Cafe Eucharistia

実存論的神学の実践の場・ユーカリスティア教会によるWeb上カフェ、open

超えられないモダン

2007-05-20 15:29:59 | 豆大福/トロウ日記
ポスト(post-)、ネオ(neo-)のという言葉がもつ魔術的作用のひとつとして、それらの言葉に続く概念を、超えたとか、克服した、というような、いわば上の立場からその概念を眺めることを可能にするという作用がある。それらの接頭語をつけることで得られる優越感・征服感は、一種カタルシス的な爽快感もたらすのかもしれない。

一方で、相当時代が経ってしまうと、両者の間には優劣が存在するというよりも、実は両者が「似ているが異なるもの」であることが当然とされてゆくこともある。たとえば、プラトン主義と新プラトン主義などがいい例かもしれない。新プラトン主義は、プラトン主義からの影響を多々残しながらも、両者は根本的に別の思想体系であるといえよう。もっとも「新プラトン主義」の場合は、プロティヌスが自らの立場をそう命名したのではなく、後の人々による後付けだという点で、事情が少し異なるとは思うけれども。

ところで、多岐の分野で取り扱われる「ポストモダニズム」。正直のところ、私はコレの正体を掴みきれないでいる。正体がはっきりと分からないものを論じることは、なるべく避けたい(ここら辺からしてすでに、私はモダン的思考方法に取り付かれていると批判されそうだ)。思えばこの、「避けたい」という気持ちは、私が「さあて、大学で何をしようかな」と触覚を働かせていた時期から始まっているような気がする。時代は1980年代半ば、ちょうど世ではニューアカデミズムが席巻していた頃。当時高校生であった私の理解では、その内容はかなりチンプンカンプンであったことは否めないが、そこは直感的・動物本能的に「これは避けておこう」という自分の判断があったように思う。

先に行われた、国立新美術館での「異邦人たちのパリ1900‐2005」は、芸術におけるモダン―ポストモダン期を、もろにまたぐ時期に焦点を当てた展示だったので、改めてこの、ポストモダンという問題を突きつけられた。

この展示を観ながら、常に意識せざるを得なかったのはティリヒの芸術論であった。ここに、ティリヒの芸術論を一言で言い表すことにはかなり抵抗を感じるが、敢えて言ってしまおう。それは、「汝」の存在しない芸術はもはや芸術とは言えない、少なくともそれは宗教的芸術とは言えないということであろうか。またそれは、彼の自律‐神律の論理とも関連しているとも言える。そうなると、たとえば今回の展示でいえば、表現芸術の範疇にあるモディリアニやスーティン、ピカソ、藤田、ミロ……あたりまでの、いわゆるモダニズム下にある作品は芸術とされるが、それ以降の、時代的には1960年あたり以降の多くの作品は、自律の提示にすぎないがゆえに(もちろんすべての作品がそうだというわけではない)、ティリヒには芸術とはみなされない、ということになろう。

この点、大胆なティリヒの見解ではあるが、しかしこのティリヒの見解に、反論することができないでいる自分がいる。白い塗り壁みたいな絵、じっと観ていると悪酔いしてくるような、テレビが故障したときに出る「色の嵐」的作品、これらを芸術だという人々が存在して、時代がそれを受け入れている面もあるのだろう。そして、これらの作品を「分からない」「好きになれない」私はおそらく、古いタイプの人間だと断じられるのかもしれない。

これらポストモダン芸術は「汝の存在しない芸術」であって、ティリヒには芸術として受け入れられないと上に述べたが、「汝の存在しない芸術」を言い換えれば、関係性を否定する芸術、と呼び直しても構わないだろう。それを芸術と呼べるのか否かを論じることは、これはこれでまた、大きな課題ではある。しかし、たとえば今回の展覧会のような形式で作品が展示されるということを考えた場合、作者と鑑賞者との関係、あるいは作者と作品とを結ぶ何かしらの関係性を見出すことの困難な作品を展示する意味が、いったいどこにあるのだろうと思ってしまう。自律の美しさに酔いしれるだけの作品が、他者(鑑賞者)の実存からの共感を呼び起こすことは、はたして可能なのだろうか。

関係性を必要としない「芸術」が、仮に芸術として必要十分をみたすとしても、それは、たとえば美術館という場、つまり他者との共感を持つための場を必要とするのだろうか。ひとり部屋に篭って作品を作り、その美に耽っていれば済むのではないだろうか。他者の実存を巻き込む必要も要請も、その作品には存在しないのだから。また、仮に、他者からの、その作品を鑑賞したいという要求があるにしても、それは「芸術」の鑑賞を要求する、といえるのだろうか。この先には当然、「芸術とは、何をもってして芸術なのか」という大きな問題が控えている。

美に耽る作者を「観察」して、自分もまたその美に耽ってみたいという、覗き趣味的な鑑賞と、芸術を鑑賞することの間に、違いがあるのか、それともないのか。

上手く説明できないが、私はそれらの間には、違いがあると思う。耽美と芸術との間には、やはり断絶があるのではないか。美は日常の、あらゆるところに存在する。世界は美に溢れているといってもいい。たとえば、コンクリートのわずかな隙間から成長する「ど根性大根」をみて、命のたくましさ、美しさを鑑賞することは、なかなかに楽しい。さらに、このようなポジティブな感情をもたらす美だけでなく、美にはもちろん、退廃的な美や醜悪の美、はかなさの美なども含まれることは、言うまでもない。しかし、これらが芸術に「なる」ためには、別の要素がさらに上乗せされる必要があるのではないだろうか。それは何かといえば、たとえば他者の実存に呼びかける何らかのメッセージ性である、ということを、ティリヒの芸術論において私が理解しているところである(が、ティリヒ先生、合ってますよね?)。

展示会場で、実際人々で賑わっていたのは、いわゆるモダンのコーナーであったと思う。写真の展示を除いては、いわゆる現代アートのコーナーになると、がらスキといってよいほど差があったように思う。モダンコーナーは、ピカソやモディリアニなど、知名度が抜群の連中の展示だから人が集中する、とも言えるかもしれない。しかしこの、人々の足の運びが表すのは、それだけだろうか。この、人々の動向は、やはり人は、汝なしに生きることの方が難しい、ということの現われではないだろうか。このようなことを考えながら、「超えられないティリヒ」に、私は改めて感慨を深めたのである。

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