まこちゃん日記

まこちゃんのピンポン日記です。

2月11日(月)卓球界の功労者!

2019-02-11 16:29:27 | Weblog


                         「 ある日の釣果 」

                                釣り人 真田 幸夫さん 撮影



           今日は10人が参加 三連休の最終日。この辺は良い天気だけど寒かった。だ私は幸いに
           須田さんの車に拾って貰った。
           この連休は全国的に寒冷大雪予報で、旅行の予定の人などには気の毒だったが、何の予定も
           ない私などには、散歩(医者に言われている義務なのだが)も、お出掛けも何の気兼ねなく
           天下御免で何もしないで済んだ。しかし案外平穏な天気だった。

           何もせず2日を過ごして連休の3日目の今日は、思い切ってピンポンに出ていく。
           整体師の先生に相談してみたら、大分薄らいできたようだから無理しない程度にやってみなさい、
           その様子で又治療を続けましょうと言うことだったので、ギクリとやって悪くするのも怖かったが、
           恐る恐るやってみる。
           床に落ちた球は拾えず、横にも動けないのだが、専ら台上のストップだけでやったようなもの
           だった。それでも久し振りのピンポンは楽しかった。内心ではもう二度と出来ないかなと思った位
           だったのだから、余計にそう思えたのだろう。

           足は使わず、台にくっついたままで手先で処理するというピンポンスタイルに徹底してみようかと
           思った。「あまり前傾姿勢を取らずに、腰は廻さず使わず、手だけで打つという」と言うわけで
           先生のアドバイスや教科書や今までの知識とは全く相反する真逆な感じであるが、案外この方が
           近代卓球に似ていたりして…。
  
           さて先日、時間に任せてみていたTVで卓球界の変遷を特集していた。それだけ卓球に関心が持たれ
           始めたと言うことだろうと気を良くしながら興味深く見ていた。

           まずは何と言ってもNO,1であり初代の功労者は荻村伊知郎氏だという。
           私は現代のタレントとか俳優とか歌手など有名人の本物はほとんど見たこともないのだが、この
           荻村氏だけは実物をしかもプレーをしているところを見たことがある。
           大学の体育館に模範試合に見えたのだろう。当時には珍しい白い短パン(今よりずっと短い)が
           印象的で、そのプレーは神業のように見事だったのをぼんやりと覚えている。
           当時の来日したヨーロッパ代表の映像もあったが、今では考えられないほど拙劣な感じだった。
           荻村氏は百戦錬磨で世界を制し卓球日本の基盤を作った。
           子供達にはピンポン遊びが流行した。この時代が第一次卓球ブームと言われている。

           しかし卓球そのものは地味なものであるのに変わりはない。1980年頃、当時売りだしの軽薄毒舌
           おしゃべりタレントの代表と言われたタモリとかタケシなどをはじめ、数々の有名お笑い芸能人等に,
           そのギャグネタで盛んにネクラと揶揄されて、それがそのイメージをすっかり定着させてしまったと
           いわれている。

           「体育館の隅っこで背中を屈めて、青白い冴えない奴らがなんかやっている」と言われた。
           あの水谷選手ですら子供の頃に、「何をやっていますか」と聞かれると、卓球部とは言えず、思わず
           野球部ですと応えたといっている。そんな世界だった。

           確かに我々も中学時代は、野球部に比べると卓球部というのは、生チョロく色白で眼鏡をかけた、
           秀才タイプだけれど冴えない陰気で無口の、もてない奴らばかり、しかも一寸、小生意気な暗い集団と
           して馬鹿にしたものだ。

           やがてそれを改革しようという機運が湧き起こり、デザイナーのコシノ・ジュンコ辺りがきらびやかな
           卓球ユニフオームを作って協力したり、当時の保守的で沈滞した卓球協会の迫害を受けながらも手作りの
           可愛いユニフオームで全日本に出場して騒ぎを起こしたり、刺激をしたり啓蒙したりして、変革を訴えた
           四元選手などが輩出した。
           そんな動きの中で、よりカラフルにと球が白一辺倒からオレンジボールを認め、卓球台も暗い濃緑から
           明るいブルーに変えるという変化があった。

           プレーヤーとして、第二にして最大の貢献者は何と言ってもあの福原選手だろう。
           全国的な「可愛い愛ちゃん」フィバーが起こって、それなりに卓球ブームをつないでいた。
           しかし強い野球人気、やがてサッカーブームが来て、陰に隠れたままの状態が続いて時が過ぎた。

           しかしやがて救世主のように次世代の少年少女達が現れた。水谷という絶対王者に対して、張本という
           小学生、伊藤美馬、平野美宇といった中学生が台頭してきた。
           そして今では世界ランクの上位にあり、中国戦に勝つなどして注目を浴びている。
           第三次ブームのさきがけとなった。現在はそのブームを維持し拡大して果たして定着出来るだろうかという
           大事な時なのかも知れない。

           こうした背景を持って今やってきている第三次卓球ブームの兆しを、又消してはならない。
           年は取ってもピンポンやって、健康を維持しながら全世代への卓球の拡大に間接的にでも良いから、
           何とか役立ちたいものだ。

           前にお手伝いした「卓球一般開放」という各公民館が、地域の人の福祉と健康と親睦、老人と子供の触れ
合いを目的とした行事があったが、その時にも思ったものだ。
ふらりとやってきた老人がやり始めやがて孫が やって来て始める、ゲーム機に夢中の小学生が飛び込ん
でくる、老人の知り合いが来る、話を聞いた隣のお婆さんが孫を連れてやって来るといった案配で、
参加者が増えた。
その孫達はやがて小中で卓球を正式に始め、中高年のおじさんおばさんは連れだってやって来る。
この繋がり拡大が、地味だけれど卓球人口の増加、ひいては底辺の拡大にも役立っているのではと
思っている。
           我々も門戸を開いて及ばずながら卓球人口の底辺の増加に少しでも貢献できれば良いのだがと思う。

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