Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

Trip and Return

2009-09-24 22:13:51 | 豆大福/トロウ日記
久しぶりに墓参りへ行った。気がつけば2年ぶりの墓参という罰当たりモノなわけだが、まあ、こちらにもいろいろと事情があるわけで、その辺のところはご先祖様方も了承してくださるだろう。

以前から薄々気づいていたが、もしかして私、かなり墓地が好きだ。いや墓地一般が好き、というよりも、自分に縁のある霊園が好きなのかもしれない。すごく落ち着くのよね。自分が入る予定になっているその場所は、結構地の利もいい。もっとも、死んでしまえば地の利も何も、関係ないけれども。難点は、行くと必ず蚊に刺されることだ。これも、死んでしまえば関係なし。地の利とか蚊とか、これらの事柄はもっぱら、私の後に続く人たちの関心事になろうが、どっこい私もまだこの世界に生きている人間なのであった。

そう、そこに行くと「私にはまだ、この世に生きてやらなければならないことがある」という思いを持たざるを得なくなる。生きる勇気をもらう、というほど大げさではないけれど、「自分がそこに入るまでは、生きるべく生きなければならんのだなあ、やれやれ」と。

遅めのランチにと入ったCafe F.O.B.は、青山という場所の割には値段も安く、何よりもいろいろとおいしいし、店員の人たちもフレンドリーなので、結構気に入っている。雑貨ショップを兼ねたカフェの店内には輸入菓子も並べて売られていて、ちょっと日本にいる気がしない。

墓参で異世界を感じ、カフェで異国を感じるという、図らずも現実逃避の1日を過ごしたことで、ちょっとばかりのカタルシス、といったところ。

コークー外科、その後

2009-09-21 17:06:24 | Dr.大福よもやま話
以前、「大福先生と主治医の、ある日の会話」でご紹介した、大福先生が「口腔外科」を「航空外科」と勘違いした話の後日談は、どうしても公表しなければならない。

あのエピソード以来、豆大福は病院で「口腔外科」の案内板を目にするたびに、大福先生の面白い勘違いを思い出しては、笑いを噛みしめなければならなくなった。そのような不便から、私はついに不満を大福先生にぶつけた。

「あの、先生の変な勘違い以来、私は病院で『口腔外科』という案内を目にするたびに、ニヤニヤしながら体を小刻みに震わせている挙動不審な女と周囲に思われてしまうではないですか。一体、どうしてくださるんです」
「そんなこといったって、それは僕のせいじゃない。だいたいね、一体いつから『口腔』を『コウクウ』と読むようになったんだい。『口腔』とあれば、『コウコウ』と読むのが正解だろう」
「えっ、『口腔』を『コウコウ』と読むんですか。ほんとですか。苦し紛れに、適当なことを言ってませんか(失礼な…)」
「いんや。昔はね、ちゃんと『コウコウ』と読んでました。いったい、誰がいつから『コウクウ』だなんて…邪道だね」
「では、あのとき主治医が『コウコウ外科』とおっしゃっていたならば、先生も勘違いすることはなかった、と」
「そのとおり」

それでも大福先生の話に半信半疑な私は、やっと辞書で調べてみる。…げ。あるよ。あるある、「口腔」は「コウクウ」ともあるが、「コウコウ」とある。さらに驚いたことに、私が高校生のときに使用していた古い辞書(『新潮国語辞典』、新装改訂版第2刷、昭和59年)には、「口腔」は「コウコウ」のみで、「コウクウ」は存在しないではないか。

あいやー、これはどうも、おそれ入谷の鬼子母神でございます。いやほんと、大福先生には、失礼いたしました。このように名誉回復の記事を載せますので、許してくださいませ。

そうそう。そういえばここ最近(といってもここ数十年)、似たような違和感を覚える漢字の読まれ方がある。世間では、聖ロカ病院と呼ばれるところの、聖路加病院。私の場合、習い性だろうか、どうしてもそれに違和感があって仕様がない。路加は「ロカ」でなく「ルカ」だろう、「ルカ」。でも世間からすると、私や大福先生が聖ルカ病院と呼ぶ方に違和感を覚えるようだ。

おじいちゃんと呼ばれて

2009-09-20 15:50:44 | 豆大福/トロウ日記
明日は敬老の日だそうだ。敬老、それはそれで結構な話だとは思うけれども、それがなぜ、9月の第3月曜日なのだろうか。9月9日の重陽の節句の方が、長寿を祝うにふさわしいとも言われるのにね。

それはともかく、大福先生と豆大福には、金輪際行く気がしないトラットリアが存在する。理由は、その店の店員が発した一言、これに尽きる。一店員の、悪意のない一言でこれでは、店には気の毒という気もしないではないが、ああ、もうだめだ。

その店は通路が狭く、たまたま大福先生の席の背後に車椅子が通るというとき、二十歳そこそこのウェイトレスが大福先生に言った。「すみませんがおじいちゃん、後ろの方、ちょっとよけて頂けますか」。

