1つ前の記事に対して、okegawaさんがトラックバックを飛ばしてくださった。その記事に書かれている、「アガペーという至上の理念が、人々の実際の相対的な行動を上からひっぱるという、野呂芳男『実存論的神学と倫理』(創文社、1970年、207頁以下)で紹介されているニーバーの倫理学から影響を受けた考え」に関して、著者ご本人であるDr.大福が、よく引き合いに出されるたとえ話を紹介したいと思う。
AがBに10,000円の贈り物をしたとする。贈った本人であるAにとっては、10,000円の出費は10,000円以上の出費をしたように感じられる。一方、受け取ったBといえば大抵、貰ったものは実際の値段よりも安く見積もりがちなのが人情で、BはAの贈り物を8,000円くらいのものだろうと感じてしまう。
さらに、BがAにお返しをしようと考える段になると、「あのとき、Aは8,000円くらいを出費したのだろうから、今回の私のお返しは、高くても8,000円でいいか」と考え、ひょっとしたら7,800円で済ますかもしれない。そしてそれを受け取ったAは、そのBからのお返しを6,500円くらいの品物だと見積もり……このようなことを繰り返すうちに、最初の10,000円の贈り物の価値は、どんどん下落してゆく。
だから、「8,000円のものを貰った」と感じたら、自分がその贈り手にお返しをするときには10,000円のものを選んだくらいで、実際にはちょうど釣り合いが取れるものなのだ。そのときには、「自分は2,000円分、損をしている、犠牲を払っている」と感じるかもしれない。しかしその際の、「損、犠牲」という感覚を正当化してくれる愛がアガペーなのである。それが「アガペーが私たちの行いを上から引っ張ってくれる」という意味である。実際、アガペーという至上の基準が存在しなかったら、10,000円は、限りなく0円近くまで転落していくだろう。
***
このたとえ話でお分かりのとおり、ここで言われている10,000円とは、私たちが生きる上での倫理観や実際の社会活動を指している。自分が10,000円を出費する時にはそれ以上の金額を出費したように感じるものだが、しかし受け取る側は、実際の相手の出費を低く見積もりがちだというこのたとえは、人と人との間の活動すべてに置き換えることができる。つまり、自分が「出す」場合には実際よりも多く出したように思えるし、自分が「貰う」ときには実際よりも少なくしか貰わなかったように思ってしまうのが、この世の人情だ。その時に、出す側・貰う側双方が互いに、犠牲の感覚を持たなければ、実際には平衡を保てない。しかし、犠牲など払いたくない、損はしたくない、と思ってしまうのも、これまた人情なのだろう。(ちなみに、こういった「人情」に対する分析・考察も、神学の重要テーマである。)
何はともあれ、その平衡をどうにか保ちたいのであれば、私たちの世界の論理を超えた基準が、どうしても必要になってくる。その基準となるのが神の愛、アガペーと呼ばれる概念なのである。ましてや私たちの社会を改善していきたいと思うならばなおさら、このアガペーという概念なしにどのようにしてそれを実現できるのか、少なくとも私自身には、思いつくことができない。
このアガペーという概念は、キリスト教からしか出てこないとは言い切れないが、キリスト教においてはとても大事な、そして中心的な概念であることは間違いない。
AがBに10,000円の贈り物をしたとする。贈った本人であるAにとっては、10,000円の出費は10,000円以上の出費をしたように感じられる。一方、受け取ったBといえば大抵、貰ったものは実際の値段よりも安く見積もりがちなのが人情で、BはAの贈り物を8,000円くらいのものだろうと感じてしまう。
さらに、BがAにお返しをしようと考える段になると、「あのとき、Aは8,000円くらいを出費したのだろうから、今回の私のお返しは、高くても8,000円でいいか」と考え、ひょっとしたら7,800円で済ますかもしれない。そしてそれを受け取ったAは、そのBからのお返しを6,500円くらいの品物だと見積もり……このようなことを繰り返すうちに、最初の10,000円の贈り物の価値は、どんどん下落してゆく。
だから、「8,000円のものを貰った」と感じたら、自分がその贈り手にお返しをするときには10,000円のものを選んだくらいで、実際にはちょうど釣り合いが取れるものなのだ。そのときには、「自分は2,000円分、損をしている、犠牲を払っている」と感じるかもしれない。しかしその際の、「損、犠牲」という感覚を正当化してくれる愛がアガペーなのである。それが「アガペーが私たちの行いを上から引っ張ってくれる」という意味である。実際、アガペーという至上の基準が存在しなかったら、10,000円は、限りなく0円近くまで転落していくだろう。
***
このたとえ話でお分かりのとおり、ここで言われている10,000円とは、私たちが生きる上での倫理観や実際の社会活動を指している。自分が10,000円を出費する時にはそれ以上の金額を出費したように感じるものだが、しかし受け取る側は、実際の相手の出費を低く見積もりがちだというこのたとえは、人と人との間の活動すべてに置き換えることができる。つまり、自分が「出す」場合には実際よりも多く出したように思えるし、自分が「貰う」ときには実際よりも少なくしか貰わなかったように思ってしまうのが、この世の人情だ。その時に、出す側・貰う側双方が互いに、犠牲の感覚を持たなければ、実際には平衡を保てない。しかし、犠牲など払いたくない、損はしたくない、と思ってしまうのも、これまた人情なのだろう。(ちなみに、こういった「人情」に対する分析・考察も、神学の重要テーマである。)
何はともあれ、その平衡をどうにか保ちたいのであれば、私たちの世界の論理を超えた基準が、どうしても必要になってくる。その基準となるのが神の愛、アガペーと呼ばれる概念なのである。ましてや私たちの社会を改善していきたいと思うならばなおさら、このアガペーという概念なしにどのようにしてそれを実現できるのか、少なくとも私自身には、思いつくことができない。
このアガペーという概念は、キリスト教からしか出てこないとは言い切れないが、キリスト教においてはとても大事な、そして中心的な概念であることは間違いない。