捧げてきた。
キリスト教の父なる神は、愛における全知全能の神である。言い換えれば、愛について知り尽くしており、それを私たちに惜しみなく与えてくださる究極の存在である。それは「濡れ落ち葉」どころではなく、こちらが鬱陶しく思い払っても払っても、どれだけこちらが拒否しようがあちら側から与えられる種類の愛である。
そのような愛がどのような愛かは、「コリント信徒への手紙Ⅰ」13章を参照していただきたい。とくに4節以下。どうでしょう、愛なる神がここに書いてあることを完璧にこなせる存在だとしたら。このような存在は優しいと同時に、欠点だらけの存在である人間にとって、ある場合には怖いのではないだろうか。
新聞記事で読んだ、歌舞伎役者の市川海老蔵さんが父團十郎について語っていたことが、私が長年理解できなかったことに対する答えを与えてくださっている。海老蔵さんは、團十郎が亡くなったときに自らおっしゃっていたように「やんちゃな息子」なのだろう。その彼が父親のことを、「言葉数が少なく、優しい父にひたすら見守られていることは、怒られるより怖かった」と振り返っている。
暴力を振るい暴言を吐きまくる父親ならばともかく、それどころか子のために心から尽くす優しい父親が、とくに息子からは怖い父親と思われることが往々にしてあることが、私には不思議でならなかった。フロイトの有名なエディプスコンプレックス論に至っては、息子は父親を殺害したいとさえ願うというのである。とくに何か問題がある父親というわけでもなかろうに、ただ父親だという理由だけでその者を排除したい心理とは……私にはどうにも理解できなかったのである。
キリスト者の実践すべき愛は、無償の愛とか見返りを求めない愛とか、自己犠牲的な愛というように考えられている。それは間違いではないだろう。なぜならそれは、上に挙げたコリント前書の該当箇所から導かれる愛の姿であろうからだ。しかしそのような愛が、常に優しいだけの愛だとは限らない。ときには厳しく、叱咤する愛でもある。
團十郎の目力の強さは歌舞伎の舞台上だけのものではなかったはずだ。そのような目力のある、しかし優しい視線で息子を見守っていたことに対して、息子の方は怖いと感じるものなのだなあということを、今回の海老蔵さんのインタビューから学んだ。