そう、よけることは吝かでない。いや、当然だ。問題は、「おじいちゃん」、ここだ。いや確かに大福先生は、おじいちゃんと呼ばれても仕方のない実年齢ではある。そう呼ばれて、文句の言いようがないのは認める。ただ、大福先生はそのときまで、誰によってもおじいちゃんと呼ばれたことは、一度もなかったのである。そして豆大福もまた、大福先生のことをおじいちゃんと呼ぶ人物に出会ったことがなかったのだ。

おじいちゃん…、その(少なくとも私たちにとっては)衝撃的な言葉の余韻のせいで茫然自失、その後の食事は全く喉を通らなかった。なぜ、あの若いウェイトレスはあのとき、お客様、と言わなかったのか。おじいちゃんの方が、彼女にとっては親しみを込めた表現だったのかもしれない。私たちとしても、「様」とか「先生」とか、偉そうに呼ばれなかったことが不愉快だったわけでは全くない。ただ、ただね、おじいちゃん、と呼ばれたことは、一度もなかったんですもの…というショック。

日本語において、第二人称の代名詞は本当に難しい。豆大福自身にも、コレを言われると背筋にぞぞ~っと冷たいものが走るという言葉がある。それは、「奥様」。どうもこの言葉には、「宅の主人ときたらコレソレなものですから、まあ立派でございましょ、おーっほほほっ」というイメージがあって。あーぞっとするぜ。偏見かもしれないけれど、このようなマイナスのイメージを、この奥様という言葉に私が抱いてしまうのは否定できないのである。仮に店員がそれを言うならば、奥様でなくお客様と呼べ、と言いたい。

が、しかし。八百屋のオヤジに「おねえさん、今日はたまねぎが特売だよ」と言われるとつい、財布の紐が緩んでしまうのも、これまた事実なところで。う~ん、複雑。

損とか、得とか。

2009-09-10 18:19:55 | 豆大福/トロウ日記
自分の淹れるコーヒー、味わう段になると、なんだかいつもコーヒーを楽しんだ気がしない。インスタントコーヒーではなく、粉、あるいは豆から挽いてまでして淹れるコーヒーなのに。その原因は、自分でも勘付いていた。そう、粉に対して湯を入れすぎてしまうのだ。そうすることで風味は飛び、コクも失われるようだ。もちろん、それだけ薄くもなるし。

そうなることが分かっていながらなぜ、粉に対して湯を多く入れてしまうのか。それは、ひとえに私の貧乏性ゆえに、だ。少なめの粉で、多めにコーヒーを作っちゃえ、という。今しがた淹れたコーヒー、今度こそはと適量の湯で淹れてみた。あ~おいし~、しあわせ~。安物の粉を使ったにもかかわらず。

別の貧乏性の話。煮物を作る際に、大根や人参などの根菜類の面取りをする、しないが、料理の出来にどれだけ違いが出てくるかということを、私はつい数年前まで気がつかなかった。面取りをする時間がもったいない、とか、面取りをしたその部分を捨てるのがもったいない、という思いから、根菜類はスッパンスッパン切ったまま、面取りをせずに煮込み料理を作っていたのである。ある時はじめて、何となく気が向いて面取りをした人参を使った筑前煮が、どれだけ美味しかったことか。

貧乏性を発揮して、味わった気があまりしないコーヒーかもしれないけれども少ない粉でコーヒーを味わう方を得とみるか、それとも、粉はより多く使うけど美味しいコーヒーを嗜むのを得と考えるか。あるいは煮物の例でいえば、面取りという時間と材料の無駄使いを損とみるか、それとも面取りに、それを美味しい料理を味わうためという肯定的な意味を見出すか。

はたして、どちらが損で、どちらが得なのだろうか。

信仰者は、もとい、実存論的神学に与する信仰者は、一方を選ぶ方が損で、もう一方を選ぶのが得である、というあれかこれかの選択をしない。どちらが損でどちらが得であるかは、状況によって異なってくる。だいたい、コーヒーに金をかける余裕がないほどに家計は苦しいけれど、とにかく少ない粉でであってもコーヒーを飲みたい、というときには、どちらが損も得もない。そのような場合には、選択の余地さえ、ないのだから。

損得、という例に表されるような、一定した価値観に私たちは囚われてはならない。一定の価値観に囚われることは、種々さまざまな現実(もちろんこの「現実」には人間をも含む)を、私たち人間が裁くことを意味するからである。信仰者は「裁くな」と命ぜられている(マタイ福音書7章1節以下など)。

私たちの住むこの現実の向こう側(彼岸)にある愛の存在者が、不条理に満ちた私たちの現実に参与する。このような存在者との対話の中で、私たちは自らの取るべき道を見出し、それがすなわち摂理の現れである。

しかしながら、不条理って一体何だろう。それがこの世に蔓延っていることは、否定できない。しかしその正体は?あるいは、一体何が不条理で、何が条理なのか。あるいは、何が正義で何が不正義なのだろうか。あるいは……。

なんてことを、おいしいコーヒーを飲みながら、改めて思う。